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2.ギフテッド

 競馬誌やスポーツ誌に「ロンシャンの悲劇」の文字が躍り、連日来る取材の問い合わせに私はノイローゼ気味になった。ある週末、私は逃げるようにフェリーに乗り込み、癒しを求めて熊本を目指した。

 内牧温泉。周囲を外輪山に隔てられ、視界に入るのはただ雄大な阿蘇山のみというこの温泉は、独りになるにはもってこいだった。カルデラに広がるススキの野が、心を和らげてくれる。

 ふいにススキが一斉に揺れる。その風は私の鼻に、慣れ親しんだ匂いを届けた。牧草と馬の匂い。そういえば、熊本も馬産地だったな。立ち上がりかけて、一瞬躊躇する。今の私が、馬に会って……。しかしその懸念はすぐさま、思い出に上書きされる。初めて勝たせてくれたラヴリートレジャー、初めて重賞を勝たせてくれたラヴリーホープ、初めてG1を勝たせてくれたグレートラヴリー、そして初めて海外に挑戦させてくれたラヴリーワールド――皆優しい瞳を向け、頬ずりをし、私のことを癒してくれた。きっと今の私は、馬を欲している。会いに行こう。そう思い立ち、私は最低限の荷物だけ持って腰を上げた。

 土地勘はない。ただ鼻と足だけが頼りだ。どれだけ歩いただろうか。日の傾きかけた頃、一つの牧場が目に留まった。阿蘇カルデラファーム。馬の匂いだけじゃない、馬の息遣いも感じる。私は事務所の扉をノックした。

「すみません。馬を見せてもらえませんか」

「や、これはこれは愛原さん! 私、牧場長の牧野と申します。どうぞこちらへ」

 牧野さんは笑顔で迎え入れてくれた。そうして私は、牧野さんのあとをついていった。

 厩舎への道すがら、牧野さんは穏やかな口調で話しかけてくる。

「ラヴリーの馬は素晴らしい馬たちです。私もワールドの欧州長期遠征に期待していました。それだけに、ラヴリーワールドの件、まずはお痛み申し上げます」

「いえ、私も馬主として未熟でした。最終的なゴーサインを出したのは私です。その責任は、強く感じております」

「おじさんのせいじゃないよ」

 ふいに子供のような声が耳に届いた。が、見回しても子供の姿はない。

「こっちこっち」

 また子供の声。声の方に目を向けると、牧野さんは声の主を小声で叱っていた。私は自分の目を疑った。叱られていたのは、馬房の中の仔馬だったのだ。黒鹿毛の中に一筋の細い流星、艶のある鬣、いわゆるグッドルッキングホースというやつだ。

「ほう、牡馬ですか。名前は何というんです?」

「ギフテッド。みんなそう呼んでる」

「では、もう買い手がついているのですか」

「いえ……」

 牧野さんは恐縮して答える。

「『ギフテッド』は、牧場の中でのあだ名です。人と話せる、それだけで才能だとは思います。ただ、それを気味悪がる人は少なくありません。多分それが普通の感覚なのでしょう。加えて九州産馬です。戦前であれば馬産といえば九州といえましたが、今は北海道に大きな牧場がいくつもあるでしょう? そういう意味では、注目すらされません。結局買い手のつかぬまま、当歳の夏を過ごしてしまいました」

 私は牧野さんの話を聴き、もう一度ギフテッドに目を向けた。優しい眼差し――それは今までのラヴリーの馬たちと同じ眼差しだった。私はギフテッドに手を伸ばす。彼はそっと頬ずりしてきた。ああ、やはり馬はいい。

「『ラヴリーギフテッド』ちょうど九文字だ」

「……愛原さん?」

「3000万でどうです?」

「ちょっと愛原さん」

「それでだめなら、言い値で買いますよ」

 牧野さんは見るからに困惑していた。私はさらに押す。

「牧野さん、私はやり直したいんです。無事に競走生活を全うさせ、次世代へと繋ぐ。ワールドでできなかった大仕事を、ギフテッドとやりたいんです。ギフテッドとならできるんです! ギフテッドが少しでも違和感を訴えたら、ローテ、調教、作戦、全てを見直します。どうかギフテッドを、預けてもらえませんか?」

 牧野さんの瞳は潤んでいた。彼は目元に光るものを拭い、震える声で答えた。

「そこまで言ってくださる方は初めてです」

「ええ。心は背水の陣です」

「楽な道のりではありません。愛原さんが想像する以上に、楽な道ではありません。それでも、成し遂げる覚悟はありますか?」

「はい、牧野さんと、そしてギフテッドに誓って」

「分かりました。今この瞬間から、この馬は『ラヴリーギフテッド』です」

 私と牧野さんは固く握手を交わす。そして私は再びラヴリーギフテッドに向き直る。

「いいか~? お前は今からラヴリーの馬だ。ラヴリーギフテッドだ。体調が悪くなったらすぐに周りの人に言うんだぞ」

「うん、わかった!」

 ラヴリーギフテッドは尾を三度振る。私はそっと頬を撫でた。こうして、つかの間の逃避行は思わぬ収穫をもたらしたのだった。

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