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Nameless Story

作者: WE/9

土曜日の午後、中心街の中央広場。

空気には高価な香水の香りと、精密に稼働する都市のノイズが充満していた。噴水は30秒おきに噴き上がり、電子掲示板の広告はミリ秒単位で正確に切り替わる。氷室凜の世界において、この場所は座標系の完璧な延長線上であり、すべては予定された軌道の上を滑っていた。


その日時計の上に「エラー」を見つけるまでは。


一人の少年がいた。彼は「Error 404」と書かれた、だぼだぼの、少し黄ばんだ白Tシャツを着て、猫のように斜めの石柱に逆さまにぶら下がっていた。逆さになった頭の先が地面をかすめ、彼は不安を誘うような一定の頻度で、真っ白なルービックキューブを回し続けている。


カチ、カチ、カチ。


その単調な機械音は、滑らかなデータ流の中に刻まれた一本の傷跡のようだった。

凜はゆっくりと彼の前まで歩み寄り、首をわずかに傾けた。その瞳には困惑が満ちていた。

少年は手を止めた。逆さまのまま顔を背け、興味津々で、それでいてどこか疲れを帯びた右目を覗かせる。


同期アライメントさせてるんだ」少年は囁くように言った。その声には電子ノイズのようなざらつきがあった。「この街から消えた座標を同期させてるんだよ」


彼は軽やかに地面に降り立った。着地音は一切しなかった。彼は凜の目の前まで歩み寄り、彼女があらかじめ設定していた対人バリアを突き破った。


「自己紹介するよ。僕は百格バイガー。名前じゃない、属性だ。僕は、この街のバグ(Bug)なんだ」


「私は氷室凜よ」凜は無意識に半歩後退した。中二病のような少年の発言に困惑しながらも、彼女は差し出された手を取った。その瞬間、彼の指先が異常に冷たく、まるで体温を持たないかのように感じられた。


「氷室凜。凜、か」百格は自嘲気味に笑い、指先でキューブを高速回転させる。「冷徹な実行コマンドみたいな響きだ。それで、正確無比な『コマンドお嬢様』。どうだい、僕と一緒に……君のロジックが決して到達できない、保存アーカイブされていないセクターへ行ってみないか?」


彼はポケットから錆びついたオルゴールの歯車を取り出した。ぼろぼろになったその歯車は、陽光の下で輝くどころか、逆に光を飲み込んでいるようだった。


「手伝ってほしいんだ。僕の『遺憾(後悔)ファイル』をあそこに落としてしまってね。あらゆる偽りを見抜く君の目なら、それを見つけ出せるはずだ」


凜はその歯車を見つめ、そして自分の内側の演算式を見透かすような百格の瞳を見た。理性の警報が脳内で狂ったように鳴り響く(変数:100%)。しかし、かつてない好奇心が、未定義のプログラム一行のように、彼女のコアで静かに実行された。


「この街は0.5秒、早すぎるんだよ、凜」

百格は背を向け、番号の書かれていない古いバスへと歩き出し、夕日に向かって手を振った。


バスが干上がった堀を越えた瞬間、都市の風景は断裂するように崩壊した。

点滅するネオンは、裸電球の薄暗い光に取って代わられた。精密な大理石のタイルは、亀裂から雑草が伸びるアスファルトへと変わった。空気から高価な香りは消え、代わりに廃油、茹で過ぎた麺、そして湿ったカビの臭いが混ざり合う、生々しい感覚が押し寄せてくる。

ここに住む人々は生活によって角を削り取られ、肌は一様に荒れて黒ずみ、判で押したような坊主頭が標準装備のようだった。

肌が白く、全身に精緻さを纏った凜は、あまりに不釣り合いだった。百格は彼女を連れてさらに奥へと進む。街路はまるで揉みくちゃにされた新聞紙のように文字はぼやけ、構造は混乱していた。


二人は廃棄された写真館を通りかかった。ショーウィンドウのガラスは地面に砕け散り、中には期限切れのフィルムが山積みになっている。百格は何気なく一本のフィルムを拾い上げ、微かな夕日にかざした。


「凜、これを見て。画像を洗い流してしまった古いネガだ」

百格はフィルムを凜の瞳に重ねた。透かして見える褐色の層を通して、灰色の街並みはノスタルジックな質感に染め上げられる。


「ある老夫婦がここに長く立っていたんだ。写真館が潰れる前に、最後の一枚を撮ろうとしてね。シャッターが降りる0.5秒前、お爺さんは奥さんの手を握ろうとした。でも、躊躇してしまったんだ。結局、現像された写真には、手を引っ込めた残像だけが残った。その後、奥さんが亡くなって、お爺さんはフィルムごと強酸に浸したんだ。『手を繋げなかった』という真実のほうが、偽りの記念写真よりも彼を苦しめたから」


凜はフィルム越しに百格を見た。ネガの端で彼の顔が歪んで見える。彼女は物語の中の老人の苦しみと後悔を理解しようとしたが、数式では「躊躇」の重さを定義できないことに気づいた。


凜がフィルムの材質を分析しようとしていたその時、百格が不意に顔を近づけた。


「ねえ、こっち向いて」

カシャッ!

手動の巻き上げダイヤルがついた、極めて古いインスタントカメラがカードを吐き出した。凜が振り向いた瞬間、驚きに見開かれた瞳と百格の笑顔が、まだ像の浮かび上がっていない画面の中で重なった。


「可愛いね、この『エラー(間違い)』」


百格は小さく称賛し、手品のようにその写真を懐に隠した。その動作はあまりに速く、凜にはその写真が実在するのかどうかさえ判断できなかった。


二人は取り壊し途中の工事現場を通り過ぎた。高架橋の列車が轟音を立てて走り抜け、足元のアスファルトを揺らす。

突然、上方の緩んでいた錆びた支柱が激しく揺れた。

凜の視界に落下軌道が瞬時に生成される。落下時間:1.4秒。衝突エリア:百格が立っている座標。


凜の論理コアが迅速に結論を出す。危険レベル:中。自身を優先的に保護せよ。

彼女の足先は、ロジックに従い既に二センチ後退していた。しかし、支柱が外れ、鋭い金属の断裂音が響いたその瞬間、百格はまだうつむいてキューブを回しており、微塵も気づいていなかった。


その時、凜の世界が静止した。

理性は「その場に立ち止まれ」という指令を下したが、彼女の体は0.5秒後、壊滅的な「命令違反」を起こした。脳が成功率を演算するよりも速く、彼女の手は猛然と伸び、百格のぶかぶかなシャツの裾を死に物狂いで掴んでいた。


ドォン――!


鉄枠が二人のわずか三十センチ横の地面に叩きつけられ、飛び散った火花と土埃が凜の頬を打った。凜はその場に硬直し、あまりの力に指の関節が白くなっている。データの負荷を越えた速度で、心拍曲線が跳ね上がっているのが分かった。不合理だ。これは不必要な冒険だ。

百格はゆっくりと顔を上げ、凜の瞳に宿る「人間としての恐怖」を見つめた。


「ほらね」百格は、どこか凄絶で美しい微笑を浮かべた。「君の動作は、理性よりも0.5秒遅かった。あの瞬間、君は完璧な氷室凜じゃなかった。ただの、友達を心配する……バカな女の子だったんだ」


「行こう。日が暮れる」百格が静かに言った。「この街が僕を『クリーニング(消去)』しようとしている。消える前に、最後に見せたい場所がある。君が取り戻してくれた、この0.5秒間を……セーブ(保存)するために」


夕日は濃密なオレンジ色のインクのように、貧困地区の廃墟を神聖な光で染め上げていた。百格に連れられ、凜は錆びだらけの高架水槽へと登った。逆光の中に立つ彼の姿はひどく華奢で、今にも風に吹き飛ばされそうな古いネガのようだった。


「あっちの時計は君の家より0.5秒早いけど、魂は0.5秒遅いんだ。あらゆる後悔が、この時差の中に詰め込まれている」百格が振り返った。瞳から不敵な色が消え、極めて平穏な色が宿る。「僕もその一つさ。僕は、この0.5秒の残像だ。そして今、この街に『修正』されようとしている」


「何を……言っているの?」凜は手すりを強く握った。

「自分をバグだと思っているなら、どうしてそんな『後悔』ばかり集めているの?」


「それが、僕がここにいた唯一の証明だから」


百格は、現像の終わった一枚の写真を取り出した。そこには驚愕と、自分でも気づいていない微かな温かさを宿した凜の瞳が写っていた。


「本当に可愛いね」百格は指先で写真を撫でた。「凜、君の世界は完璧すぎるよ。一歩一歩に公式があり、一秒一秒に定義がある。時々、君が羨ましかった」


彼は一歩近づいた。鉄錆と夜風が混ざり合う清冷な香りが届くほどの距離。


「明日、太陽が昇る時、日時計の下に逆さまの少年はいない。でも、このネガの中にあの0.5秒を保存した。君があの半秒間の『暴走』を覚えていてくれる限り、僕は君の世界から消えることはない」


彼は写真と、あの錆びた歯車を凜の手のひらに押し付けた。


「ありがとう、コマンドお嬢様。ありがとう……こんなに長く付き合ってくれて。僕の人生で、最高のご褒美パッチだったよ」


百格は最後、最高に輝かしく、そして疲れ切った微笑を見せ、鉄階段を降りていった。その足音がガランとした水槽の構造に反響する。一度、二度……そしてある拍子に、音は唐突に消えた。ただ風の音だけが流れ込んでくる。


「百格!」


凜は無意識に一歩踏み出し、彼を掴もうと手を伸ばした。

今回も、彼女の動作は理性より0.5秒遅かった。指先は虚空をかすめ、水槽の下の影には死のような静寂が横たわっていた。


凜は高い場所に立ち、誰もいない影に向かって、喉元まで出かかっていた**「さようなら」**という言葉を、半秒後、静かに吐き出した。


チーン。


凜の腕時計が、清らかな通知音を鳴らした。

0.5秒早まっていた秒針が、その瞬間、奇妙に一目盛り戻り、世界の拍動と正確に一致した。

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