濡れ衣を着せられた地味司書ですが、カタブツ風紀委員長と天才問題児に(なぜか)迫られています
王立魔法アカデミーの巨大書庫は、エリアナにとって聖域だった。
窓から差し込む光が埃を金色にきらめかせ、古い羊皮紙と乾燥したインクの匂いが静かに満ちている。彼女の指先が、背表紙を寸分の狂いなく整えていく。彼女の仕事は、単なる本の管理ではない。歴史であり、真実であり、古代魔法の「記録」そのものを守護することだ。
「――エリアナ司書。また父上の形見と睨めっこですか」
エリアナは、父の形見である精密な魔法計測器から顔を上げた。書庫の静寂を乱す、軽い足音と皮肉めいた声。
「ゼノンさん。ここは閲覧室ではありません。許可なく立ち入らないようにと、いつも申し上げているはずですが」
アカデミー随一の天才と謳われる男、ゼノンは、規則違反の象徴のような緩んだ制服の胸元をさらに開けながら、大げさに肩をすくめた。
「硬いなぁ。ちょっと調べ物さ。どうせアンタの管理下じゃ、面白い本は全部『禁書庫』行きだ」
「規則ですから。それに、あなたに貸し出せる本はもうありません。先週借りた『高位召喚術における次元干渉論』も、まだ返却されていませんね。返却期限は三日前です」
エリアナが几帳面な指先で貸出台帳(もちろん手書きだ。魔法による自動記録は、時として改竄の危険を伴う)を叩くと、ゼノンはわざとらしく目をそらした。
「ちぇっ。……それより、その計測器。故レイヴン教授の遺品だろ? そんな古い道具より、俺が作った魔力スキャナーの方がよっぽど高性能だぜ」
「……父の研究を侮辱しますか」
エリアナの声が、わずかに低くなる。
「父は、『記録と詠唱』の完全な一致こそが魔法の本質だと説いていました。この計測器は、古代魔法の術式に残る微細な魔力の揺らぎすら正確に記録します。最新の道具にはない『正確性』が命です」
「はいはい、ご高説どーも。だがな、エリアナ。記録ってのは、破られるためにあるんだぜ?」
ニヤリと笑うゼノン。その不遜な態度にエリアナが反論しようとした瞬間、書庫の入り口から、空気を凍らせるような厳格な声が響いた。
「――ゼノン。貴様、また規則を破っているのか」
ゼノンが、げ、と顔をしかめる。
そこに立っていたのは、風紀委員長ライナス。磨き上げられた靴、一点のシワもない制服、そして「規則(法)」を体現するかのような冷たい銀縁メガネ。エリート貴族である彼は、アカデミーの秩序そのものだった。
「おっと、風紀委員長サマのお出ましだ」
「ここは『第一書庫』。上級生であっても、担当司書の許可なき立ち入りは禁止されている。即刻退去しろ。さもなくば、規則に則り拘束する」
「へいへい。……じゃあな、エリアナ。今度、禁書庫(あんたの聖域)の『非合法な』抜け方でも教えてやるよ」
ウインクを残して去っていくゼノンの背中を、ライナスは氷のような目で見送る。やがて彼は、エリアナに向き直った。
「エリアナ司書」
「は、はい」
「君の管理体制にも問題がある。あの問題児の侵入を易々と許しているようでは、司書としての職務を果たしているとは言えない」
「申し訳ありません。ですが、彼はいつも強引で……」
「『強引だから』は理由にならない。規則は絶対だ。特に、君が管理する『禁書庫』は、アカデミーの最重要機密だということを忘れるな」
ライナスの言葉は、常に正しい。正しく、そして冷たい。
「……肝に銘じます」
エリアナが深く頭を下げると、ライナスは「よろしい」とだけ言い残し、規則正しく靴音を響かせて去っていった。
(まったく、あの二人は……)
一方は規則を無視し、一方は規則に縛られている。エリアナはため息をつき、再び父の計測器に目を落とした。
(父様。私は、父様が命懸けで守ろうとした『記録』を、正しく管理できてい(るのでしょうか)
その日の夜だった。
閉館時間をとうに過ぎ、エリアナが禁書庫の最終チェックを行っていた時だ。禁書庫は、第一書庫のさらに奥深く。選ばれた司書であるエリアナ自身の魔力紋章と、物理的な鍵がなければ開かない仕組みになっている。厳重な防音と防魔の結界が張られ、内部は常に完璧な静寂に包まれているはずだった。
――ピシッ。
空気が割れるような、微かな異音。
「え?」
エリアナの手が止まる。次の瞬間、禁書庫の重い扉の隙間から、ありえないほどの魔力が漏れ出した。
(な……!?)
それは、生半可な魔力ではない。空気が歪み、視界がぐにゃりと曲がる。父の計測器が、振り切れるほどの異常な揺らぎ(ノイズ)を感知し、甲高い警告音を鳴らし始めた!
「だめ……!」
エリアナが咄嗟に防御障壁を張ろうとした瞬間――。
ドォンッ!!
衝撃波。
いや、それは音ではなかった。時間の流れそのものが、一瞬だけ「停止」し、そして「軋んだ」のだ。 禁書庫の内部で、禁断の古代魔法――「時間停止」が暴発した。 漏れ出した魔力の余波が書庫全体を駆け巡り、魔法的な警報がアカデミー中にけたたましく鳴り響く。
何が起きたのか理解が追いつかないエリアナの前に、凄まじい速度で駆けつけてきた者たちがいた。
「何事だ!」
ライナスだった。風紀委員の腕章をつけた者たちを引き連れ、彼は暴発の魔力源――禁書庫の扉を睨み据える。
「……この魔力反応。間違いない。『時間停止魔法』だ」
ライナスは冷静に分析すると、その冷たい視線をエリアナに向けた。
「エリアナ司書。状況を説明しろ」
「わ、私にも……今、最終チェックをしていたら、突然、中から魔力が……」
「内部から、だと?」
ライナスは銀縁メガネの位置を押し上げた。
「アカデミーの記録によれば、この禁書庫に保管されている『時間停止魔法の起動キー(術式)』は、最重要管理対象。そして、この禁書庫の封印を正規の手順で解けるのは、王立魔法アカデミーにおいてただ一人」
ライナスの目が、エリアナを射抜く。
「――君だけだ、エリアナ司書」
「ち、違います! 私は何もしていません!」
「だが、規則と事実がそう示している」
ライナスは一歩前に出た。彼の背後にいる風紀委員たちが、エリアアを包囲するようにじり、と動く。
「弁明は聴聞会で聞こう。王立魔法アカデミー風紀規定、第11条ノ2『最重要魔法の不正使用および管理不行き届き』の容疑で、君の身柄を拘束する」
「待って……! 私はやってない! これは、何かの間違いで……!」
エリアナの悲鳴が、警報の鳴り響く書庫に虚しく吸い込まれていった。
王立魔法アカデミー、風紀委員会分室。 エリアナは、魔力を封じる冷たい石造りの椅子に座らされていた。目の前には、ライナスが広げた「事実」としての調書がある。
「――昨夜23時07分。禁書庫の結界が正規の手順で解錠。使用された魔力紋章は、エリアナ・レイヴン。君のものと完全に一致する」
ライナスは淡々と、しかし有無を言わせぬ圧力で続ける。
「23時09分。禁書庫内部にて『時間停止魔法』の起動キー(術式)が使用され、暴発。これもまた、君の魔力パターンを介して行われている」
「……ありえません」
エリアナは、拘束された手首の痛みよりも、記録が自分を指し示しているという事実に打ち震えていた。
「私は、起動キーに触れてすらいません! ましてや、詠唱など!」
「だが、記録は君が実行犯だと示している」
「その記録こそが、おかしいのです!」
エリアナは顔を上げた。彼女の瞳には、恐怖ではなく、自らの聖域を汚された司書としての怒りが宿っていた。
「ライナス委員長。あなたは『規則(法)』を絶対視なさる。ならば、私の主張も『規則』に則って精査すべきです」
「……何が言いたい」
「魔法の起動には、必ず『詠唱』の記録が伴います。父の教えです。私の声紋、私の魔力波形による『詠唱』の記録が、起動キーの使用時刻と完全に一致しているか、確認させてください。もしそれが無い、あるいは偽造されているのなら、私は無実です!」
エリアナの真剣な申し出に、ライナスはわずかに目を細めた。彼は「規則(法)」の番人であると同時に、合理的な思考の持ち主でもあった。
「……なるほど。論理的な反論だ。君の言う『詠唱ログ』の精査は、確かに必要だな」
ライナスは立ち上がった。
「よろしい。君の拘束を一時的に解く。だが、許可なく禁書庫の分析室から一歩も出ることは許さん。私の直接監視下で、君自身に潔白を証明させる」
それは、ライナスなりの「公正」な判断だった。
禁書庫に隣接する魔力分析室。暴発の余波でひどく荒れた室内で、エリアナは父の形見である『マギ・スケイル』を、書庫の魔力中枢に接続していた。 ライナスの氷のような視線が背中に突き刺さる。
(落ち着いて。記録は嘘をつかない。必ず、どこかに痕跡があるはず……)
エリアナは、膨大な魔力の流れを可視化し、昨夜の記録を再生する。 23時07分、解錠。間違いなくエリアナの魔力紋章だ。
(盗まれた? いいえ、それなら紋章そのものが乱れるはず。これは……完璧すぎる)
そして、23時09分。起動キーの作動ログ。 エリアナは息を詰めた。そこには、確かに「彼女の魔力波形」と「彼女の声紋」による『詠唱』の記録が、くっきりと残されていたのだ。
「そん、な……私が……?」
血の気が引いていく。ありえない。自分は、あの時、確かに扉の 外 にいたのだ。 「どうした。やはり君か」ライナスの声が冷たく響く。
「違う……違う、これは……!」
エリアナがパニックになりかけた、その時だった。
「――よう。やっぱり、お前が犯人扱いか。お堅い司書サマも、大変だな」
分析室の天井近く、通気口の格子がガタリと外れ、軽やかな身のこなしでゼノンが飛び降りてきた。
「ゼノン! 貴様、どうやってここに!?」
ライナスが即座に抜いた魔導杖を向けるが、ゼノンは肩をすくめて意に介さない。
「ライナス。お前のところの風紀委員、見張りがザルすぎるぜ。ちょっとした『認識阻害』の魔法で、俺が猫か何かに見えたらしい」
「ふざけるな! 即刻拘束する!」
「待ちな。俺は、そこの間抜けな容疑者に、ヒントをやりに来ただけだ」
ゼノンは、ライナスの牽制をひらりとかわしながら、エリアナが操作するコンソールを覗き込んだ。
「あーあ、見事にハメられてやがる。エリアナ、お前、これ見て『自分がやった』とか思ってんじゃねーだろうな?」
「……! あなたに何が分かるのですか!」
「俺は昨夜、面白そうだったからな。アカデミー全体の魔力ネットワークに『非合法な調査』を仕掛けて、流れを全部見てたのさ」
ゼノンはニヤリと笑い、小さな魔力水晶をコンソールに投げた。
「その時間、23時08分から09分にかけて。禁書庫で魔力が動く直前、アカデミーの最上層――『学長室』のラインから、膨大な魔力が君の管理する禁書庫システムに流れ込んでる」 「学長室……!?」 「ああ。ご丁寧に、お前の魔力紋章を『偽装』してな。つまり、犯人はお前じゃない。アカデミーの『上層部』の誰かだ」
ライナスが目を見開く。
「馬鹿な……! 証拠も無い戯言を……」
「証拠なら、そこの司書サマが今から見つけるさ」
ゼノンはエリアナの耳元に顔を寄せ、面白がるように囁いた。
「なぁ、エリアナ。『記録は嘘をつかない』んだろ? なら、嘘をつかせようとした痕跡 を探してみろよ。そんな大掛かりな偽装工作、完璧に 消せるわけがねぇんだから」
「……!」
ゼノンの言葉が、エリアナの思考をクリアにする。 そうだ。偽造されたのなら、必ず「繋ぎ目」があるはずだ。
(父様なら、どうする……?)
エリアナは目を閉じ、父の教えを思い出す。
『いいかい、エリアナ。どんなに巧妙な魔法でも、異なる魔力が接触すれば、必ず微細な「揺らぎ(ノイズ)」が生じる。それを見逃さないのが、本物の「記録者」だ』
エリアナは、父の形見『マギ・スケイル』の感度を最大まで引き上げた。 彼女の魔力波形。詠唱の声紋。それは、あまりにも完璧にエリアナのものだった。 だが――。
(ここだ……!)
詠唱ログの、開始0.1秒と、終了0.1秒。 あまりにも微細。通常のスキャナーでは検知できない、魔力の「途切れ」と「上書き」の痕跡。 それは、まるで高度な外科手術のように、別の場所で記録された「エリアナの詠唱データ」を、昨夜のログに「縫い付けた」跡だった。
「見つけ、ました……」
エリアナの声が震える。
「何だ?」
ライナスが身を乗り出す。
「この隠蔽術式……」
エリアナは、その術式のパターンに見覚えがあった。父が残した研究資料の中で、最も危険な技術として封印されていたもの。
「これは、『王族限定魔術』……アカデミー上層部、それも学長クラスの人間しか使用を許可されていない、最高位の『記録隠蔽』魔術です……!」
ライナスの顔色が変わった。 ゼノンが、満足そうに口笛を吹いた。 エリアナは、自らがとんでもない真実の入り口に立ってしまったことを悟り、息を飲んだ。
「……最高位の、『記録隠蔽』魔術……」 エリアナの震える声が、静まり返った分析室に響く。 ライナスは、その銀縁メガネの奥で、初めて明確な動揺を見せた。彼が絶対の正義と信じてきたアカデミーの「規則(法)」。
その頂点に立つ者たちが、法を歪めている可能性。
「馬鹿な……学長クラスの方々が、なぜそのような……」
「決まってんだろ」
静寂を破ったのは、ゼノンの嘲るような声だった。彼は腕を組み、面白そうに二人を交互に見ている。
「『偉い人』ってのは、いつだって一番汚いことをするのさ。なぁ、ライナス委員長? お前の信じる『規則(法)』ってのは、こういう『汚いこと』を隠すためにあるんじゃねえの?」
「黙れ、ゼノン! 根拠のない侮辱は、規則違反だ!」
「根拠なら、今そこの司書サマが見ただろうが」
ゼノンはコンソールを指差す。
「問題は、そこまでして隠したかった『何か』だ。時間停止魔法の暴発……いや、ありゃ『暴発』に見せかけた『起動実験』だろ。上層部たちは、あの禁書庫で、何かヤバいことを試したんだ」
エリアナは、父の計測器を握りしめた。脳裏に蘇るのは、生前の父の疲れ切った横顔。
(父様……あなたも、これに気づいていたのですか?)
真実を知らなければならない。司書としてではなく、娘として。
「私は……父が残した記録を調べます」
エリアナは決然と顔を上げた。
「父は高名な魔法史の研究者でした。ですが、その研究の多くは、死後、アカデミーによって『機密扱い』として禁書庫の最深部に封印されています。父の研究日誌が、そこにあるはずです」
「危険すぎる」
ライナスが即座に却下した。
「最深部の封印は、学長の許可なく解くことはできない。規則違反だ」
「規則、規則……お前はそれしか言えねえのかよ」
ゼノンが苛立たしげに頭を掻く。
「その規則を作った張本人が、今まさに俺たちをハメようとしてるってのに」
「だからこそだ! 規則を破れば、我々も奴らと同じ穴のムジナだ。我々は『法』に則って、学長に聴聞会を要求する!」
「馬鹿か! 聴聞会を開く前に、証拠ごと俺たちが『事故死』させられて終わりだ!」
二人の意見が激しく衝突する。その間を、エリアナの冷静な声が割った。
「……ライナス委員長。あなたは『法』の番人です。ですが、その『法』が歪められているのなら、それを正すのがあなたの『正義』ではありませんか?」
「……!」
「ゼノンさん。あなたは『非合法』を好む。ですが、本当に暴きたいのは、アカデミーが隠す『真実』のはずです」
エリアナは、二人の目を見据えた
「私は、父が守ろうとした『記録』の真実が知りたい。目的は同じはずです」
ライナスは長い沈黙の後、深く息を吐いた。
「……わかった。だが、条件がある。すべては私の監督下で行う。ゼノン、貴様もだ」
「へいへい。お目付け役ご苦労さん」
「エリアナ司書。君は禁書庫最深部へ。父上の研究日誌を探せ。ゼノン、貴様は、その天才的な『非合法』技術で、学長のサーバに侵入しろ。昨夜の『起動実験』に関するデータを抜き出すんだ」
「おい、ライナス。お前、ついに『規則』破りを命じたぞ?」
ゼノンがニヤリと笑う。
「……これは『規則』違反ではない。『法』の正義を執行するための、緊急避難的な『調査』だ」
ライナスはメガネを押し上げ、自らに言い聞かせるように続けた。
「そして私は……風紀委員会の記録を洗い出す。過去、アカデミー内で起きた『不審な事故』の記録を」
三人の、奇妙な共同戦線が張られた。 エリアナは、ライナスの厳重な監視(という名の護衛)のもと、禁書庫の最深部、父の個人書架へと向かった。
そこは、父の死後、エリアナですら立ち入りを禁じられていた場所だった。ライナスが風紀委員長の権限を使い、重い封印を解いていく。 一方、ゼノンは分析室に残り、コンソールに自作の魔導回路を接続していた。
「さてと……アカデミーのメインフレームなんざ、俺にかかればお遊びだぜ」 彼の指が、見えないキーボードを叩くように高速で動き、膨大な魔術式が空間に展開されていく。
父の書架は、埃をかぶっていたが、生前のまま整然としていた。 エリアナは、父が最も大切にしていた『マギ・スケイル』専用の台座に目を留めた。そこには、一冊の本も、羊皮紙もない。ただ、小さな魔力水晶が一つ、静かに置かれていた。
「……これだ」
エリアナは、父の計測器をその水晶に接続した。 瞬間、父の『記録』が、エリアナの脳内に直接流れ込んできた。
それは、父の研究日誌だった。
『――学長は、私の研究を「軍事転用」するつもりだ。古代魔法(時間停止)は、人類の脅威ではない。歴史の「記録」そのものだ。それを兵器として使えば、世界は取り返しのつかないことになる』
『――説得は無駄だった。彼は「秩序」のためだと繰り返すばかりだ』
『――もう時間がない。私は、起動キー(術式)を「不完全」な状態で封印する。真の起動キー(オリジナル)は、誰にも渡さない。これが、私の最後の「記録」だ……』
(父様……!)
エリアナが息を飲んだ、まさにその時。 分析室のゼノンから、魔力通信が入った。
『おい、エリアナ! ライナス! ヤバいもん見つけたぞ!』
ゼノンの焦った声。彼が学長のサーバから抜き出したデータが、分析室のメインスクリーンに映し出される。 それは『プロジェクト・クロノス』と題された、恐るべき計画書だった。
「……古代魔法(時間停止)による、敵国首都の完全無力化計画……」
ライナスが、同じく分析室に戻りながら、その文字を読んで絶句する。
「学長は、本気でこれを……」
ライナスは、自身が調査した資料を叩きつけた。
「これを見ろ。過去五年間の『事故死』リストだ。エリアナ君の父上、レイヴン教授を筆頭に、全員が『古代魔法』の倫理的な研究者たちだった……!」
三つの情報が、一つの線を結ぶ。 ゼノンが計画書をスクロールさせ、昨夜の実験ログを突き止めた。
「……なるほどな。お前の親父さんが『不完全』なキーを封印したせいで、学長たちは起動できずにいた。昨夜の暴発は、その『不完全』なキーを無理やり起動しようとした結果だ」
「だとしたら、なぜ私を容疑者に……?」
エリアナの疑問に、ライナスが恐ろしい仮説を口にした。
「……『完全版』の起動キー(術式)の在処だ。学長は、レイヴン教授が隠した『完全版』の情報を、君が知っていると踏んだ。だから、君を容疑者として追い詰め、尋問し、情報を引き出すつもりだったんだ……!」
違う。 エリアナは、父の日誌の最後の一文を思い出し、総毛立った。
『真の起動キー(オリジナル)は、誰にも渡さない。私の血に、私の「記録」に託した。エリアナ、お前の中に……』
父は、事故死ではなかった。 軍事転用を拒んだため、学長に殺されたのだ。 そして、今回の事件は――私自身が「完全版の起動キー(術式)」そのものであるとは知らずに、私から情報を引き出すために仕組まれた、巨大な罠だったのだ。
「――そこまでだ」
冷たく、しかし穏やかな声が、分析室の入り口から響いた。 三人が凍り付いたように振り返る。 そこに立っていたのは、アカデミーの頂点に君臨する男。柔和な笑みを浮かべ、しかしその目には一切の感情を映していない――学長その人だった。
「……さすがはレイヴン教授のお嬢さんだ。父上と同じく、聡明すぎるのは玉に瑕だがね」
学長の背後には、アカデミー最強と謳われる近衛魔術師たちが、静かに魔力を高めて控えている。
「ゼノン君、非合法な調査は感心しないな。ライナス君」
学長の視線が、ライナスを射抜く。
「君の信じる『規則(法)』は、この私が、アカデミーの『秩序』のために作ったものだということを忘れたかね?」
そして彼は、エリアナに向き直った。その目は、獲物を見るかのように細められていた。
「さあ、エリアナ君。父上が君の中に隠した『完全なる術式』。アカデミーの、いや、王国の『秩序』のために、今すぐ差し出してもらおうか」
分析室の空気は、絶対零度まで凍り付いていた。 学長の穏やかな要求は、死刑宣告にも等しい。彼が連れてきた近衛魔術師たちの魔力が、じりじりと三人の肌を焼く。
「――ふざけるなッ!」
均衡を破ったのは、ゼノンだった。彼の両手に、アカデミーの規則で厳しく禁じられている高密度な破壊魔術が、紫電となって迸る。
「悪党が自らノコノコ出てきてくれたんだ。ここでアンタをブッ倒せば、すべて解決だろ!」
「待て、ゼノン!」
ゼノンが飛び出すより早く、ライナスがその前に立ちはだかった。
「実力行使(私刑)は『法』が許さない! 我々がここで彼を攻撃すれば、それこそが反逆罪となる! 我々は学長を拘束し、王都の魔導評議会に引き渡すべきだ!」
「甘っちょろいんだよ、委員長!」
ゼノンが吼える。
「そいつが作った『法』で、そいつを裁けるかよ! 評議会もグルだったらどうする! 力でねじ伏せるしかねえんだよ!」
「それでもだ! 秩序を失った正義は、ただの暴力に過ぎん!」
二人が激しく火花を散らすのを、学長は余裕の笑みで眺めていた。
「無駄だよ、二人とも。君たちが私を攻撃すれば、近衛魔術師たちが即座に君たちを『反逆者』として処分する。法で裁こうにも、証拠は私がすべて握り潰せる。……詰みだ」
学長の言う通りだった。ライナスの「法」も、ゼノンの「力」も、この絶対的な権力の前では届かない。
だが、エリアナだけは違った。 彼女は、絶望的な状況下で、ただ一人、冷静に父の計測器を握りしめていた。 (父様……) 父が遺した最後の日誌。
『私の血に託した』という言葉。
(そうか……私の中にあったのは、術式なんかじゃなかったんだ)
エリアナは、震える足で一歩前に出た。
「……学長。いいえ、アカデミーの秩序を乱した反逆者」
静かだが、芯の通った声に、学長がわずかに眉をひそめる。
「何をおかしなことを言っているかね、エリアナ君」
「あなたは、最大の過ちを犯しました」
「過ちだと?」
「あなたは、『記録に嘘をつかせようとした』。
ですが、父が遺したこの計測器は……そして私の記憶は、その『嘘』のすべてを記録していました」
エリアナは、ゼノンがハッキングしたままのコンソールに向き直った。
「ゼノンさん。あなたの『非合法な調査』のおかげで、アカデミーのメインフレームに接続できています」
「……あ? おう」
「ライナス委員長。あなたの『規則(法)』への信念のおかげで、私は真実から目をそらさずに済みました」
「エリアナ君……?」
エリアナは深呼吸すると、学長に最後の宣告を突きつけた。
「学長。あなたは、父が私に『完全な術式』を託したとお考えでしたね」
「そうだ。それ以外に、教授が命と引き換えに守るものなど……」
「いいえ」
エリアナは、父の計測器を、コンソールの魔力中枢に深く接続した。
「父が私に託したのは、術式などではありません。父が命を懸けて守り、私に託したのは――あなたの『陰謀の全記録』です!」
瞬間、コンソールが眩い光を放った。 それは、父が死の直前まで記録し続け、エリアナの魔力(血)に反応してのみ封印が解かれるように設定されていた、最後の記録。 父レイヴンの声が、分析室に響き渡った。
『――学長、どうかお考え直しを!「時間停止」の軍事転用など、歴史そのものを破壊する行為です!』
『レイヴン教授。君は聡明すぎる。「秩序」のためには、時に非情な「力」が必要なのだよ』
『それが、あなたの「秩序」ですか! 私は認めない! 真の術式は、私が……!』
『……残念だよ、教授。近衛師団、やれ。「事故」として、丁重に処理しろ』
ぞっとするような学長の冷酷な指示。悲鳴。魔力の暴発音。 すべてが、あまりにも鮮明に「記録」されていた。
「そん、な……」
ライナスが絶句する。
「……録音、だと……?」
ゼノンも、その「証拠」の重さに息を飲む。
学長の顔から、ついに笑みが消えた。
「……くだらん! そんなもの、ここで君たちごと揉み消せば……!」
「無駄です」
エリアナが遮った。彼女の瞳は、もはや恐怖には揺れていない。父の遺志を継いだ「記録者」の瞳だった。
「この音声と、ゼノンさんが確保した『プロジェクト・クロノス』の全データ。そして、ライナス委員長がまとめた『古代魔法研究者 不審死リスト』」
エリアナは、コンソールの起動スイッチを押した。
「今、この瞬間、父の計測器が、アカデミーの全魔術師、全生徒、そして王都の魔導評議会と主要報道機関(魔導通信)のすべてに、同時転送 を開始しました」
「な……!?」
「やっちまったな、学長」
ゼノンがニヤリと口の端を吊り上げた。
「俺の『非合法』は、単なるサーバ侵入じゃねえ。アカデミー全体のネットワークを乗っ取る、『強制放送』だ。今頃、中庭は大騒ぎだぜ」
ゼノンの言葉を裏付けるように、分析室の外から、地鳴りのような警報と、何千人もの生徒たちの怒号、悲鳴が聞こえ始めた。 学長が、信じられないという顔で扉を見る。近衛魔術師たちも、どちらに武器を向けるべきか完全に動揺している。
ライナスは、震える手で銀縁メガネを押し上げると、まっすぐに学長に向き直った。
「学長。……いいえ、被疑者よ。あなたの築いた偽りの『秩序』は、今、終わった」
彼は魔導杖を構え、その切っ先を学長に向ける。
「王立魔法アカデミー風紀規定、第1条ノ1『アカデミーの根幹を揺るがす反逆罪』。および、レイヴン教授殺害教唆の容疑に基づき、あなたを拘束する」
ライナスの声は、もはや冷たくはなかった。自らの信じる正義を見出した、確かな熱を帯びていた。
「これこそが、私が、我々が信じる『法』の執行だ!」
学長は、外から押し寄せる真実の奔流を聞き、力なく膝から崩れ落ちた。
エリアナは、父の計測器を強く握りしめた。
(父様……あなたの無念は……私が、あなたの『記録』によって、晴らしました)
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数日後。 学長と上層部の者たちは、王都の魔導評議会によって厳正に裁かれることとなった。アカデミーは新体制の確立に追われ、大混乱の最中にあったが、巨大書庫だけは、いつもの静けさを取り戻していた。
エリアナは、埃を払い、背表紙を整える日常に戻っていた。 そこへ、規則正しい靴音が響く。
「エリアナ司書。……いや、エリアナ君」
顔を上げると、ライナスが立っていた。どこかぎこちない様子で。
「今回の君の功績は、評議会でも高く評価されている。君の、その『記録』への揺るぎない信念が、アカデミーの歪んだ『法』を正した」
「……私は、司書として、父の娘として、当然のことをしたまでです」
「いや」
ライナスは首を振った。
「君は、私に『法』の本当の意味を教えてくれた」
彼は、わずかに視線をそらし、そして意を決したように続けた。
「……その、もしよければ、だが。今度の休日に、書庫の新しい管理規則について、君と『二人きり』で議論したい。君の父上の研究についても……君自身のことも、ぜひ聞かせてほしい」
「え……?」
エリアナが戸惑っていると、ライナスは「では、検討を頼む」とだけ言い、足早に去っていった。
(ライナス委員長が、あんな……)
エリアナが呆気に取られていると、今度は頭上から、慣れた軽い声が降ってきた。
「よっ。真面目な司書サマは、もう通常営業かよ」
窓枠に、ゼノンが腰掛けていた。
「ゼノンさん! また窓から! 規則違反です!」
「へっ。お堅いのは相変わらずだな」
ゼノンはひらりと床に降り立つと、エリアナの顔をぐっと覗き込んだ。
「……だが、見直したぜ。お前の『記録』、最強の『魔法』だったな。まさか王都全体にブチまけるとは、俺よりよっぽど『非合法』でイカしてる」
「わ、悪ではありません! 真実を公表しただけです!」
「はいはい。……なぁ、エリアナ」
ゼノンの声のトーンが、ふと真剣になる。
「お前のその『記録』、もっと知りたくなった。今度、俺にだけ『非合法』で教えてくれよ。禁書庫の、お前が一番好きな場所でさ」
そう言うと、彼は片目をつむってウインクを残し、エリアナが返事をする前に、再び窓から軽やかに去っていった。
「もう……! なんなんですか、あの二人は……!」
エリアナは一人、真っ赤になって呟いた。 二人の求愛者からの好意は、あまりにも突然で、彼女の几帳面な貸出台帳には、まだ到底、整理できそうになかった。 けれど。 エリアナは、父の形見である『マギ・スケイル』を、書庫の窓から差し込む優しい光にかざした。
(父様。私は、父様の『記録』を守ることができました。父様の信じた『真実』を、証明することができました)
『記録と詠唱の正確性を、何よりも重んじろ』
父の言葉が、誇らしく胸に蘇る。
エリアナは背筋を伸ばし、書庫の棚に向き直った。 父が命懸けで守った「記録」と共に。そして、少しだけ騒がしくなりそうな未来の予感を胸に、彼女の新しい日常が、今、静かに始まった。
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