第一章「二次方程式の殺人」 4. 記憶の断絶
氷室公式は歩き始めた。
理世が示してくれた道筋を辿るために。
だが――
「氷室さん、ちょっといいですか」
鳴海警部が書斎に入ってきた。疲れた顔をしている。
「何だ」
「容疑者たちが苛立ち始めています。そろそろ何か進展を......」
「愚民どもの感情など知らん。黙って待たせておけ」
氷室は黒板を睨みつけた。理世が残した数式。『0から数える』という概念。明彦か慎二、どちらかが......いや、まだ決定打がない。
「先生、この血痕、やっぱり変ですよね」
理世が床の血痕をじっと見つめていた。相変わらず床に座り込んでいる。
「貴様、まだそれを見ているのか」
「だって、なんか寂しそうなんです。一人ぼっちみたいで......」
氷室は深くため息をついた。血痕が寂しい。相変わらず意味不明な感性だ。
だが、今はそれどころではない。事件が行き詰まっている。
氷室は決断した。
「理世、少し休憩するぞ」
「え? 先生が休憩なんて珍しいですね!」
「貴様も疲れているだろう。何か飲み物でも」
鏡島邸の客間。豪華なソファとテーブルが置かれた部屋に、二人は入った。
「わぁ、立派なお部屋ですね! このシャンデリア、キラキラしてます♪」
理世が天井を見上げて目を輝かせる。
氷室は部屋の隅にあるミニバーに目をつけた。高級そうなワインやウイスキーが並んでいる。
「理世、喉は渇いていないか」
「そういえば、ちょっと渇きました!」
氷室はグラスにアンバーワインを注いだ。琥珀色の液体が、午後の光を受けて輝く。
「これを飲め」
「わぁ、綺麗な色ですね! 蜂蜜みたい♪」
「......そうだな。蜂蜜のようなものだ」
氷室は嘘をついた。事件解決のために。
「いただきまーす!」
理世がグラスを手に取る。
氷室は密かにストップウォッチを準備した。
一口。
理世がワインを飲んだ。
00:00。
瞬間——
理世の瞳が、まるで液体窒素で凍結したように冷たくなった。
「......アンバーワインね」
声が、氷の刃物のように鋭利になる。
00:05。
「3分しかないわ。また私を使うつもり?」
理世(飲酒)が氷室を睨んだ。軽蔑と、わずかな哀れみを含んだ視線。
「理世! 前回の続きだ! 犯人は『0から数える』を知っている人物だ! 明彦か慎二の——」
「何の話?」
00:15。
理世(飲酒)は眉をひそめた。
「今日の事件? 前に何か推理した? 知らないわよ、そんなこと」
氷室の胸に、鉛のような重さが広がった。
やはり記憶がリセットされている。
00:30。
「くそ......!」
「情けないわね。いつまで私に頼るつもり?」
理世(飲酒)は椅子に座り、足を組んだ。その仕草は、まるで女王のような威厳がある。
「で? 事件の概要は? 時間がないわ」
00:45。
氷室は焦燥感に駆られながら、早口で説明した。
「鏡島誠二が毒殺された! 『3x² - 7x + 2 = 0』がダイイングメッセージ! 解はx = 2とx = 1/3!」
「ふーん。二次方程式ね」
01:00。
理世(飲酒)は立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。
「2時と0時20分。なぜ2つの解があるの?」
「それが分からない」
「血痕は?」
「血痕?」
01:15。
「さっきシラフの私が見てたんでしょ? 『寂しそう』とか言ってた」
氷室は息を呑んだ。シラフ時の記憶は保持している。
「書斎の床に、被害者が倒れた時の血痕がある」
「位置と角度は?」
01:30。
理世(飲酒)は氷室のメモ帳を奪い取った。そして恐るべき速度で計算を始めた。
「被害者の身長180cm、倒れた位置から机までの距離2.3m、血痕の飛散角度は約35度......」
彼女の手が、まるで機械のように正確に数式を書き連ねる。
01:45。
「血痕の高さは1.61m。ここから三平方の定理を適用する」
理世(飲酒)の瞳が、さらに鋭くなった。チョークもペンもないのに、彼女は空中に指で数式を描く。
「被害者が倒れる瞬間、手を机について支えようとした。その時の血痕の軌跡から、加害者との位置関係が分かる」
02:00。
氷室は息を呑んで見守った。この計算速度、この論理展開。
「血痕の楕円形状から、加害者は被害者の斜め後方45度に立っていた。距離は約1.5m」
理世(飲酒)は振り返った。
「そして、血痕の飛散パターンから逆算すると......」
02:15。
「この角度と距離で被害者を襲撃するには、加害者の身長は......」
02:30。
理世(飲酒)の額に、わずかに汗が浮かんだ。脳が限界速度で回転している証拠。
「175cm±2cm」
「175cm!?」
氷室が叫んだ。
02:40。
「明彦は180cm、慎二は168cm、絵美は160cm......」
理世(飲酒)の目が見開かれた。
「誰も該当しない......?」
02:45。
「おかしい。計算は完璧なのに......なぜ......」
理世(飲酒)が混乱したような表情を見せた。氷室は初めて、彼女のこんな顔を見た。
02:50。
「待って......もしかして......」
理世(飲酒)の瞳に、何かが閃いた。
「そうか! だから血痕が『寂しそう』に見えたのね!」
02:55。
「どういうことだ!?」
「犯人は——」
02:58。
理世(飲酒)の唇が、真実を告げようとして——
02:59。
「犯人は——」
03:00。
「ふぁ〜......」
理世の目から、鋭利な光が消えた。
大きなあくびをして、眠そうな顔になる。
「あれ......? 私、なんでここに......?」
氷室は拳を握りしめた。
また、だ。
また最後の最後で。
「先生......なんだか頭がぼーっとして......」
理世がふらふらとソファに倒れ込む。
「すごく眠いです......ちょっとだけ......寝ても......」
言い終わる前に、理世は寝息を立て始めた。
「すぅ......すぅ......」
氷室は自分のコートを脱ぎ、理世にそっとかけた。
そして、彼は考えた。
175cm。誰も該当しない身長。
血痕が『寂しそう』に見えた理由。
理世(飲酒)が最後に気づいた何か。
「......そうか」
氷室の脳内で、パズルのピースが組み合わさり始めた。
「身長が合わない......つまり......」
氷室は眠る理世を見下ろした。
「貴様は......また正解への道を示してくれた」
最後の10%。
それを導き出すのは——氷室公式自身だ。




