第一章「二次方程式の殺人」 3. 三分間の天才
「......この味、ラム酒ね」
理世の声が、氷点下まで冷え切った。
氷室公式は、己の心臓が一瞬止まるのを感じた。これで何度目だ。この瞬間を目の当たりにするのは。
いつもの天然娘は、そこにいない。
代わりに立っているのは――IQ200超えの、三分間だけの超天才。
「3分しかないわ」
理世は腕時計を一瞥した。秒針が動き始める。
00:00。
「あんた、その方程式、変数が足りないわよ」
理世は氷室の横をすり抜けて、黒板の前に立った。その動きに、普段の天然さは微塵もない。まるで訓練された軍人のような、無駄のない動作。
「な......」
氷室が反論しようとした瞬間、理世はチョークを掴んだ。
そして――書き始めた。
信じられない速度で。
「被害者は死の直前、何を考えていたか。容疑者は時間をどう認識するか。そして三人の関係性に潜む歪み」
理世の手が止まらない。チョークが黒板を叩く音だけが、静寂の書斎に響く。
00:30。
「これらの変数を追加して、元の方程式と組み合わせる」
数式が展開される。氷室の構築した方程式に、新たな要素が加わっていく。
「待て、その式は――」
氷室が口を開きかけた。
「黙って」
理世の一言が、氷室の言葉を遮った。
鳴海警部が部屋の入り口で呆然と立ち尽くしている。絵美は後ずさりして、壁に背中をつけた。
誰も、この空気を破れない。
理世(飲酒時)が思考している時、この空間は彼女のものになる。
01:00。
「αは被害者の執着心。数値化すると8.7。βは容疑者の時間概念の誤差。一般人は0時を『前日の延長』と認識するが、数学者やプログラマーは『新しい日の始まり=0』と認識する」
理世は振り返った。その目が、氷室を射抜く。
「あんた、気づかなかったの? 0時20分の意味を」
「0時20分は......」
「『0から数える』のよ。数学者なら当然の概念。プログラマーなら配列のインデックスは0から始まる。でも画家は? 一般人は?」
01:30。
氷室の脳が高速回転する。そうか、そういうことか――
「つまり、犯人は『0から数える』概念を理解している人物......!」
「ようやく気づいたわね。遅いわよ」
理世は鼻で笑った。普段の彼女なら絶対にしない、傲慢な仕草。
「容疑者Aは数学教師。当然、0から数える概念を知っている」
黒板に、Aの名前を丸で囲む。
「容疑者Bはプログラマー。配列のインデックスは0が基準。これも該当」
Bの名前も丸で囲む。
「容疑者Cは画家。数学的素養はない。除外できる......と思うでしょ?」
理世はチョークを黒板に叩きつけた。
「でも、それだけじゃ足りない。γ、人間関係の歪みを分析する必要があるの」
02:00。
時間が、容赦なく進む。
理世の額に、わずかに汗が浮かんだ。脳が高速回転しすぎて、体温が上がっているのだ。
「被害者・鏡島誠二は完璧主義者。息子たちを常に比較し、娘の夢を否定した。この歪んだ家族関係が、事件の核心」
理世は三人の容疑者の名前の間に、複雑な矢印を描いていく。
「Aは父に認められたかった。Bは父から逃げたかった。Cは父を憎んでいた」
「だが、それは動機であって、犯人の特定には――」
「まだ分からないの?」
理世が氷室を睨んだ。その目は、まるで教師が愚かな生徒を見るような――いや、もっと冷たい。
「二次方程式の解は2つ。x = 2とx = 1/3。これは何を意味する?」
02:30。
氷室の脳内で、何かが繋がりかける。
2つの解。2つの時刻。いや、違う――
「まさか......」
「2つの時刻。2つの意味。そして――」
理世は黒板を指差した。
「この方程式が示すのは『時間』だけじゃない。もっと根本的な何かよ」
「根本的な......?」
氷室が眉をひそめる。
「あんた、まだ分からないの? 二次方程式の本質を忘れたの?」
理世の声に、わずかな苛立ちが混じる。
02:45。
時間がない。あと15秒。
理世の額に汗が浮かぶ。脳が限界まで回転している証拠。
「犯人の条件を整理するわよ。『0から数える』概念を理解している人物。数学的素養がある。被害者に強い感情を持っていた。そして――」
理世はAとBの名前を見つめた。
「この二人の中の、どちらか......いえ、待って......」
02:50。
あと10秒。
理世の目が見開かれた。何かに気づいた表情。
「血痕の角度......三平方の定理で身長を逆算すると......該当者が......いない......?」
理世が混乱したような顔をする。
「おかしい......計算は合ってるはずなのに......なぜ......」
氷室は固唾を呑んだ。理世が混乱している。それは何を意味する?
「待て、理世! その血痕の角度とは!?」
「あと10秒しかないのに......くそ、時間が......!」
02:55。
あと5秒。
理世は必死に何かを考えている。だが、時間が足りない。
「犯人は......『0から数える』を知っている人物で......血痕の矛盾は......つまり......」
02:58。
「犯人は――」
02:59。
理世の口が、何かを言いかけた。
その瞬間――
03:00。
「えへへ♪」
世界が、元に戻った。
理世の目から、鋭さが消えた。
無邪気な笑顔が戻ってきた。
「ティラミス、美味しかったです! Cさん、ありがとうございます!」
沈黙。
誰も、何も言えなかった。
氷室公式は――己の拳を、壁に叩きつけたい衝動を必死に抑えた。
「......貴様」
低く、怒りを含んだ声。
「また、か」
理世はきょとんとした顔で首を傾げた。
「え? 先生、どうかしました?」
「貴様、今......事件を90%解明して......犯人の名前を......」
「え? 何のことですか? 私、ティラミス食べてただけですよー?」
理世は本当に分かっていない様子で、首を傾げている。
嘘だ。絶対に嘘だ。
氷室は理世の目を見た。
その奥に、何かが見えた気がした。
まるで――「自分で考えなさい」と言っているような。
「......くそ」
氷室は黒板を見つめた。
理世が書き残した数式。推理の痕跡。90%の答え。
だが、最後の10%――犯人の名前だけが、ない。
「鳴海警部」
「は、はい!?」
「AとBのアリバイを、もう一度洗い直せ。二人が接触した痕跡を探せ」
「り、了解しました!」
鳴海が慌てて部屋を出ていく。
絵美も、怯えたような顔で退出した。
書斎に、氷室と理世だけが残された。
理世は無邪気に黒板の数式を見ている。
「わぁ、難しい式ですね! 先生が書いたんですか?」
「......いや」
氷室は答えた。
「貴様が書いた」
「え? 私が? 覚えてませんよー? えへへ♪」
氷室は深くため息をついた。
これが、彼の助手。
三分間だけ、世界を変える天才。
そして三分後、すべてを忘れたフリをする、天然娘。
「......理世」
「はい?」
「貴様は......本当に覚えていないのか?」
理世は笑顔で答えた。
「はい! お酒飲むと記憶が飛ぶんです♪ ごめんなさい!」
その笑顔の奥に。
氷室は見た。
ほんの一瞬だけ――鋭い光が宿るのを。
そしてそれは、すぐに消えた。
「先生、次はどうするんですか?」
「......決まっている」
氷室は黒板の数式を見つめた。
理世が示してくれた道筋。
残りの10%は――自分で導き出すしかない。
「貴様が教えてくれた。あとは、私がやる」
「えへへ、先生カッコいいです!」
氷室は、もう何も言わなかった。
ただ――心の中で呟いた。
理世。貴様は、わざと最後を言わなかったのか?
それとも、本当に時間切れだったのか?
どちらにせよ――
貴様のおかげで、光が見えた。
三分間の天才が残した、完璧な道筋。
その先に、真実がある。
氷室公式は――歩き始めた。




