第一章「二次方程式の殺人」 2. 解けない方程式
容疑者は三人。
長男・鏡島明彦、35歳。都内の私立高校で数学教師をしている。細身で神経質そうな男だ。黒縁眼鏡の奥の目が、どこか父親に似ている。
「父とは......確かに、関係は良好ではありませんでした」
明彦は応接室のソファに座り、組んだ手をじっと見つめていた。
「父は完璧主義者でした。私が数学教師になった時も、『所詮は教師か』と言われました。『研究者になれなかった落伍者』だと」
氷室は腕を組んで立ったまま、明彦を観察していた。表情は一切変えない。
「貴様の感傷は聞いていない。2時前後、貴様はどこにいた?」
「2時? 自宅で寝ていました。一人暮らしなので、証明はできませんが......」
「アリバイなし、か。次」
氷室は明彦の返事も待たずに部屋を出た。
「あ、あの......」
明彦が何か言いかけたが、氷室は完全に無視した。鳴海警部が慌てて「すみません」と謝罪している声が、背後から聞こえる。
廊下で理世が壁の絵画を眺めていた。
「先生! この絵、不思議ですね! 人の顔に見えたり、花に見えたり......」
「それはただの抽象画だ。意味などない」
「えー? でも面白いですよ! ほら、この部分とか......」
「次の容疑者を呼べ。時間の無駄だ」
氷室は理世を置いて、次の部屋へと向かった。理世は「あ、待ってくださーい!」と慌てて追いかけてくる。片方の靴紐がまた解けかけているのに、本人は気づいていない。
次男・鏡島慎二、32歳。IT企業でプログラマーとして働いている。兄とは対照的に、ラフな格好で、髪も少し伸びている。疲れた目をしていた。
「プログラマー、か。0から数えることには慣れているだろうな」
氷室の唐突な質問に、慎二は眉をひそめた。
「0から数える......? ああ、配列のインデックスのことですか。まあ、職業柄」
「0時20分という時刻について、どう思う?」
「0時20分? それが何か?」
慎二は困惑した顔をしている。演技ではなさそうだ。
「いや、何でもない。貴様の借金について聞こう。3000万円。返済の目処は?」
「......調べたんですか。まあ、隠すつもりもありませんが」
慎二は深くため息をついた。
「仮想通貨で失敗しました。父に頼めば返せる額でしたが......プライドが許さなかった」
「だが、父が死ねば遺産が入る。動機としては十分だ」
「それは......否定できません」
慎二は正直に答えた。
「でも、私は殺していません。2時には自宅で寝ていました。一人暮らしなので、証明はできませんが」
「兄と同じ証言か。面白みがないな」
氷室は鼻で笑った。
「面白い面白くないで人の人生を測らないでくださいよ」
「人生など所詮、関数の集合だ。面白い関数と退屈な関数があるだけだ」
「......変わった人ですね」
「貴様ら凡人には理解できんだろうな」
氷室は慎二にも興味を失ったようで、さっさと部屋を出た。
理世が廊下で床のタイルを数えていた。
「51、52、53......あれ? さっき50まで数えたのに、また1から数えちゃいました!」
「貴様の短期記憶は金魚以下か」
「えへへ、金魚さんって可愛いですよね! 先生も金魚好きなんですか?」
「......もういい。次だ」
長女・鏡島絵美、28歳。画家として活動しているが、まだ無名に近い。長い髪を後ろで束ね、ゆったりとしたワンピースを着ている。
「父は......私の絵を認めてくれませんでした」
絵美は静かに語った。
「『絵なんて趣味でやれ。まともな仕事に就け』と。でも、私は絵が好きで......」
「遺産相続で対立していたそうだが」
「ええ。父は『絵描きになるのであれば、遺産は兄たちに』と言っていました。理不尽だと思いました」
絵美の目に、わずかに涙が浮かんでいた。
氷室はそれを完全に無視した。
「2時前後のアリバイは?」
「自宅のアトリエで絵を描いていました。深夜に描くのが好きなので......一人です。証明はできません」
「また同じか。貴様ら、申し合わせたように『一人で寝ていた』『証明できない』。まるでテンプレートのようだ」
「......すみません。でも本当なんです」
「本当かどうかは方程式が証明する。貴様の感情は関係ない」
氷室は絵美にも用はないとばかりに、踵を返した。
廊下に出ると、理世が絵美の後ろ姿を見つめていた。
「先生......あの人、悲しそうでしたね」
「感情など変数に過ぎん。事件には関係ない」
「でも、お父さんに認められたかったんでしょうね。私も、そういう気持ち分かります」
理世の声が、いつもより少しだけ真面目だった。
氷室は理世を一瞥したが、何も言わなかった。
氷室は再び書斎に戻った。
鳴海警部がコーヒーを持ってきてくれたが、氷室は手をつけない。彼は書斎の黒板の前に立ち、白いチョークを手に取った。
「さて、と」
黒板に、被害者の残した方程式を書く。
氷室はすでに解を導き出していた。x = 2、またはx = 1/3。
「問題は、この2つの解が何を意味するかだ」
氷室は黒板を睨みつけた。
「x = 2を時刻と解釈すれば、午前2時。死亡推定時刻と一致する」
「じゃあ犯人は2時に来たんですね!」
理世が横で「わー!」と声を上げた。
「早計だ。もう一つの解、x = 1/3はどうなる?」
氷室は腕を組んで考える。
「1/3時間......60分換算で約20分。つまり0時20分」
「20分? それって何時何分ですか?」
「0時20分だ。午前0時20分、あるいは正午の20分」
理世は首を傾げた。
「0時20分......って、昨日なんですか? 今日なんですか?」
「何を言っている」
「だって、0時って、一日の最初じゃないですか。でも、寝る前だから昨日の続きみたいな......」
「......」
氷室は理世の発言を一瞬考えたが、すぐに頭を振った。
「無意味な疑問だ。0時は0時だ。定義に従え」
「えへへ、難しいですね! 私、いつも混乱しちゃうんです♪」
氷室は理世を無視して、黒板に戻った。
「問題は、なぜ2つの解があるのか、だ」
彼は黒板に、容疑者3人の名前を書いた。
「全員、アリバイなし。全員、動機あり」
氷室は顎に手を当てて考えた。
「だが......何かが足りない。変数が......」
彼は方程式を何度も見返した。
時刻は分かる。x = 2(午前2時)、x = 1/3(0時20分)。
だが、それだけでは犯人に辿り着けない。
「くそ......」
氷室は珍しく、小さく舌打ちをした。
理世がその様子を心配そうに見ている。
「先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫ではない。この方程式が示すもの......時刻だけなのか? それとも他に何か......」
氷室の思考が、ぐるぐると回る。
数学は完璧だ。方程式に嘘はない。
だが――
人間は、方程式通りには動かない。
「......いや、待て」
氷室は再び黒板を見つめた。
「二次方程式の解は2つ。だが、これが意味するのは......」
彼は何かに気づきかけた。
だが、その瞬間――
「先生、お茶請けにどうぞ」
絵美が部屋に入ってきた。手には、小さな皿に乗ったティラミスがある。
「捜査の邪魔をするな」
「すみません。でも......何か食べないと、頭が働かないでしょう?」
「私の脳は常に最適化されている。糖分の摂取は不要だ」
だが、理世は目を輝かせた。
「わーい! ティラミス! 大好きです♪」
「理世、待て――」
氷室が止める間もなく、理世はティラミスをパクッと口に入れた。
そして。
世界が、変わった。
「...............」
理世の目つきが、一瞬で変わる。
無邪気な瞳が、鋭利な刃物のように研ぎ澄まされた。
「......この味、ラム酒ね」
低く、冷徹な声。
氷室は息を呑んだ。
またか。
また、この瞬間が来た。
三分間だけの、天才の時間が――。




