第一章「二次方程式の殺人」1. 事件発生
1. 事件発生(現場到着~検証)
「また人間が死んだ。実に非効率的だ」
氷室公式は黒縁眼鏡を指で押し上げながら、そう吐き捨てた。午前9時、東京都世田谷区の高級住宅街。警察車両が並ぶ豪邸の前で、彼は煙草も吸わず、ただ腕時計を見ていた。
「氷室さん、もう少し言葉を選んでもらえませんかね...」
警視庁捜査一課の鳴海警部が、ため息混じりに言った。五十代後半、白髪混じりの頭を掻きながら、この天才探偵の扱いに慣れきった様子だ。
「言葉を選ぶ時間が無駄だ。それより現場を見せろ。私の時間は1秒あたり500円の価値がある」
「...それ、時給換算すると180万円ですよ」
「当然だ。天才の時間を愚民の時給で測るな」
氷室は鳴海を無視して豪邸に向かって歩き出した。黒いスーツは完璧に整えられ、靴は鏡のように磨かれている。身長178cmの痩せた体躯は、まるで感情を持たない機械のように正確な歩幅で進んでいく。
「先生ー! 待ってくださーい!」
背後から明るい声が響いた。
小柄な少女が、片方の靴紐をほどけたまま、全力で走ってくる。長い黒髪をツインテールにした天宮理世だ。20歳、私立大学数学科3年生。そして氷室の助手——本人曰く「計算機」である。
「遅い。集合時刻より3分27秒遅刻だ。君の脳内時計は故障しているのか?」
「えへへ、ごめんなさい! 電車を一本早く乗っちゃって」
「それは遅刻ではなく、逆方向の電車に乗ったということだろう」
「あ、そうなんですか! なんか景色が違うなーって思ってました♪」
氷室は理世の頭上に手を置き、ぐいと正面を向かせた。
「靴紐。結べ。転んで死なれると、新しい計算機を探す手間が増える」
「はい! 先生って本当に優しいですね!」
「...貴様の言語処理能力には深刻な欠陥がある」
氷室は理世が靴紐を結ぶのを待つことなく(彼女は右と左を間違えて結び始めていた)、玄関へと進んだ。
豪邸の内部は、成功者の証明書のような空間だった。大理石の床、シャンデリア、壁一面の書棚。そして二階への階段を上がった先にある書斎——そこが、今回の殺人現場である。
「被害者は鏡島誠二、62歳。IT企業の創業者で、資産は推定50億円」
鳴海警部が説明を始めた。
「死亡推定時刻は午前2時頃。遺体発見は午前8時、家政婦によるものです。死因は毒物による中毒死。使用された毒物はまだ特定中ですが、おそらく青酸系かと」
「容疑者は?」
「家族3人。長男の鏡島明彦35歳、次男の鏡島慎二32歳、長女の鏡島絵美28歳。全員、遺産相続で揉めていたそうです」
氷室は書斎のドアを開けた。
部屋の中央に、高級そうな革張りの椅子。その上で、鏡島誠二が息絶えていた——いや、正確には「していた」。遺体はすでに運び出されており、椅子には白いチョークで人型の輪郭が描かれているだけだ。
「遺体の写真は?」
「こちらです」
鳴海がタブレットを差し出す。氷室はそれを一瞥し、2.7秒で観察を終えた。
「死後硬直の程度から、死亡推定時刻は午前2時±30分。誤差の範囲内だな」
そう言いながら、氷室は部屋を歩き回る。机、椅子、窓、床、天井。すべてを数学的に計測するような視線で舐め回していく。
「わぁ! 事件ですね! ワクワクします♪」
理世が無邪気な声で部屋に入ってきた。
「...おい、理世」
鳴海警部が慌てて止めようとするが、理世はすでに「人型チョーク」の前まで来ていた。
「わぁ、床に絵が描いてあります! 何の絵ですか?」
「それは人型だ。遺体があった場所を示している」
「へー! 面白いですね! まるで謎解きゲームみたい♪」
「...理世、これはゲームじゃない。人が死んでるんだぞ」
鳴海が頭を抱える。
「え? 人が死んでるんですか?」
理世がきょとんとした顔で振り返る。
「死体の写真、さっき見せただろう!」
「あ、あれ死んでたんですか! 眠ってるのかと思いました! じゃあ起こしちゃダメですね!」
氷室は理世と鳴海のやり取りを完全に無視して、机の上を調べていた。
そこには、一枚のメモ用紙があった。
「...方程式か」
氷室の目が、わずかに鋭くなる。
「これは被害者の筆跡ですか?」
「ええ、鑑定済みです。被害者が死の直前に書いたものと思われます」
「ダイイングメッセージ、か。古典的だが、有効な証拠になりうる」
氷室はメモを手に取り、光にかざした。
「インクの染み込み具合から、書かれたのは死亡時刻の前後30分以内。筆圧から、書いた時点で被害者はすでに毒の影響を受けていた。震える手で、それでも何かを伝えようとした...」
「先生、これって何の式ですか?」
理世が横から覗き込む。
「二次方程式だ。ax² + bx + c = 0の形。この場合、a=3、b=-7、c=2」
「わぁ! 数学ですね! 数学大好きです♪」
理世は目を輝かせている。数学の話になると、途端に反応が変わるのだ。
「で、これを解くと...」
氷室は手帳を取り出し、黒いペンで数式を書き始めた。
「解は2つ。x = 2、またはx = 1/3」
「2と3分の1...これが何を意味するんでしょうか?」
鳴海が首を傾げる。
「時刻だろう。x = 2なら午前2時。x = 1/3なら...」
氷室は電卓を取り出した。1÷3を計算する。
「0.333...つまり約0.33時間。60分換算で約20分。午前0時20分、あるいは午後0時20分だ」
「なるほど、犯行時刻を示している...?」
「可能性はある。だが、なぜ2つの解があるのか。これが問題だ」
氷室は顎に手を当てて考え込んだ。
理世はその間、部屋の中をふらふらと歩き回っている。
「先生、この血痕って何か綺麗ですね♪」
理世が床の隅を指差した。そこには、わずかな血痕が残っている。被害者が倒れた時、どこかで頭を打ったのだろう。
「...貴様の感性を疑う」
「えへへ、赤い絵の具みたいで! でも、この角度だと...」
理世は床に屈み込んで、血痕を横から眺めた。
「...不思議ですね。なんか寂しそう」
「血痕が寂しい? 貴様、頭がおかしいのか?」
「そうですかね? でもほら、この形、まるで誰かを待ってるみたいじゃないですか?」
氷室は理世の発言を一応メモに取った。意味不明だが、彼女の天然な観察が、過去に何度か事件解決の糸口になったことがある。偶然だとは思うが、一応記録しておく価値はある。
「氷室さん、容疑者3人を別室に待機させてあります。話を聞きますか?」
「当然だ。全員呼べ。時間は20分だ。それ以上は私の時間の浪費になる」
「...分かりましたよ」
鳴海は苦笑しながら部屋を出ていった。
氷室は窓際に立ち、東京の街を眺めた。計算する。すべてを数式に還元する。それが彼の生き方だ。
「先生、今日も難しい事件ですね!」
理世が隣に立つ。
「すべての事件は方程式で解ける。人間の感情など、所詮は変数に過ぎん」
「えへへ、先生ってカッコいいです! まるでドラマの主人公みたい♪」
「...貴様の脳内構造を解剖したい」
こうして、二次方程式の殺人事件の捜査が始まった。
氷室はまだ知らない。この事件が、彼に何を教えることになるのかを。
そして理世もまだ知らない。自分の中に眠る、もう一人の自分が、間もなく目覚めることを。




