プロローグ:三分間だけの天才
「犯人は――」
理世の唇が、名前を告げようとした瞬間。
「えへへ♪」
彼女は無邪気に笑った。
氷室公式は、己の拳を壁に叩きつけたい衝動を必死に抑えた。
それは、ちょうど三分前のことだった。
「わーい! ティラミス♪」
天宮理世がフォークを口に運んだ瞬間、世界が変わった。
いや、正確には彼女の目つきが変わった。
普段の天然で無邪気な瞳が、一瞬にして鋭利な刃物のように研ぎ澄まされる。
「...この味、ラム酒ね」
低く、冷徹な声。
氷室は息を呑んだ。またか。またこのパターンか。
「3分しかないわ。あんた、その方程式、変数が足りないわよ」
理世――いや、今この瞬間の彼女は「理世」ではない。アルコール一滴で覚醒する、IQ200超
えの超天才。氷室ですら追いつけない推理速度で、事件の核心を抉り出す存在。
黒板に残された複雑な数式を一瞥し、理世は冷笑した。
「被害者の心理状態をα、容疑者の時間認識をβ、人間関係の歪みをγとして追加する。
そうすれば...」
彼女の手が、信じられない速度で黒板にチョークを走らせる。
数式が。方程式が。人間の思考を超越した論理が、白いチョークで書き連ねられていく。
氷室は必死にメモを取った。この三分間を逃せば、すべてが消える。
彼女の記憶から。世界から。
「犯人は3人に絞れる。A、B、C。トリックは二次方程式の性質を利用した時間偽装。動機は嫉
妬。証拠は...」
02分30秒経過。
氷室の手が震える。メモが追いつかない。彼女の思考が速すぎる。
「そして、全ての条件を満たすのは――」
02分50秒。
「犯人は――」
02分58秒。
氷室の心臓が止まりそうになる。言え、名前を言え、今度こそ最後まで――
02分59秒。
「犯人は...」
そして。
03分00秒。
「えへへ♪ ティラミス美味しかったです!」
天宮理世は、まるで何事もなかったかのように、無邪気に笑った。
先ほどまでの鋭い眼光は消え、いつもの天然娘に戻っている。
「...貴様」
氷室公式の低い声が、部屋に響いた。
「また、か」
理世はきょとんとした顔で首を傾げる。
「え? 何かありました?」
「貴様、今...事件を90%解明して、犯人の名前を言いかけて...」
「えー? 私、何も覚えてませんよー? えへへ、お酒飲むと記憶が飛ぶんです♪」
嘘だ。絶対に嘘だ。この女は覚えている。すべてを。それでもとぼけている。
氷室は深呼吸をした。
これが、彼の助手。天宮理世。
シラフの時は、靴を左右逆に履き、信号の色を忘れ、死体を見て「眠ってるみたい♪」と言
う、生活能力皆無の天然娘。
だが、アルコール一滴で豹変する。
三分間だけ、IQ200超えの超天才になる。
そして三分後、すべてを忘れたフリをして、また天然に戻る。
「先生、どうかしました? 難しい顔してます」
「...何でもない」
氷室は黒板に残された、理世の数式を見つめた。
彼女は90%まで解いた。残りの10%——犯人の名前だけを、言わずに消えた。
まるで意図的に。まるで氷室に「自分で考えろ」と言っているかのように。
「くそ...」
氷室公式、35歳。元大学数学教授。現在は私立探偵。
口癖:「すべては方程式に還元できる。人間の感情など変数に過ぎん」
極度の自己中心的、人間嫌い、数学至上主義。
友人ゼロ。感情ゼロ。他人への配慮ゼロ。
だが、今。
彼は知っている。
自分一人では、事件を解けないことを。
この天然で、生活能力皆無で、アルコールで豹変する助手がいなければ、自分は何も解決でき
ないことを。
「...理世」
「はい?」
「貴様がいなければ、私は...」
氷室は言葉を飲み込んだ。
「...いや、何でもない。帰るぞ」
「はい! 先生、今日も優しいですね♪」
「どこが優しいんだ...」
二人は、事件現場を後にした。
これは、数式で世界を見る孤高の天才と、三分間だけ覚醒する天然娘の物語。
方程式は、いつも正しい。
だが、人間は、方程式では測れない。
その矛盾の中で、二人は事件を解決していく――。




