6話
それは私が12歳になったときだった。
「アリス、王城に行ってみないか?」
旦那様の執務室に呼ばれた私は、開口一番旦那様にそう言われた。
専属侍女にならないかと言われた時も突然だったけど、今回も突然で困惑するしかない。
「あの、どうして、ですか?」
「最近王城で女中を募集していてな。12歳から応募できる。それでどうかと思ったんだ」
「ですが、私はお嬢様の専属侍女で…」
一応、ナナカしかいない状況以外ではお嬢様呼びしてます。
「それは君に侍女を頼むときに説明したことだが、目的はナナカが勉強するようにしたかったからだ。その目的はほぼ果たしてる。君に専属侍女を続けさせねばならない理由はない」
「そう、ですか…」
確かにそうだけど、もう6年にもなるのにそう言われるのはなんだか寂しい。
それを表情に出さないように取り繕うと、旦那様はさらに続けた。
「それに、だ……君はこのままでいいのか?」
「っ!」
こちらを見透かすような、鋭い眼光。
そうだ、私はこのままでいいわけがない!
「よくありません!」
そう言うと旦那様はフッと視線を緩めた。
「君の目的について、余計な詮索をするつもりはない。この6年…いや、8年で君の人となりは見てきたからな。少なくとも悪事ではないだろう。なら、私から言うことはない。6年も娘を成長させるために手伝ってくれたのだ。王城行きはそんな君へのプレゼントだ」
「旦那様…」
そこまで信頼されている。
それがなんともむずがゆくて、嬉しい。
「ありがとうございます」
「それでどうする?行くか、やめるか」
「行きます!」
すぐ答えた。
王城行きは元々目的にしていたことなのだから、断る理由はないわ。
「よろしい。ならば餞別代わりと言ってはなんだが、王宮に向かうまでの道中はこちらで負担する。あと紹介状だな。こちらも用意しておこう」
「何から何までありがとうございます!」
「かまわん。だが……」
旦那様はそっと視線を外した。その視線の先には何もない。
「…ナナカへの別れは、どうする?」
「っ…!それ、は…」
そうよね。
王城に行くということは、ナナカや家族との別れを意味する。
家族とはもう年に数回しか会ってない。
屋敷に寝泊まりしてるし、年末年始くらいだけ。
我ながら薄情だけど、多分大丈夫。
でも、ナナカはそういかない。
それだけ私にとってナナカの存在は大きくなってしまった。
いつかは別れるときがくると考えていたのに、それが少し早まっただけで気が重い。
(全然、覚悟なんてできてなかったわ。自分で決めた事なのに、こんなにも心が苦しい…)
それでも、伝えないといけない。
初めてできた友達だからこそ、何も言わずに居なくなるなんてできない。
ふと、リリーシアの死ぬ瞬間を思いだした。
(あの時は、何も言えなかったのよね)
別れの言葉を言えずに別れることになってしまった。
あの後悔はもうしたくない。
「自分で、言います」
私は執務室を後にして、図書室に向かった。
この時間なら、ナナカは図書室で本を読んでるはずだわ。
図書室に着くと、予想通りナナカが椅子に座って本を読んでいた。
私はこれから言わなくてはいけないことに緊張しながら、彼女の隣に座る。
私が来たことに気付いたナナカは、本から顔を上げた。
「お父様との話は終わったの?」
「ええ」
「…何を言われたの?なんだかおかしいわよ」
気づかわし気なナナカを前に、言わなくてはいけないことが喉から出てこない。
二度と会えないわけではないのに、それでも言うのが怖い。
(ダメよ、言うって決めたんだから!もう後悔しないように)
私は深呼吸を一つして、ナナカに向き直った。
私の真剣な様子に、ナナカも居住まいを正す。
「私、王城に行って女中になるわ」
「…………えっ?」
ナナカは目を見開いて固まった。
「王城に行くの。だから……侍女もやめるわ」
「…な、なによそれ!どういうことよ!!」
「だから、もうナナカのお世話も他の人に…」
「ふざけないで!!」
ナナカは勢いよく立ち上がり、にらみつけてくる。
その目は初めて会った時を思い出させるような、鋭い目つき。
でも、その目じりには涙がにじんでいた。
その顔を前に、私の中の目的への決意がほんの少し揺らいだ。
言わないほうが良かったという後悔も。
(…ダメよ、ここでくじけちゃ!)
もう決めたんだもの。
最初から分かっていたことよ。
簡単なことじゃないし、途中で辛い思いをすることもあるかもしれない。
(それでも……私は、エイベル殿下を愛しているから)
涙目のナナカを前に、私のほうまで潤んできた気がした。
「他の人にだなんて…私のことなんてその程度だったっていうの!?」
「そんなわけない!ナナカは、大事な友達よ!」
「っ!だ、だったらどうしてよぉ…!」
「それ、は…」
言えない。
口ごもった私に、ナナカの瞳から涙がこぼれた。
「言えないなら…やっぱりその程度なんじゃない!アリスの嘘つき!」
「ナナカ…!」
ナナカは図書室を飛び出してしまった。
開けっ放しになった扉を前に、私の脚は動かなかった。
(行ってどうするの?私に、何が言えるの?)
その程度。
私にとっては大事でも、ナナカにはそう見えている。
そうだ、私はナナカよりも、エイベル殿下を取った。
その私に、ナナカを追いかける資格がある?
ふと、ナナカの読みかけの本が目に入った。
本のタイトルは『ヴァスト大森林の謎』。
リリーシアの生家であるヴァスト公爵家。
その領地には、広大な大森林があり、国境沿いに広がるそれは未開の森でもある。
その本をナナカが読んでいた。
何の因果なんだろうと疑ってしまう。
(…もし、リリーシアとしてナナカに会っていたら、どうなっていたのかしら)
ナナカの座っていた席に座り、ページをめくる。
いつの間にか、図書室には二人でいるのが当たり前になっていた。
でも、今は一人。
ページをめくる音だけが響く図書室。
それに、猛烈に違和感を覚えてしまった。
(自分以外に、誰かがページをめくる音があるだけで、全然違うのね)
その違和感が、徐々にかたちを成していく。
だんだんと、私の視界はぼやけていった。
ぽとりと、机に雫が落ちる。
一つ落ちると、もう止められなかった。
「うっ……ふっ……ぐすっ……」
もう、本は読めなかった。
こぼれる涙は何度拭っても次から次へと溢れてくる。
ナナカとの別れが、悲しい。
寂しくて、辛くて、それでも前に進まなくちゃいけない。
ふと、近くに人の気配を感じた。
顔を上げると、そこには出ていったはずのナナカがいて。
その顔は、出ていくときはにらみつけていたのに、今は何かをこらえるかのように眉尻が下がり、口元は引き締めている。
「…お父様に、聞いた」
「えっ?」
「アリスは……お父様にも、言ってないって。どうして王城に行きたがるのか、知らないって。でも、応援するって。ぐすっ……だから、私も応援するって決め……ひっく」
「ナナカ……!」
もうナナカの瞳から涙が止まらない。
私も止まらず、立ち上がるとナナカへと腕を伸ばした。
ナナカも腕を伸ばし、私の背中へと回す。
私たちは、互いに相手を抱き締めた。
この後におとずれる、別れを惜しむように。
「アリスは…ひっく…誰にも言えないこと、頑張ってるって……だから…だから!一番の『親友』のあたしが!応援するって…決めたの!」
「……ナナカぁ!」
ナナカの言葉が、私の心に沁み込んでいく。
言葉から伝わる気持ちが、どうしようもなく嬉しくて。
だから、私もナナカへありったけを言葉に込める。
「私も…応援してる!アリスが立派な淑女になって、デビュタントで王城に来るの、待ってるから!ぐすっ……絶対に!」
「約束だからね!勝手にいなくなったら承知しないんだから!」
「当然よ!」
別れの言葉と、再会の約束をして。
私とナナカは、図書室に夕日が差し込むまで、抱き締め合いながら泣いた。