12話
「なんだと…!?」
私が代わりに本を読むと言った途端、宰相閣下は目に見えて動揺した。
その反応に、私の考えは正しいのだと確信する。
(閣下は…まだ夫人が亡くなったことを受け入れられてないんだわ。だから、絵本を読めない。知らないままでいれば、夫人が来て読んでくれる…そう願っているのね。もし読んでしまったら、夫人が亡くなったことを認めなくてはならない。中身を知れば、閣下は前に進めるはずだわ)
周囲を見渡し、他の利用者がいないことを確認する。
そして息を吸い、絵本を読み始めようと思った時、待ったがかかった。
「い…いや、その必要はないよ。君にそんな手間を掛けさせるのはしのびない。気にせず、自分のことに邁進してくれていい」
「閣下…」
やっぱりそう来るわよね。
さらに、言ってることはさっきと正反対だ。
今の閣下には全然余裕がない。
慌てているのか、目線があちこちに飛んでいる。
この絵本が閣下にとって極めて重要なものであることは間違いなかった。
「さぁ、その本を返してくれるね?」
そう言って伸ばされた手を、私は両手で包み込むように掴んだ。
安心してもらえるように、怖いことなんか無いんだと伝えたくて、まるで怯える子どもをあやすように私は微笑みかけた。
「大丈夫です、閣下」
「………」
伸ばされた手から力が抜けていく。
今にも泣きそうな顔をしている閣下を前に気持ちが揺らぎそうになる。
でも、だからこそしっかりしないといけない。
閣下を、悲しみで止まった時から救い出すために。
閣下の力の抜けた手を、そっと彼の膝へと下ろす。
広げたままの絵本を机に乗せ、閣下にも見えるようにしながら、私は朗読を始めた。
「昔々あるところに、狩人と一匹の猫がいました…」
絵本の内容はこうだ。
狩人が暮らす家の周りをうろつく猫がいた。
猫は何もせず、普段は狩人が狩ってくる獲物のおこぼれを狙うだけ。
自分で狩りもせず、だらける猫に狩人は呆れていた。
ある日、狩人は狼に襲われ、絶体絶命のピンチ。
しかしどこからともなく現れた猫が狼の鼻先に飛び掛かり、狼を追い払ってしまう。
それから、狩人と猫はずっと一緒に暮らしましたとさ。
絵本を読み終え、そっと閣下の様子をうかがうと、その瞳からは静かに雫が流れていた。
ハンカチを取り出し、涙をぬぐっていく。
その間、閣下はずっとされるがままになっていた。
少しして閣下は目を閉じ、物思いにふけっているよう。
涙も止まり、ハンカチを仕舞うと閣下の目は開き、私のほうへと向き直った。
「……こんなお話だったんだね。ありがとう」
「いえ。私にできることをしたまでです」
「いいや。君のおかげで、私はやっと動き出すことができそうだ」
そう言う閣下の顔は、つきものが落ちたかのように澄み渡っていた。
その顔を見て、私のしたことが間違っていなかったことに、安堵と嬉しさが心に広がる。
「…私は、妻が亡くなってから、一度も妻の私室に入ったことがないんだ」
「そう、なんですか?」
「入る必要なんかないと思っていた。でも、違ったんだ。もう妻がいない部屋に入ってしまったら、妻の死を認めなければいけない。それが怖くて、入れなかったんだ。…今日、妻の部屋に行ってみようと思う」
「はい、それは良いことだと思います」
閣下は自分のハンカチを取り出し、顔を拭いた。
涙の筋が赤くなっているけれど、覚悟を決めたのが分かる。
「本当にありがとう、君のおかげだ。お礼をしたいところだが、今日は自分のことを優先させてくれ。早く仕事を終わらせて屋敷に帰りたいんだ。許してくれるかな?」
「もちろんでございます。私のことは気にしないでください」
そう笑って言うと、閣下は少し困ったように笑った。
「すまないね。……君は、本当に12歳かい?」
「っ!」
そう言われてドキッとした。
しまった、らしくなかったかしら?
でも、淑女教育を受けていれば、このくらいできる…はず、よね?
内の動揺を隠すように、なんとか笑顔は崩さないようにこらえる。
(そうだ、こういうときは無理に否定するより、そう思われていると見せたほうがかわせるわよね!)
「そうですね、たまに疑われることもあります。あははは…」
困ったように笑って見せたけど、大丈夫よね?
閣下の表情は変わってない。
嫌な汗が背中を流れるけど、閣下はそれ以上何も言わずに立ち上がった。
「ではこれで失礼させてもらうよ。また後程」
「はい」
頭を下げると、宰相閣下は堂々した姿で図書館を出ていった。
その背中を見送った後、私は大きく息を吐いて椅子の背もたれ背中を預ける。
「はぁ……」
やり切った満足感と、緊張からの解放で全身から力が抜けた。
(緊張したわ…。でも、これで宰相閣下がもう悲し気な顔をすることはなさそうだし、本当に良かった。勇気を出して話しかけた甲斐があったわ)
心に灯った温かな火に、口元に笑みが浮かんだ。
絵本を元の場所に戻すと、読書に戻った。
この一件が、のちに私の今後を大きく変えることを、まだ私は知らない。
***
それから3日後。
女中として壁の掃除をしていると、文官の制服を来た男性が歩み寄ってきた。
「失礼、アリス様ですね?」
「はい、そうです…けど?」
「宰相閣下がお呼びです。来ていただけますか?女中頭には許可を得ております」
「わかりました」
男性の後についていく。
(呼び出されたのは、この前の件に関することよね?)
そうだと思いつつも、何も言わずにつれていかれると流石に不安になってしまう。
王城の中を進んでいくと、重厚な扉の前で男性は止まった。
「閣下、アリス様をお連れしました」
「中に入れてください」
「はっ」
男性が扉を開く。
開かれた扉の先は、宰相閣下の執務室だった。
部屋の両脇には天井に届くほどの本棚がずらりと並び、所狭しと本や書類が収まっている。
手前には向かい合わせの皮張りのソファに、小さなガラス張りのテーブルが一つ。
そして奥には大きな執務机と、その部屋の主である宰相閣下が座っていた。
「先日ぶりだね、アリス。どうぞ中へ」
「はい、失礼します」
閣下の表情はとても穏やかだった。
その表情が見れただけでも、一安心だわ。
執務室へと一歩、二歩と進む。
そこで、男性が一緒には入ってきていないことに気付いた。
「ありがとう。君は下がっていいよ」
「はっ」
男性は開いたままの扉から出ていき、私の後ろで扉が閉まる音がした。
執務室で2人っきりの状況に、知らず緊張感が高まる。
「さっ、座って」
「はい」
手で促され、ソファーに座った。
閣下も立ち上がると、隣の部屋に消えていく。
しばらくして、ポットとカップを二つ用意して戻ってきた。
それをテーブルに置き、閣下もソファーに座る。
「あ、紅茶でしたら私が…」
「気にしないでくれ。『君ほどじゃないが』私もそこそこに淹れられる自信はあるんだ」
「? はい」
そう言われたら、引き下がるしかなかった。
ただ、言われたことに何か違和感を覚え、それが何なのか分からない。
違和感の正体を探ろうとしてる間に、閣下は慣れた様子で紅茶を淹れていた。
カップの一つが、私の前に差し出される。
「さっ、どうぞ」
「いただきます」
一口含み、のどに流す。
自信があると言った通り、紅茶は香り高く、おいしかった。
それに少し緊張感がほぐれていく。
閣下も一口飲むと、カップを置いてこちらに向き直った。
「先日はありがとう。君のおかげで、私はようやく前に進むことができるようになった。今日は言った通り、君に礼がしたいと思ってね」
「お礼だなんてそんな…」
お礼が欲しくてやったわけじゃないもの。
でも、閣下は引き下がってくれる様子は無かった。
「君がしてくれたことは、私にとってとても大事なことだった。それに礼もしないのは、私の沽券にかかわる。何でもいいよ、私にできることなら」
「………」
(そう言われたら何か言わないといけないわよね。う~ん、ここは無難にお金でも……あ)
そのとき、頭に悪魔の願いが沸いた。
その願いを叶えてもらえば、私の目的はグッと近くなる。
だけど、それを言うことに大きなためらいが生まれた。
(ダメよ、そんなことをお礼に求めちゃ。……でも、こんな機会を逃すようでは、とても目的は叶えられない…)
宰相閣下はその地位に加え、公爵家当主でもある。
そんな高位の方と接し、ましてお礼として何でもいいなんて言われる機会は、もう二度とないかもしれない。
(そうよ。今ここで言わなかったら、エイベル殿下と結婚して支えることも、ミルドレッド様の暴挙も止めることができない。なら、私のくだらないプライドなんてどうでもいいことのはずだわ!)
大きく息を吐き、そして吸う。
覚悟を決めた私は、宰相閣下の目を見る。
閣下は笑顔を浮かべ、私が何を言うのかを面白そうに待っていた。
胸に手を当てる。
心臓がうるさく鳴いていた。
意を決して、口を開く。
「私を、閣下の養子にしてください!」




