春がくたびれている。
三月の終わり、うちのアパートの隣に住んでいる三浦さんが「春がくたびれた」と言った。
「くたびれたって……誰が?」
「春がさ」
「春が?」
三浦さんは大真面目な顔で頷いた。
うちのアパートは昭和の香りが漂う二階建てで、四部屋だけ。隣の三浦さんとは顔を合わせる機会が多い。大学を卒業したばかりの俺にとって、三浦さん(推定五十代)の話はよくわからないことが多いが、悪い人ではない。
「春がね、毎年張り切りすぎるから、そろそろ疲れる頃なんだよ」
「いや、春って概念じゃないですか」
「そういうこと言うなよ。春だって働いてるんだぞ」
真顔でそう言われると、俺もつい考えてしまう。
確かに、春は忙しい。桜を咲かせ、気温を上げ、風に花粉を混ぜ、虫を這い出させる。卒業式と入学式の準備もあるし、新社会人の緊張をほどよく和らげる役目もある。天気も気まぐれに変えなきゃいけないし、春のファッションを流行らせる努力だってあるだろう。
「……まあ、確かに。春も大変ですよね」
「だろう? で、今年はちょっとくたびれるのが早いんだ」
「早い?」
「そう。だから、桜の咲き方がまばらなんだよ」
ああ、そういうことか。
今年の桜は確かに妙だった。近所の公園では、半分咲いて半分枯れているような中途半端な状態が続いている。テレビでは「異常気象の影響」と言っていたが、三浦さんは「春がくたびれたから」と言う。
「じゃあ、どうすればいいんです?」
「春をねぎらうしかないな」
「ねぎらう?」
「うむ。『今年もお疲れさま』って、ちゃんと言ってやるんだ」
まるで春がどこかの会社員のようだ。
けれど、試しにやってみるのも面白そうだった。
その夜、俺は窓を開けて、そっと呟いた。
「春さん、お疲れさまです」
すると、ひゅうっと風が吹いて、桜の花びらが一枚だけ俺の部屋に入ってきた。
俺はそれを手のひらに乗せながら、少しだけ春の疲れを理解した気がした。
次の日、三浦さんがニヤニヤしながら話しかけてきた。
「昨日、お疲れさまって言ったろ?」
「え、なんで分かるんです?」
「お前の部屋の窓から春が笑った音がした」
春が笑う音ってなんだ。
けれど、俺の部屋に吹き込んだ風は、確かにどこか軽やかだった気がする。
「まあ、春も人の優しさに触れると元気が出るんだろうな」
「そんなもんですかね」
「そんなもんさ。今年はあともうちょっと頑張ってくれるんじゃないか?」
三浦さんは空を見上げた。
俺もつられて見上げると、昨日よりも少し鮮やかな桜が、ゆるく風に揺れていた。
四月に入ると、桜はようやく本腰を入れたように咲きそろい始めた。
満開とまではいかないが、先週の頼りなかった花付きに比べれば、ずいぶん春らしくなった。
「な? 春も頑張ってくれたろ?」
アパートの前で三浦さんが腕を組んで、満足げに頷いた。
「そうみたいですね。やっぱり労ったのが効いたんですかね」
「当然さ。何事も感謝ってのが大事なんだよ」
なるほど。
そういえば最近、俺も何かにつけて「お疲れさまです」や「ありがとう」を口にすることが増えた気がする。コンビニの店員さんに、職場の先輩に、アパートの大家さんに、道端で目が合った猫にすら言った。
春に感謝したことで、なんとなく自分の態度も柔らかくなった気がする。
しかし、四月の半ばを過ぎると、桜は妙に元気を出し始めた。
「春が張り切りすぎてないか?」
三浦さんが腕を組んで、眉をひそめた。
「確かに、なんかすごいですね……」
「お前、言いすぎたんじゃないか?」
「え?」
「『今年もありがとう』って言ったろ」
「ああ、言いましたね」
「感謝されすぎて、春が調子に乗ったのかもしれんな」
確かに、近所の公園では桜が咲きすぎて枝が重たそうにしなっているし、道端の草花も妙に生い茂っている。天気も晴ればかりで、雨が降る気配がまったくない。
「……ちょっと、春を落ち着かせた方がいいかもしれませんね」
「だろ? そろそろ『もう十分だぞ』って言わないと、夏が来るのが遅れちまう」
その夜、俺はまた窓を開けて、風に向かってそっと呟いた。
「春さん、そろそろ落ち着いてもいいんじゃないですか?」
しばらく沈黙があった。
やがて、ゆるやかな風が吹いて、桜の花びらが数枚、ひらりと舞い落ちた。
昨日までの元気いっぱいの風ではなく、どこか名残惜しそうな、けれど納得したような風だった。
次の日から、少しずつ気温が落ち着き、春らしい穏やかな日々が戻ってきた。
「これでよし。春も、いい加減にしないとな」
空を見上げると、新緑が爽やかに揺れている。
「さて、次は夏の番だな」
俺は驚いた。
「まさか、夏も?」
「ああ。夏も調子に乗ると手がつけられん」
三浦さんの顔は真剣だった。
「梅雨が来る前に、一度『落ち着いていけよ』って言っておくんだ」
俺は窓を開け、静かに風に囁いた。
「夏さん、あんまり張り切りすぎないで、ほどほどにお願いしますね」
風がそっと吹き、どこか遠くで、鈴虫が早めに鳴いたような気がした。
果たして、今年の夏はどうなるだろうか?
初めて書いてみました。
良ければ、感想・ご指導をよろしくお願いします。