年表補足
2033年に起きた中国とフィリピン、ベトナム連合軍との戦争はあっけなく終わった。最新式で圧倒的な物量を誇る中国軍を、フィリピン・ベトナム軍はたった9ヶ月で破って見せた。戦争の強さとは『母の強さ、父のたくましさ』という事を改めてフィリピンとベトナムは見せつけたのだ。
長年にわたる中国の領土拡大政策に対してフィリピン政府もベトナム政府も準備を怠らなかった。両政府は徹底的に自国民に対し、愛国、友愛、清貧、我慢の素晴らしさを学ばせ続けた。両政府が国民に対して引き合いに出したのが日本だった。なぜなら日本国民は度重なる大きな自然災害に対しても怯む事なく、取り乱すこともなく、ただ粛々と己の義務を全うする事に集中するからだった。それはいつの時代の日本でも見事だった。他国で起きた災害では現地民は取り乱し、略奪などの犯罪に走る者が多く出るのに対して、日本国民にはそれはほぼ皆無だった。フィリピンとベトナム、両政府はそれを戦争の強さと直結して捉えた。目の前で息子を亡くしても毅然としていられる日本人女性の強さ、仕事を全うするためには自己犠牲を厭わない日本人男性の逞しさから学ぼうと、積極的に日本の民間から人材を得て、学ばせたのだった。
一方、中国では最新兵器の技術開発に勤しむばかりで、民間人の戦争に対する精神的な部分の強化については怠っていた。それもそのはず、中国は2030年代に入ってインドに対して経済で圧倒的な差を見せつけ、国力が膨大に増強していたからだった。経済分野で多数の”天才”を輩出し、軍隊に入るのは貧しい地方農村部の子供達や、学力に大幅に問題がある者ばかりで、愛国心や軍に対する忠誠心などは疑問に思えた。
戦争の初期は中国軍が圧倒したが、中国軍及び、中国国内の戦争被害が増えるに従って、中国国民が悲鳴を上げた。経済界は何もしなくても儲かる時代に戦争なんてナンセンスだと訴え、農村部からは軍にいる息子を返せとデモが広がった。
軍内部でも問題が頻出した。高度知的戦争、ハイテク戦争を進めていくには下部の一兵卒まで、機械やコンピューターなどの知的訓練が必須だったが、それを怠ったため、上司、指揮官を失った集団では代わりに指揮を撮る者が現れず、その隊では投降や逃亡が続出した。
それに対してフィリピンとベトナム国民は見事だった。家族を戦地で失い、砲弾に家を破壊されても国民は背筋を伸ばし続けた。
やがてベトナム軍が放った1発のロケットが中国のある都市に命中し、中国の国民の心を折った。形上は”引き分け”であったが、誰もが中国の負けだと認識していた。
その次の年に起きた北朝鮮と韓国両軍との戦争も同じ結果だった。中国軍恐るに足らずと、北の将軍が宣戦布告なしに打って出たのだった。狂った北の将軍と、それに追随するしかなかった韓国、激しくぶつかり合った。
物量の中国、兵士の精錬度の朝鮮軍でしばらくこう着状態が続いたが、将軍の放ったテポドンV3が北京を掠めると中国国内はカオスと化した。事態を治むるべく中国上層部は最新化学兵器ミサイルを132発同時に発射し、北朝鮮を文字通り焦土化した。中国のミサイルは北朝鮮内部の核ミサイル及び、核施設の誘爆をし、半島は見るも無惨だった。
この二つの戦争から中国政府と中国軍は沈黙に入る。対アメリカ、対インドに対して勝つために何が必要かを学んだからだ。
そして約10年後、中国とアメリカは激突する。