目が覚めたら捕食寸前だった件《2》
「おわあぁッ!?」
思わず悲鳴をあげ、本能的な動きで右手を顔の前に出し、頭を守り――。
「ん……?」
――不思議そうな声音と共に、今にも俺を食おうとしていたその口が止まる。
「……生きてる?」
目の前の口の怪物から放たれているとは到底思えない、透き通った、聞き惚れそうになる程の美しい声。
しかし、今の俺にはそれを気にするだけの余裕はなく、必死に言葉を紡ぐ。
「い、生きてる、生きてるから!」
「……そう。死体じゃなかったの」
残念そうな声音と共に、ゆっくりと口が閉じられていくのを見て、思わずホッと安堵の息が漏れ――そこで俺は、口の正体に気付く。
口の怪物は、少女だった。
美しい、ロングの銀髪。
長い睫毛で彩られた、大きく、宝石のような紅色の瞳。
神秘的とすら思える、左右対称に整った相貌。
透き通るような肌をした華奢な肉体を、ボロボロの布切れ一枚で隠しており、そこから、艶めかしく煽情的な、スラリとした手足が覗いている。
背丈は、俺より頭一つ低いくらいだろうか。
隔絶された、という形容詞がピッタリ来るような、信じられないような美少女であり――だが、問題は、そこではないのだ。
決定的に俺とは違う、目を引く部位。
それは、口である。
顔に付いている口ではない。
尻尾に付いている口だ。
彼女の腰の後ろからウネウネと動く尻尾が生えており、その先が怪物の口になっているのである。
今は閉じられているのでただの尻尾にしか見えないが、俺を食おうとした際に、ぐぱぁっと大きく裂け、何倍もに拡張し、中に幾本もの鋭い牙があったのを、もう本当に目の前で確認している。
その姿に圧倒され、思わず固まってしまっていた俺は、しかし少女――少女だと思われる生物の言葉により、再起動させられる。
「はぁ……久しぶりの、ご飯……あなた、とても美味しそうなのに……」
俺を食べようとするのはやめてくれたようだが、それでもなお、未練そうに尻尾の先がこちらを向いているのを見て、慌てて言葉を返す。
「ま、待て、言っておくがな、人間は食ってもクソ不味いぞ! 筋張っていて、肉が固くて、しかも食えるところが少なくて」
「……そうなの?」
「あぁ、だから俺を食べるのはやめとけ。食っても吐くぞ」
勿論、実際に食ったことがある訳ではなく、半ば都市伝説として知っていたものを、適当に誇張して言っているだけである。
だが、今俺が縋れるものは、言葉のみだ。
幸い相手には理性と知性があり、会話が成立している。
この反応からすると、どうやら今までに人間を食ったことがある訳ではなく、非常に空腹であるが故に、倒れていた俺を仕方なく、といったところであるようだが……。
「んぅ……残念……」
本当に残念そうに、両手を腹部に当て、落胆した様子で肩を落とす怪物少女。
それに連動して、彼女の尻尾も項垂れるように、がっくりと下を向く。
……何と言うか、こんな時にすっげぇマヌケな感想なのだが、随分可愛い動きをする尻尾だな。
――とりあえず、食われる未来は回避出来たか。
とにもかくにも状況を把握するべく、少女の横で、俺はサッと周囲を見渡す。
やはりここは、森の中であるようだ。
人の手など一切加えられていない巨大な木々が無秩序に生い茂り、陽の光は感じるものの少し薄暗い。
いったいどうして俺は、こんなところに倒れていたのだろうか。
そして、いったいこの怪物少女は、何なのだろうか。
人間、ではあるのか?
世界には、まだ誰も知らない、こんな種族も存在していたのか――なんてことが脳裏に浮かぶくらいには、この時はまだ、俺には余裕があった。
いや、割といっぱいっぱいであったことは間違いないし、だからこそ理解するために、現状確認を必死に行っていた訳だが、しかし思考はまだ正常に働いていた。
だが、俺は空を見上げ、そのことに気が付いてしまったのだ。
ん……? と目を凝らし、え、と驚愕に硬直する。
正常に働いていた脳みそが、停止する。
「……マジか」
声が掠れる。
木々の隙間から覗く、青い空。
そこに浮かぶ、爛々と世界を照らす太陽。
――その横に、月のようなものが二つ、浮かんでいた。
当然ながら、地球の太陽の横に、あんなものは浮かんでいない。
あまりにも現実離れした光景に、理性が理解することを拒み、だが目の前の圧倒的な現実が、その意味を脳みそへと無理やり叩き付けてくる。
――あぁ、そうか。そういうことか。
なるほど。
世界にとっての異物は、彼女じゃない。
この世界にとっての異物は、俺なのだ。