第三章 都幾川
1
-山間に似合わぬ者-
美津夫は、スマートフォンを自宅に置いてきたことを少し後悔しながらシュラフに潜った。ヤマメ釣りに最適な時間帯は「朝まづめ」と言われる空が明るむ頃から日の出までの時間帯なのだが、目覚まし機能のある機械を持ち合わせていないことに気付いたからだ。日の出時刻が六時だから、五時には起床して渓を目指したい。その時間、外はまだ暗闇のはずだ。普段の生活サイクルから考えても、自然に目覚めるとは考えにくい。
とはいえ、ないものは仕方がない。美津夫は、二二時といういつもよりはるかに早い時間に横になり、早めに目覚めることを願った。考えてみれば、明日の朝起きることができなくても、その翌日に頑張ればいいだけの話だ。時間は、たっぷりとある。そう思うと、力みもなくあっという間に深い眠りに落ちていた。
三月の夜は、冷えた。マイナス五度まで耐える冬用シュラフに潜り込んだものの、ふと目が覚めると全身が冷え切っている。それに尿意が追い打ちをかける。しかし、眼を開く気にはなれない。体温が落ちて、まるで仮死状態だ。逆に、再び眠りに落ちることもできない。とにかく、寒い。意を決してマミー型シュラフを開いて半身を起こしてみると、一段と空気が冷たい。脱ぎ捨てたままのダウンコートを羽織ってテントの外に出てみると、まだ星が天空に輝いている。
トイレは、キャンンプ場営業期間外のため入り口が施錠されている。それは、確認済みだ。美津夫は近くの茂みに遠慮なく放尿し、立ちあがる湯気を興味もなく眺めた。
次に、アルミテーブル・セットのチェアに腰をかけると、ペットボトルの水をケトルに少々注ぎ、それを小型ガスバーナーに乗せて点火した。紙パックにお湯を入れる簡素なものではあるが、起き抜けのコーヒータイムこそ、キャンプにおける楽しみの最たる瞬間である。それは、まだ覚醒しきらない脳を刺激し、活動低下した身体を内側から強制的に暖める魔法のごとき作用を有している。ふと腕時計を見ると、四時四十五分だ。実にタイミングよく、目覚めたものだ。
FJクルーザーの後部ハッチを開いて、竿とレインコートと釣り道具が詰まったリュックサックを取り出すと、ウェダーを履いて川に入る準備を整えた。しばらくは林道を歩いて登り、少し上流の谷深いポイントを目指す。空は、うっすらとではあるが明るくなってきた。最も理想的な時間に、釣りを開始できそうだ。
谷を下って川に出ると、水量は思った以上に多かった。おそらく、前々日の雨の影響が残っているのだろう。それでも濁らず透明度を保った流れが、比較的粒の揃った底石を洗っている。
だが、釣りを始める前に行わねばならないことがある。それは、「川虫」採集。「川虫」は、ヤマメを釣るための餌である。カワゲラやカゲロウの幼虫をいっしょくたにして美津夫は「チョロ虫」と呼んでいたのだが、正確にはどうも違うようだ。彼らは流れの中の石に付着しているので、石を拾い上げてタオルで表面を擦り、下流に構えた目の細かい網でそれを掬い上げるだけの単純作業だ。たいていの「川虫」は数ミリ程度のかわいいやつなのだが、この都幾川には体長二~三センチもある気味悪いクロカワ虫が多かった。この日も、クロカワ虫ばかりが採集される。チョロ虫が大量発生するには、まだ時期がちょっとだけ早かったようだ。美津夫は、念のためクロカワ虫もエサ箱に収めたが、最終的に使用しなくても済むよう、必死になってチョロ虫を探した。
最近流行のフライフィッシング、つまりは疑似餌を使う洋式毛バリ釣りであれば、この不気味なクロカワ虫と出会う必要がなくなる。エサとしてこうした「ムシ」を殺すことに抵抗を感じている釣り人がフライフィッシャーになるのではないかと美津夫は勝手に考えている。けれども、この洋式の釣り方では前後に大きくリード、つまりは釣り糸を振り回す必要があり、樹木が覆いかぶさる川幅狭い日本の小渓流には全く以て不似合いな釣り方なのである。だから、美津夫はフライフィッシングというものを、「スタイル」だけの軟派な釣りだと決めつけていた。一方、フライフィッシャーの方はと言えば、旧式な餌釣り師のことを、生きたムシを針に刺す無粋な連中と毛嫌いしているようだ。同じ渓流釣りでも、「フィッシャー」と「釣り師」には大きな隔たりがあるのだ。その最たる違いは、フィッシャーは釣った魚をリリースし、釣り師はこれを喰う点にある。美津夫は飽くまで自分を釣り師と定義しており、そうである以上、クロカワ虫を避けて通ることはできないのだ。
幸いわずか十数分のうちにある程度のチョロ虫が集まったので、美津夫は二匹を針にチョン掛けして、大石周りの澱みにそれを落とした。
糸を張ったまま、流れに逆らわずなるべく自然にエサを流す。そして、アタリがあれば瞬時にアワセて引き寄せる。それがヤマメ釣りの極意だ。
空が、いよいよ白んできている。川面が、明るく照らし出されてきた。
水中に沈んで流れる針が、光の乱反射のために目視できなくなってきた。木々はまだ葉をつけておらず、入り乱れる細い枝がどこか痛々しい。美津夫は静かに竿を振る。
少しずつ上流に移動していくと、比較的落差の大きい落ち込み下に、絶好のポイントと言える大きな淵があった。美津夫がその落ち込み上から慎重に針を落とすと、水が白い泡を上げているあたりで、コツンと小さな感触が伝わってきた。すかさず竿を立てると、ぐんという重みとともに竿がしなった。続いては、魚との格闘。無理やり引き抜くと、細いハリスが切れてしまう。アタリを感じながら、ゆっくりと引き寄せるこの瞬間こそが、釣り師最大の喜びだ。
ようやく釣り上げて見ると、それは二十センチ程のヤマメだった。冬を越したばかりなので色がまだくすんで錆びてはいたが、パーマーク鮮やかな美しい魚体に、美津夫は惚れ惚れとした。肩に斜懸けしたビクに収めると、そいつは何度も尻尾を返して暴れ、「生きている」感触が震動となって美津夫に伝わってきた。
「あとで美味しくいただいてやるからな。ありがとう」
声を出して、そう話しかけていた。
だが、渓流魚というものはそう易々と出会えるものではない。かつては乱獲と自然破壊で数が減少し、「幻の魚」と言われていた時期さえあるほどだ。一九七〇年代になって養殖と放流によってその姿を復活させたとはいえ、その絶対数は圧倒的に少ない。次のアタリがまるでないまま川を遡っているうちに、太陽が空に昇っていた。
美津夫は、一服しようと思って大きな岩に腰をかけた。タバコはとっくにやめていたのだが、「渓流釣り」の時だけは例外として吸うことを自分に許していた。大自然の中で肺に取り込むケムリは、格別な旨さなのである。これを完全に捨ててしまうことは、美津夫にとって人生の中で大事な何かを失うことを意味していた。その至福の時間を楽しんでいると、前方の斜面からガサガサと大きな音がして何か動物らしき物体が滑り落ちてきた。
「クマか? シカか?」
ハッとして立ちあがってその方向を見ると、白い服を着た女性が、うつ伏せになって川に落ちていた。
「大丈夫ですか?」
大声で話しかけながら近づいて行くと、その女性は片手で岩を支えとしながら、よろよろと自力で立ちあがった。
そして、丁寧な言葉で淡々と状況を訴えてきた。
「大丈夫かと訊かれたら大丈夫なのですが、足を挫いてしまい歩いて斜面を登ることができません」
美津夫は、こんな山深くになぜこれほど若くて美しい女がさ迷っているのか非常に不思議に感じたが、まずは救出しなければと思った。
「支えるから、とりあえず車のところまで頑張って歩いて戻りましょう」
そう言って、傷ついている女の左足をかばうように、女の左側から右側の肩に向かって腕を伸ばした。背の高さは美津夫と同じくらいだったが、頭が小さいので肩の位置は彼女の方がずっと上だった。支えるのは、一苦労だ。幸い、都幾川は流れが緩やかで、渓流にしては比較的歩きやすい。女性は、一歩ずつゆっくりと、川を下っていく。
「寒くないですか?」
見ると、白い服の生地はまるで夏服のように薄い。
「少し、寒いです」
美津夫はリュックを下ろし、中から厚手のレインコート上着を取り出すと、それを着せてやった。
「ありがとう」
そう言われたので眼を覗き込んで見ると、神秘的なほど煌くグレーの瞳孔がこちらを見つめていた。彫が深くてエキセントリックな顔立ちなので、美津夫は外国人だと確信した。なぜこのような山中に、外国人の若い女が薄着で歩いているのか、考えれば考えるほど謎が深くなる。美津夫は、勇気を振り絞って尋ねることにした。
「釣り、じゃないですよね。なんで、こんな山深くで怪我をされたんですか?」
女は、歩き続けながらも、前方を見つめてしばらく黙り続けた。美津夫は、聞いてはいけないことを訊いてしまったのではないかと、不安を覚えた。女は、何かを深く考えている風でもある。沈黙が、続く。
「いや、言いたくないなら答えなくてもいいですよ。ごめんなさい」
美津夫が謝ると、女はにこりともせずに言った。
「覚えていないんです。なにもかも」
それが本当なのか嘘なのか、全く判別できないほど無表情で抑揚のない声だった。美津夫は、不気味な外国人だと思った。
「記憶喪失なんですか?」
「わかりません」
女は、どこまでも丁寧で落ち着いた言葉遣いだが、美津夫はなんとも言えない冷たさを感じとった。美津夫の方から話しかけなければ、女からはなにも話そうとはしない。見ず知らずの人間に助けてもらっているのだから、普通の神経であれば、気を遣って自ら話しかけてきてよさそうなものだ。この女は、本当に記憶喪失なのか、あるいは心神喪失なのか、なんとも判別がつかなかった。途中休みながら一時間ほど歩いて、ようやくキャンプ場に停めたFJクルーザーに辿り着いたときには、美津夫は心身ともに疲れ切っていた。
「さあ、助手席でも後部座席でも、好きな方に乗ってくれ。ちょっと時間はかかるだろうけど、救急病院に向かおう」
だが、女はアルミテーブルセットのチェアに腰かけたまま、立ちあがろうとする素振りもない。
美津夫は、いい加減イライラとしてきていた。少しくらい、言うことをきいてもよさそうなものを、この女は一切がマイペースに見える。或いは本当に、頭が少し足りないのかもしれない。
「痛むのかい? 立てないなら支えるから」
なんとか平静さを装ってそう言うと、女は頭を振りながら言った。
「行けません。捕まってしまいます」
「捕まる?」
美津夫は、思わず声を荒げて訊き返してしまった。捕まるとは何事だろう。やはり、そういった「施設」から逃亡してきた人間なのだろうか。徐々に、女に恐怖感さえ覚えるのだった。
「病院に行かないと、まずいだろう。だいぶ悪そうだよ」
正直、次第に厄介払いしたい気持になってきていたのだが、表面上は飽くまで優しさを装ってみた。すると、女は懇願するわけでもなく、相変わらずの落ち着いた様子で淡々と反応をした。
「助けてください」
それは、およそ助けを求める人間の表情ではない。或いはエキセントリックな顔立ちが余計にそう思わせるのかもしれないが、女からは少しの怯えも感じることができない。しかし、助けを求められてそれを無下に断ることもできない。
「何をどう助ければいいんだい?」
女は、テーブルに両肘をついて考え込むような造作をしてから言った。
「しばらく匿ってください」
「随分と唐突だなあ。俺は、この山に籠るんだ。いや、場所は移すかもしれないが、しばらくはキャンプをしながら渓流釣りを楽しむつもりなんだ。当面、自宅に帰るつもりはない。当然、君を匿うこともできない」
女は、悲しむわけでも怒るわけでもなく、美津夫の話を聞き流している風だ。
「あなた、暇な人ですか?」
美津夫は、一瞬腹が立った。
「ああ、暇さ。無職で、時間だけはたっぷりとある。好きなことをして過ごしているんだ。邪魔をしないでくれ」
女は、そんな美津夫の気分に構うことなく、突拍子もないことを言った。
「山に籠っているのなら、この黄色い車をわたしに差し上げてください」
「差し上げるって、車をくれということか?」
「はい。返せない場合は、借りるとは言わないそうなので」
美津夫は、この女はイカれているのだと愈々思ってきた。しかし、それにしては、どこまでも落ち着いているのが妙だった。
「車を差しあげられないと言ったら、まさかオレを殺して奪うとか言わないよね?」
美津夫は、自分が女に対して、いつのまにか敬語なしで気安く話していることに気がついた。年下の若い女に対しては、ついつい軽口を叩いてしまう悪癖があった。
「殺すと言ったら、もらえるのですか?」
美津夫は、ぞっとした。
「バカを言うなよ」
立ったままではなんとも落ち着かなくなってきたので、テーブルを挟んで女の正面に座ることにした。この位置であれば、不意に襲われることもないだろう。
「では、私をアキヨシダイまで連れて行ってください。お暇、なんでしょう?」
女は、悪びれる様子もなく言った。
「秋吉台が実家なの? 俺も、山口県出身。同じ、防長っ子かいね?」
美津夫は語尾に山口弁を使って、少しでもこの女に親近感を抱かせようと思った。だが、女の様子は全く変化がない。
「覚えていません。アキヨシダイに行きたいのです」
「なんでオレが君を秋吉台まで連れて行かなきゃならないんだよ。オレは、渓流釣りを楽しむんだ。君のために帰省するつもりはない」
キッパリ断ってやると、少しせいせいした。
「じゃあ、怪我が完全に治るまで匿っていてください」
人に頼む内容の割に、女の態度はふてぶてしく思えた。それは単純に無感情なだけであったのだが、美津夫は自分が小馬鹿にされている気分になった。
「一緒にいたら、オレ、君に何をするか分からないよ」
少し、男をアピールして脅してやろうと思った。
「そんなことしたら、わたし、あなたに何をするか分かりませんよ」
あまりにも平然とそう言い返されたので、美津夫は本当に恐ろしくなってきた。
「まあ、いいや。今後どうするかはあとで話すとして、腹が減った。とりあえず、朝飯作るから」
美津夫は、調理用テーブルに置いたホワイトガソリンのツーバーナーコンロに火を点けると、フライパンを置いて油をひいた。
「どうだい、このフライパン立派だろう? こだわりの一品なんだ」
そう自慢しながら振り返ったが、女は全くの無関心だ。やはり、ムッときた。
「なあ君、名前はなんて言うんだい? それも覚えてないのかい」
「覚えていません」
真偽のほどはわからないが、女がそう言うからにはそれ以上問い詰めるわけにもいかない。
「名前がないと、不便だな。なんか好きな名前を考えなよ。君が考えないなら、オレが勝手に名付けちゃうよ」
女は、じっと美津夫を見つめながらただ困ったような顔をしていた。
「もういいや。考えたから。君は、サクラ。もう一ヶ月もすればこのあたりも綺麗に桜が咲く。その頃まで君と一緒にいることはないだろう。だから、サクラ」
よく分からない理由であったが、美津夫の頭の中には渓流の両岸で優しく花開く山桜の姿がちょうど浮かんできていたのだ。
「サクラで構いません」
女がそう言うならば、それで決定だ。
「サクラ、いまから卵を焼くけどアレルギーじゃないよね?」
「分かりません」
背中越しにまたそっけない声が聞こえたが、美津夫は構わず調理を続けた。恋人と言うには程遠かったが、女のためにアウトドア料理を作るなど果たしていつ以来の出来事だろうか。しかも、不愛想で少々様子はおかしいものの、女は間違いなく絶世の美女といえるほどの容貌だ。菜箸を振る右手が、自然と踊っていた。
2
-キャンプ-
テーブルに並べられた皿の上には、ソーセージとベーコン、卵焼きが盛られている。また、別の椀には鍋で炊いた白飯があり、中央には炭火で焼いたヤマメが一匹並べられている。寒々しい疎林に囲まれてはいたが、食事が湯気をたてるこのアルミテーブルの周囲だけは、一種の暖かさに包まれているようだ。
「どうぞ」
美津夫はそう言うと、サクラには構わず箸を進めた。だが、サクラは箸を取ろうともしない。
「遠慮するなよ」
そう言う美津夫に、サクラは言った。
「箸は、使えません」
なるほど、外国人なら箸を使えない者もいるだろう。美津夫は、カトラリー・セットからフォークとナイフを取り出して、それをテーブルクロスの上に置いてやった。サクラはそれを手にとって卵を切りはじめたが、どうも手つきが覚束ない。どちらかというと、悪戦苦闘と言う表現が似合うほどだ。美津夫は、堪らずに失笑してしまった。
「面白いでしょうか? どうも、慣れていなくて」
「おいおい、普段はどうやって食事してるんだい?」
美津夫は、サクラに出会ってはじめて笑顔を浮かべながら話した。だが、サクラの方は変わらず無表情のままだ。
「サプリメントだけ。こういう料理は食したことがありません」
普通の女がそう言っても冗談くらいにしか響かないだろうが、サクラの独特な雰囲気は発言に十分な説得力を帯びさせていた。美津夫は、食事後の行動に関してサクラと話し合っておこうと思った。
「病院には行かないと言っていたが、大丈夫なのか? それに、オレは君を山口県まで送り届けるつもりはない。今後、どうするつもりだい?」
サクラは手を休めて、透明なグレーの瞳で美津夫を直視した。
「しばらくすれば、自然に治って歩けるようになります。満足に歩けるようになったら、歩いてでもアキヨシダイを目指します」
サクラは、本当に歩いてでも秋吉台を目指しそうな勢いがある。だが、当面は安静にしていないと回復はできないだろう。
「分かったよ。しばらく、匿ってやるさ。追われている理由は、どうせ言えないんだろう?」
「言えるけど、どうせあなたは信じてくれません」
サクラはフォークとナイフで不器用に白飯を口に運んでいる。
「そうだ、オレは西岡美津夫。あなた、というのはよそよそしいから、名前で呼んでくれよ」
サクラはご飯を飲み込んでから、またしても美津夫を直視した。
「美津夫さん。私は、宇宙人なの。それで、軍から追われています」
「はははははははっ……」
美津夫は、堪らずに大声を上げて笑ってしまった。もし本気でそう言っているのだとしたら、本格的に精神を病んでいる患者だと思った。けれども、サクラの方は真剣にそう思い込んでいるようで、クスリともしていない。つくづく不気味な女だと思った。しかも、こんどはフォークでヤマメを突き始めている。パサパサと崩れるヤマメの肉を突いてピックアップすることは不可能だ。美津夫は、それを箸でつまんで、サクラの顔の前まで運んでやった。
「食えよ」
そう言うと、恥ずかしがるわけでも抗うわけでもなく、サクラは素直にヤマメを口にした。不愛想で小憎らしいくせに、不釣り合いに素直な女だと思った。高くとまった女と言うのはたいていプライドが勝って素直さを失っているものだが、サクラにはそういった種類のハリボテの壁は張り巡らされていない。むしろどこまでも純真で、それゆえに近寄りにくさを醸し出しているようだ。
「おいしい」
サクラの声が、静かな森の中に響いた。
「だろ。ヤマメは、塩焼きが本当に旨いんだ。これを肴に日本酒でキュっとやると最高だぜ。ちょっと飲んでみるかい?」
「お酒は、飲めません」
「なんだ、宇宙人てのはつまらないな」
美津夫はからかってやったつもりだが、サクラは無表情のままだ。
食事が済む頃には、太陽は天高く昇っていた。
「とりあえず、その服装じゃあ寛いで休めないだろう。俺のウェアーを貸してやるから、楽な服装に着替えなよ」
幸い、サクラの身長はほぼ美津夫と同じだ。サクラの方が遥かにほっそりしているが、問題はないだろう。上着には登山用のフリースを、下はカーキ色のカーゴパンツを用意した。それを、食事を片づけたアルミテーブルの上に置いてやった。また、ブーツも不自由そうなので、足元にはゴムサンダルを用意した。
「ありがとう」
そう言ったサクラは、眼前で臆することなく白いワンピースを脱ぎ捨て、若くて張りのある美しい胸と、局部だけ下着で隠したすらりとした両脚を曝け出した。怪我をしている左足には幾条もの擦り傷が深く刻み込まれ、出血の跡が痛々しい。眼をそらすのもかえっていやらしい気がして、美津夫はその肉体をまじまじと見つめ続けた。美津夫は、生唾を飲み込んだ。幾多の女と浮名を流してきたが、これほど見事なスタイルの女を、間近にしたことはなかった。黙って凝視し続けるのが恥ずかしくなって、余計な口を開いてしまった。
「誘惑、しているのかい?」
しかし、サクラは表情を一つも変えずに着替え続ける。そして、完全に美津夫の服を身につけてから言った。
「わたし、男性には興味ありません」
何も、言い返せなかった。美津夫は異性として全く意識されていないということだろう。多少悔しくはあったが、これほどまでに容姿に落差があっては、相手にされないのも無理はないと思った。
「脚の外傷、ひどかったよ。洗って消毒しないと」
「消毒薬、持っているのですか?」
「ああ、車にあるから持ってきてやるよ。とりあえず、テントの中に入って待っててくれよ。こんな屋外でまたヌードショーやられちゃあ、見ているこっちがたまらない」
サクラは、入口のファスナーを開いて素直にテントに入って行った。
美津夫はケトルで湯を沸かし、それをタオルに含んでやった。テントの中にはサクラが腰掛けていて、既にカーゴパンツを脱いで麗しい太股を露わに伸ばしている。美津夫は劣情に流されないよう自分を戒めながら、暖かい濡れタオルでサクラの足を拭いてやった。サクラは、看護する美津夫を黙って眺めている。続いて、ティッシュを消毒液に浸して、傷口に塗った。
「いたい」
サクラがふと声を漏らしたので、美津夫は父親の気分になって言ってやった。
「我慢しなさい」
その時、サクラの目元が少しだけ緩んだような気がした。笑ったのだろうか? あるいは、気のせいだったのかもしれない。
3
-気付き-
不思議な同棲生活が始まって一週間が経過した。サクラは、決して自分から何かを話そうとはしない。美津夫の方も、サクラが自分で話し出すまでは、余計なことを訊くのはやめにしていた。勿論、彼女に対しては山のように疑問があるのだが、「匿う」と約束した以上、触れないでおくことにした。性的誘惑に負けることなく、美津夫はいつの間にか熱心にサクラの看病をはじめていた。日中、FJクルーザーで三十分ほど走って小川町のスーパーまで買い出しに出かけ、キャンプ場に戻って来てはいそいそと男の手料理に勤しむのだった。なぜ見知らぬ女にそこまでしてやるのか不思議だったが、どうやら弱っている女性を無償で手助けしたくなるというのは、本来備わっている本能なのではないかと思えてきた。そうとでも考えないと、この一週間での心情変化に説明がつかない。
最初は、抜群のボディを持つサクラに抱く性的興奮が自分をして優しい行動に走らせるのだと思っていたし、実際にそうした下心を強く認識してもいた。だからこそ、どんなに熱心に面倒を見ても笑顔一つ見せないサクラに対して、憤りを覚えることさえあった。ところがそんな感情はすぐに消え去り、今となってはただただ彼女の回復を願っているだけなのだ。
彼女の回復力は驚異的だった。わずか一週間で、足の外傷はすっかりと消え去っている。引き摺っていた足もほぼ回復し、いまでは自力歩行出来るようになっていた。そしてまた、美津夫が教えた箸の使い方を、すでに完璧にマスターしてしまっていた。宇宙人と言う彼女の発言も、あながち嘘ではないのかもしれないと思い始めている。
比較的気温の高い午後だった。昼食のカレーを前にして、美津夫はサクラに言った。
「あとどのくらいでちゃんと歩けるようになるかな? 治ったら、秋吉台まで連れて行ってあげるよ」
サクラと別れるのは寂しいと感じたが、己の欲求よりも遥かに強く、彼女の希望を叶えてやりたいと思った。それこそ無償の愛情の芽生えであることを、美津夫は自覚していない。
「ありがとう。もう歩けるけれど、もうしばらく美津夫さんといさせてください」
サクラが意外なことを口にしたので美津夫は驚いた。
「秋吉台に行きたいんだろう?」
サクラはサラダをつまんでいた箸を置いて、透き通る瞳で美津夫を見た。
「そうだけど、もう少しこうしていられないかしら?」
美津夫は、サクラに何か策略でもあるのかと一瞬疑った。
「どうしてだい?」
サクラは、困ったように俯いた。このようなリアクションは、はじめて見るものだった。
「わかりません。美津夫さんとここで、もう少しこうやって過ごしていたいのです」
明らかに、自分の感情をコントロールできない少女のような困惑を顔に浮かべている。美津夫は、思い切って訊いてみることにした。
「サクラは、いままで人を好きになったことはあるの?」
「ありません。そういう感情は、必要ないですから」
美津夫は、優しく応えた。
「よほど特殊な環境で育ったんだろうね。感情は、必要不必要と関係なく、湧き起こるものだろ?」
そう言った時、サクラの表情が激変した。これまで見せたことのない険しい表情で、あたりを見回し始めた。
「どうしたんだい?」
「彼らが、近づいてきています。お願い、わたしは隠れるからうまく匿ってください」
美津夫もあたりを見回してみたが、人の気配もなければ物音もしなかった。
「なにもいないよ」
「下流から、追手が三人歩いてこちらに向かってきています。そのうちの一人は、以前に会ったことがある人です」
言うが早いか、テントの中に身を隠してしまった。美津夫は急いで一人分のサラダとカレーをアルミテーブルから片付けて、FJクルーザーの荷台に隠した。二人分の食事がテーブルにのっているのは不自然だと咄嗟に思いついたからだ。そして、一人で食事を再開しはじめたものの、しばらくたっても誰ひとり近づいてこない。太陽が枯れ枝の上から、美津夫ひとりを照らしている。サクラは、被害妄想癖があるのかもしれないと思った。だが、カレーの皿が空になった頃、ようやく三人の軍人が林道を徒歩で登ってくる姿が見えた。サクラが彼らを察知したのは、相当に距離が離れている時点だったに違いない。男たちのうちで一番年長の男が、テーブルの前に直立しながら挨拶した。
「こんにちは。航空自衛隊の富田と申します」
美津夫は、不審がられないよう、山男らしいはっきりとした挨拶をした。
「こんにちは。お疲れ様です」
ついでに、愛想笑いも添えておいた。富田空佐は、端的に質問をしてきた。
「脱走兵を探しています。まだ十代の女性新兵で、白い服装に身を包んでいます。一週間ほど前、越生町の県道を深夜に一人で走っているところを目撃されています。それでこの近辺をしらみつぶしにあたっているのです。不審な女性をみかけなかったでしょうか?」
美津夫は最初、営業期間外のキャンプ場に勝手に侵入していることを責められるのではないかと怯えていたが、よく考えて見れば彼らは自衛官であり警官ではない。少しだけ、ほっとした。
「女性? 見ませんね。林業関係者だと思われる地元の方が、ごくまれに通りかるくらいです」
富田の表情が、少しだけ険しくなったように見えた。
「地元の方が、一週間くらい前から見知らぬ男がキャンプ場に居座っていて、女性と食事しているのを目撃したと言っています」
美津夫は、咄嗟に嘘を思い付いた。TVマンにとって、尤もらしいハッタリをかますのは商売のようなものである。
「キャンプ場オーナーが友人の知り合いで、使わせてもらえるように頼んでおいたのですよ。いまは私がロケハン兼ねて一人ですが、先日は女性スタッフが打ち合わせに来ましたから。おそらく、それを見られたのでしょう。来週にはタレントが来て、番組ロケをする予定です」
富田は、少しだけ笑顔を作って言った。
「TV局の方ですか。それにしても、大阪大爆発の報道一色になる中で、山中でロケする番組も制作できるのですね」
美津夫は、一切のポータブル通信機器を持っていなかったので、大阪大爆発に関して知ったのは二日後のことだった。買い出しに行く際、車の中でたまたまニュースを聴き、スーパーに行くと様々な物品が不足していた。それで近くの駅まで足をのばし、売店で新聞を買って詳細を知り、驚愕した。しかしながら、大阪には幸い親類や仲の良い友人は住んでいない。別段、連絡を取りたい人間はいなかった。もちろん中目黒に帰ることが真っ先に頭に浮かんだのだが、サクラのことを考えたらそうもいかない。
中目黒で匿うことも可能だろうが、移動させればどこかで誰かに見られる可能性が高い。サクラが、もし彼女の言う通り「宇宙人」で追われている身なのだとしたら、都幾川から動かない方が安全だと思ったのだ。美津夫はサクラの方から詳細を話し出すまで、大阪大爆発のことは口に出さないように決めて、知らぬ顔で看病を続けていた。真実を聞くのが怖かったのかもしれないし、ようやく生じた「人間的」交流を壊したくなかったのかもしれない。
美津夫は、少し間をおいてから富田空佐に答えた。
「バラエティ番組のディレクターをやっています。勿論、大阪大爆発の報道でいまは放送の目処が立ちませんが、自粛ムードが収まった時のために、番組は撮っておくのですよ」
富田空佐と二名の自衛官は、「そういうものなんですね」と納得してすぐにまた元の林道を引き返して行った。自衛官には、TV局のことがさっぱり分からないのが幸いした。
4
-告白-
「ありがとう、美津夫さん。彼らは軍用車に乗って、もう離れて行きました」
サクラがそう言ってテントから出てきたのは、十五分後くらいだった。美津夫の中の緊張が、一気に緩んだ。サクラは、またアルミテーブルセットに腰かけて言った。
「お腹すきました」
美津夫は、車からカレーとサラダを出して、再びテーブルに並べてやった。
「すっかり冷めちゃったけど、どうぞ」
すると、サクラは微笑を浮かべながら言った。
「ありがとう」
サクラが、微笑んだ。それは、出会ってはじめての快挙だった。
「サクラが、笑った」
美津夫は、嬉しそうに笑った。
「心から笑ったのは、はじめてかもしれないです」
そう言うサクラは、やはり笑顔だった。その優しい顔を、太陽が明るく照らしている。美津夫より少し褐色ではあるがキメの細かいすべすべとした肌が、美しく映えている。そして、サクラは話を始めた。
「美津夫さんは、大阪大爆発のことを知っていたんですね。知っていて、話題にしなかった。どうしてですか?」
「大阪も大変だが、サクラの看病をして安全を確保することの方が優先だ」
サクラは、カレーを食べる手を休めずに、会話を続ける。
「大阪大爆発は、どのように報道されているのですか?」
美津夫は、新聞の記事内容と最新号の週刊誌で仕入れていた知識を語った。
「原因不明の爆発らしいが、『隕石説』がもっとも有力らしい。でも、あり得ないよな。サンフランシスコとミュンヘンと大阪に、立て続けに隕石が落下するなんて。学者が言うには大西洋上で大気圏に突入した巨大隕石が三つに分裂したらしいが、それにしても全てが中枢都市の市街中心部に落下するのは不自然だ」
「美津夫さんは、どう考えてるの?」
「『TR―3B』が今回も目撃されているらしい。シドニーの時と同じだよ」
「TR―3B?」
「『TR―3B』って言うのは、UFOの名前なんだ。色は真っ黒で、下から見上げると二等辺三角形。一九九○年にベルギーで多くの人から目撃されて以来、地球上のあちこちに出没してるんだ」
美津夫が言うと、サクラはそれを訂正した。
「単純に『トライアングル』ってわたし達は呼んでいます」
美津夫は、サクラが本当に宇宙人であることをほぼ確信した。
「サクラは、その『トライアングル』に乗って地球にやってきたのかい?」
恐ろしい質問だった。これまで切り出せなかった最大の疑問だった。もしそうだとしたら、サクラは大阪を壊滅させた爆撃犯であるかもしれない。サクラの方も、言葉を選んでいるのか答えるまでにしばらく間が空いた。
「その通りよ、美津夫さん。わたしは、『トライアングル』で地球にやってきました」
美津夫は、驚かなかった。それを、彼女の狂言とは思わず、素直に信じることができた。驚異的な回復力も、探知能力も、地球人でないとすれば簡単に説明できるし、なによりも、サクラが狂人の類いではなく驚くほど素直なだけだということをこの一週間の生活でハッキリと知っている。美津夫は、笑顔を浮かべて言った。
「やはりそうか。はじめは外国人だと思っていたけれど、大阪大爆発のニュースを知ったときに直感したよ」
サクラは、不思議そうな表情をみせて言った。
「美津夫さんは、そう気付いたのにどうして私を匿ってくれたの? 私は、大阪を消滅させた張本人かもしれないのに」
美津夫は、ゆっくりと言った。
「罪を憎んで人を憎まず、ってやつかもしれない。サクラが、悪意に満ちた宇宙人には見えないからね。それに、もし敵だったとしても、負傷して助けを求める者を討つのは道義に反するだろ」
サクラは、笑った。
「優しいのね、美津夫さんは」
美津夫も笑った。
「オレは世捨て人みたいなものだ。会社を辞めて、山籠りするところだった。TV局で毎日追われるように仕事して、いざ辞めてみると、奥さんや子供はおろか恋人さえもいない。その苛酷な現実から、逃げ出してきたんだ。ある意味、世界なんて滅びても構わないとさえ思っているよ」
暖かい陽が注ぐ中で、テーブルを挟んで美津夫とサクラは相対して座っている。ごくありふれたアウトドアライフの情景であるが、会話の内容は常軌を逸している。
「わたしも、人類を『調整』することになんの抵抗も感じていなかった。でも、なんで美津夫さんは世を捨てたの?」
美津夫は、コーヒーを淹れようと思い、ケトルに水を注ぎながら言った。
「なんというのかな、『シドニー・ツングースカ』のような大惨劇や社会問題の真相を追究することが『つまらない』とされ、当たり障りのない暇つぶしバラエティ番組が『おもしろい』とされる風潮に愛想が尽きたのかな。そんな社会の中で生き続けることの意味が分からなくなった。社会の仕組みから一旦はみ出して、この現状を変革するためのなんらかの手段を考え、実行しなきゃいけないなんて使命感が燃えてきてさ……」
美津夫は、シングルガスバーナーを点火して、ケトルを乗せた。
「それじゃあ、美津夫さんは世の中を捨てたんじゃなくて、救おうと考えたということになりますね」
言われてみれば、そうかもしれなかった。自分の行動を縛りつける会社員生活から飛び出すことで、社会をじっくりと観察し、よりよい良い方向に変革する手段を見つけ出そうとしていただけかもしれない。
「そうかもしれない。だとするとやはり、サクラはオレが救いたかった社会を滅ぼそうとしている敵になるわけか」
サクラは、再び無表情に戻って話をした。
「滅ぼそうとはしていません。むしろ、美津夫さんがやろうとしていることの方が、世界を早く滅ぼすことになります」
「さっきサクラが言っていた、『調整』という考え方かい?」
「そう、『調整』です。人類は、増えすぎました、そして、身勝手にエネルギーを浪費し、排気ガスや放射能で地球を汚染しています。このままでは、早晩人間は滅亡します」
美津夫は、真剣な表情でサクラを直視した。
「だから、君たち宇宙人が地球人を殺戮して人口を『調整』しようということだね」
「ちょっと違います。『調整』するのは、人間の存在そのものです。その『調整』後の人間のライフスタイルに合うよう、不要な劣性人類を排除しておくだけです」
美津夫は、劣性人類という言葉にゾッとした。その言葉を語るサクラの表情になんの感情の変化も現れていないことが不気味だった。
「サクラ、オレもその劣性人類なのかい?」
サクラは、戸惑いの表情を見せた。
「はい、劣性人類です。見たから、分かりますよね。私たち優性人類は、あなたたちより遥かに知覚能力が優れ、免疫力も回復力も強く、知能は高く、運動能力も秀でています」
「ああ、確かにそのようだ。しかし、今のサクラの話だと、君も『人類』だということになる。宇宙人ではないのかい?」
「宇宙人の定義によります。地球外に住んでいる知的生命体を宇宙人と呼ぶのであれば、私は宇宙人です。けれども、種として考えれば、私は限りなく地球人に近いハイブリッドです」
サクラの話は、徐々に夢物語の域に達してきているように思えた。ちょうど湯が沸いたので、コーヒー・パックに湯を注ぎながら美津夫は話した。
「ハイブリッド、というのはなんだい? サクラは、宇宙のどこからやってきたんだい?」
美津夫の疑問は尽きない。最初に淹れたコーヒーカップを、サクラの前に置いた。
「詳しいことは、教えることができません。私は、アジア系中東系アフリカ系ヨーロッパ系のあらゆる人類の遺伝子から、優秀なものをかき集めて『彼ら』に作られました。そして、『彼ら』のテクノロジーで培養され、『彼ら』自身の遺伝子で強化されています」
美津夫は、コーヒーカップを頭の上に構えて、その向こうの青空を見渡した。サクラはこの空の遥か彼方の宇宙空間からやってきたハイブリッドだという。壮大な虚言にも思えてきた。
「『彼ら』とは?」
端的に訊いた。
「私も、その姿を見たことはありません。日本語で言うならば、『神』かもしれませんし、一般的な意味での『宇宙人』かもしれません」
美津夫は、身を乗り出した。
「つまりは、完全な地球外生命体というわけだ」
「そうです」
サクラは、そう答えるとコーヒーを口にした。美津夫もしばらく黙っている。先に会話を再開したのはサクラだった。
「わたしの役割は、劣性人類を『調整』することです。けれども、いまはその任務に混乱を感じています」
「どうしてだい?」
サクラは、コーヒーをテーブルに置き、それを指差しながら言った。
「このコーヒーが、美味しいからです。わたしはいままで、サプリメントだけを食べ、栄養飲料だけを飲んできました。美津夫さんのおかげで、はじめて『美味しい』という感覚の悦びを知りました。それに……」
サクラは、今度は美津夫をしっかりと見つめながら言った。
「わたしは、劣性人類は生きる価値のない汚らしい生物だと教え込まれてきました。けれども、美津夫さんに助けてもらえなければ、わたしは怪我か飢餓で死んでいたかもしれないし、自衛隊に殺されていたかもしれない。それに、優性人類の中では、あなたのような思いやり溢れる人に会ったことはない」
美津夫は、微笑して言った。
「ご両親は、大切にしてくれただろう」
サクラは、首を振った。
「わたしたちに親は存在しません。もっと正確に言えば、父親は存在しません。優性人類は女性のみで、男性は存在しないのです。いまの劣性人類は、Y染色体を有する男性が限界まで劣化してしまっています。一夫一婦制が法制化された近代になって、本来生殖資格のない劣った遺伝子が生き残るようになり、加速度的に男性は劣化しました。修復不能な劣化したY染色体を、優性人類は必要としません」
美津夫は爆笑した。
「俺は、不必要な劣等生命体と言うわけだ」
「美津夫さんに会うまで、私はそう思っていました」
笑いをこらえて、美津夫は訊いた。
「いまは違うのかい?」
「はい。わたしたちは優秀な遺伝子を集めているはずなのに、何かが大きく欠落していることに気が付きました。美津夫さんには、優性人類にはない魅力があります」
「別に俺は特別な人間じゃないよ。平均的な、劣性人類だと思う」
そう言って、笑った。
「もし美津夫さんが平均的な劣性人類だとしたら、わたしにはもう『調整』の役目は務まらないかもしれません」
サクラは、美津夫の眼をじっと見た。
美津夫は、立ちあがってサクラを後ろから抱きしめた。
「俺は、サクラのことが好きだ」
サクラは、振り返りながら優しい表情をして言った。
「優性人類は、男性を必要としません。でも、わたしは美津夫さんと離れたくないと感じています。これは、好きだという感情でしょうか?」
美津夫は、軽く唇をあててキスをした。
「そうだよ、きっと。違うかい?」
サクラは、しっかりとグレーの瞳を開いて、戸惑うように言った。
「美津夫さんのことが、好きです。たぶん……」
美津夫は、失笑した。
「たぶん、か」