大人は冷蔵庫のプリンでは喧嘩しない。
それは死ぬほど暑かった日の夜のことであった。
俺は一日汗だくになって歩きまわり、取引先をいくつも移動してヘトヘトだった。
やっと我が家にたどり着き、シャワーを浴びて汗を流したあとに冷蔵庫を覗き込む。
そこにはあるはずのものがなかった。
今度は奥の部屋の扉を開ける。そこには同棲中の彼女がいた。あらかじめ遅くなると連絡していたため、ひと足先に食事も入浴もすませたらしく、くつろいだ様子でうつ伏せに寝転がっていた。
「真織、貴様はこの世で最も重い罪を犯した。平に謝罪しろ」
「ふぁ?」
スマホを見ながら足をぶらぶらさせていた彼女が顔を上げる。
「冷蔵庫のビール! 飲んだなら、ちゃんと補充しておいてくれよ!」
ビールはケースで買っている。
が、冷蔵庫は決して大きくない。それを全部入れたら食材が入らなくなる。二本くらい入れておくのが暗黙の了解だった。
飲み終わった後の補充は大人のたしなみ。少しでも人としての倫理や優しさや道徳観念があれば入れ忘れるなどという悪虐非道なことはできるはずがない。
「だってさー……暑くて……あと……」
「あと?」
「おいしかったから……つい二本目に」
思わず壁を殴りそうになった。
「お前……ちょっとものすごく可愛いと思って調子にのるなよ!」
「……はぁ。それ言うのシナくんだけなんだな」
「そんなわけないだろう! こんなに………………」
言いながら自分の彼女をまじまじと凝視する。
「…………可愛い」
俺の彼女可愛い。すごくすごくすごく可愛い。
なんとなく感情がそこにすとんと着地して、怒りが鎮まった。
「それシナくんしか言わんて」
彼女がけたけた笑いながら立ち上がり、冷蔵庫の脇の段ボールから缶ビールを拾い上げた。
「氷入れて冷やしてあげるから贅沢言わんよ?」
なぜ、俺が贅沢を言っていることになっているのだ。元はと言えば、飲んですぐ補充をしなかったのと、一缶でとどまらずに二缶目に手を出したこの悪魔のせいだというのに。
「ビールに氷とか……変じゃないか?」
「入れる国もあるよぉ、シンガポールとか、タイとかベトナム……ほかにも大体暑い国で」
「ここは日本だ」
「まぁまぁ、いーじゃない。おいしいよ」
氷がグラスに落とされて、カランといい音がした。
トクトクトク、ゆっくりと、琥珀色の液体が注がれていく。
目の前の美しきビールの誘惑に抗えず、すぐに喉に流し込む。
うまい。
仕事のこととか、それに付随する雑多な人間関係のこととか、一気に全部どうでもよくなる。
冷たいビール。
それは大人の救い。幸福の象徴。それは正義。それは、愛。
俺がビールを好きになったのは、彼女を好きになったのと、ほぼ同時だった。
彼女は大学のひとつ上の先輩だった。
少し変わり者だった彼女は旅に出て休学していて、同じサークルにも関わらずエンカウントは大学二年の夏までなかった。
彼女は初めて会った飲みの席で、前に座り人懐っこい雰囲気で声をかけてきた。
俺は寡黙な人見知りであったが、人相がVシネマ俳優系だったので人から気軽に話しかけられるほうではない。だから少しびっくりした。
彼女は民族衣装をカジュアルにしたようなカラフルな格好で、首や手首や足首にじゃらじゃらとアクセサリーをつけていて、目立っていた。
「あれ、飲まないの? もしかして未成年だった?」
「いえ、実は今日、誕生日なんです」
そう返すと、「おっ」と声を漏らした彼女がピッチャーのビールをグラスにふたつなみなみと注ぎ、ひとつを俺に渡してきた。
ニコニコしながら「成人、おめでとうー!」と言って、乾杯の格好をしてくるので、俺もグラスを手に取り、構えた。
かちん、と小気味のいい音を立て、二つのグラスがぶつかる。
その時点では、俺はビールにも彼女にもさして興味はなかった。渡されて、乾杯されたから同じように返しただけで、手の中のグラスは気持ち的にはもてあましていたし、状況には少し困ってもいた。
目の前の彼女はグラスのビールをぐいっと煽った。グビグビグビ。グラスの半分くらいまで一気に飲みくだす。白くて綺麗な首のあたり、ビールを流し込まれた喉が、こく、こく、となまめかしく動く。
生き物だ。
そんなふうに思った。
やがて、彼女はぷはっと大きく息をつき、満面の笑顔を向けてきた。
たぶん、その瞬間だった。
目の前の彼女が女神に変わった。
これは……ビールの女神さまだ。
「どう?」と聞かれて「好きです……」と返した。
「おっ、いいねいいね。もっと飲む?」
「いえ、ビールはまだ飲んでません」
「んん?」
「好きになってしまいました……」
先輩が「……へっ?」と不可解な顔をする。
それから自分と俺を交互に指差すので、深く頷いた。
「君……もう酔ったの?」
「ですから、まだ飲んでません」
答えてからビールのグラスを口につけた。
そのままぐいっと一気に飲み干す。
「……うまいです」
「お、おう……」
「でも、ビールよりもっと、あなたが好きになりました」
「え、えぇ〜? あはははっ。なんだそれなんだそれ〜。じゃあ付き合う〜?」
先輩は近くにあった枝豆をぷちんとつぶして口に入れながら笑った。もしかしたら冗談にして流そうとしたのかもしれない。
しかし、俺はそれにもガチな顔で「はい。是非お願いします」と答えた。
「…………本当に?」
「はい」
「あたし、君とは今日初めて会ったよね?」
「はい。間違いありません」
「……そんなんでいいの?」
「お願いします!」
「……ううーん。ま、いっか」
先輩は、あっさりと承諾を決めてくれた。
彼女のことはよく知らないが、自己について考え込み、わざわざ休学して旅に出るくらいだから根はそこそこ暗くて複雑な人間の可能性もある。
それでも彼女はふわふわした人で、表面的には明るく、軽く、あまり深い思考を他人に覗かせない。
俺と彼女の付き合いは軽いノリで始まった。
しかし、ふわふわと重力を感じさせない彼女に、そこそこの重力を与える俺が組み合わさり、ちょうどよく続いている。
冷蔵庫のほうから彼女が声をかけてくる。
「シナくーん、おつまみにヤムウンセン食べない?」
「春雨サラダか。……食べたい」
「ヤムウンセンだっつうの!」
彼女が笑いながら、テーブルに春雨サラダの皿をごとんと置いてくれる。
俺が何度聞いても名前が覚えられないこのサラダは、彼女が常備菜としてよく作るものだ。
春雨のほかには主に細切りにした胡瓜と人参、それから海老が入っている。パクチーと刻んだセロリも入っているので少し癖がある。何で味付けをしているのかは知らないが、ピリ辛でビールとすごく合う。
「真織も一緒に飲んでくれよ」
「あたし、もうさっき飲んだから」
「じゃあ、グラス一杯だけ……頼む」
「ううーん……。ま、いっか」
もともとお酒に強い彼女は、すぐに頷いてくれた。
氷が入ったグラスに、慎重にビールを注いでいく。
小さなテーブルを挟んで向かい合い、グラスをかちん、と合わせる。
それだけで目の前の琥珀色の飲み物が、二倍増しでうまくなるのだ。
人生いろいろ。理不尽や不条理もある。
他人から無礼を受けることも、自分がやらかすこともある。
それでも俺は、今日も元気で、彼女とビールを乾杯できる小さな幸せを噛み締めている。