茶谷教授の秘密
茶谷教授はご近所の人だ。
この茶谷教授は本当に教授なわけではない。
彼がなんの仕事をしているかを、私は知らない。
ただ、背が高くてボサボサの頭に眼鏡と、だいたいほつれた黒のセーター、人の良さそうな顔などから私が勝手に連想したにすぎない。
実際三十代前半に見えるので教授というにはまだ若い。ただの雑なイメージだ。
私は大学に入るおりに地元を引っ越して、もう十年間この町に住んでいたけれど、二年ほど前から近所で目にするようになった茶谷教授とは行動範囲がとても似ていた。
たとえば私が休日の午前中にお花が綺麗な公園に行ってぼんやりしていると、茶谷教授が少し離れたベンチに座って陽にあたっていたりする。
夕方になってご飯を食べようと近所の定食屋に入るとそこで彼が先に食べていたりする。
図書館の帰りに歩いていると、コンビニ帰りの彼が同じ道を歩いていたりする。
最初のうちはもちろん知らん顔をして歩いていたけれど、遭遇率が上がるにつれて軽い会釈などをするようになり、そのうちに名前を交わし、ぽつぽつと話をするようになった。
「こんにちは」というその声は明瞭で、とても穏やかだ。
「肘岡さんもお散歩ですか?」
「はい」
名字しか交換していないので、会話に広がりもない。彼はその辺を詮索してこなかったし、私としても個人情報の扱いが繊細となった昨今にむやみに仕事や年齢、結婚の有無を詮索する気にはなれない。
だから彼は、私の中で勝手なイメージで三十代未婚の教授だ。
私も彼もおしゃべりではない。
散歩のルートはおそらく被っていて、わざわざ変える気にもならないので一緒に歩く。
この、一見マトモに見える茶谷教授のことを、私は最近密かに変わり者と踏んでいる。
理由は天丼の食べ方だった。
これも偶然夕食に入った近所の店で、後から茶谷教授が近くに座っただけで、一緒に食事をしたわけではない。茶谷教授とその店で遭遇するのは初めてだった。
その天丼のお店はチェーン店ではなく、メニューはシンプルに天丼しかない。
その代わり天丼一筋にかける熱い思いが伝わる、こだわりぬかれた美味しいお店だった。
お味噌汁がついてくるけれど、それもすごく美味しくて、なんならテーブルに備え付けのお新香も美味しかった。
茶谷教授は箸の持ち方も綺麗だし、米粒ひとつ残さず綺麗に食べる。一見するととても行儀正しい人だった。最初は綺麗な箸さばきに見惚れただけだった。
でも、彼の天丼の食べ方はおかしい。絶対におかしかった。
彼は天ぷらを先に、単独で綺麗に全部食べてしまった。
そして、米だけになった丼を一瞥してふうと息をつく。
眼鏡が反射できらりと光った。
それから彼はテーブルの瓶からお新香をたくさんのせる。それをまた綺麗に食べていく。
その間味噌汁は一切手をつけず、完食後に思い出したようにそれを口にした。
絶対におかしい。
もちろん、ボロボロこぼすとか、手掴みとか犬食いとか、そんな非常識な食べ方ではない。
でも天丼は、揚げたてのさくっとした天ぷらと、甘辛いタレのしみたご飯をバランスよく配分して食べるものではないのだろうか。だって丼なんだから。
あんなふうに、上から順に目に入った分を計画性もなくばくばく食べるなんて天丼への冒涜だ。
いや、計画性がないとも違う。むしろ規則的にさえ見える動きだったのだから。
それは彼の常識的な外見に反して異様だったし、ボサボサの頭に反して几帳面すぎる食べ方でもあった。
もしかしたら茶谷教授は穏やかに見えてシリアルキラーとかかもしれない。
普段は穏やかでマトモな人に擬態しているけれど、世間に隠している狂気がそこにそっと覗いている気がした。
彼は食物をただ、機械的に始末している。
美味しいとか、味わうとか全く考えていないのだ。
そうでなきゃあんなに美味しい天丼に対して、血の通っていないアンドロイドみたいな食べ方はしない。
猟奇的なものがそこに覗いた気がして怖くなった。あの眼鏡の奥の笑顔もだいぶ印象が変わる。
私が彼と一緒に歩いていて散歩のコースを変えないのは警戒しているのもある。人通りの少ない道に入り、万が一彼がついてきたら、私も始末されてしまうかもしれない。あの海老天のように。
「肘岡さん、先日もお会いしましたよね」
ずっと黙って歩いていたけれど、珍しく茶谷教授が声をかけてきた。
「え、あ、はい。天丼屋で、綺麗に食べてましたね」
茶谷教授とはしょっちゅう出会うので、いつが最後だったかあやふやだ。
だからうっかり出たその言葉は直前に考えていたことに引っ張られたものだったけれど、私はすぐに後悔した。
ふと見た茶谷教授が足を止めていて、その顔色が、すっと血の気をおとしていたのだ。
「肘岡さん……見ていたんですか?」
「あ、ハイ……すみません。その……席が近くで、目に入ってしまって……」
茶谷教授の目は、眼鏡が反射していてよく見えない。
私は思わず一歩距離をとった。
「普段は隠しているんですけどね……」
「はい」
「……肘岡さん、誰にも……黙っていてもらえますか?」
「も、もちろんです」
「実は私……」
私は息を呑んで続きを待った。
もしかしたら、個人情報よりまずい部分に触れてしまったかもしれない。この秘密の扱いを間違えたら私は綺麗に消されるかもしれない。あの、かぼちゃの天ぷらのように。
「実は私、お新香とご飯が……大好きなんです」
「え、はい?」
「天ぷらは美味しいですし、もちろん他のものも食べるんですが、本当はいつだって、一番大好きなお新香でご飯が食べたいんです」
「は、はぁ」
「私は一度、あの店の……お新香だけで、ご飯を食べてみたくて……」
「あぁ、美味しいですよね、あそこのお新香」
「ずっと、自分をだましだまし、天丼としてきちんと食べてきました。あの時が、初めてなんです。もちろん、人と食べる時は普通に食べてますし……なんなら別の店では天ぷら定食にします」
「そ、そうですね。あそこ天丼しかないですもんね」
「本当にあんなのは一度だけなんです。本当に……一度だけ試したくて……それを……肘岡さんに見られていたなんて……ああー」
茶谷教授が顔を両手で覆って絶望した。
茶谷教授の印象はまた変わった。
一般的な感性では尊ばれる天ぷらよりも、きっちり自分の中の愛、強いお新香愛を持って大事にしている、ある種一途で誠実な人かもしれない。
そして子供じみた欲望をこっそりひとりで叶えようとしてしまう、なんというかお茶目な人でもあるのかもしれない。
茶谷教授はシリアルキラーではない。アンドロイドでもない。
シリアルキラーも、アンドロイドも、たぶんこんなに恥ずかしがったような顔はしない。
「茶谷さん」
「は、はい」
「おうかがいしてもいいですか?」
「え、何をですか?」
「あの……し、下の名前を」
私は茶谷教授の情報を少し増やした。