夏のカレー、昆虫の舞。
暑い夏の夕方。
チャイム連打のあと、ドンドンドン、1DKのボロアパートの扉を叩く音がする。
「ねーちゃん! ねーちゃん!」
誰だかはわかったけれど、とても開ける気力はない。布団を被って目を閉じる。
ガンッ、ガンッ!
強い音がしだしてバッと顔を上げる。
「ちょ、ちょっと! ドア蹴らないでよ! 賃貸なんだか」
「ら」の字で開けた扉の外には思った通り血の繋がった弟がいた。
「お盆に帰るって言ってたのになんで帰んねーんだよ。関係ないオレが根掘り葉掘り聞かれただろ。答えようもねーのに」
六つ下で大学一年生の弟はひとつ隣の駅で一人暮らしをしているけれど、予定通り帰省したらしい。少し遅れて帰ると言って結局帰らなかった私を心配したのか責めにきたのか。
「す、すまんね。ちょっと気力がなくて……」
かすれ声で風邪を装う私に弟はちらりと目線を走らせて、溜め息をひとつ。
「どーせ男に振られたとかだろ」
「……」
「あたり?」
一発で当てられて遠い目になる。そういえば弟は昔から他人のちょっとした変化に目聡かった。近所のおじさんがほんの少し髪を切っただとか、母親がちょっと風邪気味だとかにもよく気づいた。その昔姉である私の外泊についてひとりだけ嘘を見抜いたのもコイツだった。かなり入念にアリバイ工作したのに。表情と声音でバレるとか。
「振られたくらいでそんなゾンビみたいな顔すんなよ。適当にしてりゃそのうちなんとかなんだろ」
十ヶ月付き合っていた彼氏との終わりは無駄に疲れるものだった。
といっても修羅場があったわけではない。
終わりの方は向こうにそんな気配を濃厚に感じつつも、直視できない感じで、いつ切り出されるのかと毎日がロシアンルーレットだった。その状態で二週間目、ようやく優しくてはっきりモノを言うのが苦手な彼が別れの言葉を吐き出したその時は、やっと来たと、よく言えたねと一瞬ほっとしたような感覚すらあった。
モヤモヤした恐怖から解放された気になったのは一瞬で、その晩、あれ、私、振られたんじゃないかとはたと気付く。ほかに! ほかに好きな女ができたって言われて! なんだそれ! 何度も悪夢の予感だと思ったあれはついに現実となった。
どこかで杞憂に終わればいいと思っていた。だから杞憂に終わったバージョンの現在を妄想して、胸の痛みを癒す。あんなことがなければ、今頃いつも行くレストランでご飯食べたり。次の週末の予定を打ち合わせたり……そしてはたと現実を思い出す。
そんな死人に鞭打つような不毛なことを自分で繰り返しているうちに猛烈な喪失感に襲われ起き上がれなくなった。私という死体は私に蹴られ続けてズタボロだった。
実家になんてとても帰れない。クソ田舎では近所の人が悪気もなく挨拶がわりに結婚はまだ? とか聞いてくる。今そんなの聞かれたら吐いちゃう。
ああーーー好きだった! 私、あの人と結婚したかったーー! したかったよぉおおおおーーーー。
帰省のための休みは結局ショックで寝込んで過ぎていった。ショックで寝込むとか、本当にあるんだな。
抜け殻となった私は週末性懲りもなくひとりの部屋で、今度は彼との出会いからイベント、ハイライトシーン、クライマックス、エンディングまで、映画のように脳内シアターで再生し続けた。そこに横槍が入って訪れたのが弟というわけだ。
「来生はー? あんたはどうなの? 彼女とかいんの?」
「オレ? オレも最近振られたばっかりだよ」
「え……そーなの? 悲しくないの?」
「悲しいよ。ねーちゃんみたく大げさに絶望しないだけで」
「その言い方……」
「カレー食べる?」
「え?」
「かーさんが野菜持ってけって、めちゃくちゃ重いのに持たされたからさ。ひとりじゃ食いきれない。キッチン借りるよ」
弟は紙袋を持って、そこらへんじゅうに落ちているゴミをかき分け部屋の奥に進む。
「ねーちゃん炊飯器洗ってねーな」
紙袋から野菜を取り出す弟の背中に声をかける。
「ねえ」
「なに?」
「どんなだったの?」
「なにが?」
「あんたの彼女」
「……」
「ねえ」
「どんなって言われても……性別は女だよ」
「だーかーらー、どんな女の子だったの?」
「普通の人だよ。いいだろそんなこと。もう終わったんだから」
私は弟に彼女がいるのを知らなかった。初耳だった。
ついこの間まで、自作のおしりダンスを見てくれとしつこくせがんできていた弟。ついこの間というほど最近でもないが、面影は消えない。そのおしりダンスに、いつの間にか彼女ができてたなんて。
「どこで会ったの? 大学? サークル?」
「大学は一緒だけど、会ったのは駅前」
「へ?」
「ちょっと具合悪そうにしてたとこ助けた。助けたっても、大したことしてないけど」
「あんたが?」
「ほん」としか聞こえない返事をして弟が人参の皮を剥く。
「どっちが告ったの?」
「オレ」
おしりダンス、面倒臭くて放置してたらちゃんと見ろって号泣された時の顔がよぎる。
「なんで別れたの?」
「んー、よくわかんね」
「ちゃんと聞いた?」
「聞いたけど、いいだろそんなこと」
「聞きたい!」
弟はしばらく人参をおぼつかない手つきでさく、さく、と慎重に切っていたけれど、やがて小さな声で言った。
「……オレのこと好き過ぎて駄目なんだって」
思わず吹き出した。何言ってんだこいつ。
「……だから言いたくなかったんだよ」
「だってさー……なーんそれ」
「オレが普通にしてても、ほんのちょっと女の子と話しただけで泣きそうになってしまうんだと。そんな自分が嫌だし、苦しい。もう無理なんだって」
「あんたそんな不安を煽る男なの?」
「いたってふつーだけど」
おしりダンスの次は昆虫の舞だった。
「ピーヒョロヒョロ」と奇声を発しながら、何故かケツを半分出して畳の部屋を舞い踊る弟の姿は、つい昨日見たことのように鮮やかに思い出せる。
「それ、本当はほかに好きな男できたんじゃないの? 言い訳じゃないの?」
「そんな感じには見えなかったけど……」
弟は包丁を持つ手を止めてしばしあらぬ方に視線をやって考え込む。最後の彼女の姿でも、思い出しているのかもしれない。
「オレといると自分がどんどんヤバくなるから嫌なんだって」
「その子恋愛するたび毎回そんななの? よく生きてこれたね」
「こんなのは初めてだって」
「あんたそんなんで納得できたの?」
「オレもかなり粘ったけど、気持ち変わんないみたいだから……」
「嘘でしょそれ。ほかに好きな男できたんだよ」
「まー、それでもいいよ。どっちにしろオレとは一緒にいらんないんだって」
つい先日、別れた事実が現実と認められず、どんな悪どい方法を使えばあの人が戻ってくるのか考えてはさめざめ泣いていた私には信じ難い理由だ。本当にそんなやついるのかよ。思春期かよ。
けれど、人の感情の機微に敏感な弟が嘘ではないと言っている。もしかしたら本当のことなのかもしれない。もし本当なら、おしりダンス昆虫の舞が、そこまで異性に愛される存在に成長していたとは、感慨深い。
トン、トン、さく、さく、と玉ねぎを刻んでいた弟の目がほんの少し潤んで、失恋とは無関係とわかりながらも可哀想になってしまう。
「ねーちゃんは? なんで振られたの?」
「ほかに好きな女ができたんだと」
「ふうん。そりゃしょうがねーな」
瞬間的にカッとなって、うぎゃあと叫びながら枕を床に投げ捨てた。こいつ全然可哀想じゃない。腹立たしい。同じ振られなのに、理由が負けてる気がする。
弟が鍋に玉ねぎを放り込んで、じゅわっと音がした。やがて、野菜が炒められている時の甘い匂いがしてきた。
会話がなくなると、また元彼のことを思い出して泣きそうになる。
ぼんやり視線をうつろにさせているとやがて、「ねーちゃん、食べよ」と声が聞こえて折りたたみ式の小さな赤いミニテーブルの上にカレーの皿がふたつのった。カレーの匂いが部屋に充満している。そして、カレーの匂いというものは食欲をそそる。
小皿にらっきょう。この形は実家で漬けたらっきょうだ。コップのお水も添えられている。
「ねーちゃんさ、この部屋エアコン効いてる?」
火を使っていたから余計に暑いのだろう。ティーシャツの胸のところをパタパタさせながら弟が苦情をこぼす。
「木造だからね。こうも暑いと効きは悪いよ」
「あー……」
妙に息の合った、同じトーン、同じテンポの「いただきます」を同時に言って、同時にスプーンをかまえる。
ひとくち食べてすぐわかる。
「……あんたこれ、実家のカレーだね」
「うん。材料全部入ってたから」
「お父さんがいるわけでないんだから……」
「なんとなく」
カレーというのはどこの家でもカレーだとは思うがほんの少し差異があったりする。我が家のカレーはお肉が苦手で食べれない父のために、肉なし、代わりに油揚げと豆がはいっている。基本甘口。いつも同じメーカーのルウ。
スプーンにすくってまたひとくち。
思ったよりお腹が減っていたみたいで、胃袋に染みる。口を大きくあけてカレーライスを頬張って、突然謎にこみあげた涙と共に嚥下する。
水を一気に飲んで、らっきょうをボリボリ齧る。
らっきょうって、失恋と不似合いだ。
また、甘口のカレーを頬張る。
実家の味がした。
ふいに実家の食卓風景が浮かび、霧散する。
やっぱり帰ればよかったかも。
お母さんに、会いたいかも。
実際会うとうんざりするんだけどね。
「ねえ来生」
「んー?」
「おしりダンス、踊ってくんない?」
「は?」
「……昆虫の舞でもいい」
弟は顔をカレーの皿の方にやったまま、上目でこちらを見て小さく笑う。
「やだよ」