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朝食の音



 薄く目を開けた時天井はすでに明るくて、だけど自宅とは違う木目に昨夜のことを一瞬で思い出す。恐る恐る横を見るが、浮かべた大学の同級生の顔は、そこだけぬけがらの形の掛け布団と体温のぬくもりを残してそこになかった。


 朝食の音がする。


 朝食に音なんてない。正確には朝食を作っている音。あるいは、朝食を連想させる音がする。

 まな板と包丁がぶつかる『とんとん』だとか、『さく、さく』だとか、油がフライパンで立てる『じゅう』だとか。あるいは鍋の中の小さな沸騰の『ふつふつ』だとかも。


 朝食の音には、朝日の明るさと朝食の匂いも不可欠。


 炊き上がったお米の匂い。それから味噌汁と出汁の匂い。少しこんがりした肉の焼ける匂い。そんなものが幾つも混じり合って、ぼんやりした朝食の匂いになる。


「おはよ、江藤」


 わたしが起きたことを横目で確認して短く挨拶を投げた彼が、ことり、ことり、とお皿をテーブルに置いていく。規則正しく対称に置かれた食器。

 ボサボサの頭を撫で、テーブルの前に座る。わたしは自分のアパートで箸置きなんて、使わない。というか持っていない。だけど目の前にちょこんと置かれた猫と葉っぱのかたちのそれを見ていたら、何故だか自分もむしょうに欲しくなった。


「おはよう。いただきます」


 ふたつの挨拶を纏めて、手を合わせてから箸を手に取る。目の前のメニューはまず、炊きたてのごはん。白くてツヤツヤのお米がぴんと立っていてふっくらしてる。

 それからお味噌汁。中身は葱と豆腐。几帳面に四角く綺麗に切られた豆腐が彼の性格を表している。味噌と出汁のいい匂いが食欲をそそる。思わずお椀を手に取って、ぞぞ、とひとくち飲み込む。まだちょっと熱いかも。葱が良い香り。


 隣のお皿にはこんがり焼けたベーコンの上に綺麗な目玉焼きがのっている。それから小鉢に白菜の浅漬け。


 どれから攻めようか、とりあえずご飯のお椀を手にお米をそのまま口に放り込む。お米の味なんて最近意識してなかったけど、ゆっくり噛むと水々しい甘味が感じられる。


 さっきからご飯に集中してことさら顔を見ないようにしていたけれど、本当はものすごく気になっていた。

 目の前で『かちゃ』と食器がテーブルに置かれるごく小さい音や、口の奥のほうで白菜を噛む『しゃく』という、さらに小さな音まで聞いていた。会話がないから余計に聞こえるんだ。


「これ、可愛いね」


 ちらっと見ただけなのに目が合ってしまったので、そう言って箸置きに視線を逸らす。


「え?」と言って彼がまじまじと箸置きを眺めた。


 わたしはその間に目玉焼きにお醤油をかけた。それから箸でぷつんと黄身をつぶす。


 お箸で白身とベーコンをひとくち分つまんで、黄身を纏わせる。真っ白なご飯を汚さないように、先に口に入れてしまう。追いかけて、白米。昔のヒットソングにありそう。『追いかけて、白米』ないか。少なくともヒットはしなさそう。


「本当だ、可愛いね」と無愛想な声が返ってくる。箸置きの感想だろう。淡々とした口調だけれど、彼は普段からこんな感じだ。


 ここで改めて状況を説明すると昨日わたしは、酔った勢いでこの部屋に泊まった。そして勢いとかいうけれど、わたしは前から彼、三池君のことが好きだったし、本当はそんなに酔ってなどいなかった。


 本当は先に好きって言おうと思っていたんだけれど、それは怖くて伝えられないまま、関係だけ持ってしまった。他の子が彼を狙ってるって聞いたから、焦っていた。でも、後悔している。


 どうでもいいと思っていた女と、酔った勢いで関係は結べても、付き合えはしないだろうから。


 遊びには行けるけど触れられたくはないとか、優しくはできるけどキスはできないとか、昔はそんなことが多い気がしていたけれど、大学生になって、特に男子においてはそれらは逆なこともあるんだと知った。わたしの話ではなくて、友達から聞いたことだけれど。夜は優しかった相手が朝になって、魔法が解けたように振る舞うこともあるんだって。


 これからどうなるんだろう。昨夜のことはあやまちとして、そのまま今まで通りなのか、逆に気まずくなる可能性だってある。家に帰ったら落ち込みそうだ。わたしは彼のことを好きだけれど、本質を知るほどには詳しくなかった。ここで何人の女の子が朝食を食べたかだって、わからないのだ。


 お味噌汁を飲み込んだ。それからカリカリにまではいかないベーコンの肉の味を咀嚼する。卵と醤油が混じり合って、少し甘くてしょっぱい。

 目の前の新品の醤油を眺めながらソースではなく、醤油派なんだな、一緒だ、なんて思う。


「今日……」


 彼がお米を口に入れ、お味噌汁でごくんと飲み込んで口を開く。かちゃり、お箸が食器にあたる小さな音。


「今日、どうする?」


「えっ、今日?」


「どっか……行く?」


 そう言って彼が窓の外を見た。

 つられてそちらを見ると青い空が広がっていた。


「……どこか、って」


「……うん。映画とか?」


 ことさら丁寧に皿の黄身を白身のかたまりで拭って口に放り込む。もぐもぐしながら考えた。映画、ふたりきりで……えっと、それは。


 ベーコンエッグをあらかた食べ終わってしまったので、白菜を口に入れて、顔を上げる。


 また、新品の醤油に目がいった。

 彼の向こう側に開けられた段ボールが見える。わたしの視線を追って彼もそちらを見た。


「あ、これ。実家から食器いくつか貰ってたんだけど、今日初めて開けたから……」


「そう、なんだ」


「いつもは自炊なんてしてない」と、照れたような、困ったような、そんな顔で彼が言った。


 お椀に残っていた味噌汁を飲み込んで一息ついた。「ごちそうさま」と言って顔を見ると、少しほっとしたような顔をした。食器を持って立ち上がる。


「お皿、洗うね」


「あ、ありがとう……」


 狭いアパートのキッチンにはスーパーの袋があって、さっき食べた卵のパックがあった。中身がふたつ減ってる。それから小さなベーコンのパックも。葱も。白菜の浅漬けもあった。パンも買ってあったけれど、開けただけで減っていないから、どちらにしようか迷ったのかもしれない。ペットボトルの水しか入っていない冷蔵庫にひとつひとつそれを戻して、お皿を洗う。


 猫と葉っぱの箸置きを見ていた彼を思い出しながら、わたしはとりあえず、なんの映画にしようか、なんて考えていた。








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