2.田嶋公佳 二十五歳 子持ち
「キミちゃん、おかえりなさーい!!」
玄関を開けると、真波の元気な声が出迎えてくれた。
「真波、ただいま。お米研いでおいてくれた?」
「バッチリだよー。もうじき炊けます!ママは今日は打ち合わせで遅くなるって。さっきLINEあったよ」
「うん、私にも届いてた。てか、グループLINEじゃん。じゃあ先に私達だけで食べてようか。今日は鍋だよ」
「やったあ!鍋の美味しい季節になってきたもんね!」
言うことがどんどん一丁前になってきてるなあ…と苦笑しながら、田嶋公佳は部屋着に着替えるために自室に入った。
真波は十歳になったばかりの小学四年生。公佳とは血が繋がっていない。五年前に籍を入れたパートナー・田嶋百合香の娘だ。
籍を入れたと行っても女性同士なので“結婚”ではなく“養子縁組”になる。なので、戸籍上は公佳と真波は“姉妹”だ。
百合香は公佳より二十歳年上の四十五歳。対して公佳と真波の年の差は十五歳だ。しかし、公佳は彼女を“娘”だと思って接している(真波からは“母親のようで、姉のようで、友達っぽい存在”くらいに思われていそうだが)。
百合香とは、大学時代に知り合った。地元出身の作家として活躍しており、有名文学賞も受賞している百合香が公佳の取っている授業に非常勤講師としてやって来たのだ。
物静かで中性的な、不思議な雰囲気に一目で心を奪われた。どんな人か知りたくて、テキストとして配布された小説以外に出版されている本も買い求めた。少しでも話がしたくて、授業後に教壇まで質問しに行った。
「藤田さん(公佳の旧姓)は熱心だね」と笑いながら感心されたが、「いえ、実は下心があるからです」なんて口が裂けても言えなかった。
そんなある日の夕方、百合香を同じ電車で見かけた時は心が踊った。
「…先生!」
意を決して声を掛けると、チラリとこちらを見た後、ああ、という顔をされた。
「先生もこの沿線なんですか?今から家に?」
「うん。ちょっと…用があってね」
公佳を気にしながらも、下方に気を付けている気配があって不思議に思っていると、不意に公佳の目線よりかなり下の方から声がした。
「ママ。この人、ママのお友達?」
見下ろすと、髪の毛を2つに結った小さな女の子が百合香と手を繋ぎ、こちらをじっと見ている。
…マ、ママ?!
「先生、ご結婚…されてたんですか?」
自分より二十歳も年上の女性だ。無理もない、、、、と思いつつも、ショックで顔が引きつった。
何となく、百合香からは“結婚”や“家庭”というものから醸し出される雰囲気が希薄なように感じていたからだ。もしかしたら公佳自身のように、女性を恋愛対象としているのでは…という勘のようなものがあった。
「うん、まあ、、色々と事情があってね…。今は娘と二人で暮らしてるんだ。ほら、真波、ご挨拶は?」
「こんにちは!田嶋真波です!三歳です!」
「え、あ、こんにちは…」
公佳は曖昧に笑いながら挨拶を返す。“事情”というのが何なのか分からなかったが、とりあえず『百合香が結婚している状態にないこと』にホッとしていることを自覚して、そんな自分への嫌悪感や後ろめたさなど色んな感情が胸の中に渦巻いた。
真波はそんな公佳と百合香を交互に見ながらにこにこ笑っている。
「あのさ、藤田さん。この後ちょっと時間あるかな?」
「はい?…時間は大丈夫ですけど…」
視線を彷徨わせていた百合香が意を決したように切り出した。いきなりの誘いに公佳は戸惑う。
「ちょっと頼みたいことがあるんだけど。私達は次の駅で降りるんだけど、駅前にファミレスがあるから、そこで話をしてもいい?ご馳走するから」
何か切羽詰まった雰囲気に気圧されながら、公佳は頷いた。同時に、言いようのない嬉しさも感じながら。
「いきなりなんだけど、明日一日、真波のことを見ていて欲しいんだ」
ファミレスで注文を告げ、店員が立ち去ってすぐに百合香が切り出した。
「私がですが?と言うか、すみません、どういうことですか?」
見る?面倒を見るということだろうか?私が一日この子を?
頭の中に沢山の疑問符がちらついた。
「ごめん。順序立てて説明するから」
百合香は水を一口飲んで話し始めた。隣に座っている真波は、百合香がバッグから出した色鉛筆とぬり絵で静かに遊んでいる。
「いつも、大学の授業や編集さんとの打ち合わせの時には真波を私の友人に預けてるんだ。でもその友人のお母さんが今日の昼頃、急に倒れられたらしくて、友人は急遽実家に帰らないと行けなくなって。ただ明日、大先輩の作家さんとの対談の仕事が入っているんだ。とてもじゃないけど、真波は一緒には連れていけない…」
「そうなんですか…」
「近所の一時保育にも何件か電話してみたけど、空きがないみたいで。学生のあなたにこんなことをお願いするのは筋違いだろうし、本当に申し訳ないんだけど…」
百合香はすっと背筋を伸ばした。
「明日一日、真波のことをお願い出来ないでしょうか?もちろん、アルバイトとして、ちゃんとお金は払いますから」
深々と頭を下げられて、公佳は慌てふためいた。
「せ、先生!顔を上げてください!分かりましたから!バイトしますから!」
「本当?」
百合香よりも先に、真波がパッと顔を上げて尋ねた。
「お姉ちゃん、明日真波と遊んでくれるの?」
「うん。真波ちゃん、一緒に遊ぼう」
真波に向けて笑いかけると、真波が“にーっ”と嬉しそうに笑った。
「…ありがとう、藤田さん」
百合香の肩からほっと力が抜けたのが分かった。
ただの学生である自分に頼まざるを得ないくらい、切羽詰まっていたのだと分かる。他ならぬ百合香の為なら、頑張ろうと公佳は思った。
「お昼は冷蔵庫の中、夕ご飯は鍋にカレーが出来てるから。本当に申し訳ないけど、よろしくお願いします」
百合香はそう言い残して、足早に家を出て行った。
まさか百合香の自宅でシッターをするとは思わなかったが、初めて入る家の中に公佳の心は少なからず踊っていた。
「キミちゃん、何して遊ぶ?」
「うーん、いつも真波ちゃんは何して遊んでるの?」
「亜美ちゃんとはねえ、お天気の日はいつも公園に行ってるよ」
「そっか、じゃあ今日も晴れてるし、とりあえず公園に行こっか」
「うん!」
恐らく、“亜美”という人は百合香がいつもシッター役を頼んでいるという友人だろう。
百合香のプライベートに少し踏み込めたほのかな嬉しさと、百合香の身の回りの人間に対する警戒(どういう関係なのかという半分やっかみの混じったもの)を両方感じ、そんな自分への罪悪感と戦いながら公佳は必死で笑顔を作った。そんな公佳の心情は御構いなしに、真波は無邪気な顔で玄関で靴を履いている。
靴箱の上のフォトフレームには、百合香と真波の写真がいくつか飾られている。どの写真も母子二人きりだ。
(…真波ちゃんが産まれたばかりくらいの写真にも、旦那さんは写ってないんだ?)
離婚という可能性を考えれば、旦那が写ってるものは除外して飾っているのかもしれない。でも何となく、“夫”というものが最初からいないような、そんな写真に感じられた。
「キミちゃん、真波、一人で靴履けたよ!」
誇らしげな声に我に返って、公佳も慌てて靴を履き始めた。
一日はあっという間に過ぎて行った。三歳児の面倒を丸一日見るという経験が全くなかった為、初めは大いに不安があったのだが、恐らく真波はかなり聞き分けの良い部類に入る子供なのだということが分かった。良い子すぎると言っても良い。
公園に行っても他の子とトラブルを起こすでもなく、行儀良く遊ぶ。おもちゃを取られても「貸してあげる!」とにっこり笑って他のおもちゃで遊び出した(公佳は、おもちゃを取った子のお母さんと思しき女性に平謝りされた)。お昼時になって「帰ろう」と言うと大人しく従う(周囲では「まだ帰らない!」「イヤ!!」と泣き叫んでいる子供が多かった)。
昼ご飯も残さず食べ、その後は部屋の中でままごとをして遊び、お昼寝の時間になると何の抵抗もせずに布団に横になった。
真波の“預けられ慣れている”姿に、公佳は何とも言いようのない気持ちを抱いた。公佳自身も保育園に通っていたので“親以外の人に預けられた”という経験はあったが、友達と喧嘩もしたし、いたずらをして保育士に叱られた記憶もある。真波の姿は保育園に通っている子とも違う、“他人の大人と一緒に過ごす時間が長い”子供の姿だった。
百合香が帰宅したのは、結局真波が夕ご飯を食べて眠ってしまった後だった。
「ごめんなさい、こんなに遅くなって…」
公佳は、平身低頭の姿勢で謝る百合香に恐縮しながら、真波の昼間の様子と感じたことを話した。
「それは…分かってる」
申し訳なさそうな顔を崩さないまま、百合香は言った。
「本当は保育園に預けたかった。その方が同じ年の子とも遊べるし、専門の保育士さんが見ていてくれるしね。でもこの辺りは待機児童がとても多くて…」
百合香の口から溜息が漏れる。
「それでもうちはシングルマザーだから大丈夫だろうと思ってたんだけど、“作家”であるということで点数が下がったんだ。自営業ならば自宅で面倒を見れるだろうということでね。役所に直談判に行ったけど、ダメだった。認可外保育所も満員。民間のシッターは、見ず知らずの人を家に上げるのかと思うと抵抗があって。。仕方なく、友人に頼み込むしかなくて…」
「そうだったんですか…」
「来年の春になれば幼稚園という選択肢が増える。もしかしたら保育園の年少クラスにも空きが出るかもしれない。だからそれまで色んな手を使って繋いでいくしかないみたい。…綱渡りしてるみたいな気持ちだけどね」
力なく笑った顔を見て、公佳は堪らない気持ちになった。
「先生、私で良かったら、またいつでもシッターに来ます。真波ちゃんの、先生の、お役に立ちたいんです」
「ありがとう…」
その後も、何度か“亜美さん”の都合がつかない時にシッターとしてアルバイトに呼ばれた。予想以上に真波が公佳に懐いたという点も大きかった。ほぼ毎日、真波から「今日はキミちゃんは来ないの?」と聞かれると百合香に苦笑まじりに言われ、とても嬉しかった。百合香を好きということもあったが、それ以上に真波が可愛く、成長を見守りたいという気持ちも大きくなってきていたのだ。
また、バイトを続けるにつれ、真波が眠った後に昼間の報告をするのが常となり、その時に田嶋家の事情も少しずつ分かってきた。
もう一人のシッター役である“亜美さん”は、やはり百合香の元恋人であること。
学生時代に知り合い、ずっと付き合っていたこと。
百合香が三十五歳になった頃、『子供が欲しい。出来れば自分もしくは亜美と血の繋がりのある子供を。そして二人で育てたい』と望んだこと。
しかし、それを受け入れて貰えず、別れたということ。
それでも『例え自分一人ででも、子供を産み育てたい』という気持ちが止められず、男友達に全てを打ち明けて協力してもらい、真波を産んだこと。
男友達には認知もしてもらわず(一切の援助も受けず百合香一人で育てるというという誓約書まで交わしたという)、真波は『非嫡出子』として届けてあるということ。
百合香のセクシャリティや未婚で子供を産んだことの理解が得られず、親から絶縁されたこと。
保育園の件で頼る場所が見つからず、結局亜美に頭を下げてお願いしに行ったこと。
今は、亜美は“良き友人”として、公佳と同じくアルバイトとして協力してくれていること。
語られた内容はまるで小説の中のことのようだったが、 公佳には何となくすべてが“百合香らしい”と思えることだった。
そして、一層強く、百合香と真波の力になりたいと思うようになった。
シッターを初めて数ヶ月が経った12月。大学は試験の季節になった。試験ともなるとやはり学生らしく忙しくなる公佳を慮ったのか、それとも“亜美さん”の都合がつく日が多かったのか、暫くシッター依頼が来ない日が続いた。
翌日は試験がなく、その次の日は資料の持ち込みが許可されている試験で最後だったため、公佳は何となく田嶋家へ足を運んでみたい気持ちになり、手土産のケーキを買って電車に乗った。
マンションの入り口で呼び出しボタンを押すが、応答が無い。
…出掛けてる?でも、もう夕方だけど。
百合香は真波の生活リズムだけは神経質なほどに気を使っており、公佳にシッターを頼む時もご飯やお風呂、寝る時間だけは守らせてくれと頼まれていた。自分が不規則な生活で執筆活動をする分、子供にしわ寄せは行かせたくないという親心らしい。
この時間は、いつもならほぼ必ず在宅してご飯を食べている時間だ。
何か嫌な予感めいたものがして、公佳は預かっていた合鍵を取り出した。
念の為、部屋のチャイムを押しても反応が無かった。
意を決して、鍵を開ける。
「お邪魔します…」
家の中は静かだが、正面のリビング扉のガラスと、そして廊下の途中にある百合香の仕事部屋のドア下からは電気の光が漏れていた。
そっと仕事部屋の前を素通りして、リビングの扉を開ける。
「…!!!」
リビングのTVの前で、真波が倒れていた。駆け寄ると、真っ赤な顔をして、息が荒い。額を触ると、かなりの熱さだった。
「せ…っ、先生!!先生!!!開けてください!!!」
仕事部屋のドアを力一杯ノックする。
「えっ…誰?!藤田さん??!!」
「真波ちゃんが!!早く救急車を呼んで下さい!!!」
「え?真波!!?…真波!!!!」
搬送された救急病院で、真波はインフルエンザから肺炎を併発していると診断された。入院が必要だという。真波のことも心配だが、病院に居る限り医師や看護師に任せることが出来る。百合香の方がかなり動揺して半ば錯乱状態だった為、手続きや一旦家へ戻っての入院準備なども全て公佳が付き添った。荷物を持って再び病院へ戻った時には夜も更けていた。
「ありがとう…藤田さんが来てくれなかったらどうなってたか…」
消灯後の病院の廊下の椅子に座り、百合香が力なく項垂れている。
「急遽、エッセイの仕事が入ったの。亜美は都合がつかなかったんだけど、この位なら数時間で出来ると思って、真波に『DVDを見てて』って言って仕事部屋に…。でもなかなか出来なくて、あんなに時間が経ってたのも気付かなくて…」
百合香は自販機で買った温かいミルクティーの缶を握りしめる。
「あの子、確かに今日は普段よりも大人しかった。苦しいのを我慢してたのかもしれない。それなのに気付きもしないで…。母親失格ね、私」
「…」
公佳は何と言って良いか分からず、黙って百合香の背中を撫でるしか出来なかった。
「一人で子供を育てるのが、こんなにも困難だなんて知らなかった。“人を一人育てる”ってことを軽く考えていたのかもしれない。私の判断は間違いだったのかな…。どうしよう、このままだと、私が、真波を不幸にさせてしまうかもしれない」
「そんなこと…。そんなこと、ないです!」
思わず叫んだ公佳の言葉に、百合香が顔を上げる。
「真波ちゃんは、楽しそうでした。お絵かきでは先生と二人で歩く絵を描いて、折り紙は『ママに見せる』って大切に箱にしまって。ままごとでは『ママのカレーだよ』ってご飯を出してくれるんですよ!真波ちゃんは、先生のことが大好きなんです」
公佳は、いつのまにか自分が泣いていることに気付いた。
「だから、先生の傍に居る限り、真波ちゃんは決して不幸にはなりません。何の根拠もない言葉かもしれませんけど、でも、絶対、絶対、大丈夫です!」
「うん…。うん、ありがとう、藤田さん」
百合香の頬にも涙が伝っていた。
「困った時は私が居ます。私も一緒に真波ちゃんを見守りたい。あの子が育って行くところを見たい。百合香さんを、一人にさせない!」
公佳は、隣に座る百合香をぎゅっと抱きしめた。
「好きです。こんな時に言うのは反則なのかもしれないけど、私も、百合香さんと真波ちゃんの生活の中に入れてください。二人で、真波ちゃんを育てていきましょう」
あの深夜の告白から七年が経った。
真波が退院するのと同時に、公佳は百合香のマンションに半ば強引に住み始めた。真波は「キミちゃんがずっとお家にいるの?ほんと?!」と素直に喜んでくれた。
二年後、公佳が二十歳になったのを機に、正式に養子縁組の手続きをした。百合香の親は絶縁している為、会うことは叶わなかったが、公佳の親には籍を入れる前に三人で挨拶に行った。驚かれ、最初は反対もされたが、時間をかけて説得し、最終的には納得してくれた。今では有難いことに真波を“孫の一人”として見てくれている。
しかし、一番喜んでくれたのは意外なことに“亜美さん”だった。「百合香に貴方のような頼もしいパートナーができて嬉しい」と心から祝福してくれた。二十も年下の公佳を“頼もしい”と言ってくれて、何だかくすぐったいような気持ちにもなったが、素直に嬉しかった。今でも時々、亜美の新しいパートナーと二人で田嶋家へ遊びに来てくれる。
「キミちゃーん、お鍋の具財出しといたよ!」
キッチンから真波の声がする。
「はいはいー!今行くから!」
返事をしながら、ベッドサイドに飾っているフォトフレームをちらりと見る。養子縁組の届けを出した後で、三人で撮った記念写真だ。
(三人でいる限り、絶対不幸にはならない。そのための努力は、決して怠らない)
籍を入れた時に誓ったことを今また心の中で呟いて、公佳はキッチンへと急いだ。