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ワーママ!  作者: 鈴乃さくや
1/2

1.国立映美 二十九歳 シングルマザー

「申し訳ありませんが、お先に失礼します!!!」


 国立映美くにたちえみは同僚達に頭を下げると、素早く職場を後にした。

 映美の娘である咲良さくらの通っている保育園から、咲良が発熱したので迎えに来て欲しいと連絡があったのだ。片付けなくてはならない仕事は残っていたが、同じ班の同僚に謝罪しつつ、分担してやって貰えるようお願いした。

「大丈夫ですよ。娘さん、お大事に」

 そう声は掛けて貰えたが、元々の仕事に加えて映美の仕事のフォローとなると残業は必須である。きっと内心穏やかではないはずだ。

「はあ…」

 最寄り駅に向かって歩きながら、頭を切り替えなくては、と思うが、職場への申し訳無さと居たたまれなさに思わず溜息が出る。


「ママ!!!」

「あ、国立さん。お帰りなさい」

 保育園に着くと、咲良が赤い顔をして駆け寄ってきた。一緒に担任の保育士も出てくる。

「咲良ちゃん、お昼ごはんを食べた後くらいからお熱が上がってきて、先ほど測った時には38.0℃でした。吐いたりはしていませんけど、感染症だと困るので、念の為 病院を受診して貰えますか?」

「分かりました。これから連れて行きます」

 ちょうど、かかりつけの小児科の午後診療が始まったばかりの時間だ。発熱のタイミングが良い点はありがたかったな、と不謹慎ながら頭の隅で考えた。発熱がお昼前だった場合、午前の診療時間に間に合わず、一度帰宅してから午後の診療開始時間まで待ち、再度病院へ行かなくてはならないところだった。手間もあるし、何より子供の身体への負担も大きくなるように思える。

「咲良ちゃん、お大事にね。お熱、早く下がると良いね」

「せんせい、さようなら」

 咲良は律儀にお辞儀をして、映美と手を繋いで歩き出した。


 小児科では、診察の結果「風邪ですね」と言われ、鼻水や喉の腫れを抑える粉薬と、高熱になった場合の座薬を処方された。

 とりあえず、感染症ではなかったことにホッとする。風邪であれば解熱さえすれば保育園へは行ける。しかし感染症の場合、その種類によって数日~一週間単位での自宅待機となってしまう(インフルエンザは解熱後五日間、手足口病は解熱して発疹が消えるまで等、細かく指定されている)。その期間が書かれた書類を見た時、映美は軽く目眩を覚えた。その間は必ず誰かが家に居て、咲良の様子を見ておく必要がある、ということだ。

 映美の幼い頃は、熱があっても一人で留守番など日常茶飯事だった。逆に、誰もいない家の中で布団に入り、普段は見られないお昼のテレビ番組が好きなだけ見られる“非日常”が楽しみでもあった。だが今の御時世、幼児(しかも病児)を一人で留守番させるなんて言語道断である。一応、病児保育の登録はしているが、受け入れ人数は少なく、毎回頼めるとは限らない。

「こんな時、旦那がいる人だったら交代で休んだり出来るのかなあ…」

 ふと頭をよぎった考えを、次の瞬間、全力で否定した。

「いや、あの人だったら、そんな状態になっても絶対に休んでくれる訳がないわ」


 映美は、咲良が一歳になる前に離婚している。

 原因は元夫・岩瀬孝和いわせたかかずによる精神的DVとモラハラだ。元々、亭主関白な部分はあったが、結婚した時には「そういう性格なんだな」と然程気にしていなかった。ハラスメントが前面に出てきたのは、映美が咲良を妊娠した直後である。

 孝和は映美が妊娠したら、仕事を辞めて専業主婦になるのが当然だと思っていたらしい。しかし、映美は仕事を辞めるのは嫌だと主張した。仕事が好きだったし、何より一旦正社員の椅子を下りると、再就職は難しくなる。

「家計も、一馬力より二馬力の方が良いと思うの。この先、どんなことがあるか分からないし。だから、私は働き続けたいと思ってる」

 この言葉が孝和の逆鱗に触れたようだった。

「俺が家族すら養えない人間だとでも言うのか?!そんなことを言うんだったら、俺はこの先一切のことを手伝わないからな!!」

 そう宣言し、そして実際、何も協力してくれなかった。

 映美がつわりで吐き通してフラフラになっていた時も、家事は全て映美が担っていたばかりか、気遣う言葉すら掛けてくれなかった。

「ごめん、今日は疲れて食事の支度が出来ていなくて…」

 と言うと、あからさまに嫌な顔をされ、「自分が仕事を続けるって選択したんだろう。役に立たないな」と告げられた。

 それでも、産まれた子供の顔を見れば孝和も少しは変わってくれるんじゃないか、考え方を変えてくれるんじゃないかと思い、必死に耐えた。

 何とか産休に入り、無事に咲良を出産したが、しかし、産後も孝和の態度が変わることはなかった。

 咲良の夜泣きが五月蝿いと言って耳栓をして眠り、沐浴も、ミルクをあげることも、一切してくれなかった。抱っこは気まぐれに何度かしてくれたが、咲良が泣き出すと「泣いたよ。お腹空いたんじゃない?おむつかな?」と映美の腕に返す有様だ。

 いま思い返せば、初志貫徹する鋼鉄の意志に感心してしまう程だが、もちろん当時はそんなことを思う余裕もなく、とにかく毎日を過ごすことに必死だった。


 手を差し伸べてくれたのは、咲良の一ヶ月検診で出会った保健師である。

 一見して分かるほどに顔色が悪く、咲良を抱っこ紐で抱えたままふらつきながら歩いている状態の映美を呼び止め、咲良を別の保健師に預けて小さな個室で話を聞いてくれた。

 妊娠中や産後に孝和から言われたこと・されたことについて話しながら、涙が溢れて止まらなくなった。

「映美さん、あなた、ここまで一人ですごく頑張ってきたのね」

 背中を優しく撫でられながら、映美の母親くらいの年齢と思しき保健師は言ってくれた。自分を肯定してくれる言葉が疲れ果てた心に染み込み、映美は嗚咽を漏らしながら泣きじゃくった。

「その旦那さんがやっていることは、精神的DVとモラルハラスメントよ。それと、映美さん自身には産後うつの傾向が見られると思う。一度、心療内科に行ってみることを薦めます」

 穏やかな、しかしきっぱりとした声で言われた。

「あと、どなたか育児に手を貸してくれる人は居ない?もし必要ならファミリーサポートを紹介するけど、旦那さんのこともあるし、実家に帰れるのなら帰った方が良いと思うわ」

 その言葉に背中を押され、すぐに心療内科を受診し、『産後うつ』の診断と共に必要な薬を処方された。

 そして孝和から逃げるように最低限の荷物だけを持って、咲良と一緒に隣県の実家へ帰った。両親へ事の成り行きを全てを話すと、両親は激怒し、義両親と孝和を呼んで五人(映美は心理的負担が大きいため行かなかった)で話し合いが行われた。

 孝和はそこでも、

「映美が自分で選んだ道でしょう。俺は悪くない」

 と堂々と言ってのけたらしい。義両親も義両親で、すまなさそうな顔はしていたものの、

「母親たるもの、家事と育児に専念するものではないか。それに岩瀬家の嫁になったのだから、行く行くは私達のことも見て欲しいので、仕事を辞めるなら今のうちに…」

 と、恐ろしくタイミングを読み間違えた主張をしたそうだ。

 両親、特に父は血管が切れそうになりながら、

「家政婦や介護士は賃金を貰っている立派な仕事だ!!うちの娘は、賃金無しで働くあなた方の奴隷ではない!!!」

 と激昂したらしく、 話し合いはそこで終わった。


 結局、育児休業中に離婚が成立した。映美は咲良と暮らすアパート探しや引っ越し等で何度か隣県の往復はしたものの、会社で決められている一年間の育休期間ギリギリまで実家で過ごした。

 母子二人となったので早めに復帰して働かなければという気持ちはあったが、産後うつの診断があったこともあり、両親が頑なに「やめておけ。会社が許す範囲までは休んでおけ」と言ってくれた。今となっては、両親のその判断は正しかったと思う。しっかりと体調を立て直す期間があったからこそ、働き続けることが出来ている。

 また、やはり育児をする時に自分以外の大人の目や手があるというのはありがたかった。自分一人で咲良を見ていた時には食事は掻き込むように食べ、トイレさえも隙を見て行かなくてはならなかった。ゆっくり食事が出来ることがこんなに幸せなことだったとは。。なので、休業期間中だけは、両親の好意に素直に甘えさせて貰った。

 “離婚”という出来事へのショックも少なからずあったが、日々成長する咲良に集中することでそのショックも和らいだ。

 一ヶ月検診の時に話を聞いてくれた保健師も何度か実家へ電話をくれ、「最近はどう?こちらに戻ってきたら、またいつでも話をしにいらっしゃい」と気遣ってくれた。また実家がある自治体の保健センターにも連絡をしてくれたらしく、そこの保健師からの訪問もあった。こちらはかなり若い保健師だったが、「私も育休復帰したばかりなんですよ」と言われ、子供のことなど色々と話が弾んだ。

 また近くの児童館や子連れで行けるイベントも教えてもらい、体調に合わせて参加することで産後うつも徐々に回復していった。


 保育園の入園も激戦と言われていたが、シングルマザーになったこともあって自宅アパートの近くの園にすんなり入ることが出来た。

 ただ、やはり問題は復帰した後だった。


 復帰して最初の一年は、はっきり言って殆ど記憶が無い。

 咲良は毎週のように風邪を引き、発熱し、時に感染症にかかって保育園を休んだ。その度に映美は早退してお迎えに行き、咲良が回復するまで会社を休むことになる。

 運良く病児保育の枠が取れても、病院を受診した上で預けに行かなくてはならない為、遅刻は免れない。病院が混んでいた時などは、お昼頃に這々の体で出社し、休憩を取る暇もなく数時間働いて帰社…なんてこともあった。

「ウイルスの洗礼を受けるよ~」と子持ちの友人から聞いてはいたが、まさかこんなに頻繁だとは夢にも思わなかった。

 しかも、何故か子供に感染したウイルスは非常に強力だ。どんなに気を付けていても看病している間にほぼ必ず映美にも移り、そして咲良よりも病状が長引く。咲良が元気に保育園に登園するようになっても、映美はマスクを着けて咳と鼻水と微熱に悩まされながら通勤することが普通だった。

 咲良がインフルエンザにかかった時はさすがに実家の母に数日間来てもらったが、母親もパートで仕事をしているため、そう何度も頼めない。有休はあっという間に使い果たし、欠勤扱いになった。

 そうなるとやはり、周囲からの心象も悪くなる。

「国立さん、今月一体何日休んでるの?こっちは滅多に有休も取れなくて大変なのにね」

「何で離婚しちゃったんだろ。旦那さんがいれば、代わりにお迎えを頼むとか出来るのにね。私の友達はそうしてるって言ってたよ」

 同じフロアで働く女性二人がトイレでこんな陰口を言っているのをたまたま聞いてしまい、個室から出られなくなってしまったこともある。

 違う班の子達だったので、直接仕事に関しての迷惑はかけていないはずだ。それでもこんなことを言われているのなら、同じ班の人達にはより一層不況を買っているに違いない。そう思うだけでみぞおちの辺りがギュッと縮まった。

「…こっちだって、好きで離婚したんじゃないよ」

 と小さな声で呟いてみたが、事情を知らない同僚に届くことはない。


 しかし、シングルとなった今、仕事を辞めるわけにはいかない。どんなに苦しくても、職場で針のむしろの上に座ることになるとしても、収入が無くなる=咲良と共に路頭に迷うことになるからだ。もう“仕事が好きだから続ける”という理由は最後尾の位置付けになっている。働くことは、イコール生活のためだ。

 それに、咲良が将来目指したい目標が出来た時に、母子家庭だからといって経済的な理由で断念などさせたくはない。例え少しずつであっても、蓄えは増やしておきたい。

 幸いにも、入園の翌年からは咲良が病気になる回数は徐々に減っていった。三歳になった今では、二ヶ月に一回あるか無いかくらいのペースだ。


「でも今回はちょっとイタイなあ…」

 病院から帰り、お粥を食べさせ、赤い顔で「まだ遊ぶ!」と言い張る咲良を何とか寝かせてから、映美はようやく一心地ついて呟いた。

 先月もお迎え要請があって早退・有休を取ったばかりだ。しかも先月も今回も、どちらも月末で仕事の立て込む時期だ。咲良の熱はまだ下がる気配はない。明日は病児保育の枠が取れたら良いが…。

「でも咲良にも、無理させちゃってるよね…」

 以前、病児保育に預けた時の咲良の不安そうな顔を思い出す。映美も、知っている先生も、友達もいない、いつもと違う場所。しかも具合の悪い時にそこへ預けられるのだ。咲良の心細さを思うと、胸が締め付けられる。民間でやっている、自宅に訪問してくれるタイプの病児保育に頼めば、少しは咲良の心の負担も軽くなるだろう。しかし、そうすると今の数倍のお金が一日で飛んで行く。

「考えても仕方ない!なるようになる!!!」

 頬をバシッと叩いて、明日のために映美も眠ることにした。


「おはようございます。昨日はすみませんでした!ありがとうございました!!」

 何とか病児保育の枠が取れ、咲良を預けてから出社した(病院は昨日行っているため、今朝は預ける手続きだけで済み遅刻は免れた)。

「あ、おはようございますー」

「おはようございます」

 みんな月末〆の仕事を持っているため、パソコンからチラッと顔を上げただけでまた仕事に戻って行く。


「国立くん、ちょっと」

 昨日同僚達が請け負ってくれた映美担当の仕事を確認していると、課長から呼ばれた。

「何でしょう?」

「少し話があるので、あちらで良いかな?」

 と扉で隣接したミーティングスペースを指差された。

「あ、はい、分かりました」

 嫌な予感と共に、課長の後についてミーティングスペースに入った。

 その予感は、案の定的中してしまった。

「君の早退と休み、もう少し何とかならないかな?」

 向かい合った座席に着くなり、課長は切り出した。

「いや、君の家庭のことは理解しているよ。幼い娘さんを抱えて一人で大変だとは思う。ただ、他の社員の手前、早退と休みの数が多すぎると思うんだ。どなたかお迎えの代わりを頼むとか、もう少し努力をしても良いと思うんだけど」

 “努力”という言葉が胸にズシリと落ちた。

「あと、娘さんの看病の後、君も必ずと行って良いほど体調を崩しているよね?それでも頑張って出社はしてきてくれてるけど、あれももっと気を付けていれば防ぐことは出来るんじゃないかな?体調管理も仕事のうちだよ」

「…はい」

 膝の上に乗せた手に、無意識にギュッと力が入る。

 キーンと耳鳴りのような音がして、課長の声が遠くに聞こえた。

「うちはセキュリティの関係で仕事の持ち帰りや在宅での仕事は禁止されてるけどさ、娘さんを誰かに預けて日曜に出社するとか。その辺りはやっても良いと思うんだ。ちょっと自分のことを振り返って、考えてみてよ。ね?」

 話はそういうことだから、と課長は言いたいことだけ言って席を立った。映美は一人、ミーティングスペースに残される。


 努力…?

 私が何もしてないとでも?

 体調管理…?

 ウイルスの塊になった子供を殆ど寝ずに夜通し看病して、間近で咳やくしゃみや鼻水を浴びて、自分の免疫力が落ちないとでも?

 誰かに預ける…?

 誰に?

 そのお金はどこから出るの?


 言われた言葉と疑問符が頭の中をぐるぐる回り、何の音も入ってこない。

 言われたことは正論だ。反論のしようもない。自分に甘い部分があったことも、周囲に甘えていたことも、間違いない。班のみんなに迷惑をかけていることも、身に染みて分かっている。でも…。


 早く自席に戻って仕事をしなくては。でも今の顔じゃ席に戻れない。

 ちょっとの間だけどこか一人になれる場所、、、と思い、早足でフロアを抜け、女子トイレの扉を開けた。


「わっ!」

 開いた扉の向こうに、同じ班の後輩である田嶋たじまがいた。班の中で一番若い女性社員だ。

「国立さん?どうしたんですか?」

「…いや、何でもないの。何でもないのよ」

 顔を伏せて、早く行ってと願った。

「何でもないことないでしょう。どうしたんですか?娘さんに何かあったんですか?」

「いや違うけど…ちょっと一人になりたいの、ごめん」

「さっき課長に呼ばれてましたよね。…何か嫌なこと言われたんですか?」

「…っ!!」

 労わるような田嶋の言葉に、懸命に堪えていた涙が流れた。

 まさか映美が泣くとは思っていなかったのか田嶋は一瞬ぎょっとした顔をし、「国立さん、ここじゃ目立つから、こっちに」とそっと手を引いて廊下に出、斜向かいの会議室のドアを開けた。


 誰もいないひんやりとした会議室の椅子に映美を座らせ、「ちょっと待ってて下さい」と言い残して田嶋は出て行った。

 映美はハンカチで涙を拭い、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

「これ、どうぞ」

 程なく戻ってきた田嶋の手には、紙コップに入った温かいミルクティーが二人分と目薬があった。

「甘くてあったかいものは心の栄養ですよー。あとこの目薬、充血にすっごい効くんです。泣いた跡も分からなくなりますよ」

「…あ、ありがとう」

 ミルクティーと目薬を手渡すと、田嶋は映美の隣の椅子に座った。

「あの、月末だし、私のことは良いから仕事に戻って?」

 おずおずと話しかけた映美に、

「良いです。ちょうどひと段落ついたんで、休憩したかったんで」

 と田嶋は答えた。

「もし良かったら、何があったか聞きますよ。もちろん、嫌なら言わなくても良いですけど」

「…」

 映美は一瞬どうしようか迷った後、簡潔に「早退や休みのことで、ちょっとね」と言った。

「田嶋さん達にも私の仕事を振ったりして迷惑掛けてるよね。本当に申し訳ないと思ってる。これからは何とか調整するように頑張ってみるから…」

 言いながら、ああ何だか言い訳じみている、、と焦る。でも他に言葉が見つからない。きっと田嶋は呆れ、怒っているに違いない。その思いながら、横の田嶋の顔をチラリと見た。

「…そんなこと言ったんですか、あのオヤジ」

「…は?」

 こちらをしっかりと見据えた田嶋の口から出た言葉に、映美は呆気に取られた。

「えっと、まず結論から言いますね。私達、ってか私と中原なかはらさん(三十二歳男性、既婚、同じ班)は全然迷惑なんて思ってないです」

 田嶋はきっぱりと断言した。

「寧ろ、私達が急に休みを取る時もあるじゃないですか?その時に国立さんは同じように私達の仕事を請け負ってくれてますよね。間違いなく、持ちつ持たれつの関係です。それで良いじゃないですか」

「え、でも、私の方が頻度が多いわけだし…」

「それはまだ娘さんが小さいんだから当たり前じゃないですか。中原さんも私も子供がいるから、それくらい分かります」

「いやでも…、、、、え?!子供??!!!」

  映美は危うくミルクティーの紙コップを握り潰すところだった。

「え?!子供って、中原さんのところは知ってるけど、田嶋さんも?!嘘、知らなかった!!!てか結婚してたの?!」

 田嶋は新卒で入社して三年目のはずだから、今は二十五歳くらいのはずだ。結婚の話もおめでたの話も映美はこれまで聞いたことがなかった。

 慌てる映美の姿に田嶋は苦笑しながら答えた。

「ああ、国立さんが育休中に入社しましたもんね、私。実は学生の時に籍を入れてたんですよ。子供はパートナーの連れ子なんです。もう小学生なんで大きいんですけどね」

 目を白黒させている映美に向かって、田嶋は優しく微笑みかける。

「でも小学生でも風邪引くし、インフルエンザやノロウイルスで学級閉鎖にもなるから、私も結構お休み取ってますよ。パートナーが主体で面倒を見てるから少なめではあるかもですけど、それは向こうが時間に融通の利く仕事だからってだけの話で。中原さんのところも奥さん働いてますから、国立さんの気持ちは分かるって言ってました。だから出来るだけ協力しようって話してたんです」

「そう…だったの」

「それに、国立さんがこちらに仕事振ってくる時、どこに何のファイルがあるかとか、進捗状況とか、色々分かりやすくしてあるじゃないですか。だからすっごくやりやすいんですよ。自分の仕事よりも早く終わっちゃうくらい。見習わなきゃって、ほんといつも思ってるんですよ。そういうとこを評価しないで、ただ早退や休みが多いから注意って、一体どこ見てんだよって感じです、私としては」

「ありがとう…」

 机の上に涙がまたぽたりと落ちた。さっきまでの涙とは違う、嬉しさからの涙だ。

 そんなにも協力しようとしてくれていたなんて、仕事の中で「見習いたい」と言ってくれるようなところを見つけてくれていたなんて、知らなかった。それもまた違う視点からの、忙しさにかまけて同じ班の人とすら話をすることを怠っていた結果なのだろう。

「私も、子供が国立さんの娘さんくらいの頃にパートナーと知り合ったんで、大変さはちょっとは分かってるつもりです。子供のパワーとウイルスの強力さ、すごいですよね。パートナーも『一人親の頃は振り返りたくないくらい滅茶苦茶だった』って言ってましたし。課長は家事も育児もぜーんぶ奥さん任せらしいですから、分からないんですよ。そんな人の言うことなんて気にしないで。出来る限りのことは協力しますから」

 だから私が休んじゃった時はフォローよろしくお願いしますねーと、少しおどけながらにっこり笑った田嶋の顔は、どちらが先輩か分からないくらいの頼もしさと包容力を持っていた。

 ハンカチを目元に押し当てたまま、映美はぶんぶんと首を縦に振った。


「国立さん、おかえりなさい」

「ママ!!おかえりなさい!!!」

 病児保育園のドアを開けると、咲良がパッとこちらを振り向き満面の笑顔になった。

「咲良ちゃん、午前中のうちにお熱下がりましたよ。給食も全部食べて、元気でした」

「そうですか!良かった…」

 映美は安堵の息を吐く。

「ママ、これ咲良が描いたんだよ」

 お絵描き帳に赤い大きな丸とピンクの小さな丸が描いてある。

「あら、何を描いたの?」

「こっちがママで、こっちが咲良!保育園に行ってるところ!!」

 咲良は咲良なりに保育園を楽しんでいる。そんな様子に頼もしさを感じながら、映美はまた頑張る元気が湧いてきた。

「よし、咲良、帰ろうか!晩ご飯は何が良い?」

「咲良、ハンバーグ食べたい!」

「じゃあ、咲良の風邪が良くなったお祝いにハンバーグにしよう!」

「やったあ!」


 状況が良くなったわけではない。でも自分の味方になってくれる人がいることが分かった、それだけでこんなに心が軽くなるものなんだ。

 夕暮れの空はどこまでも高く、映美と咲良の繋いだ手を綺麗に照らしていた。

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