00
「ソナリス大公領には跡継ぎがいない。知っている者もいるだろうが、ジェラルドが今後は大公領を引き継ぐ事になった。ジェラルド・ソナリスよ、今後とも励めよ」
王に言われ、ジェラルドが勿体ないお言葉ですと恭しく一礼した。
それはいい。それは良いのだけど。そうじゃなくて、隣のジルダは一体何なのだろう。
あの大きなお腹は、確実に妊娠しているじゃない。でも一体誰の子を妊娠しているというの。ジルダは学園にも通っていない引きこもって過ごしている少女で、私が誘わなきゃ買い物にも行きはしないというのに、彼女と付き合う男性なんて兄のカルロしかいないんじゃないかしら。あの子はたいした努力もせずただ屋敷で過ごしているだけのどうしようもないこなのに、なんで。
「妻ジルダと共に、より一層励んでいきます」
なんで。
「レオナルドが成人するまで公表はしなかったが、…ジェラルド・ソナリスはここにいるトフォリ家の娘ジルダと結婚している。今までジェラルドを良く支えてくれたな」
なんで、あの子が。
「ジェラルド様は私には勿体ないくらいの方です」
王からの言葉を幸せそうな顔をして受け取って、傍らに居るジェラルドと仲睦まじい姿を見せているジルダ。レオナルドがいつ頃生まれるのかなんて聞いていて、これだけ大きいけれどまだ先なのですと笑い合っている。
パーティに来ていたお父様に、跡継ぎに子が出来たとなれば何よりだなと言った。それにお父様は満面の笑みで、これでなんの心配もなく大公領を任せられますだなんて言っている。
「娘のルチアーナはレオナルド様に嫁ぎますから、…本当に私は幸せ者ですよ」
そう言われて、周りの視線が私に集中した気がした。全身から血の気が引いていくのがわかる。何が起きているのか、頭が理解を拒否するけれど、周りの貴族達の聞きたくない言葉が次から次へと耳に入ってきた。
聞きたくない、聞きたくもないと耳を塞ごうとした時、ルチアーナと名を呼ぶ声がした。見ればそこには、礼服を身に纏ったレオナルドが、優しげな微笑みを浮かべながら立っている。
「…ルチアーナ、気分でも悪いのかい?」
「いいえ、…そういうわけではないの。ただ、その、ジルダとはお友達だったのだけど、結婚して妊娠しているなんて、知らなくて」
「ああ、驚いたんだね。僕が成人するまで、結婚していた事も含めて内密だったから。大公領に屋敷を買っただろう、あそこはジルダ嬢好みに内装が整えられていてね。ただあのお腹だから、大公領で暮らすのは赤ん坊が生まれて落ち着いてからだろう」
知らなかったのは、私だけという事なのかしら。どうして教えてくれなかったの、確かに最近ジルダとは会っていなかったし、話もしなかった。
ジェラルドとジルダに裏切られたような気分になるのは、私がおかしいからなのかしら。ずっと心の支えになっていたジェラルドすら、もう他人のものだったなんて。
「…そうだ、ルチアーナ。君に紹介したい人がいるんだけど」
前に一度会っているよねとレオナルドが連れてきたのは、以前お茶会でヒロインと一緒に招待されていたあの女子生徒。傍観している転生者かと思ったけれど、ただの一般人だったみたい。そんな彼女が、どうしてレオナルドと腕を組んでいるのかしら。
「アンナ・テスタと申します。…以前、学園でお話した事もあったかと思いますが、その時はまだ未婚でしたので家名が違っております」
彼女はレオナルドと同学年だから、卒業生としてこのパーティに出席しているようだけど。レオナルドはいつになく真剣な顔をして、私に言った。
「君は誤解しているようだから、言っておくけれど。アンナが僕の公妾だよ。学園を卒業したから、漸く紹介できる。彼女は学園時代からの一番の友人でね、この先も僕達の事をサポートしてくれる」
「り、リリーディアは?」
「何度も言う様に、リリーディアはただの友人だ。…それにだ、庶民出の娘とどうして僕が付き合わなくっちゃいけない」
貴族は血を尊ぶというけれど、レオナルドもそれは同じらしい。口では友人と言いながらも、庶民の出であるリリーディアの事を根本的には認めてないようだ。
「それと、アンナは愛人というけれど、君が嫌っているような関係ではない」
「はい、私とレオナルド様は友人です。肉体関係がありませんし、…私は子供を産める体でもありませんので。信じられないようでしたら、王宮付きのお医者様に問い合わせて下さい。私の診断書がありますので」
そういう関係抜きで私達は信頼しあっておりますと、アンナは私を見て言った。それってやっぱり不倫には変わらないんじゃないかしら。
納得しきれない私にレオナルドは苦笑していると、音楽が流れ始めた。ホールでは卒業生や夫婦がそれぞれダンスを始めている。
「一曲、お願いします」
レオナルドが傅いて私に手を差し出してくる。こういう時、私が受けなければ、きっとこのアンナが一番に踊るのだろう。それは少し嫌だったので、仕方なくレオナルドの手を取った。
音楽に合わせてステップを踏む。レオナルドと踊るのは久しぶりだけど、彼とは相性が良いのかピタリと動きの息が合っていた。くるりと体を回して密着すると、こそりとレオナルドが囁いた。
「公妾の子には継承権がない。そしてアンナは子供を望めない。……ねえルチアーナ、もし君が望むのなら、僕は君に触れたりしないよ。子供を産めとはいわない、仕事上のパートナーとしてだけ、結婚しよう」
「…えっと……」
「子供は、ジェラルド兄様のところから養子に貰えばいい。もちろん君が納得して、兄様とジルダ嬢にちゃんと説明してからだけど。あの仲睦まじい二人だもの、きっと子供は一人以上できるだろうし」
もちろん養子にするならすべて秘密裏になるけど、口外するような者はいないからとレオナルドが言った。何を、一体何を言っているの。
私の視線は、ジェラルドの隣にいるジルダに向けられる。幸せそうな、とても嬉しそうな顔をして会話をしているジルダ。いままで何の努力もしなかったくせに、どうして、どうしてそこで笑っていられるの。そして私が、ジルダの子供を我が子として育てろというの。
「君には想い人がいるんだろう。だったらその人と添い遂げると良い。…でもねルチアーナ、大公家の娘として生まれ、王妃となる為に育ったのなら、そこから逃げる事は出来ないんだよ」
僕が王太子である事から逃げられないように。
「……レオナルドは逃げたくないの?」
「そんな事、考えるだけ無駄なんだよ、ルチアーナ」
ゲームでは空虚を抱えていたというのに、この世界のレオナルドはそうじゃないのかしら。もしかしてアンナという存在がいるから、そんな風に考えなくなったという事なの。でも、そうしたら、私はどうすれば良いの。
「……誰も味方が居ない状態で、王宮に来るのは怖いかい?」
レオナルドの言葉に、思わず体がビクつく。驚きのあまりぎこちなくなった動きをフォローするかのように、レオナルドが私の腰を支えた。ずっと弱々しい雰囲気しか持っていなかったけれど、いまのレオナルドは私より身長が伸びてしっかりした大人の男の体つきになっている。
「でも、味方がいなくても大丈夫だろう、ルチアーナ」
「何を言っているの?」
「だってこれで、君と僕は同じ立場になったんだから」
ステップを踏みながら、レオナルドと共に軽やかに踊る。いいえこれは、私が踊らされているのかしら。
「同じ…立場?」
「王宮で、誰も味方がいないんだよ、ルチアーナ。僕の周りは皆、僕の事を王様にしたくない人達でいっぱいだった。ジェラルド兄様の方が良いと、あからさまに言ってくる奴らばかりだった」
それは知っている。ゲームの知識でも、この現実でも。クリスタはあからさまに自分の息子のジェラルドを贔屓していたし、王とてレオナルドを疎んじていたわ。王宮にいる者なら、いいえ息子であるレオナルドならなおの事、身に染みて分かっていたでしょうね。だから彼は、擦れて捻くれた性格になったみたいだし。
「味方が誰もいない孤独の中でなんの力もない僕はここで十数年堪えたんだ、君だって出来る筈さ。だってルチアーナ、君は天才だろう」
王宮は、策謀陰謀暗躍そして足の引っ張り合い。血生臭い場所ではないけれど、決して美しい場所じゃない、己の力で立つしかない場所。隙を見せたら付け込まれ、骨の髄まで食い尽くされる。
まるで歌うようにレオナルドが楽しげに言葉を紡ぐ。一体なぜ、そんな顔をしているの。そんな恐ろしい場所に、私をたった一人で立たせるつもりなの。
音楽の終わりと共に、レオナルドが一礼して私とのダンスが終わった。優しく笑っているけれど、レオナルドはすぐに私から離れてアンナの所へ行ってしまう。一人立たされた私は、今までにないくらいの心細さに体を震わせた。
婚約は破棄出来ない。破棄させてもらえない。そして私は、帰る場所を失った。大公領にはジェラルドとジルダが居る。子供まで生まれるのなら、尚のこと居場所がない。ヒロインの子はもう関係ない。レオナルドの側には、心にはアンナという女子生徒がいる。私にはジェラルドがいない。このままじゃレオナルドとの間に子供は生まれない。そんな事になったら、私はジルダの産んだ子を育てなければならない。
嫌、嫌よ。こんなの絶対に嫌。このままだと、来年の卒業パーティで私の断罪は行われない。そして私は処刑されないけれど、私の居場所はどこにもない。友人だっていなくなってしまって、王宮で暮らすなんて考えられない。どうしたって、望んだ未来じゃない。絶対に嫌、嫌なの。
だって、ねえだってせっかくこの世界に転生したのよ。私、いままで沢山努力して、大公領を繁栄させて来たじゃない。色々な人を助けてきたわ。だから、だからせめて、ほんの少しだけ私の幸せを掴むために、抗っても良いでしょう。
処刑なんて嫌。家が没落するのも嫌。レオナルドと結婚するのだって、嫌よ。この世界で私は、私らしく生きたいの。
ぐるりと回る思考の中で、ジルダと目が合った気がした。一人立ち尽くす私を見て、彼女がくすりと、嘲笑ったように見えた。
先に出会っていたのは私。ジェラルドの事を教えたのも私。なのに結婚したのは、子供までつくったのは、貴方。なんで、なんで私はそこにいないの。
私は幸せになりたいのよ。
会場の中でレオナルドを探す。もう一度彼と話して、なんとしても婚約破棄をしてもらわなきゃいけない。
もっと、レオナルドよりもっと良い相手と私は結ばれなきゃ、誰もが羨んで、受け入れて祝福してくれる相手と、愛し合いたいの。
アンナと談笑するレオナルドに話し掛けようと、人混みをかき分けて向かっていく。だけど、レオナルドの後ろに来た瞬間、ドンという衝撃と共に誰かにぶつかってしまった。
「えっ?」
驚きの声は私からではなく、私のすぐ後ろから聞こえてきた。
視線を向ければそこには、何故か信じられないという顔をしたクリスタが居る。公妾はこういう場に来ることはない筈なのに。
いいえ来ても良いのだけど、今日みたいに王族が集まる時、クリスタはその場に一緒に行けないから、それが嫌で参加していない事が多かった筈だ。
なのにどうして、今日は来ているのかしら。
不思議に思っていると、すぐ近くにいた他の令嬢達が、悲鳴を上げた。騒ぎが大きくなり、私の体がぐらりと揺れる。なんでと思いながら背中を見れば、そこに剣が突き刺さっていた。
「……ルチアーナ! 誰か、誰か医者を…!」
レオナルドが私を抱き留め、回復魔法を掛けようとしている。背中は焼け付くように痛み、呼吸が苦しい。遠くにいたジェラルドがジルダを庇うようにしながらも、その女を捕まえろと指示を出している。
「いけませんわ、レオナルド様。毒が塗られている可能性がありますから、傷に触れては…!」
駆け寄ってきたアンナが、レオナルドの手を制止させた。回復魔法だけでは、解毒は出来ないから、治癒しても中が腐り落ちて死ぬだろう。そういった専門的な事が分かるのは医者だけで、先ほどからしきりにレオナルドが早くと焦ったように叫んでいる。
周りの貴族達はなんてことが起きたんだと驚愕に満ちていて、ざわめいていた。
「…ああ、ルチアーナ。僕を庇うなんて、…なんて君は」
そんなつもりはまったく無かった。まさかクリスタがこんな所にいて、レオナルドを刺そうとしていただなんて、一体何がどうなっているの。私をのぞき込むレオナルドの目には薄らと涙が滲んでいる。
「……なんて君は」
血が流れ落ちている所為か、それとも毒の所為か、体がまったく動かない。
「……なんて君は僕の為に、これ以上ない程に動いてくれるのだろう。心からお礼を言うよ、ありがとう」
誰にも聞こえないような小さな声色で、私に囁いた。俯いて私をのぞき込んでいるレオナルドの表情は、他の人からは見えないだろう。だけど私にだけは、はっきりと見えるその顔は、満面の笑みだった。
私を利用したというの。
疑問は声にならないけれど、レオナルドには伝わったみたい。優しくも残忍に微笑んだレオナルドは、私の体に縋るように抱き締めてくる。
「僕を最初に見限ったのは君だろう、ルチアーナ。君の描いた未来とは、ジェラルドが王となり自分が王妃となる、この国が繁栄する素晴らしいものだったろう。……でもね、僕は、絶対にその未来を実現させたくないんだ」
君が運命に抗うように、僕も同じだけ藻掻いたんだと、レオナルドは言った。そして私が追い縋ってクリスタに刺されたのは、まったくの偶然だとも。
それじゃあ私はただの偶然の被害者だというの。そんなこと信じられるわけがないじゃない。
嬉しそうに笑うレオナルドの言葉なんて、信じられるわけが。
だからここで死ねというの。
嫌、そんなの嫌よ。
けれど私の口からは声は出ない。血と共に咳き込むのが精一杯だった。
私を心配そうに見下ろすアンナの顔も、薄らと笑っているように見える。泣いているようなジルダは、笑っているように見える。アルバーノと共にいるリリーディアは、信じられないと言いながらも喜んでいるように見えた。
嘲笑われて、私は死ぬというの。そんなの絶対に嫌よ。
自分の周りから、音が消え失せ、周りの人々の動きがぴたりと静止した。そうして、カツンとヒールの入った靴音が響く。倒れている私に、近づいてくる何か。
「ヒヒヒ、なあいまどんな気持ちだ? 苦しいか? 助けて欲しいか? 誰かに怒りをぶつけたいか? それとも、絶望したか」
耳障りな笑い声と共に、女は口の端を持ち上げて笑いかけてきた。
乱暴に髪の毛を掴まれ、ぐいと引っ張られる。皮膚が引き攣る痛みに呻いたけれど、その後に襲ってきた痛みはそれ以上だ。痛みに泣き叫ぶが、周りの人間は静止画のように動かなくて、誰もこの異変に気付いてくれない。
それだけじゃない。
私は血塗れの私の体を見下ろしていて、一体どういう事だと疑問が湧き上がった。
「お前のタマシイを取りだしたんだよ、ヒヒヒ」
女の声が耳元で聞こえた。ぞわりと背筋が寒くなるようなそんな声色で、恐怖と痛みとで私はひたすら藻掻く。
「ああ、いいなぁ。死ぬことに未練があるだろう、こんな筈じゃなかった、こんなのは嫌だなんていう想いが、何よりもタマシイに旨味を与えてくれるんだ」
私の目の前に、大きく口を開けた、化け物の、いいえこれは悪魔の姿が。




