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ソナリス大公領へと再びやってきた僕は、そのままルチアーナがいる屋敷へと向かった。この前来たときは、大公夫婦にテレシアにシルケと大勢いたけど、今はルチアーナただ一人だ。慕っている祖母が死んで、さぞ気落ちしているのだろうと思ってきてみたのだけど、どうしてだか僕の目の前には、旅支度をしているルチアーナが居たわけだ。
「……ルチアーナ、その格好は」
「えっと、あの、その…」
一般的な令嬢の格好ではない。しいていうなら、旅人というか、古びた外套に旅行バッグ。そして剣などの武器。これから導き出される答えはなんとなく分かるけど、分かりたくないなと思ってしまう。
「…冒険者になろうかと思って」
「何をどうしてそうなるんだい、ルチアーナ」
ああ出来るなら聞きたくなかった答えだ。この世界にもそういう職業の人々はいるが、主に彼らは国から資金を貰って、新たな航路を発見したり未開の地を探索したりするけど、うら若き少女が目指すものじゃない。植物学者とか生物学者がそういう一団に加わる事もあるけど、未来の王妃が行けるわけない。
「……この先、路頭に迷うかもしれないかなって思ったら、魔物とか倒してお金稼いで生きるのがいいかなって…」
「魔物を倒すのは騎士団もしくは領主の私兵だよ。もしや大衆小説でも読んだのかな、魔物を倒してお金を貰う傭兵なんていないからね」
「えっ!?」
それを信じてたのか、ルチアーナ。傭兵は確かにいるけど、戦争がないこの国じゃ仕事はないし、となりの帝国の内乱も二十年前に終結しているので、やはり傭兵はいらない。
いや、元傭兵が取り立てられたって話は聞いたことあるから、そのまま居着いたのだろう。この大陸を出ればもしかしたら仕事があるかもしれないけど、それでも出国には手続きが必要で、身分証明証もなしに出入国はできない。
大公領の令嬢が出国しようものなら、それこそ王に報せが行くだろう。
懇切丁寧にそれらを説明すれば、ルチアーナの顔がどんどん曇っていく。これは一般常識な気がするけど、なんでわかってないんだろうか。
『ヒヒヒ、王妃になるのに必要のない事は教えなかったんじゃないか。そして、だ。こいつの頭の中には、国を出てしまえば王妃にならなくても一人で稼いで生きていけるという考えもあるかもな』
一人で生きていくなんて無理だろう。特にどこの誰ともしれない人間を雇うなんてしないだろうし、護衛任務ともなれば命を預けるのだから、見ず知らずの少女に大金など払えるわけがない。
「……気の迷いって事で、見なかった事にするよ。着替えてくるんだ」
僕の言葉にルチアーナは呆然としながら部屋へと戻っていく。これは逃げ出さないように見張りを立てた方が良いんじゃないか。
そんなに僕と結婚するのが嫌なのか。それにしては王妃になるために色々と準備していたと思うのだけど、一体どうして冒険者になろうなんて突飛な考えに行き着くのだろうか。
『テレシアが死んで、ジェラルドが大公領を仕切りだしたからなぁ。ヒヒヒ、大方ゲームのシナリオ通り、お前の卒業パーティで婚約破棄されて処刑されるかもだなんて考えが、頭をよぎったんじゃないか』
だから逃げだそうとしてるわけか。まあ逃げたいのなら逃げても良いけど、その場合は誰にも迷惑掛けないようにして欲しいよ。今回僕が見つけなかったら、大公領や王都、国中を巻き込んでの大捜索が行われるだろうし、それで逃げた理由が王妃になりたくないというものだったら、王家は面目を潰されるわけで。きっと僕の良からぬ噂が流れるだろうし、争いや揉め事の切っ掛けになるだろう。
僕はルチアーナに婚約破棄したい素振りを見せたことはないし、嫌いだなんて言ったこともないのだけどね。
着替えて戻ってきたルチアーナは、先ほどは失礼をしましたと、別人のような態度で頭を下げている。それでこれからどうするのかと聞けば、学園に戻って勉強に励みますとの事だった。
テレシアが死んで落ち込んでいると聞いたけど、どうやらそれはジェラルド兄様の勘違いで、この先の未来、つまり自分の事を考えて悲観していたわけだ。あんなに可愛がって貰ってたのに、テレシアも浮かばれないんじゃないかな。故人の偲び方は人それぞれだけどさ。
「……ねえ、レオナルド。私、自分の行動を振り返ってみて、ちょっと考えたの」
何をと促せば、私と貴方の婚約の事よとルチアーナは言った。
「思えば、最近の私は貴方に酷い態度を取ってしまっていたわ。なのに貴方は……。本当にごめんなさい」
謝ってくるという事は、一応は自覚はあったみたいだね、僕への態度。謝罪は受けておこうと、僕がわかったよと言えば、ルチアーナは少しだけホッとしたかのように肩を落とした。けれどすぐに、何か意を決したように僕を見た。
「…お願いがあります。レオナルド、私との婚約を破棄してほしいの」
「いきなり何を…?」
「もうずっと考えていた事なの。貴方との婚約は、簡単に破棄できないものだってわかっているわ。でも、…でも、私には王妃に向いていない、やれる自信なんてないの。いままでは、私にはお祖母さまやシルケがいたから、なんとかやってこれたの。幼馴染みのジャンカルロも死んじゃって……、私」
ルチアーナの瞳に涙が滲んでいる。ああ、一気に君の味方が周りからいなくなったから、とても心細いのだろうね。誰も周りにいない、手を伸ばしても助けて貰えない孤独は、よく分かる。どんなに泣いたって嘆いたって、時間は過ぎていくだけで、何一つ解決しない。
「レオナルド、貴方のことも弟のようにしか思えないの。…だから結婚なんて出来そうにない」
「……王家の結婚に恋愛感情がないのは仕方ないんじゃないかな。家族としての情というか、公務上のパートナーとしてやっていければ…」
「…でも、でも。レオナルドには、私以外に愛している人がいるんでしょう!?」
堪えきれないといわんばかりに、ルチアーナは叫んだ。まさかまたリリーディアの事を勘違いしているのかと僕が眉を寄せると、ルチアーナは聞いたのよと手を握りしめて再び叫ぶ。
「公妾を娶るって。私になんの相談もなしに、内密に…! ねえ、これって私のことを蔑ろにしているって事じゃない!?」
「……誰から聞いたんだい」
「ジェラルド様からよ!! …お兄様はこうも言っていたわ。相手の女性の子供は、王家に入る事は出来ないから、私は跡継ぎを産むためだけに結婚させられるって…!!」
こんな屈辱受けたくないと、ルチアーナは目をつり上げて僕を睨んでいる。
この国の女性の地位は低い。女性が政治の場に入り込む事なんて公妾か王妃くらいにならなきゃ無理だし、仕事だって限られてる。ルチアーナがいた世界は、男女平等と言われているそうだけど、僕の国じゃまだまだ、女性は子供を産んでこそだし、貴族になれば夫の浮気一つで目くじらを立てるなんて、はしたないとまで言われるくらいなのだ。
この価値観がどうだと議論するつもりはないけど、いまこの世界に生きるルチアーナには苦痛なのだろうね。でも結婚すら自由に出来ない貴族が嫌なら、子供を産む為だけに結婚するのが嫌なら、どうして君は大公家の令嬢として育ったのだろう。
「…でも、君の役目は子供を産んで、王家の血を次代に繋ぐ事だよ。国の発展や他国との交易拡大も何もかも、君には何も求められてないんだから」
「あんなに、…あんなに色々と学んだのに、なんの役にも立たないっていいたいの!?」
「役には立つさ。知識がなきゃ、君は夜会に出ても嗤い者になるだけだもの」
隣国から嫁いできた僕の母様は、僕の国の言葉の発音が微妙だったから陰でコソコソと嗤われ続けたそうだし、父様ともそれで不仲だった。正しい発音でなければ話し掛けてはいけませんと言われ、僕に気軽に言葉を掛ける事すら出来なかった母様。どうしたってしゃべり方には癖が出るから、母様はとても苦労していた。それでも王妃として、母様は僕を産んだし公務もこなしていたんだよ。
それをルチアーナに伝えれば、信じられないようなものを見る目で驚いた表情を浮かべている。今更な事ばかり捲し立てるルチアーナを、僕は一体どうしたら良いのだろうか。
「……ルチアーナ。僕と君の婚約は、父様が、王が決めたことなんだよ。簡単に婚約破棄だとか出来やしないんだ」
「もちろん、私もそれはわかります。でも、ジェラルド様がどうしてもというなら王に嘆願する力添えをしてくれると言っているの」
ここでジェラルド兄様が出てくるわけか。婚約破棄する事によって僕を虐めたいのか、それともこういう事はやめて欲しいと縋ってもらいたいのか。何にせよ、ルチアーナにとってはジェラルドは救世主のようなものに違いない。味方もなにもいなくなって、ゲームのシナリオから外れた筈なのに僕がリリーディアと恋人同士のようにしている素振りもないのだから。
公妾が誰かまでは聞いてないみたいだし、ジェラルド兄様もそこまではわかっていないと思いたい。まったく一体誰がジェラルド兄様に告げ口をしたんだろう。本当に困るな、こういうのは。
「少し、考えさせてほしい」
「ええ、そうねレオナルド。大事な事だもの」
じっくりと将来の事を考えなきゃいけないわと、ルチアーナは先ほどの激昂などなかったかのように、落ち着いた声色で言った。
「…ねえレオナルド。もし婚約を破棄してくれないのなら、私にも考えがあるの。……こんな事したくないのだけど」
そう言って差し出してきたのは、大公のサインが付いた借用書だ。かなりの金額の借金だと、紙面に書かれた数字を見て改めて思う。
「これは王に内緒なのでしょう。……事と次第によっては、これを報告します」
「ソナリス大公と直接やり取りした物だから、父には関係ないだろう」
いいえとルチアーナは首を振った。この額と使い道が問題なのと、真剣な表情で僕を責め立てる。
「最近、ロドリ家のご令嬢にドレスや宝石を贈ったそうね。……それも高価なものを。貴方が自由に出来るお金はない筈なのに」
何も言わない僕をどう思ったのか、ルチアーナは眉尻を下げてこう言った。
「私だって、こんな脅しみたいな事をしたくないの。でも、でもね、レオナルド。私、どうしても婚約破棄をしたいのよ。貴方が何を考えているかなんてわかるわ。卒業パーティで私を断罪するつもりなんでしょう?」
「……断罪?」
「アルバーノもカルロも、貴方の味方になったわ。少しずつ私の力を削いで、そうして罪を着せて大公家もろとも潰そうと、そう考えているんじゃなくて…」
私が邪魔なら最初からそう言ってくれればよかったと、ルチアーナは悲しそうな顔をした。とても、とても悲しそうな顔だ。
「私は平穏に過ごしたかっただけなの。私と、私の家族と。貴方との婚約は、他に有力な貴族の娘がいないからどうしてもって話だったわ。お祖母さまは渋って、断ろうとしてくれたけど。結局押し切られたときいたの。…貴方は、顔合わせの時に私に興味すら抱かなかったわね」
それは君の勘違いじゃないかなとも思ったけど、口には出さないでおこう。あの時、ルチアーナは僕を見て、他の大人のように、母様に成り代わったあの女と同じように、残念なものをみるような顔をした。だから僕は、どうしてよいか分からなくて、君が話し掛けてきてもまともに答えられなかった。ああこれは、言い訳にしかならないか。
あの時から母様だった女は、僕に厳しく折檻するようになったし、いい思い出ともいえないな。折檻といっても傷がつけば回復魔法ですぐに治すという陰険極まりないものだったから、王宮の誰も知らない事だけどね。
カラに出会うまでのほんの数ヶ月、半年くらいの期間かな。あの時は本当に絶望したよ。
ルチアーナが何か喋っているけどその内容は、いかに僕に尽くしてきたかというものだった。そしてそれらが顧みられない事に嘆いて、あんな態度をとるようになったと。
「……レオナルド、私達は一緒にはなれないのよ。貴方は貴方で愛する人と添い遂げる勇気を持つべきなの」
「君は、…婚約破棄をしたら君はどうするんだい?」
「……大公領を引き継ぐわ。でも、ジェラルド様がいるから、どこかで隠居暮らしみたいになるかもしれないわ」
もしくは傭兵にでもなれるのならなるわよと、ルチアーナは言う。
「貴方が王になるのに邪魔はしないわ。だからお願い、私を自由にしてほしいの」
「それが君の願いか」
僕の問いに、ルチアーナは力強く頷いた。
「私は私の人生というものを生きたいのよ」
結局、僕とルチアーナの話し合いは平行線のままだった。
彼女は婚約破棄をしたい、僕はそれをしたくない。
追いすがる僕に焦れたのか、ルチアーナはまた後で話をしましょうといって打ち切った。
「……今日は、申し訳ないけど帰ってくれないかしら。また後日、お互い頭を冷やしてから話しましょう」
そう言ってルチアーナは、自室へと戻ってしまう。一人取り残された僕は、どうすれば良いのだろうと困り果てた。僕を脅すほど追い詰められてるなんて、そこまで僕と結婚したくないだなんて。
ごめん、ごめんねルチアーナ。
最初はカラに言われるがまま、僕は自分が生き残りたいから、平穏に過ごしたいから、君の周りの人間を奪っていったんだ。そうすることで、君は大人しく王妃の座についてくれるんじゃないかなと思ったから。
それがこんなにも君を追い詰めるなんて、覚悟はしていたけど自覚していなかったんだ。
だって僕は。
こんなにも。
こんなにも、人を陥れるのが、堕落させるのが、愉しいものだなんて、思いもしなかったのだもの。
僕を後ろから抱き締める女の手があった。
僕の母であり姉であり恋人である女の手だ。時には父になり兄になり親友になるその手が、僕をずっと導いてくれている。耳元で擽るように、後はお前の好きなようにと言うので、僕は満面の笑みを浮かべた。
婚約破棄などさせるものか、ルチアーナ。だってそんな事をしたら、僕にも不利益が生じるだろう。
これを機に、とやかく言い出す貴族が増えるかもしれない。大公領に人が集まって、新たな国にしようだなんて動きが出るかもしれない。全部かもしれないだけど、僕にとっては立場を揺るがされかねない脅威だ。ジェラルド兄様にその気はなくとも、こちらを揺さぶって楽しむ悪い趣味に目覚めてしまったものだから、加減というものをまだわかっていないようだしね。
「躾をしなきゃいけないね」
「ヒヒヒ、そうだなぁ。どちらが上か分からせなきゃ、楽しい愉しい悦しい躾の時間だなぁ」
くすりと女の唇が笑みを象る。
「いまのお前なら、何をどうすればいいかちゃあんと分かっているから安心だぜ。ヒヒヒ、さあ仕上げの前の下拵えとしようぜ」




