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淀んで腐ったような臭気と、なんともいえない湿った空気の不愉快さに、思わず顔を顰めてしまう。
薄暗い下水道に灯りはなく、足下すら覚束ない。時折聞こえてくる不気味な音が反響し、さらに恐怖心を煽られる。先頭を行くコルラードも、嫌そうな表情を隠しもしない。
水辺を住処とするバニップがいたことから、この下水道にも潜んでいる可能性を考えて、魔法でつくられた小さな光の玉を、等間隔で水路に浮かせていく。
周辺を少し明るくする程度のものだが、バニップは目が悪く熱を感じて襲いかかってくると言われているので、少しの時間稼ぎにはなるだろう。
コルラードの側で、盾を構えて歩を進めている兵が、ぎゃっと声を上げた。
何か出たのかと身構えるが、どうやら上から水滴が落ちてきただけらしい。驚かせるなと、もう一人の兵がホッと息を吐き、一瞬だが空気が弛緩した。
「上にいるぞ、構えろ!」
先に気付いたのは後方にいたモーゼスだ。兵達は驚きながらも、モーゼスの声に反射的に従い、盾を上へと押し出す。そのお陰で、天上に張り付くようにしていたバニップの牙が、彼らに届く事はなかった。
バニップには手が一応付いているが、短く水かきが付いているだけなので、気をつけるべきは獰猛な獅子のような顔に付いている凶悪な牙だ。
コルラードが盾の隙間から、気合いと共に槍を突き出した。バニップの固い鱗に阻まれるが、その攻撃でできた一瞬の隙を見逃さず、モーゼスが大斧を体重をのせて上から振り下ろした。勢いをのせたその一撃は、バニップの頭と体を一刀両断した。
やったと、盾を構えていた兵士が喜びの声を上げた。
「まだだ! 盾をおろすな!」
すぐにコルラードが声を上げるが、水路に潜んでいたバニップが勢いよく飛び出してくる。
あっという間に前方の兵をなぎ倒し、一気に僕の方へと向かってきた。側にいた兵が盾を構えてくれるが、あの突進力では受け止めるのは無理だろう。
でも十分警戒していたし、モーゼスからきっと水路には一匹以上いるでしょうなと言われていたので、一匹始末する間に準備は整える事が出来た。
バニップが素早い動きで這い寄ってきた瞬間、目の前に圧縮した風の刃を三つほど展開させる。
僕の魔法の才能は並なので、風の刃を放って何かに当てるとなると、そちらのコントロールに気を取られて威力がなくなってしまう。カラから、向かってくる相手なら置いておくだけでも、勝手にぶち当たってくれるぞとのアドバイスを受けて、練習したのがこれだ。
強固に圧縮させた風の刃をつくりあげ、僕の前で維持するだけ。これなら当てるまで刃を維持するという細やかな魔力操作はいらず、全力で練り上げるだけなので、相当強いものが魔法でつくれるのだ。
口を開け大きな牙で襲いかかろうとしたバニップは、その突進力のおかげであっさりと僕の目の前で細切れになってくれた。
これは狭い通路で、しかも狙いを僕に定めて来てくれたという好条件が重なって上手くいっただけだろうけども、とにかく上出来だ。魔法で魔物を切り裂くとはと、モーゼスが驚いているけど、その体格で大斧を振り回す彼の方が凄いと思うけどね。
ふうと僕が息を吐くと、近くで盾を構えていた兵達がどこか羨望の眼差しで見ていたので、盾で護ってくれて助かったよと声を掛けておいた。当たり前の事をしただけですからと、恐縮していたけれど、魔物相手に逃げずにいてくれたことは称賛できる。
『俺様のアイデアも、中々良い物だろう?』
肩で笑い声を上げるカラには、感謝するしかない。あとで菓子を沢山与える事にしよう。カラの大好きな、色とりどりの焼き菓子をだ。
通路を進んでいくと、鉄格子が現れた。どうやら進めるのはここまでで、あとはすぐ側の梯子を伸ばすか、鉄格子を壊すかするしかないようだ。
鉄格子は老朽化しているから、壊す事は可能だろう。けれどその奥は、これまで進んできた水路よりも狭く暗い。這うようにしか進めないので、行くのは危険すぎる。コルラードが槍を構えながら梯子を登っていく。
上への扉は閉まっていて、外から鍵が閉まっていたようだけれど、やはり老朽化していたようで、コルラードの槍で粉砕された。
出た場所は水路と変わらぬ薄暗さで、目を凝らせば牢が幾つもあった。
貴族の別荘には不釣り合いな物騒な建造物に、コルラードもモーゼスも眉を寄せている。これは後から造ったのか、それともここに別荘を建てた貴族の趣味か。どちらにしても、あまり良い趣味とは言いがたい。
それにここに出てからというもの、血の匂いが強くなっている。
『レオナルド、牢の中にいるぞ』
カラの言葉に視線を向ければ、血の匂いと共にうめき声が聞こえてくる。僕がモーゼスに言えば、警戒しつつもその牢の中を覗き、そうして大斧で牢の入り口をこじ開けた。
「大丈夫か、しっかりしろ」
駆け寄って起こしたのは、見覚えのある顔だった。渓谷の道でワイバーンに捕らわれた騎士の一人だろう。
腹部からの出血が酷く、モーゼスの言葉に僅かに目を開けたが、喉に血が詰まっているのか、咽せながら吐血した。
庶民でも簡単な回復魔法は使えるけれど、やはり上手く扱うという点では貴族の方が学園できちんと学ぶので深い傷でも治せる事の方が多い。新兵達はモーゼスが訓練している事から庶民の出で、ここで学園をきちんと卒業もしくは通っていたのはコルラードと僕だけだろう。
コルラードは貴重な戦力なので、魔力の消費はなるべく抑えてもらいたい。そうなると僕しかないなと素早く思考して、腹部の傷へ手を当てた。どうやらワイバーンの爪が腹部に深く突き刺さった所為で、内臓が抉られていて瀕死だ。
これは僕の回復魔法では、命を繋ぎとめるくらいが精一杯か。何か情報を知っていそうだから、もう少し動けるくらい、いや戦力になるくらい回復してほしいのだけど。
出し惜しみしている状況でもないしと、僕は腰の小物入れから丸薬を取り出す。
王族というのは、色々と優遇されているのだ。
一般流通していない代物なども、こうして手に入って使う事が出来る立場であるわけで。まあその分、死ぬわけにはいかないのだけど。
僕が死ぬと、国内のバランスが色々と崩れるからね。モーゼスとコルラードが生き残ったとしても、責任を取らされるだろうし。
まあそういう懸念がないわけじゃないから、庶民の出のモーゼスが部隊長なのかもしれない。責任を取らされて騎士団を辞めさせられたとしても、その程度で終わらせる事が出来るから。
コルラードだったらそれこそ、一族すべてが長年にわたって他の貴族から責められかねない。庶民ばかりが泥を被れば良いという考えは、あまり好きでもないし、奨励するわけでもないので、僕は何があっても死ぬ気はないけど。
さて、王家の人間だけが手にできる丸薬は、薬草などを合わせて特別に調合され、さらには魔力が込められている特製品だ。
僕が幼い頃、馬から落ちて大怪我をしたときにも使われた物で、実際は大怪我なんてしてないからカラが拝借した物を僕がずっと保管していたのである。
宝物庫に保管されている奇跡の触媒ともいうべき代物で、回復魔法の効力を大幅に上げてくれるのだ。
この傷なら、丸薬をすべて使わなくともすむだろう。力の加減が難しいが、手の平に力を集中させると、今までにない早さで腹部の傷が回復していく。
この位で良いかと、魔力が吸い取られる感覚に顔を顰めながらも、急いで魔法を止めた。丸薬は一廻りほど小さくなったが、まだ使えそうなので大事にしまっておくことにしよう。
重傷だった騎士は完全に目を覚まし、己の腹部と僕の顔を見比べていた。
「レオナルド様、いまのは」
「上手くいってよかったよ。僕としては戦力が増えた方が助かるからね」
傷を治した騎士とモーゼスから、地面に頭を擦りつけるほど平伏され感謝された。なんでもこの騎士、先日子供が生まれたばかりだそうだ。まだ生きて帰れると決まったわけじゃないけど。
なんで一人だけここに放置されていたのかと聞けば、やはり腹部の傷が原因だったそうだ。
多少動けなくするのは良いとしても、ここまで酷い傷では使い物にならないという事で捨て置かれたという。
では他の騎士達はと問えば、ワイバーンに捕まりここに投げ入れられた後で、少しして数人の兵士達も牢の中に入れられたが、すぐにまたローブを被った人間がやってきて、鎖で繋いで奥へ連れて行ったという。
「…あの、ほとんど意識が朦朧としていたんですが、連れて行かれた者の中に、娘の声が聞こえました。それも一人じゃなく、何人も啜り泣いているような…」
そして言いづらそうに、裸で鎖に繋がれ歩かされていたと話した。他の騎士達が抵抗しようにも、娘達を盾にしているようで、ほぼ何も出来ずに従ったようだ。地響きや不気味な鳴き声も聞こえていたから、魔物がいたかもしれない、とも。
「……魔物って、人の指示を聞く様になる事はあるかな」
「そんな話、聞いたことありませんが」
何せ本能で襲ってくるような奴らですぜと、モーゼスは言う。コルラードも皆目見当も付きませんと、眉を寄せていた。しかしそこに、新兵の一人が発言の許可を求めてきた。
「あ、あの。魔族なら、魔物を操れるそうです。昔、俺の住んでた村にたまたま来た魔族が教えてくれました。魔物の頭の中には、魔力を流せる器官があって、そこを操作する事で、多少の命令なら聞かせれるって。ただ、何でも命令するのは無理だし、基本的に凶暴な生き物だから従属もできないし、膨大な魔力を消費するから、魔族の中でも廃れた技術だと」
その魔族は笑って言ってましたと、新兵が青い顔をして言う。今の魔族は、侵略も争いも何も望まぬ平穏を愛する種族だと主張している。してはいるが、こういう所が恐ろしいのが魔族でもあった。本人達に自覚があるなしに関わらず、人間を遙かに凌駕する種族なのだ。
「そうなると、魔族が絡んでいるんでしょうか? 我が国に魔族が入国したという話は、聞いたことありませんが」
「最後に訪れたのは、君にそれを教えてくれた魔族だろうねぇ。ちゃんと入出国記録が残ってるから、その魔族は既に帰国している筈だよ。となると、別の誰か…」
あいにく、僕には心当たりがあるわけだ。
ジャンカルロに引き続き、またしても思い当たる人物。ついこの前、出会ったばかりのあの娘。
「…シルケ」
ルチアーナの勢力は僕を殺しに掛かっている。まったくこれはと、僕は顔に手を当てて口の端を持ち上げた。自分の手の内にいれた人間なら、最後までちゃんと面倒を見なければ、こうやって暴走してとんでもないことをしでかすというのに。今回の事にルチアーナは関わっているのか、いないのか。
さて、問題は魔物を操るシルケか。
詳しいことはわからないが、シルケもまた物語に出てくる者の一人だ。ルチアーナが知らない筈はないだろうし、わざわざ引き取って手元に置いていたのだから、彼女としては何らかの対策の為にという事もある。ルチアーナを依存ともとれるほど慕っていた様子を見る限り、あれが演技だとは思えない。
結局は、行き当たりばったりという事になるわけか。ああ、命のやり取りをしているだけでも大変なのに、この出来事の裏の裏まで考えなきゃいけないなんて。
『ヒヒヒ、楽しいなぁ、レオナルド。剣で刺し殺しておしまいにならないのは、とても楽しいなぁ』
牢屋のあるこの場所から移動すれば、奥へ向かうほどに血の匂いが濃くなっていく。扉の端からは赤黒い液体が腐臭と共に漏れていて、出来るなら開けたくもない空気を醸し出していた。
「…死体捨て場か」
何人かは、腐臭と血の匂いに吐いていたけど、僕もそうなりそうだったが何とか堪えた。流石にモーゼスとコルラードは顔を顰めただけだったが。
扉の中には男女の死体が大量に捨ててあったのだ。
全員、衣服は身につけておらず、不思議なことに頭が額の上から平行に切り取られていて、言いたくもないけどそこら中に中身らしき物体が落ちている。ああ、目に焼き付いて離れそうにないなと、僕は顔を背けた。
『わかったぞ、レオナルド。ジャンカルロは、頭の中身を取り替えようとしてるみたいだぜ』
頭の中身とは、どういう事だろうか。
医学の解剖図鑑を見たとき、たしか頭の部分には体の機能を司る神経の集合体があるとあった。あれが自分という意志の源だとカラは言っていたが、タマシイとは何が違うのかと疑問に思った。
カラに言わせれば、タマシイは神やアクマなどでしか扱う事の出来ないもので、あれを入れ替えたり動かしたりするのは、人間には不可能なのだそうだ。
稀に偶然で人間の中身が入れ替わったりする事があるが、本当に稀だからこそ奇跡と称されるのだ。
この世界にやってきて、体を乗っ取る人間達は覚えてはいないが、すべてはこの世界もしくは別次元の神が何かしらの都合で行っているとの事。なので乗っ取った人間に罪の意識があろうがなかろうが、彼らは元の世界に戻る事も出来ずその体にとどまるしかないのだそうだ。
ただし、だ。
神々はせっかくタマシイを入れ替えているのに、罪の意識に苛まれて死んでしまっては元も子もないので、そういう意識の薄い人間を選んで行っているとカラは言った。
『奴らと俺様達とは表裏一体。それを見分けるのは、得意中の得意だぜ。ヒヒヒ、そうでもなけりゃ、気も狂わずそいつの振りをして好き勝手に生きようだなんて事、するわけないさ』
死ぬまでタマシイは体に縛られ続け、肉体の死のみが解き放たれる方法だ。だからこそ、人間では扱えぬものなのだという。
ではなぜ、肉体としての頭の中身を入れ替えようとしているのかと聞けば、頭こそが自我を操る器官であるからさと、カラは言った。タマシイは無理でも、頭の中身を入れ替えれば、肉体を交換出来ると考えたのだろうと。
しかしそんな事は可能なのだろうか。
僕の世界では、戦時中に手足がなくなってしまった者に、別の者もしくは新鮮な死体から切り離して繋げる研究をした魔法士がいたけど、実験結果はすべて失敗だった。
皆、死んでしまって、人道的にも問題があるとして、そういった研究は禁忌とされているのだ。やるなと言われる事には、大量の死があるわけである。
『もちろん、俺様の世界だって、適合しない人間同士の手足をくっつければ、待ってるのは死だぜ。ヒヒヒ、それくらいの知識はあるだろうが、この世界での魔法ってのが、下手な希望と妄想を実現しようとする執念につながっちまったようだ』
回復魔法はカラのいた世界にはない。怪我などは自己回復能力で時間をかけて治していくというが、この世界の魔法だとて基本は同じ事。
ただそれを、魔力を活性化させ肉体を修復させているのだ。だが魔法がない世界からみれば、これこそ奇跡の力だという。
『ヒヒヒ、だからかなぁ。中身を完璧な状態で切り離し、そして繋げれば。新しい体を手に入れられるとでも、思ったんだろう。その実験の結果が、あの偽物さ』
顔からはじまり体すべてが腐り落ちてしまった光景を思い出す。
カラが言うには、あの偽物のリリーディアは、肉体すらも弄られていたというから、それもあって死が早まったのだろう。
大方、協力すれば元に戻すと言われて僕に近づいたのだろうけど、死へのリミットは存外早かったわけか。しかしなぜ顔や肉体まで弄ろうと考えているのか疑問に思ったが、カラは誰だってせっかく変わるのなら美しいものがいいだろうと言われ納得した。
『ジャンカルロの研究は、上手くいく筈ないぜ。ヒヒヒ、考えてもみろよ。両手両足を切り落とされた人間に、まともな思考が残ってると思うか? それが今度は、頭の中の神経すべてを切り落とすんだぜ。悲鳴を上げる口がないだけで、頭の中身は激痛に苛まれていたとしたら、別の肉体に移されたとき、果たして自我がまともに残ってるわけないなぁ』




