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なんて、なんて綺麗で美しい人なのだろう。
初めてその人を見たとき、息が出来なくなるのを感じた。そしてその人の瞳から流れ落ちる涙がとても綺麗で、隠れる事すら忘れて魅入ってしまった。
なんとも懐かしい夢を見たなと、ジェラルドは寝台から身を起こした。身支度の手伝いの為の随従がやってくるより先に起き出し、着替えを済ましてしまう。王宮内では何でも自分で出来る立派な方だと評判が高いが、これは昔からの癖なので仕方ない。
ジェラルドがまだ幼かった頃は異常だとは気付かなかった。だが少年となり青年となる年頃になるまで、ジェラルドを起こすのは母クリスタの役目であった。起こすだけならまだ良いが、着替えすら手伝おうとするのだ。それが嫌で拒否すれば、他の物や人に当たり散らす。手が付けられなくなるので、やんわりと自分の事は自分で出来ると自立した事を伝え、そしてそれで王宮内でのジェラルドの評判が上がる事となったと伝えれば、渋々納得した。
ジェラルドの評判が良く、王太子であるレオナルドの評判が良くないと、クリスタはあからさまに機嫌が良くなるのだ。
それはジェラルドが幼い時から、いやきっと生まれる前から続いている事で、クリスタは正妃エリヴィアを極端に敵対視している。彼女が亡くなった今は、その息子であるレオナルドへと矛先を変えていた。
母は国王の公妾、つまり愛人である。公妾は他にもいるが、本当の愛人は母クリスタしかいない。だがクリスタは、愛する国王と結婚する事は出来ないし、公の場では正妃にすべてを譲らなければならないという事実が、我慢ならないようだった。結婚式すら挙げれない愛しい相手に、異国から嫁いできた年若い姫君は嫉妬の対象であったのだろう。
ジェラルドが生まれたとき、クリスタはたいそう喜んだそうだ。父である王もまた、初めて出来た子供にとても喜んだ。クリスタは懐妊の気配のない王妃を嘲笑し、離宮で一人勝ち誇っていたという。だからこそ、ジェラルドに対するクリスタの愛情は異常なほどで、酷く執着されている。ジェラルドが王宮から出て、家臣になるために養子になったりしないのは、クリスタが手放したくないと王に言っているからという話さえあった。
ジェラルドとしては、早々に家臣になって王宮から出たいと思っているけれど、最近はいまの立場でも良い気がしてきた。
それは腹違いの弟のレオナルドだ。
この国の正当なる後継者、王太子レオナルド。正妃エリヴィアによく似た容姿を持ち、うっすらと微笑んでいる穏やかな見目は、まさに絵本から出てきた王子様だ。だがそんな彼が顔を曇らし、今にも泣き出しそうな顔をする事がある。
ジェラルドよりも剣が上達しなかった時、魔法がうまく使えなかった時、勉強が出来なかった時。
数えれば沢山あったが、何より一番悲しげだったのは、彼の婚約者であるルチアーナと自分とが親しく喋っている時だった。あの時の見捨てられたような、絶望したかのような、レオナルドの顔。
そうして誰も居ないであろう物陰で、静かに涙を流す姿に、ジェラルドは正妃エリヴィアを初めて見たときと同じ感覚を味わったのだ。
正妃エリヴィアに出会ったのは、まだ幼い頃だった。母クリスタから、庭から出てはいけませんと言われていたのだけど、幼心に芽生えた冒険心は抑えきれず、庭を抜けて王宮の中庭へと進んでいった。そうして綺麗に刈り込まれた草木に隠れるように、しゃがみ込んだ赤いドレスの女性を見つけた。
白に近い金髪に、同じ色の睫毛がふるりと震えている。そうしてその美しい瞳から、涙が零れ落ちていた。それが雪の結晶のように、光を弾いて輝いている。ああ、絵本で見た妖精のようだと、ジェラルドは思った。なんて、なんて綺麗な生き物なのだろう。静かに涙するその姿に見惚れて、ジェラルドは動く事が出来ないでいた。
しばらく見つめていると、エリヴィアはジェラルドに気付いたのか、涙を拭いて立ち上がった。そうして優しい声色で、ここに来てはお母様に叱られますよと言って、離宮に戻るように促したのだ。
クリスタに見つかる前に戻ることが出来たが、その日はエリヴィアの涙する姿が目に焼き付いて眠れなかった。あの美しい人はどうして泣いていたのか気になって、そしてまた会いたいと思うようになった。
次に会えたのは、レオナルドが生まれて少しした頃だ。
やはり母クリスタの目をすり抜けて、中庭へと入り込んだ時、ちょうど庭にレオナルドと散策に来ていたエリヴィアを見掛けた。レオナルドを愛おしそうに抱き締め、聞き慣れない異国の子守歌を歌っている。その声色はとても澄んでいて、やっぱりあの人はとても綺麗なんだと思った。
優しい笑みを浮かべ、レオナルドの額に口付けを落とす。異国の言葉で話し掛けている姿は絵画の様だ。
何も知らずあの人の腕の中で眠る赤子が羨ましくなったのを覚えている。思い返してみれば、あの時初めてレオナルドに嫉妬したのだろう。あの素晴らしくも美しい光景は、その後は見ることが出来なくなった。家臣の誰かか、それとも女官か、王に幼い頃から異国の言葉を聞かせるのは悪影響ではないかと進言し、エリヴィアは母国語で我が子と話す事を禁じられた。
エリヴィアはサントリクィド国の公用語を習ってはいたが、会話があまり上手くなかったらしい。だからかエリヴィアは、段々とレオナルドの側にいる事が少なくなり、乳母に任せきりになった。
ただ跡継ぎを産んだエリヴィアの地位は確固たるものとなったので、クリスタが嘲笑しようとも撥ね除ける強さを持つ女性へと変貌した。もう中庭で誰にも見えないところで涙を声もなく流す、か弱い少女ではなくなったのだ。
その頃になるとジェラルドは自由に行き来出来る範囲も広がり、エリヴィアと会話する事もあった。だがもう、あの顔が涙で濡れる事はないのだろうなと思うと、少し寂しい気がした。
エリヴィアは公務を積極的に行うようになったが、レオナルドに興味がなくなったわけではなかった。眠っているレオナルドの頭を優しく撫でて、額に口付けを落としている姿を何度か見掛けた。ジェラルドはいつも物陰からそっと、彼女達の姿を見つめていた。飽きることなく、食い入るように。
そんなエリヴィアだったが、ひとつ顔を歪める事があった。
レオナルドの教育が始まったとき、ジェラルドより出来が悪かったのだ。といってもレオナルドは別に頭が悪いわけではないし、何一つ劣ってはいない。ただジェラルドの方が物覚えが良かったのと、長時間座って教師と勉強しているのが苦痛ではなかっただけだ。
勉強をしている間は、母クリスタの束縛から抜け出せるのだ。本を読んでいればこの子は賢いと喜び、剣の稽古や魔法の練習をすれば才があると喜んだ。その時間は邪魔をする事なく放っておいてくれるので、ジェラルドは一層学ぶ事に力をいれた。その結果が幼いながらも優秀な成績を収めているというだけだった。
ごく普通の子供なら、こんな事あり得ないのに。
教師達はジェラルドが追い詰められるように勉強しているのにも気付かず、ただただ賞賛するばかり。そしてレオナルドを出来の悪い王子だと嘆いて、ジェラルドが王太子ならばと言っていた。公妾の子が王になれるわけがないし、なってはいけないと、国の法律の書かれた本にちゃんと書いてあるのに、そういう事を言うのは不敬となるのに、王宮で話している姿を見て、なんて馬鹿な大人なのだろうと思った。
けれどその嘲笑こそが、エリヴィアの顔を歪めさせたのだ。
自分の行動がエリヴィアの表情を変えさせるなんてと、ジェラルドは少し楽しくなって、ますます勉強に打ち込むようになった。このままいけば、いつかエリヴィアは涙を流してくれるのではないか、そう思ったからだ。
けれどそれは脆くも崩れ去った。
なんだかエリヴィアの様子が変わったという話を聞くようになった。レオナルドに厳しく当たるようになったとも。
クリスタは気味が悪いと本気でエリヴィアの様子がおかしい事を訝しんでいて、ジェラルドに離宮から出てはいけないと言いつけた。いままでもクリスタはジェラルドにべったりだったが、ますます束縛するようになったのだ。一体どのようにエリヴィアが変わったのか気になったが、クリスタはジェラルドを側から片時も離さなかったので、見に行くことは叶わなかった。
そしてそれから少しして、エリヴィアが死んだ。
急な流行病だとされ、棺の中に納められたエリヴィアの顔すら見ることが出来なかった。
その死に顔が恐怖に歪んでいて酷く変貌していたからと、侍女達が噂しているのを聞いたが、どこまで本当かはわからない。ただもう、二度とあの綺麗な人には会うことが出来ず、涙すら見れないのだという事実に、ジェラルドの胸はぽっかりと穴が空いてしまったかのようだった。
こんな事になるのなら、クリスタの手など振り切ってエリヴィアに会いに行けば良かった。
覗き見るだけでなく、もっとちゃんと話し掛ければ良かった。
ああそして、泣いているところを見せて欲しいと請えば良かった。
盛大な葬儀が行われている間、クリスタは珍しく離宮を出て他の公妾と裏方の仕事を請け負い忙しくしていたので、ジェラルドは一人で過ごす事が出来た。離宮で過ごしているのも飽きたので中庭に出てみれば、木々の陰に隠れるように蹲る人影を見つけた。
そこにいたのはレオナルドで、あの日見たエリヴィアと同じ、声もなく涙を流す姿があった。
何故いまここにという疑問すら吹き飛ぶほど、声を掛けるのも忘れて、ジェラルドはその姿を食い入るように見つめた。
あの人はいなくなってしまったけれど、あの日見た涙がここにある。これは精霊のお導きなのだろうかと、大して信じていないそれにジェラルドは感謝し、そうしてこれは自分に与えられた物なのだろうと確信したのだ。
ジェラルドと比べられると、隠れて涙を流す姿を見掛けるようになった。ジェラルドがルチアーナと仲良くしていると、顔を歪める姿を見るようになった。
自分の行動一つで、感情を露わにするその姿が何よりも、背筋を震わす程の快感をもたらすのだ。
レオナルドの婚約者であるルチアーナは、幼い頃からよく王宮に顔を出していた。顔を出すのはレオナルドと婚約したのだから、何一つおかしな所はない。
ないのだが、不思議と彼女はレオナルドではなく、自分の方と話をしたがっているようにも見えた。歳はレオナルドより下なのに、話す内容は大人顔負けであり、これはもしやテレシアの影響なのではないかと思うほどだった。むしろルチアーナ自身の考えではなく、テレシアの考えを彼女が代弁しているのかと、そう思うほどに。
真偽はわからないが、ジェラルドはそう感じたので、ルチアーナを丁重にもてなすことにした。まあそうすると、レオナルドの顔が歪んで愉しいというのもあったが。
テレシアは我の強い人物で有名で、王妃であった姉よりも周囲に影響力があったのではないかと言わしめる人物だった。否、そうだったからこそ、厄介事を避けるために当時の王はテレシアの父である先王に、領地を与え大公の位を与えてはどうかと進言したそうだ。本人は大公領を貰って当然と思っているようだが。甥に当たる現王に詰め寄れるのは、彼女くらいなものではなかろうか。
孫娘のルチアーナを溺愛しており、何故かレオナルドを嫌っているのは知っていた。
ルチアーナにさり気なく聞いてみたことがあるが、言いづらそうに自分が婚約したくないと言ったからかもしれないという、理由らしい理由ではなかった。詳しく聞いてみれば、ジェラルドの評判が良くレオナルドの評判が悪い、という事も起因していたようだ。
それを知ったジェラルドは、テレシアの事も内心見下した。クリスタの周りにいる大人と変わらぬ、面倒な頭の人なのだと馬鹿にした。結果ばかり見て、その過程も理由も知らずに相手を評価するとは、なんて愚かなのだろう。
そんなテレシアがジェラルド本人に用事があると、王宮にやってきた。現在、レオナルドは各領地を視察していて、少し前まではソナリス大公領を見ていた筈である。もしやその時の文句ないし愚痴を言いに来たのかと身構えれば、いつになく真剣な面持ちでテレシアは口を開いた。
「…ジェラルド。ここにいると、貴方に危険が生じる可能性があります」
唐突に何をと問えば、成人しているのにいつまでも離宮に住んでいるのは、どうにも変な勘ぐりを入れられるのではという杞憂かららしい。公妾の子は王位継承権などないが、優秀だと言われ続けるジェラルドが離宮にいるのは、いつか王や王太子から邪魔とされ命を狙われるのではないかと、テレシアは言った。
ジェラルドも離宮に住みたくて住んでいるわけではない。出来るのならクリスタと離れたいし、いい加減中途半端なまま燻っているのも御免だ。
ただここに居て唯一の楽しみは、レオナルドの泣き顔を見れる事だが、学園に入学していて最近は中々顔を合わす事も出来ない。先日は、可愛らしい初恋のような相手をこれ見よがしに気に掛ければ、憤ってジェラルドに詰め寄ってきた。
そして少し、ほんの少しジェラルドが不満を口にすれば、ぼろぼろと涙を零してくれた。ああ、あの顔でしばらく楽しめていると、ジェラルドはそっと口の端を持ち上げる。
「笑い事ではありませんよ、ジェラルド。……私はお前の事を気に入っているのです。レオナルドが王太子であるのは仕方ないとしても、一度王宮を離れて機を待つのも良いでしょう」
随分と焦臭い事を言ってはいないだろうか、テレシアは。もしジェラルドが王位を望むなら、レオナルドは殺さなければならない。ジェラルドが直接手を掛けるわけもなく、きっと事故死や病死となるだろう。そんな事をしたら、また唐突にあの綺麗な涙を見ることが出来なくなってしまうではないか。
だからテレシアに、自分はそういう気は一切ないことを話す。すると何を勘違いしたのか、テレシアは貴方はなんて欲がないのと、感動さえしているようだ。欲なら人並み以上にあるが、それを表に出すような愚行はしない。いままでも、これからもだ。そのお陰で、レオナルドにほんの少し素を出して接しても、問題ないのだ。レオナルドが誰かに相談したところで、嘘だと言われる程度には、周りから今の自分は信用されている。
「…以前から、離宮で暮らすのもどうかと、何度か王には言っていましたが。なんの返答もないので、困り果てていたところです」
「なんと、そうだったのですね。では私から、直接進言してあげましょう」
テレシアが提案してきたのは、ジェラルドをソナリス大公の養子として迎え入れたい旨だった。
なるほど、自分の気に入った者を側に置きたいのだろう。
ジェラルドを束縛する相手が、クリスタからテレシアに変わるだけかと思った。まあテレシアはクリスタよりも血縁が薄い。四六時中べったりという事はないだろうから、ここにいるよりはマシだろう。
ジェラルドはテレシアの提案に、了承の意を示した。
後日、王宮の執務室に呼び出された。間違いなく、テレシアからの提案の事だろうが、果たしてどうなったのかと思いつつ、ジェラルドは扉を開けた。そこには宰相と騎士団長も居て、父王は何やら書類を見て険しい表情を浮かべていた。そうしてジェラルドをちらりと見ると、其方の今後についてだがと口を開いた。
「…テレシア叔母上から、お前を是非にソナリス大公の養子にしたいと言われた。あそこはレオナルドの婚約者であるルチアーナ嬢しか子供がいないことは知っているな。だから以前から養子をと願われていたが、叔母上はお前を指名してきたのだ」
この話どう思うと聞かれたので、お許しが出るのなら受けたいとジェラルドが答えると、父王は僅かに目を見開いた後で、それなら養子の件は進めていこうと言った。案外あっさり承諾されたものだと思っていると、宰相がこれをと書類を渡してきた。
「王家から出るので、色々と制約があるのです。よく読んで、よろしければサインを」
「はい」
書面には王家を出たら、家臣扱いになるのでもう離宮に気軽にくることは出来ないなど、ジェラルドとしては有難い内容ばかりだ。だが最後の方に書かれた一文に、ジェラルドは首を捻った。
「…宰相、これは」
「ああ、その要項ですか。実は、それが最重要事項というか、それを承諾できなければ養子の件は許可できないと…」
父王を見れば頷いている。一体どういうことだろうと説明を求めると、実はと宰相が困った表情で言った。
「ソナリス大公領は、目に見えて豊かなのはご存じですよね。それで、養子になりたいという貴族が沢山いるわけです。下手な人物がなれば、王都に弓引く可能性すらあるのですよ。…ジェラルド様がそのような事をしないと信用に値する人物だからこそ、養子にしたいというテレシア様の要望を通したわけですが」
養子が駄目なら今度は結婚相手を送り込んでくるのではないか、という事もあるのだ。ましてやジェラルドは長年王宮に居て、貴族の令嬢に人気のある人物であることは知られている。大公領主夫人という地位は、馬鹿をやらかす貴族には甘すぎる餌なのだそうだ。宰相の言い分は十分わかるが、それにしてもと最後の一文を読み上げた。
「養子となるには、既婚であること…ですか。いまの自分は結婚すらできませんが、これは相手が居て承諾してもらえたら、すぐにでも出来るというわけですか?」
「ええ、そうですね。…どなたか、気になる方がいらっしゃるのですか?」
ようやく離宮から出れるチャンスだが、ここでもたつけば間違いなくクリスタの邪魔が入るだろう。ああだこうだと言い出して、ジェラルドの結婚を阻止するに違いない。ならばちょうどよいとばかりに、ジェラルドは先日出会った彼女の名前を出した。レオナルドへの当てつけでもある。
「ジルダ・トフォリ嬢を」




