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真っ暗な空間に投げ出されたが、側にいるルキノの後ろから神々しい光が現れた。まるでライオンのような顔に筋骨隆々な体は獣のような毛で覆われていて、ご丁寧に翼まで生えている。可愛い可愛いレオナルドの世界の人間が見たら、精霊だと人語を話せば納得しそうだなと思った。もっとも、自分のいた世界の住人も、あの姿を見れば恐れおののくだろうが。
「精霊王様! いまここに、貴方に捧げる生け贄を……!!」
ルキノが叫びながら、のど元に手を伸ばしてくる。女言葉に化粧をしたルキノの見た目に誤魔化されがちだが、割と大柄で逞しいその手は、女の細腕では抵抗出来そうにない。リリーディアであるなら当然だが、残念ながらいまルキノが首に手を掛けようとしている女は、彼女ではないのだ。口の端を持ち上げ、リリーディアらしからぬ笑みを浮かべて、伸ばしてきた腕を掴み締め上げる。
いくら万物を超越する力がなくなったとはいえ、人間の若造一人くらいひねり潰すのは簡単な事だ。腕を引きちぎらないように、優しくそっと掴んであげれば、痛みと驚きにルキノの顔が歪んだ。ああいいなぁ、その恐怖のない交ぜになった表情はどんな奴でも堪らなく良い。ただ残念なのが、ルキノは同胞の奴の獲物なので、勝手に手出しが出来ないという事だろう。
「ルキノ・バルバード。お前は知っているか? ヒヒヒ、お願い事を叶える代償をさぁ」
べろりと舌を出して話し掛けるが、ルキノは目を見開くだけだ。ああ、リリーディアの姿のままじゃ話にならないかと、女の姿を象る。赤いドレスはレオナルドのお気に入り、子供の頃に母様が着てて綺麗だったと教えてくれたから、女の姿を象るときはこれと決めている。本当はもっと官能的な姿も出来るが、レオナルドはこの位がお好みのようなので、胸元を強調する程度に抑えている。まあ出し過ぎは下品だからなぁ。
リリーディアの姿じゃなくなると、ルキノは誰だと叫んでいる。誰だと言われても、名前を教える悪魔は居ないさ。どんな間抜けな悪魔でもな。
「誰だっていいだろう、ルキノ。それよりも、本当に何も聞かされていないのか? そうなると、少々ルール違反じゃないかぁ、なあ」
ルキノの後ろにいる奴に声を掛けるが、返答はない。その代わりというように、ルキノが叫ぶように言った。
「自分自らの手で、生け贄を捧げろと…! そうすれば私は、この国の王になれると、そう導かれたのだ……!」
目は血走り、狂気の一歩手前をあるいているようだった。まあ英雄や聖人なんてのは、多少狂ってなければなれやしないから、もしここがレオナルドが王太子の国じゃなければ、ルキノはやり遂げただろう。
タマシイを食われた物言わぬ兵と共に、王都を制圧し、刃向かう者あれば、精霊王の加護の下で粛清し、血で血を洗う素敵な暗黒時代を築き上げるだろう。帝国でフートヘルムが帝位を継げば、さらに戦乱渦巻く世になるはずだ。ただそれは、長い時を生きてきた自分にとっては少し物足りない。いや、そういう時代を好む同胞もいるが、もっと人を陥れたりする方が好ましいので、いまの状態を維持していたい。そちらの方が死を覚悟する人間などより、よっぽど堕落させるのが楽しいのだ。平和の中にこそ、悪魔が好む陰湿さがあるのだ。人間そのものが狂気に駆られるだけでは、物足りなさすぎる。
「一つ目は自分の未来。二つ目は自分の意のままに操れる兵士。じゃあ三つ目は?」
三つ叶えたから生け贄を捧げようとしたのだろうと言えば、ルキノはそうだとこちらを睨んでくる。
「ヒヒヒ、じゃあ俺様を殺して捧げるかぁ。それは無理だな、だってお前の後ろにいる奴の同胞だからなぁ」
「嘘を言うな…!」
「なら聞いてみるといい。教えて下さいとな」
ルキノが焦ったように、後ろのそれに声を掛けるが、反応はない。だろうなぁ、だってそれは張りぼてのようなもので、実際はこの暗闇そのものが奴なのだから。タマシイと肉体を同時に飲み込んでみたものの、同胞がいて面倒だなと思っているのだろうな。自分より弱い相手なら屈服させるが、実力を測りかねているのだろう。
黒い空間が震え、聞き慣れた言語で話し掛けられた。ルキノにとっては金切り声で叫ばれているのに等しいだろう。耳を押さえ、必死に堪えている。だから久々の懐かしい言語で会話を楽しむ。まあ普通の人間が五分も聞けば気が狂うだろうがな。
俺達がいた世界は文明のレベルがかなり発展していた。そして平和な国もあれば、戦争をしている国もある。混沌としていて血生臭いのに、倫理観や正義を訴える。なんて素敵な世界なのだろうとも思うが、色々と制約が多すぎた。大昔、善と悪、光と闇、神と悪魔、天と地、呼ばれ方は様々だが、力ある存在は二つの派閥に別れた。
そうして中立な存在の人間達に手出しするのはやめようなんていう約束を、一番上の奴らが決めてしまった。強い奴が偉いというルールだから、文句を言いたければ一番上をとるしかない。力がある奴らは、強力な結界に阻まれて、人間の住む世界に行くことすら出来なくなってしまった。
強力な力を持つ悪魔や天使は、人間の耳元で聞こえない声を囁き、善と悪に傾く心を見て楽しむ。それより力を持たない者なら、人間の呼びかけに応じて、結界を無理矢理通り抜ける。そして人間が望んだからという制約の下で、万物を超越する力で三つの願いを叶えるのだ。その代わり、天使共は三つの試練と称して人間を試し、奇跡を授けている。
善き人間がうまれたのなら、悪き人間もうまれる。すべてが半分ずつバランスを保っているのだ。
人間の耳元で囁きかけるのもいい加減飽きていて、古くからいる者は大半が眠りについている為、顔馴染みは減っていく。人間の恐怖や嘆きこそが力の源だからこそ、力を失って消滅する者もいれば、新たに産まれる者もいる。最近では、インターネットや携帯電話の回線に入り込んで力を貪っている同胞もいるが、昔から存在している自分には、ちょっとその辺りのはあまり美味くない。
仕方ないから暫く眠るかと思っていたところに、人間のタマシイが不自然に消えるのを見た。悪魔や天使がそれぞれ奪っただとか、時々見るタマシイ自体の消滅とも違う。
そしてタマシイが消えた後、僅かに空間が歪むことがあるのに気付いた。この糞みたいなルールを破っている輩がいるのか、しかしそうなると神と悪魔の一番強い奴らより強力な力を持っているという事になる。
そんな存在、新たに生まれたとしたら、それこそいまいる世界がもう一度改変するだろうな。まあ実際は違ったが。
異世界の神とやらが、この世界のタマシイを奪っているのだ。
なんという事だろう。こちらはとんでもなく苦労して、美味なタマシイを食べようとしているというのに。
ルールすら無視して、こちらの大事なタマシイを取るとは。
こことは別の世界にいけば、もしや制約に縛られることもなく、自由にタマシイを食べ放題できるかもしれない。新しい誰にも荒らされていない狩り場。どうせこの世界にとどまっていても暇をもてあましているからと、一つのタマシイが異世界に引っ張られる瞬間を狙って、次元に穴をあけてこの世界にやってきた。
神と悪魔の概念がない世界だったから、力がだいぶ弱体化したので、三つの願いと引き替えにタマシイでも食らって力をつけなければと、鏡の隙間を渡り歩いていたとき、偶然合わせ鏡を行ったお子様に呼び出されたのは、予想外だったが。
そして願われた願い事も。
その願い事のおかげでレオナルドの側に居るのが楽しいし、タマシイも幾つか頂けた。あちらの世界にいる時よりは、隠れてたまに食べているのを合わせて、わりと多く食事をとっている。それもじっくり味わったり痛めつけたりしながら。
レオナルドの願い事、一つ目は僕を愛して。二つ目は僕の側にいて。
その望みがあるので、自分は消滅する事はない。万物を超越する願い事を叶える力は、自身にも有効なのだ。だから、何があっても自分は、レオナルドの側に居続ける事が出来る。だからこそ、こうしてもう一匹の悪魔と対峙していても問題ないのだ。食らったタマシイの数はどちらが多いやら。嘆きや苦痛などの陰惨とした感情がこもったタマシイをそれなりに頂いてきたから、ああやって獣のような姿をしているだけの新米など、簡単にひねり潰せる。
悪魔の言葉でそれを言ってやれば、苦し紛れに自分とルキノのいる空間を縮めてきた。まあここは、奴の胃袋の中だから、当たり前だが。
「ルキノ・バルバード。お前、一つ目の願い事を正確に言ってみろ」
「あ…ひっ、ひぃ…!?」
「言え」
長いこと悪魔の言語を耳に入れ続けた所為か、ルキノの目が虚ろだ。仕方ないのでその目をのぞき込み、話が出来る状態にさせる。こちらの目に怯えながらも、最初の願いはと震える声で言った。
「わ、私のこの記憶が本物なら、成し遂げるまで正確な道筋を教えて欲しい…と」
「ヒヒヒ、なるほどな、だからか」
だからルキノのタマシイを奪えなくなったのか。いまここで自分たちを食らおうとしているこの悪魔は、ルキノのお願い事を聞いてしまった所為で、ルキノが反乱を成功させ事を成し遂げるまで、側で助言を与え続けなければならないという事か。
目の前のご馳走が食べれずお預けをくらうだなんて、滑稽で愉快だな。
真っ暗な水桶の中を覗いていると、うっすらと白い手が出てきた。見覚えのあるそれをつかみ、僕の方へと引っ張る。隣に座っていたリリーディアは悲鳴を上げかけたが、自分の手で口を押さえて堪えている。うん、それが正解だ。
ずるりと音を立てて、頭から真っ赤な血のような物を被ったカラが、燃えるような赤い髪を体中に貼り付けて出てきた。体に貼り付けている魅惑的な赤いドレスは、濡れて血だまりを作っている。そして僕が掴んでいる腕とは反対の手で、気絶しているらしいルキノの腕を引いていた。
「話し合いは、終わったのかな」
「ヒヒヒ、同胞は説得が楽でいいなぁ。胃袋ごとぶち抜いてやったから、しばらく動けないだろうなぁ。なにせ、ここじゃ俺様達を恐れる人間なんていやしないから、タマシイ以外で力を取り戻すなんて無理難題だぜ。ヒヒヒ、ああ久しぶりに楽しかった」
いつものカラの口調に、リリーディアは固まったまま動かない。というか、同世代の男学生だったのに、年上の蠱惑的な女性に変わっているのだから、驚くしかないだろうな。
「ルキノ・バルバードの三つ目の願い事を教えてもらったぜ。そこのリリーディアの死だ」
「ええっ!!?」
唐突に名を呼ばれ、リリーディアは今度こそ驚きの声を上げた。私がどうしてと顔を青ざめさせて聞いてくるので、僕もカラの方へ視線を向けた。
「ヒヒヒ、この男はどうやらそうとうリリーディアに執着してたなぁ。どこぞの胡散臭い精霊王の与えた記憶の所為で、この国の王位を剥奪するのに最大の障害はお前だと思い込んでいたようだ」
「そ、そんな。私、殺されちゃうんですか?」
「いいや、大丈夫さ。これから俺様の言うことを行えば、殺される事はないぜ。ヒヒヒ、ただしだ。精霊王と名乗っていた奴は質の悪い闇の精霊で、強力な呪いを扱うんだ。その呪いを跳ね返すから、リリーディアには協力してもらいたい」
「はいっ、それはもちろんですけど……」
何をさせられるのかと不安な顔をしたリリーディアに、カラが笑みを浮かべて言った。
「簡単なことさ。ヒヒヒ、月に一度か二度、忘れることなくルキノに食べ物を届けて食べさせるんだ。なに、手作りなんかじゃなくて、どこかで買った適当な物でもいいぞ。それを三年間、かかさず行うんだ」
「さ、三年も?」
「ルキノは三年前からお前を呪って命を奪おうとしていたんだぞ、それこそ同じ年月が掛かる」
ぐったりと床に倒れているルキノを、リリーディアが顔を歪ませて睨んでいる。それもそうだね、理不尽な理由で恋心を弄ばれた上に、殺される所だったとなれば。
「いいか、リリーディア。そしてお前は、三年後の今日、一言一句違えずこの言葉を言うんだ」
忘れたらいつでもレオナルドに聞くと良いと、カラは顔を歪ませて笑う。その言葉を聞いても、リリーディアの目に怒り以外の感情が映ることはない。
「お前がそれを行う三年間は、こいつから命を狙われる事なんてないから、安心するといい。忘れたりすっぽかしたりしなければ、な」
「……分かりました。そうですね、さっそく何か持ってきます。お母様が今日、焼き菓子を作ったので、それにしましょう。ええ、バルバード領で採れるめずらしい木の実をつかって焼いた、素朴ですけど美味しい焼き菓子なんですから」
そう言って笑ったリリーディアの顔は、可愛らしいというより美しいと形容するべきだろう。新しい毒を含んで、リリーディアは美しい娘へと変わったのだ。それではと言って、部屋を出て行く。カラの事など気にした様子もなく、何があったかなんて聞きもせずだ。
「それで、ルキノの三つ目の願い事は?」
「ヒヒヒ、もし自分がリリーディアに恋をして、リリーディアも自分に恋をして、相思相愛になったら彼女を殺せ」
なんだかなという願い事だ。つまりリリーディアは、あの時ルキノの興味を惹いて恋されていたら、死んでいたという事か。まあリリーディアとハッピーエンドが、反乱を止めるって事だしね。王位を剥奪したいんじゃ、そりゃ何よりの障害だ。でもそんな大きな計画すら諦めるくらいの素敵な恋なら、王位なんかよりもっと良いものだと思うんだけどね。
「グラードの手の者が来るだろ。とっとと引き渡せば、これでルキノの暗躍はおしまいだ。リリーディアが学園に戻ったら、彼女を追いかけ回す侯爵子息のできあがり」
「なんで? リリーディアがルキノに何か食べ物を持って行くだけでしょう?」
「もはやこいつには、リリーディアに恋してもらうしか、生き残るすべがないことを教え込んできたからなぁ。ヒヒヒ、いいか、もう助言をしてくれる精霊王はいない。まあ奴は死んでないから、ルキノが死ぬまで待っているだけだろうけどな。可愛いレオナルドとグラードの協力で、反乱の芽は秘密裏に始末した。となれば、もうルキノは反乱を成功させる事は不可能。ヒヒヒ、悪魔と三つの願い事をしてしまったんだぜ、代償は自分のタマシイだって言ったら、恐れおののいてたぞ」
自分の手で殺した誰かの命でも良い場合があるけど、ルキノが契約した悪魔はもうそんな事では許さないだろう。ルキノが王になるために反乱を起こすからこそ、大量のタマシイを手に入れられると思っていたのだから。それこそ、それと同等の虐殺でもしなければね。
記憶が本物なら成し遂げるまで助言をと言った。もうルキノの記憶の通りの世界は終わってしまったのだから、助言をしなくても良い事になる。まあその辺をちゃんと話さないあたりが、悪魔なんだろうけど。この屋敷に来た事が、ルキノにとっては記憶通りの世界からの脱却だったのだろうし。
その辺りを丁寧に説明していくうちに、ルキノは可哀想なくらい恐怖に震えていたそうだ。
リリーディアを殺すという願い事を叶えれば、そのタマシイで代償が払えるぞとカラが囁き、ルキノはそれならと泣きながら懇願したのだ。カラ曰く、ルキノに取り憑いていた悪魔はそれで良いと了承したそうだ。
本当にと問えば、悪魔は嘘はつかないが本当のことは言わないんだと笑った。大方、リリーディアのタマシイをもらえたら考えておく的な返答だったのだろう。願い事で奪ったタマシイだ、それこそ代償分には入らないだろうに、ルキノは気付いているのかな。
「リリーディアになんて言うようにいったの?」
「ああ、それは」
ひそりと、カラの真っ赤な唇が耳元を擽る。紡がれる言葉を聞いて、僕は口の端を思わず持ち上げた。
それはとても、素敵な報復だ。




