28
せっかく綺麗な髪でしたのにと、アンナが残念そうに呟きながら、私の髪の毛を切り落としていく。
「リリーディアさんの髪は、触り心地が素敵なんです」
そういって優しく髪に触れる手は温かく、私はその心地よさに目を閉じた。長かった髪は、炎で焦げてボロボロになってしまったので、もう切るしかなかった。綺麗にする為に切っていくと、ちょうど肩口くらいの長さになってしまう。
私の髪の毛を綺麗だと言ってくれた人の中に、ルキノ・バルバードも居たので、いま思い出しても恥ずかしさで泣きたくなってしまうから、短くなって気持ちがすっきりした。これからまた髪を伸ばせば、今度はアンナさんが褒めてくれた髪に生まれ変わるような気がしたからだ。
私達がヘルハウンドの群れに襲われたため、合同演習は中止になった。怪我を負った生徒は医師に診てもらうため、学園を休んでいる。私の怪我も結構酷かったので、お母さんのいるこの宰相様の別邸へ戻ってきていた。心配だからとアンナさんも付いてきてくれていて、しかもレオさんも私達が住んでいる別邸とは反対に建っているもう一つの建物の方で、療養するそうだ。
王宮に帰らないのかなとアンナさんに聞いてみたら、悲しそうな複雑な笑みを返されたので、聞いてはいけない事だったみたい。王子様は幸せに暮らしているとばっかり思っていたけれど、なんだかとても大変そうだ。貴族様も贅沢な暮らしで幸せなのだろうと思ったけど、それもやっぱり違うみたい。
何故魔物が現れたのか原因がわからず仕舞いで、学園の方でもっと詳しく調査するそうだ。魔物は突然出てくるとばっかり思ったけれど、ヘルハウンドは巣を作るからかならず現れる兆候がある筈だと先生達が話していた。今回の事は、王太子であるレオナルドさんを巻き込んだから、しっかりと調べて王宮に提出しなければならないそうだ。
魔物に向かって強力な魔法を放った人達、ジャンカルロさんとルチアーナさんの二人は学園から表彰されることもなく、生徒達を巻き込んだ魔法を撃った事で厳重注意を受けていた。ただ森を抜けた丘の方にいた生徒達から非難の声があがっていて、二人は生徒達を魔物から救った英雄なのに、だそうだ。
逆に魔法に巻き込まれた生徒達からは、恐ろしいものを見る目で見られていた。ルチアーナさんは私が入学してすぐに、カルロさんに話し掛けようとして鍛錬場に入ろうとした時に、入れなくなるような魔法を掛けてきた女の子だった。なんだか彼女からやたらと目の敵にされているような気がする。接点なんてない筈だけど、入学当初の私の状態は酷かったから、何か気に障る事をしでかしたのかもしれない。
ともかく、私はなるべくルチアーナさん達には近づかないようにしておこう。
私とレオさんと一緒に、アルバーノさんも学園から帰ってきていた。炎が消えた後、とても顔色が悪くて具合が悪そうだったけど、その日の夜に発熱して倒れてしまったとレオさんが言っていた。医学の発達している帝国の知り合いを呼ぶと言って、何人もの人が忙しなく出入りしているのを見掛けた。そうして何日かして、私と同じように髪が焦げた所為で、綺麗な髪を短く刈り込んだレオさんがやってきて、アルバーノはなんとか助かったよと言った。
お世話になっている宰相様は何度もレオさんにお礼を言っていたけど、アルバーノさんの姿は見えなかった。その日の夜に、私達が住んでいる別邸にレオさんが訊ねてきたので、アルバーノさんの事を詳しく聞いてみた。そうしたら、容態は安定しているけど、まだ起きる事が出来ないそうだ。
しばらくは父親である宰相様みずからがお世話をするから、もう一つの別邸には決して近づいてはいけないよと言った。私は素直に頷いて、どうか早くアルバーノさんが元気になりますようにと思った。私のお父さんのように死んでしまったら、もう言葉を交わすこともできないのだから。
レオさんが夜中に訪ねてきた理由は、私にルキノ様の事を聞くためだと言った。
「ルキノ様の事ですか?」
「そうなんだ、君が入学してから今まで、彼からなにか接触はあったかい?」
思い返してみれば、入学式で見掛けて以来、ルキノ様の顔を見ていない。私はほとんどアンナさんと一緒にラウンジに居たけど、通り過ぎる生徒の顔の中にもいなかった。それを素直に言えば、レオさんは何やら考えている様子だった。何を考えているのか気になるけど、こういう時は黙って待っていた方が良いとアンナさんが言った。いまもアンナさんは、私達の会話に入ることなく、微笑みながら見守っている。
アンナさんは子供が産めない体で、そういった行為ももう出来ないと言っていた。けどレオさんはそれを知ってもなお、アンナさんを公妾にした。アンナさんが言うには、友達を作ろうとするとこうしなきゃいけないそうです、だって。最初は良く分からなかったけど、レオさんが私に勉強を教えてくれていた時、男爵令嬢に入れあげる王子様なんて噂が立って、アンナさんが言ったのはこういう事だったのかと理解した。
二人っきりになったわけじゃなく、レオさんが私に触れたりだとかしたわけじゃないのに、こんな噂をされるなんて、凄く苦しいのだろうなと思った。レオさんは婚約者がいると言っていたけど、あまり仲が良くないみたい。そういえばその婚約者の名前がルチアーナっていっていたので、あの女の子と同一人物なら、私が目の敵にされるのも納得出来た。
私が婚約者のレオさんと一緒にいるから、嫉妬したのだろうか。でもそこまで考えて、ルチアーナさんは私をそういう目で見ているわけじゃないと思った。だってレオさんと話をしている彼女を見掛けたけど、とても嫌そうだったから。じゃあレオさんの事が好きじゃないのに、どうして私に当たるのかさっぱりだ。貴族様は見栄とかを気にするっていうから、そのあたりで彼女の気に障ったのかも知れない。そうなるとレオさんには本当に迷惑を掛けてしまったと思う。
「やっぱり一度、バルバード領の方に行ってくるしかないね」
「え、一人でですか? 王都と違ってバルバード領って悪路が多いから、慣れてないと危ないですよ」
「もちろん馬車に乗っていくさ。ちょっとバルバード侯爵に会ってくるだけだよ」
正式な訪問じゃないけどねと、レオさんは言う。それなら王宮から誰か連れて行かなくて良いのか聞くと、強い助っ人がいるんだと笑った。本当に大丈夫なのだろうか。王都に来て騎士を目指す人達を見たりして思ったのだけど、バルバード領の兵士の人達はかなり屈強だ。
国境にある領地だからか、帝国の商人や軍人が行き来していて、そのまま結婚とかして居着く人も多い。なので混血も多く、体つきは帝国の人寄りになっている。もしレオさんが襲われたりしたらひとたまりもなさそう。
あのルキノ様だって、体つきは王都の人達に比べればしっかりしているし、背も大きい。でもそういえば、昔はとても小さくて、お兄様達の後をついて回っていたのを思い出した。幼いのに視察にくっついて来ていて、なんだか物知り顔で頷くその姿が可愛いってお母さんが言っていた。私も近くで一度見掛けたことがある。周りは大きな大人ばかりだから、余計に目立っていた。
それをレオさんに話せば、目を細めてなるほどねと頷いている。
「リリーディアに聞きたいのだけど」
そう言ってレオさんは、もしルキノ様が私にもう一度、今度は本気で求愛してきた時、受け入れるのかと聞いてきた。万が一あり得ない事だと言っても、考えてみてと言われたので考えてみる。
ルキノ様には、王都に来たときとても親切にしてもらって、知り合いがいない中で、彼の存在はとてもありがたかった。あれが恋だったのかわからないけど、憧れは確かにあった。それに、領主様の息子さんが私の為にいろいろな物をくれるのは、とても嬉しかった。私は特別なんだって思えて、幸せだったと思う。
けどもう一度、あの時と同じになりたいかといえば、答えはいいえだ。だって、いま思い返せば私、とても無理をしていたもの。
ルキノ様がくれるから、食べてというから、もらった物を必死で食べていた。最初はほんの少し太ったかもなんて思って、お腹がいっぱいなのでと断ったとき、ルキノ様はとても悲しそうな顔をした。そして、もうもってくるのはやめようかなんて言って、もう会いにくるのをやめるような事を仄めかした。私はルキノ様に会いたくて、私から会いに行くことも出来ない身分の人だから、必死にそんな事ありませんと縋って、彼の言うがままに持ってくる食料品を食べたのだ。それはお母さんも同じで、お店の便宜を図ってもらったから、断り切れなかったみたい。もしかしたら私のために、ルキノ様の機嫌を損ねないようにしていたのかもしれない。
どんどん膨れる体に、周りの人達は私のことを嗤って噂していたからなおさら、ルキノ様に縋った。こんな姿でもルキノ様は、私のことを気に掛けているのだから、と。
もしもう一度ルキノ様が私に優しい言葉を囁いたとしても、私にはもうそれを信じる事はできない。ううん、信じるとかじゃなくて、またあの侮蔑の言葉を掛けられるのが怖いのだ。またルキノ様が何かくれたとして、周りの人に嗤われたら、私はもう何もわからなくなってしまうだろう。だからこそ、もうルキノ様とは関わりたくない。
その事をレオさんに言うと、なるほどねと答えた。じゃあ恨んでないのかと聞かれて、私は再び考えてしまう。
ルキノ様の事を恨んでいないのかな。私を手酷く侮辱した時の事は、思い返すだけでも全身を掻き毟りたくなるような衝動に襲われて、恨みだとかそういう気持ちはない。
「リリーディアはルキノ・バルバードがなんで、あんな行動をしたのか知りたくないかい?」
随分と後に思い返してみれば、きっとこの答えは私の一生を左右する物だったようだ。でもこの時の私は、深く考えることもなく、レオさんに知りたいと答えた。そう、私は知りたかったのだ、それがどんな答えが待っていて、この先に何が起こるかも予感すら出来ないままに。
「じゃあリリーディア、僕はそれを調べてくるから。分かったら教えるね。その変わり、後で僕のお願い事ひとつ、聞いてくれないかな?」
「ええ、もちろんです。レオさんにはお世話になっていますもの、どんな事でもお引き受けします」
「ありがとう、とっても嬉しいよ」
優しげに微笑んでくれるレオさんの顔は、とても綺麗だった。思わず頬が赤くなってしまって、私の様子にレオさんがクスリと笑う。けどそれは全然嫌味な笑い方じゃなくて、ますます恥ずかしくなってしまった。
「それじゃ、僕が出掛けている間、アンナはリリーディアに貴族の礼儀作法をしっかりと教え込んでおいて」
近くにいたアンナさんが、わかりましたと了承している。なんで私に貴族の礼儀作法をと盛大に疑問に思った。もしやこれがお願い事なのだろうか。
「お願い事は戻ってきてからのお楽しみだよ、リリーディア。それよりも、礼儀作法は大事だから、ちゃんと覚えておくんだよ」
「あ、あの、こっちに戻ってきて聞いたのですけど、バレージ男爵様が病気で寝込んでいるって。お医者様が、お酒の飲み過ぎで内臓を壊したから、もう長くないって言っていたと、宰相様から教えてもらったのですけど」
もう回復の見込みがないとお医者様が言っていたので、あと少しで亡くなってしまうだろう。そうなると、私やお母さんは貴族の身分がなくなるのだ。一応、少しの間生活に困らない程度のお金は貰えるそうで、しばらくはこの別邸で暮らしていて良いとさえ言われている。けどいつまでも厄介になるわけにはいかないから、お母さんと相談して、早めに働き口を見つけて王都の庶民向けの学校に通いなおそうと思っている。
なので学園の方は退学になるだろうなと考えていたのに、なんでだろう。
「リリーディアさんと勉強するのは、とても楽しいので、もう少し一緒にいさせてください」
アンナさんが微笑んでいるので、もちろんですと私は頷いた。学校が変わってしまえば、身分が違うから頻繁に会えなくなってしまうだろう。けど出来るなら、私はアンナさんとずっと友達でいたいもの。友達というか、彼女を支えてあげたい。烏滸がましいかもしれないけれど、私の中でそれだけアンナさんの存在がとても大きい。
次の日の早朝、レオさんは馬車に乗って行ってしまった。ただしバルバード領に行っているのは内緒だそうで、表向きはここで療養している事になるそう。レオさんが直々に行かなくてもいいのではと言ってみたけど、困ったような顔をさせてしまったのですぐに謝った。自分一人で行った方がやりやすい事もあるんだとも。
でも馬車を見送ったとき、うっすらと人影がもう一つ見えた。
もしかしたら、私達に内緒の誰かを連れて行くのだろうか。そういえばあの赤髪の人はどうなったのだろう。私の上に確かに覆い被さった感触はあったけれど、炎が消えるとともに重さは消えて、赤髪の人は居なくなっていた。学園の制服を着ていたけど、あんな綺麗な赤髪は見たことはない。燃える炎が揺らめいているようで、いつまでも見つめていたい気持ちになる、不思議な魅力のある人。
もしかしたらあの人が、レオさんと一緒に行くのだろうか。レオさんは、私が赤髪の人を見たことは内緒だと言っていた。人に言えない事情のある人物なのか、それともいつの間にか現れて消えるのは、人ならざるものなのか。精霊か何かなのかも。だったら確かに人に言ったりしたらいいけない。
精霊は気まぐれで、人に姿を見られるのを嫌うというし、私が誰かに話した所為でレオさんがあの精霊さんから見放されたりしたら大変だ。アンナさんにも言っちゃいけない。余計な事を言わないように、真面目に礼儀作法の練習に打ち込もう。
そうして少しして、バレージ男爵が亡くなった。
私達は義理とはいえ妻であり娘であったから、お葬式に出席した。アンナさんが付き添ってくれて、色々と手を貸してくれたので、バレージ男爵はあっさりと埋葬されて終わった。
その足で学園に行って、退学届を提出する。届けはあっさりと受理されて、あまり良い思い出のないこの学園を後にしようとしたとき、私を呼び止める声があった。
アンナさん以外で一体だれだろうと思って振り返ると、合同演習の時に同じグループだった貴族の女の子だった。私の短くなった髪を見て、痛ましそうな顔をしているので、またすぐ伸びるわと笑えば、どうしてそんなに平気なのと聞かれた。そして私達が先生を置いて行っちゃったから、酷い目にあったのに怒ってないのとも。
ヘルハウンドが現れて、同じグループの男の子達が担架から手を離して逃げ出したのだ。なので私は転がった先生を助けようとして、逃げ遅れてしまったのだ。
「別に、ああいう時は普通は逃げるのが正解だもの」
「じゃあどうして、先生を助けたの?」
「私のお父さんも、洪水の時に近所の人を助けてて逃げ遅れて死んじゃったの。死んじゃったら何も出来ないのにね。だから私も、何かあったら真っ先に逃げなきゃって思ってたわ。だって私が死んじゃったら、お母さんが悲しむから。……でも、目の前で先生が助けてって言ったから、体が動いちゃった。私もお父さんの娘だったみたい」
私の答えに、貴族の女の子は馬鹿ねと言った。けど泣きそうな顔で微笑んでいたので、嫌味とかじゃないのはわかった。
「…学園、辞めてしまうのかしら」
「もう貴族じゃなくなったから」
どういう事と聞かれたので、お母さんが男爵に見初められて強引に結婚させられた事、その男爵に学園に入れられた事などを話したら、貴方も大変だったのねと同情された。誤解していてごめんなさいと謝られ、私も色々問題を起こしてごめんなさいと謝った。皆に嗤われて嫌だったけど、マナー違反をしていたのは確かに私だから。
あまり良い思い出のない学園だったけど、最後にあの貴族の女の子と話せて良かった。
バレージ男爵が死んだその日のうちに宰相様から話があるとお母さんが呼ばれて、そのあとで私も呼ばれた。
宰相様はいつになく真剣な顔で、お母さんと正式に再婚したい旨を伝えてきた。驚いて固まっているけど、後妻となってもいままでどおり別宅で過ごしてもらい、一切そういった行為などはしないと言ってきた。息子は二人いるので、いまから子供をつくっても火種にしかならないし、それに宰相様はなくなった奥様をまだ愛しているからだそうだ。
表向き、愛人として囲っていたお母さんがいなくなると、また再婚しろと煩くなるそうなので、出来ればこのまま居てくれるととても助かるそうだ。お母さんも私も、住むところがあるのは助かるけど、それならお母さんだけここに居させてもらって、私は引き取らなくても良いのではと思った。そしたら、私を引き取るのは、レオさんとアンナさんの為でもあると宰相様は言った。
二人にはこの先、王宮内で心許せる友人が必要になるだろう。だがそれを得るにはとても難しい状況で、いまのところ私が一番最適だと宰相様は思ったそうだ。
家のしがらみもない私なら、貴族の横やりもなく、二人と自然に接している事が出来るだろうと。二人を裏切らず、側にいてくれる友人だとも。
確かに私は、二人を裏切る事なんて考えないし、ただの庶民だからお母さんさえ元気でいるなら、なんの問題もない。宰相様の家族はアルバーノさんとセルジュさんの息子二人で、弟のセルジュさんは元奥様の実家に養子に行く。そして宰相様の親戚もほぼいないので、煩く言ってくる者はいない。
そんなわけで、喪が明けたらお母さんは再婚し、私はリリーディア・ロドリ伯爵令嬢になる事に決まった。
ここ数ヶ月で、私の身分というものが変わりすぎている。部屋で頭を抱えていると、アンナさんがやってきて、礼儀作法が必要になったでしょうと微笑んだ。そこでようやく、もしかしなくてもこれはレオさんが何かした結果なのだろうか。
「…私、リリーディアさんとお友達で居たいと思いました。出来るなら側にいてほしいと。リリーディアさんもそれを望んだでしょう。レオさんはそれを叶えてくれたんです」
そういう人なんですよと、どこか遠い目で言っている。
レオさんはお願い事をきいて叶えてくれるけど、その代わりにとんでもない災厄みたいなものを持ってくるそうだ。
私にすれば、庶民が伯爵令嬢になることでの、他の貴族様からのやっかみ。
この国の宰相様の養女になるので、向けられる目はとても厳しくなる。ちょっとした失敗でも、宰相様に迷惑が掛かりかねないそうだ。
そして何より。
今日、良い感じに別れたあの貴族の女の子と、次はどんな顔をして会えば良いのか、本当に困ってしまった。




