02
僕は今日もまた、しらじらしい茶番を演じている。
演目はなんて言えばいいだろう、『婚約者の義兄への許されざる恋に身を焦がして』とか『義弟の婚約者に惚れているがどうしよう』とか?
紅茶の入ったカップを持ったまま、僕はどうでも良い事をつらつらと考えた。
そうして僕が退屈している事に気付いたのか、婚約者のルチアーナは申し訳なさそうに僕の腹違いの兄、ジェラルドとの会話をやめた。その目には、できの悪い弟を仕方ないわねと見つめる年長者の慈愛が浮かんでいる。
「レオナルドには退屈だったかしら? …その、ジェラルド兄様は他の国の事に詳しいから、つい」
『つい、だって。この売女が。ヒヒヒ、今日だってその愛しのジェラルドがいるから、お茶会に来たんじゃねーか。きっとこの女の脳内は、ジェラルドと素っ裸で絡み合う事しか考えてねーぜ』
不意に聞こえた声に、思わず顔をしかめる。それがどうやらルチアーナには、僕が気分を害したように見えたのだろう。すぐにごめんなさいと再び謝ってきた。そうしてそのルチアーナをかばうように、ジェラルドが口を開いた。
「レオナルド、そう機嫌を悪くするな。お前達のお茶会に、無理を言って邪魔をしたのは私なのだから」
「いえ、誘ったのは私ですし」
そうやってお互いをかばい合う。それに対して僕は、面白くなさそうな顔をして「ルチアーナは僕の婚約者だからね」と、二人の仲の良さに嫉妬するような言葉を吐く。もちろん心にもないことだが。
『この男も三歳くらいの女を見初めてずっといまの今まで想ってるんだから、とんだ変態だな。ヒヒヒ、でもまあこの女の中身と外見は違うから、年齢的には女の方が年上かあ?』
口汚い言葉に言い返したくなったけれど、そこはぐっと我慢する。
なにせこの声は、僕にしか聞こえない。
「そういえばレオナルド、そろそろじゃないか? 学園の入学式は」
「たしか、二週間後になりますわね」
二人が言う学園とは、王立高等魔法学園の事だ。この国の貴族の子が通う学校で、十五歳になると入学となる。学園は全寮制で随従などは連れて行けず、勉学だけでなく生活に関するさまざまな事を学ぶのである。
もちろんそこに、この国の王太子である僕、レオナルドも例外なく通う。婚約者のルチアーナは来年入学だ。
学園では家名を名乗らないのが伝統で、貴族でも王族でも差別なく扱うのが通例だ。もっとも生徒同士ある程度は顔と家名を知っているし、暗黙の了解で派閥同士でグループを作っていたりする。ただし学園内のもめ事を外に持ち出せば、問答無用で国から睨まれるので、学園に通わせる親達はあまり馬鹿をしでかすなと子供にしつこく言い聞かせるのだ。
『お前がいない間、この女はもっともーっと動くぜ。何せヒロインが入学してくるのも来年だからな。ヒヒヒ、お前がヒロインに入れあげないか心配だが、入れあげたらあげたで、お前を王位継承者から落とすつもりだぜ』
いい加減黙って欲しいという気持ちを込めて、僕は何も乗っていない自分の肩を指先で叩いた。二人が不思議そうに見てきたが、虫がいたんだと誤魔化した。
二人と別れ、僕は自分の部屋へと戻ると、さっそく肩口にいるそれを手のひらに乗せた。
途端、不機嫌そうな声をあげて不満を喚き散らしてくるが、こっそり持ってきたお菓子を与えると、食べて良いのかと聞いてきた。
「うん、いいよ。いま、僕しかいないし」
そう言えば、手のひらに乗ったそれは宙へと飛び出し、みるみる間に人の形を象った。
美しい真っ赤なドレスに包まれる、豊満な胸にくびれた腰つき。きっと僕がもっと大人で正体を知らなかったのなら、父のように妾に迎えていたのかもしれない。ドレスと同じ燃えるような赤い髪は美しく結い上げられ、白いうなじが見える。目元にはほくろがあり、どこか潤んだような金色の瞳が、僕を見ていた。誰が見てもその美しさに酔ってしまうだろうその姿で、それは僕の手にあるクッキーに貪りつく。
「…ねえ、その姿ではしたなく食べるのってどうかと思う」
「おやおや、レオナルド王子様はもっと落ち着いた淑女がお好みで? ヒヒヒ、昼は淑女で夜は娼婦。誰もが望む理想の妻って奴だな」
バリバリと、綺麗な口元に似合わない大口を開けてクッキーを貪る彼女は、出会ったときに『自分は悪魔だ』と言った。悪魔がなんなのかよくわからないけれど、この世界にいる魔族とは違うらしい。本人いわく、系統は同じように見えるが根本的に違うそうだ。
そもそも生まれてきた世界が違う。
僕のいるこの世界は、彼らにとって異世界というものらしい。この世界のように魔法はなく、科学というものが発達していて、戦争がない国だってあるそうだ。
もうずっと昔からこの世界は、別世界のタマシイとやらを盗んで取り込んで人間に転生させているんだって。それ故に、別世界とこの世界は遠くて近い、つながりやすい状態になっているという。悪魔が僕のところに現れた理由がそれだってさ。
僕は偶然にも、正しい手順で、正しく悪魔を捕まえ、願いを叶えさせる方法を成功させた。
そう、目の前でクッキーを貪り食べるこれは、あの日の悪魔だ。名前を付けてくれというから、僕は悪魔にカラという名前を贈った。そうしてあの日からずっと、カラは僕の側にいる。
僕にだけ見えて、僕にだけ声が聞こえる。そして僕だけの味方。
手のひらに乗る程度の黒い影の時もあるし、今みたいに妖艶な女性の姿になったりもする。さらには男の姿にも子供の姿にもなるのだ。悪魔は性別がないらしく、どの姿も本当で、どの姿もまやかしだそうだ。
ベッドに座ってカラが食べる姿を見ていると、その視線に気付いたのか口の端を持ち上げ笑った。そうしてゆっくりと僕の側にくると、優しくその両手を広げて抱きしめてくれる。柔らかな胸に顔をうずめると、ふわりと甘い匂いが鼻を掠めた。
「可愛い可愛いレオナルド。茶番は大変だったなぁ、ヒヒヒ……、俺様が慰めてやろう。どうする、このまま犯すか? それとも男の姿になって後ろから犯してやろうか? ああいっそ、女の姿のままお前を貫くブツでも付けて可愛がってやろうか」
お前はこの大きな胸が大好きだものとからかう口調だけど、髪をなでるカラの手つきは優しい。カラの背中に手を回しぎゅうと抱きしめれば、その指先が僕の頬をなでた。そうして顎先を持ち上げられると、すぐ側にカラの綺麗な金色の瞳が見える。それが愉悦に歪み、カラの唇が僕のに重なった。
それが甘かったのは、きっとさっき食べたクッキーの所為だろう。
醜く歪んだ女の顔に、僕は思わず眉を寄せた。なんでなんでと、壊れたように女は繰り返す。
ああこれは夢だと、僕は思った。
これは何度も見る過去の記憶の夢。
僕が初めて転生者というものに出会った時の事で、母であった人が死んだ日の事だ。
僕の母、エリヴィアは王妃だ。それも隣国から嫁いできたお姫様。
隣国の特徴である白に近い金の髪、睫毛に薄い藍色の瞳。儚げな雰囲気と相まって、母は雪の精霊みたいだと称賛された。
国民の誰もがこの美しい王妃の誕生に喜んだけれど、どうやら母は何人かいる姫の中からたまたま選ばれただけにすぎない。だから自分の住み慣れた国を出ての生活に、とても不満があったようだ。
僕の父である王とは当初から不仲だったそうだ。なにせ結婚した時には父はすでに公妾を数人囲っていた。ジェラルド兄様は、その公妾のうちの一人から生まれた。
いくら不仲とはいえ公妾の子に継がせるわけにはいかない。正式な跡継ぎは必要であると考えた母は、僕を産んだ。
父とはずっと不仲のままだったけれど、僕を産んだ時はとても喜んでくれたそうだ。そうだというのは、僕にはあまり記憶にない。物心つく頃には、母は公務で忙しかったし、あまり僕に興味はなくなっていたようだ。けれどその頃の母は厳しくもなく、会いにいけば少しだけ困った顔をしつつも、母と同じ髪を持つ僕の頭を優しくなでてくれた。
それは数少ない僕の本当の母様との優しい思い出だ。
けれどある日突然、母様が変わった。
いままで何も言わなかったのに、突然僕の勉強にたいしてもっと厳しくするようにと命令した。
優しく教えてくれる先生達は辞めさせられて、ジェラルド兄様を教えていた教師達が僕の先生になった。彼らは僕のことがあまり好きではなかったようで、とても厳しくて。
二言目には「ジェラルド様が王子の年頃には出来たことです」と言われた。
それが嫌で母に泣きついた。けれど母は、嫌悪の目を向けて僕を追い払う。そして迎えにきた教師に連れて行かれる僕を見て、どこか仄暗い笑みを浮かべていた。
今までの母様とは違う。けれど、何が違うかわからない。母様は僕の事が嫌いになったのだろうかと、涙を流した。
ただ変わってしまった母様は、他の人には評判が良かった。父との仲も良くなって、僕に向ける視線だけが、とても冷たかった。
「甘やかして育てたら、将来妻となる聡明な女性を捨てる馬鹿な男になってしまうわ」
そう言って僕を嫌悪する。どんなにそんな人にはならないといっても、母様は信じてくれない。これはお前の性根をたたき直す良い機会なのよと、母様はどこか楽しげだった。
だから僕は、ずっとずっと勉強を頑張ったのに。
「だからここはゲームの世界で! レオナルドはいつか自分勝手で我が儘な王子になるから!! …どうせヒロインとくっついてハッピーエンドでしょう。ああ可哀想なルチアーナ嬢。だからわたしは……」
耳障りな女の声は、母様のものとは思えなかった。もしこれをカラと出会う前に聞いていたら、きっと母様が狂ったとしか思えなかっただろう。けれど、僕はカラと出会っていたのだから。
「ヒヒヒ、なあ言った通りだろ? お前の母様は、とっくの昔にコイツに体を乗っ取られちまったんだよ」
カラが高笑いをしながら、女の体を踏みつけた。そうして頭を掴むと、ベリッと音を立てて何かを引きはがした。途端、女の絶叫が響き渡る。
がくりと母様の体が床に崩れ落ち、カラの手には見たことない女が捕まっていた。この国ではあまり見掛けない平い顔立ちで、黒目黒髪の女だ。
「これがタマシイだ。体から無理矢理引き剥がしたから、痛いだろうなぁあ。それこそ生皮剥がされたかのように」
舌舐めずりをしながら、カラは笑う。女は醜い悲鳴を上げながら、無様に助けを求めた。
「だずげでえええええええ!! あな、貴方も転生者なんでしょおおお!!? それども記憶が戻ったの…ねえ痛いのやべでえええ」
女の叫びを無視し、カラは大きな口を開けた。それこそ、女の体など一飲みできるほどの大きな口だ。悲鳴すら飲み込んで、女はカラの中に消えた。床に倒れた母様は、ぴくりとも動かない。
「ああやっぱり同郷のタマシイは美味いなぁ。それこそ絶望してるからこそ、素晴らしいスパイスになっている。ああこれなら、もっと腹の中でいたぶってゆっくり食べてやろう」
楽しげなカラの声が響くと共に、女の苦痛に濡れた絶叫がカラの喉の奥底から聞こえてきた。
ただの黒い影でしかなかったカラの姿が揺らめき、美しい赤毛の女の姿に変わった。驚いたまま何も言えずにいると、女の姿のカラはにっこりと笑って言った。
「なあ話した通りだろう。コイツらが、お前の運命ってのを滅茶苦茶にしてるんだよ。コイツ以外にもこの世界にはいっぱいいるんだ」
そいつらは容赦なく僕に関わってくるらしい。なぜなら彼らは、この世界をゲームだと思っているからだ。
ここは異世界ではゲームであった世界。
死に際の女が語った言葉はよくわからなかったけれど、理解はした。
僕レオナルドは学園に入学し、ヒロインと呼ばれる女の子に出会い、ルチアーナを振ってその子を王妃にするらしい。ルチアーナはヒロインを虐めて、さらには実家が不正をしていたから、国家反逆罪となり処刑される運命なのだそうだ。
女はルチアーナのファンであったらしく、未来で彼女を振るかもしれない僕を憎んで、つらくあたった。僕が泣くのを喜んでいたのは気のせいでなく。いい気味だと、ゲームで感じた憤りをぶつけて溜飲を下げていたのだ。
そのゲームで僕は、勉強や剣の稽古をサボってばかり、何にも興味を持つことが出来ないダメ王子なのだそうだ。
幼い頃に母を亡くしてから、より一層ひとりの世界に閉じこもるようになってしまう。
そうして成長するにつれ取り繕うのが上手くなり、学園に通う頃には優等生の仮面を被れるようになったものの、内心は優秀な兄と婚約者にコンプレックスを抱いていて、どこかここから連れ出してくれる何かに思いを馳せているんだそうだ。
ただゲームは主に学園でのヒロイン視点の話だから、僕の幼い頃の話なんて簡単な記述しかなく、詳しく生活や心情が描かれていたわけではない。だから僕が、母様から受けた仕打ちに泣いて、悪魔と契約するなんて思ってもみなかったようだ。
僕の本当の母様は、あの変わってしまったと思った日に死んでいた。あの日から母様の体を乗っ取った女が、好き勝手にしていただけ。
だからこそ、僕はその転生者というものを嫌悪する。
「コイツらはさぁ、まだここに来ても他人事なんだよ。だから、人のトラウマとか、知ってる情報には強気で、それで何が起きるかなんて考えてもない。ヒヒヒ、コイツらみぃんな、レオの敵だなぁ」
女を食べたカラは、優しく僕を抱きしめた。
大丈夫、皆食べてあげる。
優しく残虐な言葉が耳に触れる。
カラだけが僕の味方。カラだけが僕の大事な味方。
幼かった僕の母になり、父になり、そうして友人で恋人で兄で姉で妹で弟になってくれたのだ。
目を開けると、白い肌が見えた。
どうやらカラに抱き締められたまま眠ってしまっていたようだ。
目を覚ました僕に気付いたのか、カラは優しく髪をなでた。この仕草は、まだ母様が母様であったころ、一度だけ眠る前にやってくれた行為だった。
「可愛いレオナルド。俺様のおかげで人の汚い所をたくさん沢山見たなぁ。ならお前はどうしたい?」
やさしい声色だけれど、カラはわざと僕にすべてを見せていた。僕に知りたくもなかった事実を突きつけて、そうして味方は自分だけと優しく囁いてくる。酷い奴だと言えば、悪魔だからなと笑われた。
僕は母様であった女の目が嫌いだった。まるでこの先のことを分かっていると、上から見下すかのように。そう自分が、絶対に正しいことをしていると言っているようなあの目。
女は自分が死なない為にやったのだと言った。
転生者だと分かっているルチアーナも、同じ理由だろう。
だったら僕も同じ理由で彼らを陥れても良いだろう。だって僕も死にたくないし、平穏な生活を続けたいのだから。
「ヒヒヒ、分かったよ。レオ、可愛いレオナルド。学園に行くのが楽しみだなぁ。なあ、何人かこの国の人間も食べて良いだろう」
甘える様に強請るカラに、僕は返事の代わりに口付けを落とした。