カルロ・トフォリ
連日のようにやって来る婚約者のブリジットに対し、もう疲れ果てていた。勉強で忙しいと何度そう言っても、もう少し私に付き合ってくれてもいいじゃないとしか言わない。ブリジットが嫌ならいつでも婚約を破棄できる条件なのだが、彼女はそれをする気配はない。
正直、彼女の見た目からして少し苦手だった。
ルチアーナにそっくりなのだ。いや顔は全然似ていないし声も違う。目の色も髪の色も違う。ただ髪型や服装、そしてしゃべり方などがルチアーナに似ている。似ていると言うよりは無理をして真似をしているかのように見えるので、あまり気分の良いものではない。出来ることなら視界にいれたくもない。
ルチアーナは妹のジルダと仲が良いので、屋敷にいた頃はなにかと会うことが多かった。ルチアーナの事は好きだが、恋愛的なものはないので、その見た目に似せられたりしても、反応に困ってしまうのだ。
婚約者という事で、ブリジットは頼んでいないが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれている。何度か、もう鍛錬場には来ないでほしいとお願いしたが、泣かれて話は流れた。彼女には友人が多いらしく、よく男友達と話している姿を見掛けるが、それに対して何か思うことはないのかと冷やかされた事がある。けれど好きでも何でもない相手がどうしようと、何を言えば良いのだか。
一応、婚約者となったのだからある程度は慎みをもって行動してほしいとは言ったが、効果はない。いやちょっとだけブリジットが嬉しそうだったのが、余計に頭を悩ませる。自分も騎士とはいえ貴族の端くれ、結婚相手に愛人がいようとも仕方ないと割り切るしかないことは知っている。感情でそれを許せるかどうかは、実際にそういった事がないからわからないが。
ともかく、自分はブリジットの事をどうやっても好きになれないので、せめてパートナーとして尊重しようとは思うが、相手がそれ以上を求めてくるので上手くいかないのだ。
連日の夜の訪問も困っている。本当にどうにかしてほしい。
彼女に邪魔をされて、結局夜遅くまで勉強をする羽目になる。いまはオリエンテーションの期間だし、最高学年になると講義を受ける時間が少なくなる。騎士になるために必要な講義は受講済みになるので、必修科目以外は自由になるのだ。大抵の騎士を目指す学生は、空いた時間で体作りを始める。いまも鍛えてはいるが、もっとやらなければ、実際に試験に受かって見習いになったとき厳しいだろう。
それに自分は、現騎士団長の息子だ。向けられる期待も大きいので、今のうちに少しでも自分の実力を伸ばしたいのだ。
だというのに、寝不足では鍛錬にも身が入らない。
最高学年になって、騎士を目指す者達のリーダーを引き継いだ。だからこそ一層、力を入れなければならないというのに。
頭を悩ますのはもう一人いる。
レオナルド王子の推薦で入ってきたラニエロだ。彼は入ってきた当初は、真面目に鍛錬をしていた。勉強の方は分からないが、とりあえず講義の合間に来ては、体を鍛えていたのだが。
騎士の鍛錬とは、華々しいものじゃない。武器を扱うにも、鎧を着て動くにも、とにかく体力が必要だ。そのため、基本的にひたすら走る。わざと重りを付けた模造品の剣の素振りをする。それだけだ。
剣技も必要だが、細身でレイピア使いで有名な現騎士も、少なくともいまのカルロより鎧を着ても長く走るだろうし軽々動くだろう。それくらい重要なのだが、ラニエロは鍛錬に剣技がないことに落胆していた。そうしていまは、剣技の練習ばかりしていて、集まりの中でも不真面目な生徒とつるんで、走ってばかりの他の生徒を馬鹿にしていた。
これは由々しき問題だ。
しかもレオナルド王子が推薦したという話が広まっているので、他の生徒もラニエロの方に傾倒している。楽しいのはそちらだろうが、実際試験を受けて合格するには、カルロの方をやらなければならないのに。
何度か先輩となる生徒に相談はしたが、自分の指導力が試されるとばかりに、手を貸しては貰えなかった。
強く言っても聞かない相手に、どう対応すべきなのか、本当に困ってしまっていた。
そしてレオナルド王子の事もあった。
どこかへ出掛ける時、大抵は自分を指名してくる。それだけ気安いのだろうけど、そしてそれはとても光栄な事なのだけど、いまの自分にとっては苦痛でしかなかった。
レオナルドが少女の格好をした時、あれはまさに理想の女性そのものだった。いまのレオナルドはその頃より背も伸びて、体つきも少年から青年のものに変わり掛けているから、もう少女の格好はしないだろう。
しかし遠乗りで落馬をしかけ、一緒の馬に乗ったとき、体を寄せてきた感触が忘れられない。
その日の夢に、理想の少女がしな垂れかかってきたのも、また忘れられなかった。
時折、レオナルドを抱き締めたくなる。そのまま押し倒して、…いや相手は王子で男だ。あり得ない妄想に取り憑かれるわけにもいかないし、そもそもこんな感情を抱くのは間違っている。
だが、疲れて思考回路が纏まらない。
どうしたらいいのだろう。ああ、どうしたら。
「カルロ様じゃありませんか」
声を掛けてきたのは、アンナの父親イゴルだった。娼館なども取り扱っているが、それ以外の商売も手広くやっている豪商で、最近は王宮に顔を出す事が多い。父からは信頼出来るかあやしいが、金が絡むなら信用出来ると言われた人物である。
そんなイゴルが声を掛けてくるなんてと、少し身構えた。
今日は王宮にいる父に用事があると言われ、呼び出されたその帰りだった。自分のブリジットに対する態度を改めるべきと窘められ、苛立ちが募っていた時だったので、イゴルにもあまり良いとはいえない態度で挨拶をしてしまった。
「何かお疲れのようですね。どうです、ちょっと私の店で食事でも」
「いえ、遠慮しておきます。学園に戻らなければ」
「遅くなりませんから、大丈夫ですよ。娘が学園でどう過ごしているか知りたいですし。お願いしますよ」
人好きのする笑顔で言われ、馬車に誘われた。強引だが拒絶する事も出来ず、カルロはイゴルの馬車に乗せられる。父はこういう人間ともほどよく付き合えるようになれと言っていたが、自分には難しい。レオナルド王子がアンナと仲が良いから、そちらと上手く付き合って行くべきだろう。
「アンナは学園ではどうですか? レオナルド様と仲良くしてくれているそうですが」
レオナルドと居る以外は、貴族の女子達と集まって話している姿を見掛けた。カルロが見る限りだと、上手くやっているようだ。
「婚約者とは、どうです?」
二人が話している所を、カルロは見たことがない。アンナは避けているようにも見えて、聞かれてもカルロには答えられなかった。
それを察したのか、イゴルは顔を俯けさせ頭を抱えている。
「私も酷い父親です。…ただ娘には苦労をさせたくなくて、貴族様と婚約すれば、ちゃんと後ろ盾も出来るし娘も学園で馬鹿にされたりしないだろうと、…そう思っての事でしたのに」
苦痛というか、苦悶の表情だ。アンナとラニエロの仲が良くない、名ばかりの婚約者というのは知っていた。あまり話題にも出したくないようで、アンナはラニエロの事は何も言わない。よく一緒にいるレオナルド王子もそれを分かっているのか、聞いたりはしていない。自分もそれを感じ取れたから、触れずに来たが。
「婚約したのだからと、屋敷に招かれて行かせたのが馬鹿でした。まさか、あんな事になるとは…。…カルロ様もアンナがレオナルド様と仲が良いことを心配しているやもしれませんが、間違いは起こりません。もうあの子には、子供が望めない…」
ラニエロに乱暴された所為で酷く損傷し、治癒魔法も傷を塞ぐ程度で、子供は作れないと診断されたと泣いている。そんな者が騎士を目指すなんてと、カルロもまた青ざめた。イゴルが言うには、アンナに言い募り困り果て、相談されたレオナルドが仕方なく推薦をしたとの事だった。
それが本当なら許せない。だがもし追放などしたら、アンナに何をするかわからないと言っていた。いつまでも付きまとう、恐ろしい男だとも。イゴルはもし今後、ラニエロと接する事があっても関わらないようにしてほしいと言った。騎士を目指すのならあんな輩に接してはいけないと。
「お誘いしたのに申し訳ありませんが、ちょっと疲れましたので。こちらに部屋を用意しましたので、個室でごゆっくりおくつろぎ下さい」
落ち込んだ様子のままのイゴルが、店に着いた後そのまま奥へ行ってしまった。案内された部屋は薄暗く、ゆったりとしたソファがおいてある。失礼しますと女の声がして、とても妖艶な美女が入ってきた。赤い髪を緩く纏めて流しており、大きく開いた胸元に熟れた尻肉、目元の黒子が印象的な女だ。
イゴルの言うごゆっくりとはこういう事か。さっさと断って帰ろうと、カルロが立ち上がろうとすると、女は口の端を持ち上げ微笑んだ。
「この店の主人から仰せつかって、お客様のお相手をしろと。お話相手ですわ、カルロ様」
可愛らしい学生さんをとってくったりしませんよと、くすりと笑われる。子供扱いされて少しムッとするが、ここで席を立つのも癪なので、ソファに座り直した。
女は斜め前の椅子に腰掛けると、後からきた給仕に料理を配膳させた。その所作ひとつひとつに思わず目が奪われる。ついそれを食い入るように見つめていると、赤い唇が笑みを象っていた。
「どうぞ、ご安心ください。…ただのワインですよ。飲めない訳じゃないでしょう?」
そういって注がれた赤いワインを、カルロはぐいと呷った。ともかく食事を終えて早く帰ろう。
「お客様が退屈なさらないように、話し相手になるのも仕事なのですよ。ふふふ、別に体を差し出すだけが、私達の商売ではありませんもの」
指先がその赤い唇を這う。そうして、学園の学生は基本的にこうして食事だけ出してお帰り頂くのと、女は笑った。追い返すのは外聞が悪いし相手も納得しないだろうからと。
「もし学園でお店に行ったと話している方がいたら、食事はどうだったと聞いてみたらよいでしょう。ふふふ、料理もそれなりのものですから、さあどうぞ」
学園の生徒は貴族なので、半人前のうちからここに入り浸っても、それは親の金にしかすぎない。なので大人になってから良識ある付き合い方を覚えて、そうして来て貰うのだそうだ。
「若いうちはどうしても、こういった事に興味がおありでしょう。それはわかりますけど、限度ってものを知りませんもの。正しいやり方も分かっていない方が多いのですわ」
もし好きな女性が出来たのなら、一度こちらで夜の事をちゃんと教えて差し上げますよと女が笑う。好きな人と言われ、体がビクリと震えた。
女はそれを見逃さず、誰か好きな人がいるのかしらと聞いてくる。だが相手など言える訳がない。
「あら、言えないお相手ですの。ふふふ、想うだけは自由ですからね。問題は、その想いをどう発散させるかですわ」
「…どう、とは?」
「ちゃんと発散出来ないと、相手に無理強いをして乱暴を働いたり、とんでもない失敗をしでかしたりするものですのよ。思い悩んでいる方はたいてい、寝不足になったりしますからね」
寝ていらっしゃらないのでしょうと、女の指先が目の下の隈をなぞった。そうして手を取られ、部屋の壁まで連れてこられる。
「絵にある目を見てご覧なさい」
よく見れば穴が開いており、隣の部屋が見えた。薄暗い部屋に何人かの人影があり、その中に見覚えのある姿があった。
「なっ……!?」
「あら、想い相手に似た者がいましたかしら。フフフ、北の隣国の血を引いた娘ですの。肌が雪のように白い娘ですわ」
そこには幻の少女がいた。レオナルドそっくりの、少女が。
「もし気に入ったのなら、部屋に呼びましょうか? お話するだけですけど」
女の言葉に惹かれたが、いいやとカルロは断った。あの少女は幻の相手ではない。きっと話したら、自分の理想とする少女像と違うところばかり探してしまうだろう。
「あら、それはそれは。では左の者はどうかしら」
言われるがままそちらに視線を向ければ、俯いて顔は見えないが、少年や青年がいた。その中には、レオナルドに雰囲気が似た者までいる。
「北の隣国の血を引いてる者は、男も女も人気なのですよ。どうです、ご興味がおありですか?」
「お、男同士で…」
「あら、出来ないことはありませんわ。人によっては、女より気持ちが良いと言う方もいますのよ」
教えて差し上げましょうかと、女が笑う。そのまま手を引かれて、隣の部屋に足を踏み入れてしまった。薄暗い部屋の中には、レオナルドに似た雰囲気の少年ひとりしかいない。
「男同士はこちら…、ええ、ええそうですとも。もちろん女性にもありますから、女性と行う場合にも役に立ちますわ」
そう言いながら女は、小さな宝石のような物を取り出した。それは市販でも売られている浄化作用のある魔法道具だ。小さな物を下水に設置するだけで、排泄物が綺麗に吸収されるので、一般で広く使われている。よく売ってるものより、大きさはとても小さいが。
それをどう使うのか、女は少年を使って懇切丁寧に解説してくれた。白い指が動く様子を、凝視してしまう。少年の体をなぞるその指が艶めかしい。
「あとはゆっくりと、そして思うがまま動けば良いのですわ。ふふふ、もし相手が痛いと叫んでも、きっとそれは善いに変わりますでしょうね」
本当にそんな事があるのかと、女を見てしまう。
「ええ、中には殴られたり痛いのがお好きな方もいますの。あら、女性に手を上げるなんてと思いまして? 騎士様になるなら、確かにそうですわねぇ。なら男の方はどうです? ええ、もちろん人を殴ったら問題ですけれど」
傍へとやってきた女はしな垂れかかり、そうしてその赤い唇が動いて、耳元で囁いた。
朝日が目に染みる。まあこの場所にカーテンなどないから、倉庫の上に取り付けられた天窓から差し込む光が、部屋の中を照らしていた。ゆっくりと体を起こすと、とてもすっきりしていた。久々に爽快な気分だし、これなら鍛錬や勉強に身が入るだろう。
「……ひっ」
振り返ると、倉庫の隅に膝を抱えて蹲るラニエロの姿が目に入った。殴った箇所が痣になっているし、鼻と口からは出血した所為で血が固まっている。泣き叫んだからか目元は腫れているし、体は噛み痕や痣で酷いもので、床には足の間から血がつたって流れていた。
俺が傍に寄ると、目に見えて体を震わせている。
あの女から教わったのは、正しい鬱憤の発散の仕方だった。
『もし近くに女を女と思わずとんでもない所行をやらかした屑がいるのなら、それにぶつければ良いでしょう。大丈夫、相手は善良な人ではありません。人に危害を加える屑ですもの。貴方が手を出しても屑をかばう者なんていませんわ』
夜、鍛錬場の横にある倉庫にラニエロを呼び出したとき、とても太々しい態度だった。アンナに酷いことをして、レオナルドを困らせるどうしようもない屑だ。きっとこれからも、こいつは二人に迷惑を掛けるに違いない。
ならそうしないように、自分がやるしかないだろう。
そうこれは、指導だ。
ラニエロの顔を殴ったとき、相手に浮かんだのは驚愕と恐怖だった。普段から鍛錬を怠っているから、簡単に組み伏せる事が出来る。いくらか藻掻いていたが、殴ったり蹴ったりしていると、その抵抗は収まった。
この屑は殴った程度じゃ性根は治らないだろう。二度と二人に迷惑を掛けるなと言ったが、分かっていないのか言い訳を並べて捲くし立てている。だからもっと指導してやらなければと、女から教えられた事を実践した。
女は飴と鞭が必要だとも言った。
どんな屑にでも飴は必要なのだと。ならちゃんと、教えられた事をやろう。
女が見せてくれた浄化作用のある小さな魔法道具は、やはり普通の店では売っていなかった。なので一般的な大きさ、鶏の卵くらいの物だが、死にはしないだろう。それを見たラニエロが、何をするか分かっていない顔をしたが、関係のないことだ。
女の教えてくれた通り、ゆっくり焦らず。
あとはそう、そのまま思うがまま動いた。
人の性根を正すのは、とても気持ちの良い事だ。こんなにも鬱憤が晴らせるのなら、これからも熱心にラニエロの指導をして行くべきだろう。
震えるラニエロの肩を掴み、床へと押し倒す。
「ごめんなさい、ごめんなさい…! も、もう無理です、痛くて血が出てるから…、本当に無理……っ」
五月蠅いので殴りつけると、すぐに黙った。まだもう少し時間はあるから、鬱憤をすべてぶつけて解消してしまおう。謝ったところで、この屑のした事は消えないだろう。
「安心しろ。俺は治癒魔法が得意だから、骨が折れない限りちゃんと治してやる。…お前は婚約者を子供の産めない体にしたんだろ。俺はお前をそんな体にしてないのだから、お前よりよっぽど優しいだろう」
泣いて謝るラニエロを見下ろすのは、なんて気持ちが良いのだろう。人を殴るのも屑だからこそだ。
ああ本当に、良い事を教えてもらった。