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第三章『アシュナの結婚』(1)

「ここはどこだ!」

 男は(おび)えている。

 薄く禿()げた頭、よく肥えた家畜のような体、短い四肢、醜く潰れた顔、おぞましいあばたが影を潜めるほどに、その男は醜い。

「ザイ」

 男の名である。だが本名ではない。彼がいくら名乗っても、この世界の住民は彼の真の名を発音できなかった。

 ザイ――と、これからこの醜い男のことを呼ぶことにしよう――が自分の正気を保つのに必死になっている間、彼の見慣れぬ衣服は(きら)びやかな衣装に着せ替えられ、(おびただ)しい女官が彼の新たな手足として与えられた。それでも、ザイは怯えている。いや、戸惑っているという方が正しい。彼はこの破格の待遇に少しだけ見当がついてしまった。

 見知らぬ国、見知らぬ生物――もっとも、ザイはそれを見た瞬間に竜という言葉が脳裏に浮かんだのだが――そして何よりも自分がそこに存在してしまっているという事実。

(まるで異世界だな。いや、まるでではなく、はっきりとそうだ)

 半裸の女官たちに衣服を脱がされ、浴槽に浸った頃、ザイはようやく人心地付いた。

「まあ、竜の御子(みこ)はお元気じゃこと」

 と、恐れを知らない若い女官が彼の体を洗いながら微笑した。無論、ザイにはクーン語は理解できない。

(耳に来る発音だな)

 悦に浸りながら、ザイはどうやら自分が招かれざる客ではないことを確認した。この男、一旦安心してしまうと、自身の熱っぽくなったものを隠そうともしない。

(このまま抱いてもいいのかな?)

 と思い、戯れにそれを女官の腰にあてがった。

「きゃ!」

 驚いた女官は微かに肩を揺らしたが、ふと、あたりに目配せをすると、他の女官達は湯煙に紛れるようにして消え去った。

(本気かよ……)

 ザイは戸惑った。それも女の顔を見るまでである。涙ぐんだ瞳を見たときに、彼の中の何かが外れた。

(この娘、ちょっと腋臭(わきが)だな……)

 女官に腋臭がいるということは自分の食膳にも肉が添えられるだろう、と奇妙なところに気を使うこの男は、多少鼻を刺す臭いさえもいとおしく感じた。

 根は純真なのだろう。ザイは女が安心するように優しく肩に手を回した。女は震えていた。

(こんな美人が初めてなんて、俺は……)

 こんな醜男(ぶおとこ)が初めてかもしれない女の薄着に手をかけながらザイは目も眩みそうな至福の中にいる自分を知った。

「俺はお前たちの神だ。いや、神の使いだ。そうなんだろう? そしてお前は神の子を宿すことに至福を感じている」

 突然、一号の怒声とともに、醜者の楽園は破られた。一人の老人が叫びながらザイへと近づいてくる。王衣ともとれるような重厚な衣装である。それ以前に頭上の冠が十分にザイを威圧していた。全裸の男は既に臆病者に戻っていた。

 ザイはクーン語がわからない。だが、その音は嫌でも耳に入ってくる。老人の声は同じ音を壊れた機械のように繰り返していた。

「アシュナ、アシュナ!」――と。



 少し話を戻そう。そう、ザイが「この世」に現れた頃に……

 竜肉の儀式を襲った異変は、「神龍の眼(ヨアン)」がアシュナを飲み込んだ後、一迅の突風とともに終わりを告げた。再び正常な月夜に戻った白蛙宮(はくあきゅう)だったが、中庭で意識を失っているアシュナのすぐ傍に、ザイはいた。

神龍(リョーン)の使いだ――)

 誰もがそう思った。クーン人の価値観からいって不細工以外の何ものでもないザイの容貌は、人離れしているだけに、かえって神秘を帯びるに至った。何よりもザイの衣装である。官服のようにも見え、その実戎衣(じゅうい)の如く機能的なその衣服はクーン人の知らない光を放っていた。即ち天衣である。

 ドルレル王は転がるようにして中庭に降りると、すぐさまザイの前に跪いた。神官が、それに(なら)って、恐る恐る口をきいた。

「赤き神龍はクーンの東、『大海()』の守り神と存じております。我ら白い犬の王の一族は、神威を慮り、常々祭祀(さいし)を絶やさずに参りました。人の身によりて人界に御降臨なされましたのは、(いぬ)らに如何なる不慮が御座いましての事でしょう。犬らは深い海に沈む時、常に神の尾を踏むことを(おそ)れております。犬らはただ、あなたを畏れているのです」

 大海()というのはクーンの東に広がる大樹海のことである。

 クーンの王族は南方から移動してきた民族である。彼らは土着のしじまの王の一族に先んじて、竜の家畜化を行った。竜の家畜化は既に南方のナバラ文明で行われていたが、それを持ち込んだのだ。彼ら白い犬の王の一族は自分たちのルーツを忘れてしまうほどに、長い間クーンを支配してきたが、「海」という言葉自体は忘れなかった。しかし、広大なクーン王国には海がなく、いつの頃からか、「ケ」という古代ナバラ語で海を意味する言葉は樹海のことを指すようになった。

 神官が一人称として使っている「犬」というのは無論、白い犬の王の一族が自らを貶めて指す言葉である。白い犬の王の一族はクーンの支配者なのだから、彼らが「犬」と自称する相手は神以外にありえない。

 さて、このうすのろにしか見えない竜の御子は、当然ながら王たちが期待した行動はとらなかった。

 長い沈黙の末にザイがようやく吐き出した台詞は、

「おい。夢かよ、これは……」

 だった。王を含め、その場にいたもの全てがザイの言葉を理解できなかったが、一斉に平伏した。

 当然そこにあるはずのものが無い時、人間の思考は一瞬止まる。なくなった物を探すために思考を巡らせるのではなく、ただ、止まるのだ。その停止時間は人間が現実を受け入れるのにかかった時間といえる。現実には無い物をまだあるものとして思考が処理してしまうため、思考と現実との辻褄(つじつま)が合わず、止まってしまうのである。

 だが、ザイの場合はどうだろう。あるはずの物が無く、無いはずのものがある。世界がすげ変わったのだ。ザイは考え込んでいたわけでもなく、増してや取り乱していたわけでもない。そういうものは思考が現実を受け入れようと処理し始めた時に初めて起こるものである。彼の思考は重すぎる処理に耐えきれず、少しの間、全てを放棄していたのだ。

「おい。夢かよ、これは……」

 というザイの台詞は、彼がこれを疑う余地のない現実と知った上で、苦し紛れに吐いたものだった。ザイの精神はここが異世界であるということを認めたのである。幸い、空想好きのザイにはそういった世界があれば良いという願望があった。


――夢であって欲しくない!


 喉元まで出かかったザイの願望は、裏返しになって外界に放たれた。

 神官らしき人物がなにやら自分に話しかけている。

(とはいえ、身一つで放り込まれちゃあ。危ないよなぁ)

 彼は退屈な世界から解放されたと同時に、いつ死んでもおかしくない状況にいるという認識を強く持つようにした。

(ここは相手さんのご機嫌をとっておこう。まさか生贄(いけにえ)や奴隷にされるとか野蛮な習慣は無いよな?)

 ザイがにっこり微笑むと、神官は安堵の息をついた。

「どうやら、神龍が人界を滅ぼすために降臨されたわけではないようです」

 ザイに聞こえないような小さな声で、神官は王に囁いた。神は人の囁きを聞き逃すはずが無いから、神官はザイを神ではなく人間と断定したのである。彼には心当たりがあった。

「そのようだ。御子はともかく、先ほど現れたのは間違いなく神龍だった。あの御子はもしかすると、ゲールの言っておったあれかも知れんぞ」

「南人の伝説ですな。にわかには信じ難い話ですが。それよりいかがいたしますか?」

「最高の待遇でお迎えしろ。無論、神は贅沢を嫌うことを忘れるな。それよりもアシュナは大丈夫か?」

 ドルレル王はザイの傍で横たわるアシュナを見た。ザイはドルレル王の眼線を追わなかった。これから考えることが多すぎて、神官の導くまま宮殿の奥に消えた。まるで上の空だった。

 アシュナの傍に寄ったドルレル王は醜い男の背を見ながら、ふと、思い出した。

「そういえば、神龍に斬りかかった者がいたな……」

 衛兵が駆けつける中、ドルレル王は中庭の端で倒れているチャムを見つけると衛兵の一人に命じた。

「あの男を牢に入れておけ」

 衛兵は戸惑った風だったが、ドルレル王が二度目を言うまでに走っていった。ドルレル王はそれを眼の端で追いながら、側近に耳打ちした。既に松明(たいまつ)は灯っている。側近は(かしこ)まって王命を受けた。

 彼はざわめく衛兵たちを叱り付ける様に大きな声で言った。

「よいか、皆の者、よく聴けい。今宵、起こったことは他言無用ぞ。これは王命である。破った者は九族まで(りく)されることと思え。よいか、たとえ今宵この場に居合わせた者同士であろうと、儀式で起こった事については口外を禁ずる」

 一瞬、空気が凍るような風が吹いた後、ひとりの衛兵が口を開いた。

「あの、チャム殿はどうなるのでしょうか」

 側近は目を怒らせて、衛兵を指差し、背後の兵に命じた。

「斬れ!」

 衛兵の顔色が変わる前に、彼の首は落とされた。

 ドルレル王はそこまで見届けると、アシュナを抱きかかえて、宮殿に戻ろうとした。

「我々にお任せくださいませ――」

 アシュナ付きの女官たちが口々に言ったが、ドルレル王はアシュナを離さなかった。

 抱き上げた際に、右手に妙な感触を憶えた。よく見ると、血糊(ちのり)がべったりとついている。

「アシュナ!」

 ドルレル王は慌ててアシュナに外傷が無いか確かめた。

「傷はないようだが……おい、医者を呼べ!」

 慌てたドルレル王だったが、太ももの辺りに血が伝っているのを見て、ようやく血糊が何であるのかを知った。振り返って女官をみると、彼女もそれに気付いたようだ。

「はい、恐らくは……ご心配に及びません」

 ドルレル王はようやく、人心地ついた。

「この姫はいつも余を驚かせる……」

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