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十四章『死すべき者達の都』(3)

 世界が、ゆっくりと動く。

 男が地に向かって下げた黒刀から、一滴、二滴と赤い雫が落ちた。それらが地面を打ち、飛沫が広がる様を、リョーンの目は驚くほど鮮明にとらえた。

 奇異といえば、これ以上のものはない。リョーンの頭上にはクーンに生きる者ならば誰もが目にしただけで死を覚悟する恐怖そのものがあった。

 何故、シェラがいるのか。

 ロマヌゥに誘拐されたタータハクヤを救出するために単身乗り込み、カエーナによって瀕死の重傷を負った彼が、何故、剣を手にしているのか。

 リョーンはシェラの足元に転がった死体を見た。リョーンに憧れ、リョーンを追い、そして自分の行くべき道を歩み始めた親友は、もう二度と動かない。

 足が竦み、腕が震え、そしてそれらを押し殺すように歯噛みした。怒りか、恐怖か、あるいはそれらがないまぜになった何かが全身を駆け巡り、リョーンの正気を試している。

「シェラ…何をしている…」

 辛うじて口を突いて出た言葉がこれだった。

 シェラは問いには答えずに、空を振り仰いだ。先ほどエトに爪先を伸ばしていた神龍は、静かにシェラを見下ろしている。

「何をしているのかと言っている!」

 空気が、まるでこの場だけ時間が止まったかのように重い。この世の全てが空に君臨する神に圧されているようでもある。

 不愉快な、そして怖気立つような重さに身を任せるように、シェラは、怒鳴り声を上げるリョーンに向き直った。

「…何を?…俺は何をしている?俺は、エトを殺したのか?それとも救ったのか?」

 リョーンは、シェラの言うことを理解できない。ただ、目の前の男の声からは、これまでのような馴れ馴れしさや、陽気が全く消えていた。冷徹で、刺々しい。あるいは殺気にも似たものが自分に向けられていることに、リョーンは混乱した。混乱しつつも、左腰に差した玄糸刀の柄をつかんだ。

「聞こえるか…カル?神が何かをほざいているぞ」

 仰ぎ見ると天。まさに天。君臨する神は、我が子を奪われた母親のような声を、眼下の大地に投げ落とした。

――死すべき者達…忌まわしき都…骸を重ねよ…高く…高く積み重ねよ…

 顔の皮膚が、火傷にも似た痛みを感じたその瞬間、リョーンは抜剣した。

 瞬時遅れて、疾風。

 玄糸刀で受け止めた刃の先に、黄金色の髪があった。

 チャムを負かした。剣士団で唯一、ロセと同格。百人を相手取って生還。そのような風評が、手ほどきを受けたリョーンですらにわかには信じられないような話が、頭の中に浮かんだ。

 対峙して初めて、剣をあわせて初めてわかった。いずれも事実であると。

 南海の戦士が、その時、真の姿をさらけ出した。

 開幕。終わりが、始まる。


 痛覚が悲鳴を上げたのだろうか、ただあるのは息苦しさだけで、ザイは自分が瓦礫の中に埋もれていることを知った。何故だろう。恐怖を感じない。このまま死ぬのであれば、何という安らかな終焉であろうかとさえ思った。

 誰かの声が聞こえる。

――死すべき者達……………を奪った…死すべき都…返せ!……を…

 神龍の咆哮に混じって、呪いの声が頭の中に響く。だが、獣声にも似たそれはザイに途方もない衝撃と、感動を与えた。

(俺の…言葉…)

 聞き間違えるはずもない。それは確かに、キツという男を除けば全クーンで自分しか解さない言語だった。

 故郷の風に触れたような幻覚に、ザイは思わず手を伸ばした。

 力強い何かが、それをつかんだ。痛覚が戻ったと感じたのは、それがただがむしゃらにザイを瓦礫から引き上げたからだった。

 瞬く間に、舞い上がる塵の中に放り出された。

「何だ。王ではなかったか…」

 眼前の男は、にわかに塵を吸い込んでむせるザイを一瞥すると、王に呼びかけながら近くにある瓦礫を押しのけた。

(こいつは…チャムとか言ったか?)

 最近になってゲールの傍に侍るようになった男の素性を、ザイはよく知らない。彼が自分には目もくれずに王を探しているのも、不条理とは思わない。

「ちっ…」

 チャムが舌打って瓦礫を蹴ったあたり、ゲールはまだそのあたりに埋もれているのだろう。

(地獄か…)

 あたりに注意を払ってみると、他に例えようもない光景が広がっていた。泣きながら同僚の死体を引きずる衛兵。どこかの瓦礫の奥から聞こえてくるうめき声。何もかもが、常軌を逸していた。

 その中で、ザイは舞い上がる塵と、瓦礫になりはてたクーン王宮を呆然と見ていた。頭が、体に何も命じない。ただ、それもつかの間で、王以外には興味もなさそうなチャムが、女官を瓦礫から引き上げて優しく抱きしめるのを見ると、閃光のような笑顔がまぶたの裏に甦った。

(アシュナ…)

 神の牙爪によって無残に引き裂かれた妻。一度もこの手で抱きしめることもないままに逝ってしまった。それを思い出すだけで、自らの心臓を抉り出して地に投げ出したくなる。

(ナラッカは?)

 ザイは、先ほどまですぐ近くにいたはずの女を捜した。

 少し離れたところで歓声が上がった。どうやら、チャムがゲールを探し当てたようだ。

 ゲールの周りに生き残った忠臣達が集う。彼らは一様に、天空に現れた神威への対処、つまりは都からの逃走をゲールに勧めた。

「阿呆が!王が都を捨ててどうする!」

 ゲールらしからぬ、激しい口調だった。

「しかし陛下…」

「くどいぞ、チャムよ!毎日神の恩恵に浸っておきながら、神の怒りだけは避けてすまそうとは私は思わない。民草のために神を怒りを鎮めることに全身全霊を傾けることこそが、神職にある者の使命ではないか。彼らは何処に行った?掘り返せ!一人でも良い、神前にて許しを請う者を我が前に連れて来い。そうだ、ソプル…ソプルは何処だ!あれこそまさに神々の言葉を知る者だ。ソプルをここに!さあ、早く!」

 チャムは小さく舌打った。ここでゲールに死なれると野望が潰えてしまう彼にしてみれば、ゲールのわがままは黙殺すべき愚かなものだった。しかし、チャムもまた、アシュナの成人の儀での神龍降臨に立ち会ったひとりである。ソプルの神性を否定するには、チャムは神に触れすぎたのだ。

「ソプル殿なら、あちらにおります」

 チャムが指差した先には瓦礫を押しのけて生き残りを探すザイの姿があった。

「よし、生きていたな。当然だ。生きているはずだ!」

 ゲールは二十人ほどはいるであろう生き残りを引き連れて、ザイの元に向かった。その間、幾つものうめき声が彼らの足元から漏れ出たが、ゲールはその全てを黙殺した。あるいは本当に耳に入らなかったのかもしれない。チャムはそのいくつかに気付くと、生き残った衛兵を割いて救助に当たらせた。

「ソプル殿!」

 ゲールの呼びかけに、ザイは答えない。彼は懸命に何かを探しているようだった。

「ソプル殿、神を鎮めて欲しい。君にしかできない」

 ソプルは一顧だにしない。瓦礫をかき分けて、唱えるように誰かの名を呼んでいる。

「話を聞かないか!」

 見かねたチャムがザイの手をつかんだ。すると、ザイは激しく手を振り解き、叫んだ。

「ナラッカはどこだ!ナラッカを探せ!あれは本当に、本当にかわいそうな娘なのだ!ナラッカを探せ!竜の娘を探せ!」

 血走った目で女の名を唱えるザイを見て、誰もが気が狂ったのだと思った。

「竜の娘…竜の…?」

 ゲールは首を傾げたが、タータハクヤ家の客人エミの日記を読んでいないチャムには意味がわからない。

 チャムはその間にゲールの脱出準備を全て整え、そして残るはザイを引きずってこの場を撤収するだけとなった。

「陛下…」

 再三再四に渡って王都からの脱出を勧めたチャムだったが、これが最後通告とばかりに屈強な衛兵三人を並べて、ゲールに詰め寄った。返答の如何なく彼はゲールとザイを抱えて王都を飛び出すつもりだ。だが、ザイが瓦礫の中から一人の女を引き上げるのを見た時、不思議にも体がこの場に留まることを望んでいることに気付いた。

 ザイは、眼下で気を失った女をじっと見ていた。外傷はない。呼吸にも乱れはなく、崩落のショックで気を失っただけだろう。

(ナラッカほどにかわいそうな女が、他にいるか?)

 先ほど、思わず口をついて出た言葉が、他の誰でもない、ザイの心を深くえぐった。

――返せ!返せ!

 天空の声。それはありったけの怒りを、自らの怒りで死につつある都に向かって投げつけていた。

 再び、眼下のタータハクヤを見やる。

 美しい。憐れなほどに、美しい。女は、狂乱の神が吼える度に、懼夢くむに魘されるように眉間に皺を寄せる。

 天空の怪異は、神と呼ばれるに相応しい、数多くの死を、我らがクーン王宮にぶちまけた。

 これほど理不尽なことが他にあろうか。アシュナを、数多くの人々の命を奪い去っただけでは飽き足らず、神はまだ牙爪を向ける先を探している。

「ソ……プル様……」

 微かな声。天空のそれとは似ても似つかない、女であるべき声だ。ザイは何故か、アシュナの母アヤの、男を幼児に帰らせるような特別な澄みを持った声を思い出した。タータハクヤの声は、天上の脅威を消し去るほどの強さを持たないが、それでも今のザイにとっては救いですらあった。

「よかった、気がついたか。見たところ外傷はないが、どこか痛いところはないか?」

 ザイがタータハクヤの手を取ると、彼女はわずかに握り返して応えた。

「……ご心配には及びません。あれは、ソプル様を殺めるようなことは致しません」

 タータハクヤの言ったことが、ザイには理解できない。

「何を言っている?」

「神は、私を殺しに現れたのです。私は神龍の眼ヨアンを見たのです。ふたつの神の内のひとつは、私を見ています」

「ふたつの神?」

「……ひとつの神は、天空にあり、これからクーンを滅ぼします。もうひとつの神は、私には見えません」

「神に殺されるほどの罪がお前にあるのか?」

「わかりません。人の犯す最も重い罪は人にははかり知れません」

 諦観。ザイは何故、人々があれほどの怪異を前にして都を放棄しないのか理解した。大火を神の裁きとしか思わない人々が住まう国では、防火の技術は全く発展しないという話を思い出した。もっとも、巨大な化け物が物理的に国家を破壊するような災害が相手では、人は地下に逃げ込むしかないだろうが、クーンの歴史は常にその逆を行ってきた。宮殿を高くに置き、より神の怒りに近い場所に住もうとした。

――お前にあれを退けられるか? お前に、そんな特別な力があるのか?

 何故か、キツの言葉を思い出した。タータハクヤは自分のことを気遣ってくれてはいるものの、言っていることは彼と同じだと気づいた。

 ザイは、自らが神職にあることに気づいている。最上級神官という特別な肩書きと、ソプルという天使の名を冠した自分は、神の言語を解さない連中よりは神に近くとも、無力であるという点では全く同じだった。

「もうひとつの神は、あれを止められるか?」

 タータハクヤがあえて言外に置いたように感じた言葉を、ザイはうめくように吐き出した。

 すぅ――と、息を呑む声が聞こえた。タータハクヤは言葉を忘れたまま、じっとザイを見ていた。

 恐怖からか、驚きからか、潤んだ女の瞳の中には一切の答えがなかった。ザイは、しかし答えでもなんでもないただの感情の塊を、タータハクヤから受け取らねばならないことに気づいた。

――私が、命を賭して神に言上奉ります。

 そう言い出しかねない覚悟が、女の中にはあった。それは答えではなく、拒絶であった。最上級神官ソプルには何もできないのだと、言っているに等しかった。


――西臥す神は黄金の神

――余を律するは人にあらざり

――東す神は紅蓮の神

――余を乱すは人なり

――いざ人は死なんや

――神の御手をとること無かれ

――いざ人は争わんや

――神の尾を踏むこと無かれ

――天使はいずこより参る

――言の刃なきをあに問わんや

――天使は首を持って去りぬ

――犬の王はさもありなん


 クーンに来て早々に放り込まれた白蛙宮はくあきゅうで、巫女たちが暗誦していた祝詞を、ふと思い出した。当時は音だけを拾ってついには暗記してしまったが、今では意味も理解できる。

(言の刃なきを、あに問わんや)

 白蛙宮の異変以来、常にザイの頭をもたげていたひとつの疑問。

「俺がここにいることに、何か意味があるのか?」

 すべての状況、すべての人が、それに否という。この場において、自分が天使の化身としての役目を果たすという予感すらない。ザイという男には、神の怒りを鎮める力は全く備わっていない。

 何故か。

 わからない。感覚だけが、まるでそれが絶対のものであるかのように、ザイという男の全てを支配する。あるいは、そう――自分に「否」をつきつける者達もそうなのだろう。

 誰にも、何もわからない。

 周囲の張り詰めた空気が、それだけを教えてくれる。

 気づけば、背後に人だかりがあった。新王ゲールだけが、最上級神官ソプルという男に、何かを期待するような視線を投げかけている。それが、エミの日記を共有するという一事から来ているものに過ぎないことは、ザイは重々承知である。

「…ゲールよ。死ぬがいい。アシュナのように、死ぬがいい」

 ため息にも似た声が漏れ出た。その場の全ての視線が凍りつくのを感じたとき、崩落した王宮のどこかで竜のいななきが聞こえた。

 天を見た。

(全てがキツの言うとおりだ)

 荒ぶる神が、クーンを呑み込もうとしている。これほど災厄に見舞われるだけの罪を、人々は果たして犯したのだろうか。いや、その答えはとうに出ている。これには意味はない。神の怒りには、意味はないのだ。

 この神は、全てに怒っている。全てに死ねという。何かを奪われたのが許せない。何を奪われたのだろうか。その答えを得るものにすら、あるいは罪をあがなおうとするものにすら、これは死を与えるだろう。

「チャム……だったか?」

 青ざめるゲールをよそに、ザイは彼の傍に侍る戦士に声をかけた。

 チャムは少し迷った後、ザイの前に進み出た。

「飛ぶ竜は扱えるか?」

 彼を選んだ理由は特にない。あえて言えば、名前と顔の一致する稀有な兵士だからだ。

「南方を旅した頃に少々たしなんでおりましたが」

 歯切れ悪い答えだが、ザイの意図が理解できない以上、無理はない。

「そうか。では、飛べ」

「は?」

「儂を乗せて、飛べ」

 この場の誰も、最上級神官の言っていることに理解が及ばない。

「お逃げになるのでしたら、走竜の方が…」

 ザイは無言で天空を指差した。

(ああ、なるほど…)

 周囲の者ではなく、ザイ自身がそう思ったのだから、これはひとつの不思議だった。

「ゲールよ。ナラッカよ。あれは神ではない」

 おそらくこれが、人間に許された、神に対する最大の反逆なのだろう。本来、痛快に響くべき言葉が悲壮ですらあるところに、ザイの悲しみがあった。

 天空を目指した先で何が起こるのか、実のところザイ自身にも見当がつかない。だが、全てがこのためにあったと思わなければ、ザイという人間そのものが、全てに否定される気がした。

 あらゆる人間の仕業が踏み潰されるような状況でなければ、ザイの狂気とも呼べる提案は一蹴されただろう。だから、ザイに賛同したゲールも、それを止めなかった重臣たちも、あるいは飛竜を引いてこさせ、手綱をとるチャムですらも、正気を失わないために狂気に身を任せてしまったのだ。

「ナラッカ。お前の母に会ってくる」

 鞍上を見上げる女に、ザイはせめてものはなむけの言葉を落とした。


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