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十四章『死すべき者達の都』(2)

 それは、既にあった。

 現れたという表現は正しくない。それは最初からそこにいた。いや、人々が初めて認知したという意味では、それはやはり現れたのだろう。

 異変に気づいたリョーンが慌てて屋外に飛び出し、牢に繋がれたかつての剣豪が尋常ではない何かを感じ取り、王宮の神官たちがざわめく中、ゲール王とザイ、そして少し離れた場所でタータハクヤが空を見上げ、あるいは都内の小高い丘の一つで、車椅子に乗る少女に傍立つ男がわずかに口元を歪めた時、それは既に存在していた。

神龍(リョーン)…」

 誰もが、それを目にしつつ、同じ台詞を口にしていた。それ以上は、何も出なかった。

「ようやく来た。この時が…」

 鼻筋を断つ様な刀傷が笑ったようだった。キツは、車椅子に座ったまま微動だにしないハルコナの手をとった。

「さあ、立て。お前が生まれてきた理由は他にあったが、お前は今、この時のために、一度死んだのだ」

 団子にまとめた赤い髪が淡く光を帯びた。それ以上に強い光が、少女の瞳にともっていた。

「迷うな、ハルコナ。この世に死すべき人々は多くいないが、生かすほどの価値のある人間もまた、少ない。多くはいない生くべき者達は、もはやこの都にはいない」

 少女は立ち上がった。

 天空に現れた神威――黄金に輝く神龍を見上げたハルコナは、大きく息を吸い込み、掠れた喉を震わせて、咆哮した。

 獣声のようにも聞こえ、悲鳴のようにも聞こえるそれは、王都全域に鳴り響いた。

 天が曇り、雷鳴が大地を穿った。

 王都に住まう者全てが、文字通り神に心臓をつかまれていた。

 誰も動けない。天空にある「神龍の眼(ヨアン)」は、時間をかけてゆっくりと獲物を見定めているようだった。まるで子供が晩餐の卓上に並んだ料理のどれに手をつけるか悩んでいるようにも見えた。

 これ以上ない恐怖に襲われながらも、王都の民が大恐慌を起こさなかったのは、ただ単に神に見られているという意識からだった。猛獣に狙われた子供が、木陰で息を潜めて通り過ぎるのを待つのにも似ていた。

 どうやら、金竜(ごんりょう)はその牙の向き先を決めたようだった。

 誰もが呆然と見上げる中、王都の中央の空に浮かんでいたそれはゆっくりと北を向きなおし、厳然と王都の北部に根を下ろすクーン王宮に襲い掛かった。

 建国以来数百年もの間、王宮を守護していた王都北門が瞬く間に破壊された。先日、チャムとアクシア兵の死闘が繰り広げられたクーン後宮も一瞬で吹き飛んだ。竜車をいくつも詰め込めそうな大きな(あぎと)は、クーン王宮の三分の一を飲み込み、鋭い爪は大地を根から掘り返し、その巨大な尾は王宮と市街を隔離する二重防壁をいとも容易く粉砕した。

 ただ地に降り立っただけだというのに、その一動作で、クーン王国の中心が粉みじんになった。神龍とはそれほど巨大であり、無慈悲であり、人智を踏みにじる存在であった。

 この時になってようやく、神の前に戦慄していた人々の感情が爆発した。

 誰もが王都から脱出しようと、王都の東西と南にある各門に殺到した。


 リョーンは呆然と、あまりにも突然に起こった災厄を見ていた。思考がついてゆかなかった点では、彼女は他の剣士達と全く同じだった。

「ナラッカが…嘘、ナラッカが…」

 全く動かないリョーンに代わって恐怖に駆られた剣士達を統御したのは、彼女の右腕であるカルカラだった。彼は声を枯らして部下に指示を行い、速やかに王都から脱出する準備を進めた。王都の民衆を守るのが剣士団の責務だが、この時の彼はその考えを完全に捨てていた。人間如きが神を前にして何を守るというのだろうか――という気分だったのだろう。普段ならばカルカラの剣士としてはあまりにも自覚に欠ける判断に、他でもない剣士達が真っ先に同調したのだから、彼らの心を占めていた恐怖の度合いがわかる。

「身一つでよい。全員、王都南門へ向かえ! 動ける者だけでよい。駆けよ!」

 とても司令官とは思えない命令を何度も叫び、カルカラは自分もまた竜にまたがった。

「団長。何をしているのです。早く騎乗して下さい!」

 突っ立ったままのリョーンにようやく気づいたという風に、カルカラは声をかけた。リョーンはその声にすら気づかないようだった。

「団長、聞こえているのですか?」

 リョーンの反応が無いことを確かめたカルカラは、ちっ――と舌打つと、リョーンのための白竜を引いてきた剣士達に向かい、怒鳴りつけるように言った。

「お前達は団長を守って逃れよ。良いな。必ず死なせてはならぬ!」

 カルカラとて、この場に長居は出来ない。彼自身の命が惜しいこともあったが、勢いに任せて南門に殺到した剣士達は、同じように王都を逃れようと押し寄せる住民と接触し、悪ければ血を見ることになる。司令官として、それを阻止する責務を放棄するつもりは無い。たとえ王都がクーンの地図から消えても、カルカラの頭は剣士団さえ生き残ればそれで満足できるようになっている。

 急に辺りが静かになった。

 気づけば、リョーンは数人の剣士達とともにクーン剣士団本部に取り残されていた。カルカラ以外の「剣翁の孫達(タータ・ロセ)」の誰も、彼女をかまう余裕もなく南へと逃げ出していた。

 残った剣士達は、何もカルカラの命令に逆らったわけではない。身一つで逃げろと命令しながらも、一部の剣士達に命じて食料と水を確保し、王都東門から抜けてカルカラと合流するように言いつけていたからだ。王都を脱出するには近いが、それだけに最も混乱が大きくなるであろう南門にのろのろと竜車を連ねてゆく愚を避けた辺りは、カルカラも辛うじて冷静を保っていたといえる。

 カルカラにリョーンの保護を言いつけられた剣士達は、タータハクヤが拉致された折にリョーンの警護をしていた者たちと同じ顔ぶれだった。腹がすわっているというべきか、彼らは慌ててリョーンと共にカルカラを追うよりも、後発する部隊と同行する方を選んだのだった。リョーンが、傷ついて身動きを取れないまま置き去りにされたシェラやエト、それに牢に繋がれたままのロセを見捨てるとは思えなかったからだ。

 剣翁(けんおう)ロセは、何日ぶりかに鎖を外されて、外界に出た。同じく鎖につながれていたテーベは、重症の身もあって瀕死と呼ぶに相応しい状態だったが、竜車に乗せられた。カルカラが彼を獄死させる腹づもりであったことはこれだけでも分かる。ロセは王宮の代わりに王都の北部に君臨するようにして伏せる神龍に、目を大きく見開いたが、それでも他の剣士達のように取り乱すことをせずに、リョーンの前に現れた。

「義父さん…」

 リョーンは何かを覚悟したような表情になった。ロセを投獄したのはカルカラだが、最終的な判断を下したのは自分自身だ。親知らずと頬をはたかれようと、リョーンは文句を言える立場には無い。

 老体なのもあって、さすがに牢屋での暮らしはこたえたのか、ロセの声は常のような重圧を感じさせなかった。

「負け戦と決まれば、やることは一つしかない。とはいえ、鼠のように逃げるだけでは能がない。殿(しんがり)は若者の仕事ではなく、老兵は逃げ時を誤らない。リョーンよ。生きているのか死んでいるのか、分からない者のことは考えるな」

 といって、ロセはリョーンが乗るはずだった白竜にまたがり、二十人ほどの剣士を連れて、剣士団本部を後にした。

「西区のピオ様と合流し、逃げ遅れた住民を導くを言っておられました。先生はやはり、先生でした」

 護衛の剣士の一人が言った。彼はロセの投獄に疑問を持っていたのだろう。何やら誇らしげな口調だった。

「そう…あっ、シェラは? エトも何処へ行ったの?」

 リョーンは初めて気づいたかのように、二人の名を呼んだ。何やら先程から顔が熱をもったように火照り、意識がはっきりしない。

「団長様!」

 宿舎の方から、少女がエトの手を引いて駆けて来た。

 エトは相変わらず、リョーンのことが分からないようで、しかし自我が無いようにも見えた彼女は、小走りになりながらもずっと王都北部に居座る神龍の方に首を回していた。

「ウイ、よくやったわ」

 リョーンは、タータハクヤが雇ったばかりのこの少女を褒めた。明らかに王宮にいたはずのタータハクヤが無事であるなどとは、考えられなかった。

 ウイはどこか、そわそわしているように見えた。このような事態だから当然だが、彼女は突然リョーンに頭を下げると、共に王都を脱出することが出来ないと言った。

 クーン剣士団の剣士の中にも、特に年若く入団して間もない者達に多かったが、幾人かは自分の家族の身を案じて勝手に飛び出した者がいた。

 リョーンは強いてウイを留めようとは思わなかった。だが、護衛の一人を彼女につけようとすると、ウイは慌てて、

「いえ、そこまでしていただかなくても!」

 といって、走り去った。

 タータハクヤを除けば、自分の身内がすぐ近くにいたことは幸運なのだと、リョーンは思った。

「エトとシェラを竜車に乗せろ。準備が終わり次第脱出する」

 リョーンは王宮を押しつぶすように地に横たわる神龍を見た。

神龍(リョーン)よ。私と同じ名の神よ。貴方はそうやって何度もクーンを滅ぼしたのですか…)

 突然、喉が焼けるように熱くなった。

――く…おおぉん…

 獣の咆哮にも似た何かが、再び天空から落ちてきた。

 破壊の神が、王都そのものを巻きつくすほどの巨体が動いた。


 決断は、瞬間であり、そして連続する。

 浅慮な人間ほど単純な二択を好むが、そのような愚者達ですら、各々の人生の中で、どれを選んでもハズレという場面に出会うことがある。

 死が最も端的な例えだろう。

 人間は必ず死ぬ。だからこそ、人間は自らの焦点を死ではなく、それに至るまでの過程でしかない生に合わせる。

 生きるということについて何の決断も行わなければ、いとも簡単に人は死に至る。たとえ行ったとしても、いずれは死ぬ。

 リョーンがこの時感じたのも、これに近い感覚だった。何をやっても同じ。自分が今、どう動こうとも、それは同じ結果に繋がる。

 宿舎の一室からシェラが担架で竜車に運ばれるのを見たリョーンは、白竜をロセが乗っていったために愛竜であるスサに騎乗し、剣士団本部を後にしようとしていた。

 天空に牙爪があった。

 真昼の月かと見紛うほどに、それは美しく、そして巨大だった。

 神の怒りの矛先が、自分から少し離れた竜車――エトが乗るそれだと知った時、リョーンは有無を言わさずに駆け出していた。

 逃げても死ぬ。逃げなくても死ぬ。意味の無い二択がリョーンの頭の中に浮かんだ時、地面が張り裂けるような音と共に意識が遠のいた。

 気づけば、天雷が眼前に飛び込んできた。

 自分は生きている――と、そう感じたのは、足をまげて座った状態のスサが自分の頬を舐めてきたからだ。

 細かい何かの粒が髪を打った。上空に巻き上げられた土砂があたり一面に降り注いでいた。

 土煙が霧のようにたちこめている。それに紛れて、崩壊した剣士団本部と、そこら中に散らばる死体が、うっすらと見える。自分が気を失っていた時間が、実はほんの数瞬であったことを、リョーンはこの時知った。

――カル…

 誰かの声がした。聞き覚えのあるそれに、リョーンは思わず声のする方を振り返った。

 誰かの姿があった。

 眩いほどに明るい黄金の髪、すらりと高い長身は黒衣に包まれている。

「…シェラ?」

 リョーンが見たのは、あるはずの無い光景だった。半月ほど前、カエーナによって瀕死の重傷を負わされたシェラは、まだ自力で立つこともままならない。

 男は剣を手にしていた。光を吸い込むような黒い刀身を見た時、リョーンは思わず左腰に差した玄糸刀(げんしとう)を確かめるように触れた。

 男の前に、誰かの姿があった。

 頭の後ろで結んだ長く黒い髪。そこにいたのは紛れもなくエトだった。

「何を…」

 全身に針を突きつけられたように、総毛立った。竜車を飲み込むほどに大きな目が、矢を放てば届くような距離から二人を見下ろしていた。

 竜のような、爬虫類独特の冷気に満ちた目である。だが、リョーンの前に広がるそれは、生物ではなく、神であった。

 エトは、じっとそれを見上げていた。

 先程、クーン剣士団本部を一瞬で破壊した爪が空から降りてきた。蟻をつまむようなゆっくりとした動作で、それはエトに近づいていた。

「エト、逃げて!」

 巨大な爪先が少女の頭に届こうかという時に、傍立つ黒衣の男が、手に持った黒い短刀を横に寝かせた。

 リョーンも立ち上がり、二人に向かって走り出した。

 間に合っても死ぬ。間に合わなくても死ぬ。また、意味の無い二択が頭の片隅に浮かんだ。

「シェラ! やめて、シェラぁぁ――!」

 黒衣の男が、棒立ちになったままの少女に重なった。そして、神に死体を見せ付けるように、一歩下がった。

 少女は、力なく地に(たお)れ、動かなくなった。

 耳を貫くような叫び声が聞こえた。女のそれだった。

 男――シェラは、その時初めてリョーンを見た。


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