第二章『白蛙宮』(2)
「わしが留守の間はチャムに習え」
と言い残し、ロセは素早く王都を発った。
チャムという名の男は齢二十を越えたばかりの若輩であるが、都ではロセに次ぐ実力者である。ただ彼の剣は戦場を知らず、試合では百戦無敗であっても英雄とはいわれない。クーンはやはり戦士の国なのだ。
後ろに結んだ黒髪は長く、顔は峻烈な鍛錬が染み付いたような表情をしており、しかしながら美顔である。長身痩躯であるが鉄線で編んだような筋肉を秘めており、剣をふるうごとに「轟」と風を断つ音が鳴る。性格は侠気に富み、自信家である。自然、門弟からの信頼が篤く、実質、王都の剣士団は彼がまとめ上げていると言える。
ロセの留守中に、王宮からの使いが来た。
「近日、アシュナ王女が成人の儀式を行われる。予定の通り参内し、警護に参加せよ」
本来は団長とロセが数人の門下を率いて警護に参加するはずだったが、ロセが不在のため、チャムが赴くことになった。
チャムは勇躍した。儀式とはいえ、王の視界に入るまたとない好機である。過去に幾人もが警護の任務において自らの優秀さを示し、高位に上がったことを考えると、たとえ退屈な任務であっても、心血を注いでこなす価値はある。チャムはその場に立っているだけでも、自らの才覚が誰かの目に留まるという密かな自惚れがある。
参内の前夜、チャムは珍しく晩酌をあげた。彼について弁護をしておくと、チャムはロセが急に帰郷した理由を聞かされていない。公的には、用事があって出かけたことになっている。
「儀式で何が起きるわけでもない。なのに私の腕は震えている。私は、この震えがおさまるのが怖い」
弱い酒をあおりながら、チャムは月に語りかけた。
儀式は夜に行われる。場所は王宮の西にある白蛙宮である。名の通り石畳から官衣に至るまで白一色で染め上げられている。晩夏の風の無い夜に夥しい数の人間が王女の警護に参加した。
「耳鳴りがするな……」
大気が強張っている。チャムは緊張した面持ちで持ち場に着いた。
剣士団は王設の軍隊ではなく、ましてや何者かの私軍ですらない。設立のきっかけは一昔前の望南戦争である。累々たる屍を築いた挙句、クーン軍は敗走し、南人たちは王都を急襲した。王都では童子から老人まで武器を持ち、戦った。この義勇軍は戦争終結後に解散したが、その名残がクーン剣士団である。この点、剣士団はそこいらの剣術指南所とは一線を画している。戦死したチャムの父は義勇軍の指導者的立場にあった。チャムが今、剣士団に属しているのは父の志を継いだのである。それとは別に、彼には官途に就くという野望がある。
チャムはアシュナ王女の目の届く場所に配された。ドルレル王の剣士団に対する信頼はこれほどに篤い。宮殿の中庭を囲うようにして兵たちが屹立する中、剣士団ではチャム一人だけが、アシュナの駆る竜車の近くにいた。彼は竜車から降りるアシュナの姿を視た時、感動のあまり泣きそうになった。英雄であった父と、王の信頼の篤いロセに心から感謝した。
アシュナは白蛙宮に倣って白衣である。王女とは豪奢な衣を体が押し潰れるほどに着重ねることを宿命付けられた生き物だが、儀式に臨むアシュナは喪服のように心細い姿で現れた。チャムの目には彼女が聖光を帯びているように映った。
(月に映える人だ)
竜肉が運ばれてきた。宮殿の二階にいるドルレル王の息遣いが聞こえてきそうなほどに、あたりは静まっている。アシュナは神官長の前に跪き、恭しく拝した。何か呪文のようなものを唱えていたが、チャムには聞こえなかった。
皿に盛られた竜肉を見たアシュナは不機嫌である。
(これは豚の肉ではないか?)
肉すら滅多に口に出来ない庶民とは違って、王族の晩餐には毎日のように肉が添えられる。アシュナは自分が「担がれている」ような気分になった。
「白い犬の王の祝福を――」
といって神官長がわざとらしく両腕を広げた時、大きな影が月光を塞いだ。
風が鳴った。獣の咆哮にも似たそれは、月を威圧するようにして辺りの静寂をかき消した。
(耳が痛い)
脳を押しつぶすほどの耳鳴りがアシュナを襲った。途端に周囲が暗くなり、辺りから音が消えた。白蛙宮は闇に包まれた。
「何をしている。灯りをつけろ!」
突風で王冠を吹き飛ばされたドルレル王は、辺りの者に怒鳴り散らした。月が暗雲に呑まれ、全ての炬火は風に吹き消されたため、白蛙宮は見事に闇に染まっていた。
中庭に赤い光が灯った。炬火ではない。より強い光。そう、それは太陽にも似た輝きで世界を照らし始めた。
頭を抱えて蹲っているアシュナはようやく周囲の異変を察知し、空を仰いだ。
空が赤い。その赤さは神々しく、夜という名の静寂を見事に破壊していた。
「神龍――」
誰かが呟いた時、光は既にそう呼ばれるに相応しい形を成していた。
降臨した。見紛うことなく、彼らが崇める神の御姿である。
「おお――」
などというのん気な声を上げるほど、ドルレル王は暗愚ではない。彼は歯を震わせながら、神龍が現れた理由を必死に考えていた。
神龍は名の通り、人々の崇める竜の神である。クーン人の信仰において神が地上に降臨する理由はひとつしかない。破壊である。その証拠に、神の後光を浴びているというのに誰ひとりとして幸福を感じていないではないか。
アシュナは空を見上げたまま凍りついたように動かない。彼女の視線の先には赤い稲妻のような光の、さらに強く輝く一点があった。
(神は儂をみているのか……)
獣臭がする。この世の何よりも吐き気をもよおす臭いだ。腹に焼けた鉄を押し込まれたような錯覚を覚えたアシュナは嘔吐した。
「あれは神龍の眼じゃないのか?」
兵たちが呆然と立ち尽くす中、チャムは吐き気を必死に堪えながら言った。
風が踊るような音を上げた。落葉がつむじに巻かれるようにして中庭へと吸い込まれていく。
大気が震えるのを感じる。天空の赤い光は次第に燃えるような色になり、チャムがヨアンと呼んだそれに向かって収束していった。
叫ぶようにして、アシュナの保護を部下へ命令したばかりのドルレル王は、異変が異変のままで終わりそうにもないことに気付き、戦慄した。
「あれは……」
天空の眼は徐々に中庭へ降りてくる。次第に形を成していった。
「現界するというのか。これほどの神威が……アシュナ!」
ドルレル王の声は神の賛歌にかき消された。
アシュナは気が狂いそうになるのを必死に堪えている。どうしようもない耳鳴り、獣臭を嗅いだような吐き気、そして下腹部が焼けた鉛を孕んだかのように熱い。
(今日は違う日なのに……)
空が張り裂けるほどの爆音が轟くと共に、赤い光体とも言うべきヨアンはアシュナの元へと降り立った。
――王女が死ぬ!
父親であるドルレル王ですらそう思い、顔を覆った刹那、一陣の風が神の庭を侵した。
チャムである。彼は勢い良く抜剣し、無謀にもヨアンに斬りかかった。金属の爆ぜる甲高い音が鳴り、チャムは蹴り上げた石ころのように飛ばされた。彼の勇気は一歩間違えれば神の怒りをかう危ういものだったが、辛うじてアシュナの眼に映ったそれは、後日、彼女の記憶するところとなる。
赤い光がアシュナを包み込んだ。
目を開くと、どうだろう。光と形容するにはあまりにも深い赤。しかし暖かく、器いっぱいに汲まれた羊の乳の中にいるような感覚がした。その中で途方もなく小さな自分が漂っている。自らが光の一部であるように錯覚する。
光の中でアシュナは人の姿を見た。
紅の世界の中心に、泡のように浮いているものがある。
(人?)
それは乳児のように膝を曲げて丸くなって浮いている。男だった。頭は薄く禿げていて、しかし、年は二十代そこらだろう。体は丸く太っていて胸板は女の乳房のように垂れている。手足は気の毒なほどに短く、指も太い。顔の形は柿をひっくり返したようで、目は小さく離れていて、鼻は大きい。あばたもある。
(醜い……)
嫌悪と哀れみを同時に感じた時、腹の底を撫でられるような感触をおぼえた。
ヨアンの中で、彼女は焼けた鉛にも似た不快な熱を吐き出した。
二章『白蛙宮』了
三章『アシュナの結婚』へ続く