十四章『死すべき者達の都』(1)
アドァはいつものように暗く粉臭い部屋で鑿を手に取っていた。
部屋の隅で膝を抱えて座る少女の姿があった。赤い髪を頭の両端で団子にまとめた少女――いや、歳からすればもはや女というべきだが、ハルコナはどこか落ち着かないように、床に落ちた木片を手にとっては炉に投げ入れた。
何者かが壊れかけた扉を叩いた。
「どうぞ」
屋外にも聞こえるように、良く通る声で言うと、外界の冷えた空気と共に一人の男が入ってきた。
鼻筋を断つ様な切り傷――キツは、無言でアドァの正面に座った。
「まさかキツさんに一杯食わされるとは思わなかったよ。恩を仇で返すとはまさにこの事だ」
アドァが何やら恨めし気な口調で言うと、キツは小さく笑ったようだった。
「そう言うな。セラがあそこまで軽率だとは、俺も思わなかった」
「知らなかったと?」
「西侯が俺を殺そうとしていたことは、お前も知っているだろう。それにお前の失敗は、どこぞの美人に肩入れしすぎたことであって、誰かに騙されたことではない」
「酷いなぁ、キツさんは…」
アドァは手にした水筒に口をつけた。
「酒か?」
「いや、水だよ。酒は昔からダメなんだ。師匠が酔って自分の指に鑿を打ち付けたのを見たからね」
「頼りにならない師匠だな」
「売れない彫師だった。娼婦のヒモになって食いつなぐだけのクズだったよ」
「そんな男に弟子入りして何を学んだ?」
話題がずれていることに気づきながらも、アドァは話を続ける。まるで、今のうちに会話を楽しんでおこうとでも言わんばかりに。
「クズでも顔だけは広かった。お陰で色々な人間に会ったよ。人間の器とは、若いうちにどれだけ多くの人に出会えるかで決まる。その点ではよく世話になったとは言えるね」
「乞食の頭目が器量を語りだすとは、世も末だな…」
「そう言いなさんな。ああ見えて、暢気な連中さ」
キツは腰に帯びていた水筒を手に取った。
「酒かい?」
「ああ、酒だよ。これがなければ、今頃はどこかで物乞いでもやっていただろうな」
「飲兵衛は皆、そう言っては酒をよこせと言いやがるがね」
キツは水筒に口をつけると、喉を鳴らして冷たくも熱い液体を腹に注ぎ込んだ。クーンの酒は強いからちびちびと口をつけて飲むものだから、アドァがキツの飲みっぷりに驚いたのも無理はない。
「どうした? やけに機嫌が良いね」
「そうか。そう見えるか…」
キツは酒の入った水筒をアドァに向かって投げた。
「飲めよ」
やれやれ――といった風に、アドァは水筒に口をつけた。
「あれから二十年か…」
「やや、昔話をしにきたのか?」
豪快に笑う性質ではないアドァは、歳のわりには愛らしい笑顔を作った。
しばらくつまらない歓談をした。キツが酒豪なのかどうか、酒が回った様子もなく、今のクーン剣士団やカエーナに関する話をした。ハルコナがいるせいなのか、互いに持っている深い情報は秘めたままで、街の連中が好んで話題にしそうな浅い話だった。
やがて話が済んだ頃、キツは部屋の隅からこちらを見ているハルコナを手招きした。
「ハルコナ、来なさい」
赤い団子の髪が、キツの腕の中に入った。
「散歩のときは我侭を言うから大変だった」
流石のアドァも、ハルコナの赤髪のカル好きには参ったようだった。
「テッラとか言ったか、あの女は何処にいったのかな?」
「彼女には少しお暇を取ってもらったよ。実家が王都ではないので、まあこちらとしても助かった」
キツの目が光ったようだった。いつの間にか、ハルコナは膝の上で寝息を立てていた。
「…先日君に伝えた話は、あまり役には立っていないようだ。私としてはとても残念だよ」
急に、アドァの口調が変わり、先ほどまでの物腰柔らかな雰囲気が消えた。
「既に捨てたのだ。自分だけおめおめと生き延びて、何が楽しい?」
「それでも、一度くらいは会ってみればどうだ?」
「会うには会った。だが、あれも亡霊にとり憑かれている。つまらない話だ。自分の行き場所を自分で決められない。生まれがそうだったから、そう教えられたから、疑問も持たない」
「自分の見たいものばかり見て、自分の中に沈んでゆく――か。お前さんの言葉だったな。だがね、誰よりも自分の中に沈んでもがいているのは、キツさん自身じゃあないのかい? そうやってこの娘の命を、ただの蝋燭みたいに使いきった先に何が残る?」
鼻筋を断つ傷痕が歪んだ。痛いところを突かれたが故に苦笑したわけではない。
――お前には分からんさ。何にも属せず、気ままに生きているつもりの人間こそ、自分から目を逸らしているのではないか?
そうとでも言うような、淡い笑みだった。
「お前さんは、色々な意味で手遅れのようだ。妄執にとり憑かれるのではなく、まるで自分自身を生贄に差し出す巫女のようにも見える」
「そうか…」
キツは、残りわずかになった水筒に口をつけた。
――お前さんは、狂っている。
アドァは口元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
最近、嫌な夢を見る。
天雷が何度も地を穿つ中で、自分ひとりが荒野に佇んでいる。
――お姉ぇ…お姉ぇ…
誰かの声が聞こえた。リョーンにはすぐにその声の主がわかった。
(エト…エトなの?)
辺りを見回しても、昼も夜も分からないような曇天の下に荒野が広がるばかりである。
突然、頭上で轟音が響いた。
上を振り向こうとすると、何者かが自分の手をつかんできた。
振り返ると、そこにいたのは赤い髪と瞳をもった少女だった。
(ハルコナ…)
少女はリョーンと目が合うと、無表情のまま前方を指差した。
導かれるように、リョーンはその先を見た。
薄く禿げた頭に小太りの体。誰が見ても美とは程遠い容貌の男が、自分の眼下で泣き崩れる女に向かって何かを話しかけている。
(あれは、最上級神官…傍にいるのは……ナラッカ?)
女の足には膝から先がないのですぐに分かった。何を泣いているのだろう――と思ったところで、突風が吹いた。
気づけば、眼前に一人の男の姿があった。
薄暗い光の中でも美しさを失わない黄金の髪と紺碧色の瞳、一点の穢れも無い白いコートに身を包んだ長身の男は、リョーンを前にして静かにたたずんでいた。
(シェラ…)
男は無表情のまま、リョーンの方を見やった。
よく見ると、シェラの右手には細長い漆黒の長刀があった。
何かが、刀の先から垂れ落ちて地面を打った。一瞬だけ視線を地面に移したリョーンが再びシェラを見やると、彼は身を翻し、リョーンから遠ざかるように歩き出した。
(何処へ…)
後を追おうと一歩を踏み出した刹那――リョーンの耳元で誰かが囁いた。
「行けると思うのか、向こうへ?」
何者かが自分の肩をつかんだ。続けざまに、膝に、腰に、そして首に重みを感じた。
後ろから何者かの声が回り込んできた。
「さあ、赤髪のカルよ。我が首をとって見せよ」
低く威圧するような重々しい声。逞しい顎鬚と頬に刀傷をこさえた男が言う。
「赤髪のカルよ。汝の仇は何処ぞ!」
身が竦むような鬨の声が、背後から響いた。リョーンの右から、左から、剣を手にした男達が飛び出してゆく。
彼らはそれよりも先に飛び出していた顎鬚の逞しい男の首を切り落とすと、一人が咆哮し、後がそれに続いた。大地が鳴動するような鬨の声に、リョーンは身震いがした。
後ろから飛び出してくる男達の誰もが、リョーンの肩を叩き、背中を押す。誰もが誇らし気で、誰もが満ち足りた顔をしていた。リョーンもまた、彼らに押されるように歩き出そうとした。
その時、少年のような、あるいは少女のような細い声が背後から聞こえた。
リョーンはこの時初めて、振り返った。
長い銀髪を三つ編みにまとめた少年が、その細い腕に何かを抱えたまま、泣き叫んでいた。
「ああ、カエーナ。ああ――!」
それがかつての宿敵の首であると知ったとき、リョーンは戦慄した。
少年の足元に、夥しい死体が転がっていた。
ある者は剣を抱くように、ある者は逃げようとしたところを射掛けられたのか、背に幾本もの矢を立てて死んでいた。
心臓の鼓動が、張り裂けんほどに大きくなった。
「こっちだ。赤髪のカル。お前に相応しいのは…」
リョーンは自分の足元に群がってきた死体を振り払った。
(ふざけるな。わたしが戦いから目を逸らしているというのか。このようなこと、最初から分かっていた。何もかも覚悟の上だ)
リョーンは走り出した。亡霊に足をつかまれても、背後から抱きつかれても、それでも奔った。
――何処へ行くの? あの人のところ?
天空から、また声が落ちてきた。
リョーンは空を見上げた。そこには、天地に君臨すべき神の姿があった。
巨大な瞳に見下ろされたまま、リョーンは息を忘れた。
――もっと、沈んでゆけ。もっと、自分の中に。幻想に溺れ、自らが死すべき存在である事を忘れた愚者達よ。
神の目が自分に向かって落ちてきた。気づけば真っ暗な闇に覆われていた。巨大な神のあぎとに自分が飲み込まれたと知った時、リョーンは言葉にならない声で、叫んだ。
「ひっ――!」
驚いて起き上がったリョーンは、はずみで寝台から転げ落ちた。
(なんて夢を見るんだ…)
いつになく魘されていたらしい。額や手のひらに玉のような汗が浮いている。
(寒っ!)
脇や股の間がやけに冷えた。
何やら嫌な予感を覚えたリョーンは、寝台に手を当てた。
汗ではない何かで、ぐっしょりと濡れていた。なまじ暖かいだけに、リョーンは眼前で起こったことに他の理由をつけることが出来なかった。
「まさか…この歳で…」
何者かが扉を叩いた。隣室につめていた世話係の少女が、物音に驚いて駆けつけたのだ。
リョーンは卓上に置かれた酒瓶を手に取ると、無造作に寝台の上に放り投げた。
「着替えを持ってきて。寝ぼけて酒を溢しちゃった」
「畏まりました。湯浴みの用意をしましょうか?」
閉じられた窓を少し空けると、淡い光が飛び込んできた。つい先ごろ床についたような気がしたが、どうやら夜明けが近いらしい。もう少し寝ておけばよかったとも思ったが、起床と共に次々と仕事を持ってくるカルカラがそのような惰眠を許すはずもない。
「うん、そうして」
朝から湯を沸かす羽目になった少女には悪いが、ひと風呂浴びて気分を入れ替えなければ、今日は何も出来そうにない――と、リョーンは溜息をついた。
「情けない。これで団長か…」
湯浴みを終えたリョーンは、白衣に袖を通した。エリリスが白竜に乗っていたように、クーン剣士団のシンボルといえる色だ。他にもクーンでは赤い色が好まれるが、カルカラがリョーンのために特注した団長用の制服は、腰元が引き締まった白衣に赤い長衣を合わせたものだった。先のチャムでの一件で分かるように、団長は常に武装しているわけではないが、動きにくいスカート状の衣服ではなく、長衣の下に、ロマヌゥが穿いていたような、ズボンをつけている。そうでなければ、いかに行儀作法がなっていなくとも、机上に足を乗せてふんぞり返るような真似はリョーンには出来ない。
リョーンが通路を歩くと、少女の一人が平行して蝋燭の灯りに照らされて焼けたような色になった赤い髪を梳かす。カルカラが現れて口上でこれからの予定を述べる間も、リョーンは団長室に向かって歩いており、少女達もそれに従う。
エリリス以前の剣士団には全く見られないこの光景に、剣士達は
――いつからここは後宮になったか。
といって笑いあった。ただ、飯を食いながら軍儀を進め、竜に飛び乗ってもそれを続けていたラームには似ているとも言った。彼らはリョーンを嫌っているわけではなく、ただ単に時代の変化を面白がっているだけらしかった。テーベやロセの投獄に疑問を持つ一部の剣士達を除けば、リョーン信仰は深く浸透し始めている。勿論、カルカラがそれを有効と判断したからだが。
窓の外を見やると、闇の中に建物の影が浮かび、クーンはこれまで幾億と繰り返してきた朝を迎えた。
ふと、視界の片隅で何かがきらめいた。
目を上げると、窓から見える西の空に力強く光り輝く七つ星があった。
(綺麗…でもあんな星、あったかな?)
夜明けに西の空をまじまじと眺めたことなどないリョーンは、少しの間それに見入っていたが、
「団長、聞いているのですか?」
と、カルカラの不快な声に遮られた。
やれやれ、また書類に印を押すだけの一日が始まる――と、カルカラの方を向き直った時、自分の頭上から雷鳴のような音が落ちてきた。
何事かと思い、外に飛び出したリョーンの目に、信じられぬものが映った。