十三章『忌まわしき王孫ハクヤ』(1)
息を吐くと、冷たく蒼いだけの空に靄がかかった。
(今日はよく冷える。彼女に何か買っていくか…)
青年カラタチは、大貴族の家の子にしては、随分と奔放な男だった。父の七代タータハクヤは長男のシルムリが生まれた時点で彼を嫡子として公表していたから、三男坊のカラタチにしてみれば、自分は兄にとっての競争相手であるとは微塵も思うことはなかった。数年前に即位したばかりのドルレル王のことを考えると、他の兄弟に目をかけて後継問題に拗れを生ませるようなことを一切しない父は愚物ではないと思う。
一切の政務や貴族の義務とも無縁に育った。幼い頃は南方の絵画やクーン音楽を学び、長じては詩文や史学に興味を持った。庶民の服を借りては王都の隅々まで歩き回り、遊びが祟って三人の娼婦に子を産ませた。
「うつけのカラタチ」
と、影で呼ばれていることを知っても何処吹く風で、二十歳にもなればより奔放さが増した。彼の正体は随分と知れ渡っていて、繁華街を練り歩けば、
「やあ、カラタチ坊ちゃん。今日は寄ってくかい?」
などと、酒場の客引きに声をかけられたりする。
王孫ハクヤの名の通り、この家の始まりは、五代前のクーン王ハクヤからである。クーン王国の歴代の王の中でも出色の英主で、大規模な南方遠征を実行し、ダイス王国を支配下に置いた。彼の在世中から、カラタチの青年時代に至るまでクーンは最盛期を迎える。ハクヤ王の跡は後継問題にこじれがあり、太子は殺されて王弟が王位を継承した。だが、ハクヤ王の家系は途切れず、孫の代になっても大貴族として残った。
ハクヤ王のダイス制覇のおりに、彼は五人の子らにダイスからもぎ取った領地を分配した。タータハクヤ家もその内のひとつで、ハクヤ王死後の政変による粛清がなければ、今頃は五つのタータハクヤ家が存続していただろう。そのうちの一つだけが難を逃れたのは、家の娘が王弟に嫁いでいたということに過ぎなかった。
その後、タータハクヤ家は南人文化を多く導入し、通商で多大な利益を上げることで他のクーン貴族とは異なる発展を遂げた。眉をしかめる王宮の他の貴族達とは裏腹に、七代タータハクヤの頃には比類なき権勢を誇っていた。
カラタチは、栄華をきわめる貴族の道楽息子という肩書きが最もよく似合う男だった。随分と民に人気があったのは、彼の金遣いが荒い――言い換えれば民に還元するのが上手かったからだ。遊ぶだけが能ではなく、太子でもある王子ゲールと懇意だった。彼が遊び仲間として連れ立っていた連中の一人に、後にクーン剣士団初代団長となるラームの姿もあった。カラタチは遊び好きではあっても先頭に立って他を先導する類の煩わしさは嫌ったから、中心には常にただの酒屋の息子に過ぎないラームがいた。
ある年の夏、都下で知り合った数人の遊び仲間を連れ立って、南門から出た郊外で狩りをしていた頃だった。
朝から快晴が続いていたが、にわかに雨になった。雨宿りなどする建物などなく、木陰に寄せた竜車の幌の中でじっと待っていたところ、空から轟音が落ちてきた。
「神龍だ!」
と、下僕の一人が恐れおののいたのは、樹上に雷が落ちたからだった。だが、焼け死んだものはおらず、驚いて樹下から飛び出した全員が、一瞬で焼け焦げた大木を眺めていた。
首を上げれば、分厚い黒雲があり、大きな雨粒が目に入った。
昼間にも関わらず、あたりは真っ暗だった。
一時間ほどして、ようやく雲間から光が射し始めた。
下僕が驚きの声を上げた。
彼の視線を追うと、樹下に女が倒れていた。
結果を先に述べてしまうと、この女はタータハクヤ家に不幸をもたらした。だが、見慣れぬ薄い衣に身を纏った女は、雨に打たれているせいか酷く艶かしく見えて、カラタチの視線を釘付けにした。
女の名は、エミといった。
屋敷に連れ帰った頃には、まだ言葉が通じなかった。
ちなみに、タータハクヤの本拠は王都から南方のダイス北辺にあり、長男のシルムリが治めている。次男はというと、夭折したらしく、カラタチは顔も覚えていない。七代タータハクヤは書庫管理の長で、閑職にも思えるが、戦士の国であると共に学問の国でもあるクーンでは、並ならぬ権威を持っていた。王の主催する閣議には必ず宰相の隣に座し、政務に関わる忌憚ない意見を述べる。単独での立法権こそないものの、内閣の一員であるとも言ってよかった。勿論、少壮のドルレル王は大貴族の一であるタータハクヤ家の当主に対して、相応の敬意を払う。
カラタチが樹下の女を拾うにあたって、部下の猛反発に遭った。彼らは別に女の素性が知れないから反抗したわけではなく、
「不吉です」
という宗教上の理由からだった。何故、不吉なのか。
「神龍と共に現れました」
と、部下は言う。クーンでの神が破壊の化身であることは新たに述べるまでもない。
「いや、吉だな」
カラタチは断言した。
「何故なら、この女は美しい」
部下は驚きを通り越して呆れたが、それでもカラタチを制止した。
「父上に占ってもらう。それでよいな」
こういって凶兆に怯える部下をなだめた都合、都下の別荘にこの女を飼い置くわけには行かなかった。
クーンの占いは炎を用いる場合が多いが、南蛮かぶれの過ぎるタータハクヤ家では星占いが好まれている。どうにも彼らの先祖であるハクヤ王は、星占いでダイス制覇を決断したらしいからだ。
七代タータハクヤは、クーンの書物を総覧するだけあって、占いの達人でもあった。彼は息子の放蕩を諦めていたのか、それとも神龍の落し子であると下僕達が騒ぐ女に興味を持ったのか、その日の夜に空を見上げて星を占ったところ、
――竜より落つ。犬に喰わるる。二代後に帝者あらわる。
という奇妙な卦が出た。
「何ですか、それは?」
あくびをかみ殺しながら、カラタチが問う。
「大吉と大凶が混ざっておる。この女を家にとどめれば、二度の凶事の後に我が家から帝者が現れる」
「帝者ですか、王者ではなく?」
こういう、無神経な問いを発してしまうのが、カラタチという男だった。自家から王者が出るなどと、王宮で口にすればそれだけで叛意ありとして斬首刑に処されかねない。タータハクヤ家は名門といえども既に王系から外れて久しいのだから。
七代タータハクヤは、カラタチの問いには答えずに大きく溜息を漏らした。
「父上?」
カラタチは信仰心が薄いわけではないが、どうにもこの家の占い好きに嫌気がさしていた。若い女を拾って保護するくらいで、何故家長に占ってもらわなければならないのだ――と、心中で反発の声が上がった。
「カラタチよ。女は大事に扱え。ただし、邸内より一歩も外に出してはならぬ」
奇妙な条件をつけられたが、とにかく許可はおりたので、カラタチは安堵の息をついた。
一年が経った。
カラタチが拾った女――エミのクーン語学習は、あまり効果を上げていなかった。それでも片言であれば、それなりに意思疎通を出来る程度になったのが、カラタチには嬉しい。
興味深かったのは、エミが随分と博識であることだった。彼女は生活に必要な知識がごっそりと抜け落ちている代わりに、クーンともナバラとも違う文字で常に何かを書き記している。
好奇心の塊であるカラタチは、やはり貴族的とはいえない。だから、女が操る言語に興味を示したのも、長男のシルムリでは決してありえないことだったが、カラタチはそれを行った。
カラタチの直属の下僕で、ヨーゼという男がいる。血筋はクーン人だが、西域の生まれらしい。らしい――というのは、カラタチも奴隷市場でこの男を買った以上、素性などには興味を示さなかった。
「ヨーゼ、頼んだぞ」
といって、カラタチは女の書いた文字の解読を下僕に命じた。彼自身は女の持つ文化に興味を示してはしても、自ら学ぼうとは思わなかった。そのような煩雑なこと、下々の者に任せればよい――とでも言わんばかりに。
造形そのものが愛らしい美男であるカラタチとは違って、ヨーゼは特徴のない顔つきをしていた。背もそれほど高くはなく、力仕事には向いていない。ただ、頭はよかった。これより二十年ほどあとに、知能の高いクーン種の奴隷が南国に流出し、社会問題となるが、ヨーゼもそれに類した。
――何故、奴隷に?
と聞けば、
――母は足が優れません。それを嗤った者がいたので、殴り飛ばしました。
と答えたので、カラタチはそれだけで面白がってこの奴隷を買った。
「承知いたしました」
と、ヨーゼは静かに答えた。
丸一年も屋敷に軟禁されるなど、地獄のように思えるが実はそうでもない。王都で最高の権勢を誇るタータハクヤ邸の敷地は小さな街一つが入りそうなほど広く、野を駆け、草に寝るといった暮らしが出来なくもない。その上、父の言いつけなど守った試しのないカラタチは、よく父の目を盗んで女を外に連れ出した。
エミは、少しだけ赤茶けた色の髪が印象的な女だったが、一年もすればどういうわけか、墨にでも染めたような色になっていた。そのことを問うと、
「あら、クーンには脱色の習慣はないのね」
と、何やら感心したような反応をされた。
最初の頃、エミとの意思疎通は困難をきわめた。だが、それでも一日の大半を彼女と過ごす内に、最初は身振り手振りで伝えていたことが、大声に感情を交えた言葉で伝わるようになり、最後には数語ながら異国の言語での会話が可能になった。エミのクーン語習得が随分とゆっくりとしたものになったのは、ヨーゼが彼女にクーン語を教えようとしたからではなく、自分が彼女の言語を習得することを選んだからだ。カラタチはエミにクーン語を話せるようになって欲しかったらしいが、ヨーゼは自分でも気づかぬ間に、主の命令に背いていた。
「貴女はどこから参られたのです?」
と、エミに問うと、彼女は決まってこう言う。
「空よ、空。竜に乗ってきたの」
南方のナバラ王国で用いられている飛竜のことだろうか。だがよく聞いてみると、どうやら彼女が言う竜とは神龍のことらしい。乗用の竜なのかと問えば、
「それは確かに竜だけど、私達で言うところのウマね」
と返される。ウマが何なのか、ヨーゼにはわからない。
クーンの女は逞しい。女もまた、逞しかった。彼女が何よりも楽しんだのは、広い庭を竜で駆ける事だった。
「今日は運動でも」
と彼女が言えば、ヨーゼは竜小屋から走竜を引いてくる。
「お前は二本足の竜。速く駆けろ。二本足の竜!」
一日に三度は落馬する彼女が怪我をしないように、ヨーゼは相乗りになってがっしりと手綱を持たなければならなかった。それでもはしゃぐ彼女を制しきれず、一度だけ女もろとも転倒した。
ある日、カラタチにではなく、七代タータハクヤに呼び出された。
(この前、都下に連れ出したのがばれたか…)
カラタチのわがままに付き合うだけで、何人もの使用人が彼の世話係を辞退したかわからない。それでもヨーゼがカラタチの元にいるのは、彼に買い取られなければ、もっと酷い主に迎えられて、死ぬまで酷使されただろうことが容易に想像できたからだ。カラタチに付き従って都下に出れば、そこにはもはや身分などという隔たりがなく、豪快なラームやその仲間達と肩を並べて歩き回るのは爽快ですらあった。これも、カラタチに買われなければ巡りあうことすら出来なかった幸運である。それに、ラームの影響を強く受けたのだろうが、カラタチは厳格な父に似ず、部下に甘かった。買い取ったヨーゼの両親を呼び寄せ、屋敷に住まわせたのだから、他の貴族連中とはどこか違った。
「どうだ。あの女の様子は?」
年は五十代に入ったばかりで、点々とした白髪がかえって厳粛な空気を匂わせる七代タータハクヤは、大貴族の頭領らしく、峻厳そのものといってよい人柄だった。ただし、彼は長男のシルムリに対しては自らの後継者であるためか、端から見て酷なほどに厳しく対したが、三男のカラタチへはほとんど無関心に近い態度をとっていた。カラタチにとって、邸内はあまり居心地のよい場所ではないのは、彼がそれについて何も言及しなくとも、長年付き添ってきたヨーゼにはわかる。
「は、近頃は騎竜をたしなむようになりました」
「そうか。カラタチは女の方に通っているか?」
なんということを聞く父だろう――と、ヨーゼは冷や汗をかいた。息子の夜遊びをとめもせずに、「あの女とは寝たか?」という問いを発すること自体、理解が出来ない。この人なりの心配なのだろうか。
七代タータハクヤは虚偽の報告を行った者に対して容赦ない。それがとるに足らぬものであったとしても、明らかになれば必ず首を刎ねられる。
「一月に二、三度…」
「ふむ…」
何やら考え込んでしまった当主が不思議だったが、再び彼の口が開いたとき、ヨーゼの脳裏に轟音と焼けた大樹が甦った。
「ヨーゼ。あの女は神の使いか?」
「わかりません。ですが、彼女は人です。文化があり、我々とは異なる思想をもっています」
「どのような?」
「エミ様は竜の無い世界から来た――と、仰っておりました。自分は竜に乗ってこの国に来た――とも…」
ヨーゼが恐れたのは、七代タータハクヤが今頃になって彼女が一家に凶事を運ぶと信じ始めたのではないか――ということだった。さすがのカラタチも、父に睨まれればエミを手放すしかなくなる。
「貴い生まれか?」
「いえ、名ばかりの王族を除けば、彼女の住まう国に貴賎は無い――と仰いました」
「そうか…」
ヨーゼは早くこの場を去りたかった。どうにも、嫌な予感がする。予感は半ば的中し、半ば外れる。
「実は先日、カラタチがあの娘を妻に迎えたいと言いよってな。あれ以降、占ってみても特に悪い兆候は無い。過ぎた夜遊びがおさまるのであれば、悪くは無いが…」
酷く歯切れに悪い物言いになったのは、これはヨーゼの想像だが、カラタチの結婚相手は七代の中で決まっていたのではないか。いくら道楽息子とはいっても、政略結婚に使う程度には役に立たなければ、貴族として生まれた意味が無い。七代自身も、この年齢に関わらず半年前に十四歳の新婦を迎えており、長男のシルムリに至っては父の政略の転換によって三度も離婚を経験している。
「貴賎がないと言うことは、皆卑しいということです。僭越ながら、カラタチ様にはより高貴な婦人こそが相応しいかと存じます」
自分が何を言っているのか理解できなかった。気がつけば、ヨーゼは信じられぬ言葉を口にしていた。この場にカラタチがいないのを良いことに、何という無礼だろうか。
「ふむ、実は儂もそう考えていたところだ。やはり、カラタチの妻はタータシムシ家から迎えることにしよう」
本人も迷っていたのだろうが、それもヨーゼの一言で解消したようだ。それだけに、自分がしたことの罪深さに、ヨーゼは己の心臓を鉈でえぐりたくなった。
三ヶ月後、カラタチは歳若い貴族の娘を妻に迎えた。あまりにもあっけなくそれが成されるのを、ヨーゼはカラタチに最も近い場所で見ていた。
「可愛そうなオレ様、これから一人の女としか寝れないなんて!」
と、カラタチは愚痴をこぼしていたが、言葉に出来ない悲哀が全身から滲み出て来た。
(本当に妻に迎えたかったのだ…)
ヨーゼは自分の足から力が抜けてゆくのを感じた。そして背が薄ら寒くなった。
それでもカラタチはエミを忘れられないのか、時々妻の目を盗んでは彼女に逢いに来た。だが、エミは今までとは違い、彼を拒むようになったらしく、寝室を覗けないヨーゼに真相は分からないが、すぐに止んだ。同時期に、カラタチの放蕩もなりを潜めた。
「ヨーゼ、彼女のことは、お前に任せる」
カラタチの命令で、ヨーゼはエミが書いた文書の解読作業を続けた。
陰鬱な日々が続いた。だが、時々思う。カラタチがエミを妻に迎えていたら、このような思いをせずにすんだのだろうか――と。
彼女がタータハクヤ家に引き取られてから、二年目の春になった。エミが騎竜を好む季節である。
下手の横好きとはまさに彼女のことで、一向に手綱さばきの上達しないエミに相乗りする日が続いた。
「ひゃあ、駆けろ。駆けろ!」
大はしゃぎする彼女のせいで、落馬した。随分うまく受身が取れるようになったものだと、小さな発見をしたような気分になった。
気づけば、黒く美しい瞳が目の前にあった。
視界が暗くなった。女の影が、陽光を遮っていた。
唇に柔らかい何かが触れた。頭の中で、春風にも似た香りが爆発した。
互いの帯が絡み合い、解けぬような状態になったところで、仰向けになって空を見た。何も無い空だった。
(誰か、見ていたか…)
と起き上がって周囲を見渡そうとしたが、女のふくよかさが腕の中にあることを思い出した。
それ以後、ヨーゼは病んだように、時々蹲って胸をかきむしるようになった。彼の様子をいぶかった家人が問うも、本人もどう返したら良いのか分からない。
カラタチが長男を、七代タータハクヤが長女を、同じ年の同じ月に得たとき、エミもまた女児を生んだ。
タータハクヤ家滅亡の、三年前の話である。