第十二章『愚者のまつり』(7)
クーン剣士団本部に衝撃が走った。
ロセの独断により王宮へと派遣されていたクーン剣士団の一隊が帰還したのだ。彼らは一様にカエーナの反乱の裏で起きていた大事件を物語った。
その話の中心にいたのは勿論のこと、英雄ラームの息子チャムである。西侯の陰謀に気づいた彼はゲールと共に王宮へと潜入し、西候の放った刺客である逆鱗部隊と戦った。見えない相手に対してゲールを護りきった彼を、帰還した剣士たちは誇らしげに語った。彼らがより誇ったのは、逆鱗部隊を全滅させたのは王宮近衛兵ではなく、他でもないクーン剣士団であったことだった。
これを知ったリョーンは、驚愕した。
(チャムは……あいつは、わたしから剣士団を取り上げるつもりだ!)
昨日、王の幕僚という身分で剣士団に顔を見せておいて、計ったかのように王宮の剣士団兵達を帰還させた。彼らの言うことに嘘は無いにしても、あまりにもあからさまなチャムの手法に、リョーンは嫌悪する前に自らの立場を危ぶんだ。
「カルカラだ。カルカラを呼んで来い!」
リョーンは近くにいる剣士にそう呼びかけると、指先で卓上をトン、トンと気ぜわしく叩きながら、頼りになる参謀が現れるのを待った。
カルカラは相変わらずの巨体をリョーンの前に現した。
「昨日の話だ」
リョーンは、歯に絹も着せずに、昨夜思いついたこと――カルカラが剣士団をチャムの手に戻そうとしているのではという危惧――をぶちまけた。
「わたしはただの捨て駒か?」
カルカラは表情に動きを見せない。彼が当惑するほどの威を持つ人間はこの世にロセくらいのものだろう。だからこそ、テーベとは違って政敵でもないのに、あらぬ疑いをかけて牢に放り込んだのだ。
「団長。ドルレル王を弑殺したのは間違いなく西侯です。父王を弑されたゲール王子……今はゲール王と呼ぶべきでしょうが、貴女が彼であったなら、これからどうなさるでしょうか?」
「決まっているわ。喪に服す前に、西侯の首を父の墓前に捧げる」
何を決まりきったことを言う――とリョーンは反発した。現に彼女が数日前に体現したことであるから、わざわざそれを聞いてどうするという意味も含まれる。
「ゲール王はクーンを支配する王なのですから、軽々しく大喪を引き払い、戦に赴くわけには行かないでしょう。ですが、私も団長の意見に賛成です。王は必ず年内に大軍を編成し、西域へ赴いて新西侯を討つでしょう。今は大義名分が揃うのを待っているのでしょうが、あの若さでは飛び出すのは時間の問題です」
「だからどうだというの? 王宮から帰還した連中の話を聞けば、チャムはゲール王の信頼を相当に勝ち取っているわ。わたしなんて、もう用済みじゃないの?」
「いいえ、違います。確かに、クーン剣士団は西侯討伐軍に参加せざるを得ません。それを率いるのもチャムで間違いないでしょう。ですが、王都の剣士団はそれで無くなるわけではないのですよ」
「どういうこと?」
「要は、手柄を立てれば良いのです。帰還した剣士たちの報告によれば、何やら南のダイスも西侯と通じていた模様。西侯と相対するには一万や二万といった生半可な兵力ではかないません。それこそ一国を揺るがすほどの大軍が必要となります。その間、王都の護りは王宮近衛兵だけで足りるというわけではありません」
ここまで来て、ようやくリョーンにもカルカラの言わんとしていることがわかって来た。
「わたしにカエーナの真似をしろと?」
「カエーナは反逆者です。何故なら彼は王宮と剣士団の両方を敵に回したからです。ですが、今の貴女は違う。王宮を上手く牽制できれば、あるいは王都の主ともいえる地位におられるのです」
「それは言いすぎじゃない?」
「いえ、言い過ぎではありません。王都にある三つの大勢力。貴女はその内の二つを既に手中にしている」
王都にある三つの勢力とは何か。カルカラがあえて言わずともリョーンにはそれがわかっている。
(王宮、クーン剣士団、そして……南人商家)
南人商家は、正確には師シェラドレイウスを通じて(表面上は)友好的な関係にあるペイルローン一族を指す。リョーンはこの意味でも、エリリスの後釜になるに適した人材だった。王都クーンとは所詮、この三者がどう相対するかで全てが決まるのである。ロセは南人と組んで王宮を刺激することの危険に気づき、親南人から親王宮に切り替えようとした。ドルレル王が健在の頃は、ロセの存在もあって王宮との関係が壊滅的に悪化する可能性が少なかったが、新王ゲールはカルカラの見るところ明らかに親南人である。開国路線を行いながらも南人商家には比較的に渋い態度を崩さなかったドルレル王とは違い、長く南方の覇権国であるナバラ王国に人質として暮らし、多くを学んできたゲールはドルレル王の政策の誤りを十分に認識しているだろう。彼はペイルローン一族をクーン王国の経済に取り込むことで大いなる躍進を試みるはずである。南人商家にとっても、今まで王宮が拒否的であったからこそ抜け道としてクーン剣士団を利用していたが、それが無くなれば何のためらいも無く王宮と手を結ぶだろう。 カルカラにも、ロセの考えはわからなくはない。だが、彼はクーン剣士団を解体しクーン王軍に吸収させるというロセほどの果断はできない。近年指南役として着任したばかりのロセとは違って、カルカラやあるいは彼の政敵であるテーベのような連中にとっては、クーン剣士団こそ己の青春なのだ。戦役当時は三十路を越えたばかりの若者であったカルカラは、英雄ラームと肩を並べて戦い、ラームの死後はひたすらに己の青春をクーン剣士団に捧げ続け、気づけばもう孫も生まれるような歳になった。
剣士団が生き続けるのなら、カルカラは手段を選ばない。
早死にした自分の娘よりも、遥かに若いカルという少女がいなければ剣士団が成り立たないというのなら、喜んで擁立もしよう。ただし、厳格な父にも似るカルカラは、リョーンに気ままを許さない。チャムが剣士団を見限った以上、これからの剣士団の未来は自分が切り開いてゆくという断固とした責任感がカルカラにはある。
だが、親南人を続けることの危険を回避せねば、ロセが案じたように剣士団は早晩王によって滅ぼされる。ここで言う親南人とは、剣士団の門下生達が南人系のロマヌゥを苛め抜いたような程度の低いものではなく、二代目団長エリリスが南人憎しの剣士たちの目を欺きつつ、水面下でペイルローン一族などの南人商家と良好な関係を築いていたことを指す。
カルカラは、リョーン擁立と同時にこれまで彼のとってきた方針を百八十度転換する。
「それならシェラを団長にした方が効果的だと思うのだけれど……」
リョーンのこの言葉に、カルカラは満足した。今まで水面下にあったものを全てさらけ出すということだ。クーン剣士団の存在意義は王都の守護にあるが、それはもう、南人を排除していては成り立たないようになっていた。王都の住民のうちの少なからぬ数が、ナバラ系、ペイルローン系問わず、南人であったからだ。ロマヌゥが同じクーン人であるはずの兄弟弟子に激しい憎悪でもって迎えられたのも、王都の民族構成に大きな変化が起こっていたからだ。蔑視は実際には民族の優劣からくるものではない。それが起こるのは、両者が一つの、あるいは多数の事柄に対して利害を異にするからに過ぎない。
「いいえ、貴女しかおられません。ですから、もう少し私を信用していただけますよう」
「うーん、わかったわ」
リョーンは別に、上手く丸め込まれたわけではない。だが、カルカラが自分を必要としていることは疑わなかった。ほんの数ヶ月前まで、名のある剣士を目指していたリョーンにとって、クーン剣士団とは名を聞くだけで心臓の鼓動が踊りだすほどの存在だったのである。脆弱なクーン王軍に代わって残虐な南人どもを撃退したクーンの守護者。その最高位に今の自分がいる。自分の力量に自信の持てない若者にとって、誰かが――リョーンにとっては剣士団の門下生達に、平和を享受する王都の住民達が、自分を必要としていることほど嬉しいことも無いのだ。政治的な駆け引きは、先のチャムとの遊びを除けば全くといってよいほどに関心が無いが、団長である自分を誇れるようになりたい。
カルカラが下がった後、リョーンはシェラのいる一室へと向かった。
白い壁と寝台以外何も無い暗い部屋である。このような病室では、ただの風邪ひきでも次の日にはぽっくりと逝ってしまうのではないかと思うほどに陰りが疎ましい。だが、当の本人はそのようなことを微塵も気にしていないらしく、
「やあ、カル。珍しいな」
と、明るい声を上げた。
少しは長話を出来る程度には快復してきたシェラを見て、リョーンは安堵した。彼女とて、同じ敷地内にいるにもかかわらず、多忙のためにザイが闖入した日以来会ってもいないのだ。
「カルカラは冷たいわ。いくらなんでも貴方を一人だけにしておくなんて……」
リョーンはシェラの伏せる寝台に腰をかけると、力を失っても輝きだけは褪せない金色の髪を弄んだ。
「こら、こら、悪戯をするな」
リョーンが小さく笑うと、何やら花びらが散ったように部屋の空気が香りたった。
「シェラ、わたしはよくやっていると思う?」
「……そうだな。お前にしてはよくやっている」
まさか師に褒められると思っていなかったリョーンは、驚いてシェラの顔を覗き込んだ。
「本当に?」
「いや、嘘だ……ぐっ!」
傷が癒えない肩をつかまれて、シェラがうめき声を上げた。リョーンはまるでシェラが苦しむ様を楽しむように笑った。
「……カル、冗談は冗談で返すものだ」
シェラが呆れたように言うと、リョーンは小さく舌を出した。
いつにも増して、今日のリョーンはおかしい――と、シェラは感じた。以前会った時はどこか突き放すような、ピリピリした空気を帯びていたが、今は違う。何かを言いたそうに、しかし相手からその話題が振られるのをあえて待つような、甘えにも似た何かを感じた。
寝台の上で、もぞもぞと何かが動いた。リョーンも視線は窓の外を見ながら、手でそれを探した。やがて二つが重なり合ったとき、女はおもむろに口を開いた。
「カエーナを殺したわ。この手で首を刈り取った」
なんという殺伐とした言葉だろう。だが、それを口にしたリョーンの表情は驚くほどに毒気が無く、まるで野原に腰を下ろして雲を数えるような穏やかな顔をしていいる。
「そうか……」
「怒らないのね。いえ、出来れば褒めて欲しいのだけれど……」
本心だ。リョーンはカエーナを殺したことを微塵も後悔していない。カエーナの反逆は万死に値する上に、彼はシェラに瀕死の傷を負わせた。
勝ち難い相手だった。いや、勝てる要素など何一つなかった。「神に乗る」と、ロセが表現したように、リョーンには常人を超える力が宿っている。だが、それでもカエーナに負けた。
知恵を巡らし、義父の死を偽り、王都の住民までも巻き込んでにわか軍隊を作り上げた。今とは違って団長位にあったわけではない。その頃――といってもほんの半月ほど前だが――のリョーンには、ロセの娘以上の肩書きはなく、それだけでついてくるほどには、実力主義のクーン剣士団の剣士たちは甘くはなかった。だから騙した。
自分に憧れ、自分と共に怒り、自分のことを愛しいと思ってくれる多くの若者達の首根っこをつかみ、焼けるほどに擦れ合う剣刃の真っ只中に放り込んだ。一人死ぬ度に一歩進み、ようやくカエーナの首元まで剣が届いた。
憎きカエーナを斬殺した後、振り返れば死体の山があった。
(彼らは、何だったのだろう……)
と、思う度に胸が何かに締め付けられたように苦しくなる。カルカラやピオならば、犠牲となった剣士達を悼んでも、次の瞬間には前を向いているだろう。だが、そのような教育を受けていないリョーンは、前を向かなければいけないとわかっていながら、時々立ち止まってしまう。
――よくやった。
シェラがこう言ってくれさえすれば、リョーンは救われるのだ。シェラに責任を転嫁するのではない。自分にとっては、死んでいった者達より、シェラの命の方が尊いことを再確認できる。それだけあればよかった。
だが、師の口から出てきたのは、今のリョーンをいたわるような言葉ではなかった。
「都下では、ピオの率いる剣士たちが民家に押し入り、家具をひっくり返して反逆者の残党を探しているらしい」
「ええ、彼らに再起を図られたら面倒だもの」
「面倒だからといって、民家に火をつけたりするのか?」
「えっ?」
やれやれ――といった風にシェラは溜息をした。
ピオは、ロマヌゥを見つけるまで帰還するなというリョーンの厳命を忠実に実行した。
忠実であり過ぎた。
彼の捜索は徹底していた。西区を洗いざらい散策し、付近の住民への見せしめに、反抗的だった者を有無を言わさずに処罰した。剣士団の司法権は剣士団内部に限ることを忘れていたわけではなかったが、残党狩りとはそれほどの難事なのだ。茎を切り落とすのは簡単だが、根を全て取り除くのはそれこそ付近の土を掘り返すだけの途方もない作業になる。何も知らない人が戦と呼ぶのは前者だけで、リョーンはこの点で、戦の経験が皆無に等しかった。寝台にはりつけにされたようなシェラが知っているくらいだから、カルカラもこのことは知っていて、あえてリョーンに報告しなかったのだろう。昨日、チャムとロマヌゥ捜索について話し合ったが、このようなことはおくびにも出さなかった。暗黙でありすぎることに、リョーンは気づかなかったのだ。
「カルよ。ロマヌゥ捜索を止めて、団長位をカルカラに譲れ。さもなければ破滅するぞ」
師の口調は、先ほどとは比べようもないほどに厳しく、冷たかった。
「……嫌だ」
空気が爆ぜたようにリョーンの声を伝えた。窓の向こうの遥か先で、鳥が飛び立った。
「おい、カル……」
重なっていた二つの手が離れた。
リョーンは何も言わずに病室を後にした。風も吹いていないのに、何かがほとりと地に落ちた。
クーン王宮は代々の王廟。ゲールはまだそこで、断食修行にも似た喪に服している。
静かに先王と妹の死を悼んでいるゲールの元に、騒がしい音を立てて一人の男が歩み寄った。
足音だけでも、既に醜い。その者が調和とは程遠い精神を持っているのがよくわかる。好悪だけで動く人間は何をやっても醜いものだとゲールは思う。
「ゲールよ」
「ソプル殿。いくら神職とはいえ、王と呼んでもらわなければ、下々の者に示しがつかない」
苦言を呈したゲールの横に、何かが投げ出された。
書であった。
「これは……」
クーンで用いられるものとは明らかに違う文字。西方のアクシア、遥か西のゴモラ、南のダイス、その南のナバラ、あるいは大陸全土に出没するペイルローンの文字とも全く違う、どこか絵のようで、美しくすらあるその文字が、ゲールの膝元に放り出された書物に刻まれていた。
「貴様……全て知っていたな。知っていてアシュナを死なせたのか!」
ザイが、怒った。
「神龍のことか?」
「そうだ」
「全て読んだか?」
「ああ」
ゲールは静かに、ザイに向き直った。粥くらいしか口にしていないのだろう。頬が痩せこけている。
「誤解しているようだから、言おう。西侯の陰謀については、私はチャムに聞かされるまで知らなかった。だが、確かに神龍の降臨には覚えがある。その本は確かに読んだ。注釈だけでは読解には程遠いがな。君がこうしてここにいるということは、神の怒りがまだ、おさまっていないのだろう」
長い文章を聞き取るにはまだ慣れないザイは、完全には理解していないようだが、ゲールを疑うことはやめたようだ。
「して、やはり神は降りるか?」
ザイは、静かに頷いた。
「神話だよ。始まるんだ。今、すぐにでも……」
王廟をたたえる水が、ザイの言葉に震えるように、にわかにざわめいた。
十二章『愚者のまつり』了
十三章『忌まわしき王孫ハクヤ』へ続く