第二章『白蛙宮』(1)
アシュナ王女は今年で十七歳になる。好奇心の塊のようなこの娘にとって王宮という空間は居間ほどの広さにしか感じられず、かといって自由に外出できない身分であるから、王都で変人奇人の噂が立てば喜んで宮に招く「悪癖」があった。無論、父王に見つかればそれに関わった数人の首が飛ぶことさえある。彼女の世話役に任命された者は皆、一年も経たないうちに任を辞しており、王宮の官人たちの間では「首切り様」の隠語で呼ばれている。
アシュナの髪は輝くほどに碧い艶を持つ黒髪である。目尻が多少上がっているものの、内に秘めた攻撃的な性格が顔に表れない限りは、凛とした誇らしい顔立ちをしている。機嫌によって口元が別人のように変化するのは、その精神が感情の活力に富む証拠だろう。体格はいささか小さいが、気の強さと比例するように腰が据わっていて、体貌に鋭気が見られる。
時はドルレル王の二七年に当たる。
ドルレル王には子が多いが、幸不幸は別としてアシュナは正室の長女に生まれた。十七にもなれば婚礼の話は多く、アシュナは何度か隣国に嫁ぐことになったが、その度に無礼を働き、時には許婚を平手ではたいて帰ってきた。ドルレル王は娘を有効に活用する術を知らず、宮殿に閉じ込めてしまうことで彼女の一生を満たそうとした。
アシュナは自尊心の強い娘ながら、人が好きである。生まれながらに階位の頂点を極めている彼女にとって、異能に秀でた者は嫉妬の対象にならない。アシュナは彼らの話を聴き、異能を目の当たりにすることで自らの精神を外界に置くことを覚えた。彼女の人好きは、自らの不自由を忘れさせる唯一の娯楽なのである。
剣豪として名高いロセも、アシュナによって宮殿に招かれた。アシュナは父王にせがんでそれを実現させたのだから、正確にはドルレル王によって召喚されたのである。リョーンがムシンを斬る少し前のことだ。
剣技の披露には兵卒の修錬場が妥当だったが、アシュナは宮殿からの外出が禁じられているために、王の特別な許可の下に王宮の中央広場で行われることになった。ロセの名は四方に響いており、武官たちは我先にと観覧を申し出た。ロセは剣士団の指南役だが、ほとんど剣を振らず、ロセの剣技を目の当たりにした者は王都にも少ない。少ないからこそ、伝説なのである。
「やあ、やあ。あんな老体に剣が振れるのかや?」
そういいつつも、アシュナはロセの纏った雰囲気に尋常でないものを感じていた。
「たれか、伝説に挑むものはいないか」
王が高らかに声を上げると、最前列の者が名乗り出た。
「おお、イルファか……」
イルファは王宮を護る衛兵の中でも屈指の手練である。十代の頃、修錬場で三十人抜きの記録を叩き出した豪傑で、その剣は重く、そして迅い。武人らしく長身で胸元が厚く、顔はえらが張っていて目がくぼんでいる。
「生ける伝説と手合わせできるとは、至福に存じます」
謙虚な言葉とは裏腹に、眼光には鋭さが見える。その眼はロセの先にある伝説となった自身を見ている。
対峙した。
宮殿を血で染めるわけにはいかないので、武器は双方とも木剣である。上段に大きく構えたイルファに対し、ロセは剣を膝元に垂らしたままわずかに腰を沈めた。
開始の合図とともに、イルファが走った。戦闘においては、技術よりも勢いの方が勝敗を左右する要素足りえる。故にイルファの突進は機先を制することの重要さを知ってのことだった。
イルファがロセに激突した。そう思えるほどの突貫だった。だが剣戟の音は聞こえず、鈍い、拳で土を打つような音がした。
「おお――!」
興奮したアシュナが声を上げたと同時に、勝負は決した。イルファはうずくまり、右腕を押さえている。
「まさに、神技」
王が感嘆すると、歓声が起こった。
王は神技と言ったが、剣の心得のないアシュナには、そうは思えない。イルファの剣を受けるでもなく、しかし避けもしなかったロセは、ただ単純にイルファの腕を木剣で叩いたのである。達人の動きには無駄がないと言うが、全くその通りで、アシュナの眼にはロセは童子でも行えるような容易い作業をこなしたようにしか見えない。力、速度共にロセの方が劣っていたはずなのに、その剣戟はアシュナの眼でも捉えられるような「のろさ」で繰り出された。こういうものを見ると、アシュナの悪癖が出てしまう。
「ロセよ。今の技、儂にも使えるか?」
王が驚いた眼でアシュナを見たが、それを気にせず、爛々とした眼差しでロセを見た。
ロセはアシュナの従者に目をやった。いくら宮殿に招かれたとはいえ、王女と直接に話す権限は与えられていない。従者は軽く咳払いをし、アシュナが言ったことを繰り返した。ロセは従者に向かって答えた。
「十年休まずに剣を振るえば、体得できるやもしれません」
「十年もか……」
あの単純な動きを繰り出すのに何故十年もかかるのだろう。アシュナは気が長い方ではないから、とても十年も待てない。そう考えると、急に感情が冷めた。だがロセへの興味を失っていないのはアシュナという娘の不思議である。
ロセはクーン屈指の剣士である。眼光が鷹のように鋭く、口元には豊かな白髭を蓄えている。壮年を過ぎ、体が骨と皮だけになっていくとともに、彼の剣技は剛から柔へ、そして柔から無へと形を変えていった。
「剣翁」
初めてこう呼ばれた時、ロセは嫌な顔をした。どうやら翁という呼び名が気に入らないようだ。だが最近は慣れてきたのか、全く意に介しない。それだけロセを慕う人が多いのである。彼には英雄豪傑に付き物の逸話らしい逸話がない。その手で大将首をあげることはほとんどなく、戦場では死地を踏まないように努め、生地にあるときは勢いに乗じることに努めた。十五のときに初陣を踏んでから、五十代の半ばまで傭兵であり続けたこと自体がすでに奇跡だが、その中で彼の剣技は磨かれていった。
達人は極みに立つ者のことではなく、常に極みの傍に立ち続ける人のことだろう。ロセはある時、自からのふるう剣が曲がって見えるようになった。次第に鞘ずりの音が聞こえなくなり、突撃の姿勢である構えを失った。剣が形を失ったのである。剣が見えなくなったロセは、自分の腕が剣と同化したことを知った。
(剣を捨てねば、剣を究められない)
そう思ったロセは遅すぎる引退を決意した。引退後、王の意向を受けたロセは都の剣士団で指南役を務めるようになった。その時の彼には既に神技が宿っていた。彼はいたずらに剣を振るうことをせず、主に人の心を鍛えようとした。剣には振るう者の数だけ構えが存在するが、真に剣を操る者は一切の構えを取らない。だが未熟な者にそれを教える必要もなく、ロセは自分が若い頃にとっていた流儀を教え込んだ。
――より少なく。より速く。
ただでさえ人の動きは複雑である。その複雑さに乗じた剣法はいくらでも存在するが、それらは一対一の勝負では力を発揮することができても、戦場という過密な空間の中では何の役にも立たない。
「あれのやり方では人が潰れる」
と、ドルレル王が感じたとおり、ロセの指導は壮絶を極めた。彼の剣法は常に多対一を想定しており、故に剣は型よりもいかに少ない手数で相手に致命傷を叩き込むかに収斂されている。結果、ロセの指導に耐えられた者はわずか数名だった。
御前試合から数日後、ロセは再びドルレル王に召喚された。
クーン王朝の好む色は赤である。王城は赤い布や石で彩られ、玉座は太陽を模した色で染められていた。
玉座の前で跪いたロセの前に、古びれた戦旗が置かれている。
「ロセよ。この旗を憶えているか?」
「南人の旗ですな。これは望南戦争の頃のものです。今から二十年ほど前になりますかな」
ロセが返すと、玉座から軽やかな声が立った。
「懐かしいな。あの頃の余は竜車の上で足を震わせていた。今でも思うことだが、あの戦争で我が国が負けなかったのは奇跡だ」
「しかし、勝利したわけでもありません」
「そう。戦場では死者を埋葬する土にすら事欠き、屍でもって壇をつくり弔った。機動力では大陸一を誇った竜騎兵も、『空』から射られてはひとたまりもなかった」
「南人が退いたのは天命というしかありません。あの頃の我が国には飛竜に対抗する手段が皆無でしたから」
「違うな。今でも南人に攻められれば我が国は滅亡を免れまいよ。だからこそ本来必要の無い交易までして機嫌をとっておるのだ」
「王がそのように気弱では民が困ります」
赤く乾いた床の上に笑声が響いた。
「ロセよ。飛竜に乗ってみたくないか?」
「まさか……」
「来月、南へ質にやっていたゲールが手土産に飛竜を連れて帰還する。それを聞いたアシュナは目を輝かせておった」
優秀な竜に跨るのはクーン人にとって最高の誉れである。ロセもまた例外ではないが、誰も羽ばたいたことのないクーンの空を駆るには、自らの老躯は相応しくない。彼は自分が引退した戦士であることを王の機嫌を損なわないように説いた。
「ならばお前の娘に下げ渡す」
そう言われたロセは、あっと声を上げた。常に心の芯を凍らせてきた男が揺れた。
(この王は大器だ……)
だが宮殿から戻ったロセを待っていたのは、娘の危機を知らせる手紙だった。ロセは王に助けを求めるべきだったが、珍しく冷静さを欠いたためか、それに気付いたのは既に山をひとつ越えた後だった。