第十二章『愚者のまつり』(1)
日にちで言えば、ちょうど迎春祭にあたる。つまるところ元日であるのに、王都の空気は重い。当然だろう。数日前に内部分裂を起こした剣士団が殺戮を行っていたし、何より先の戦役で国力を使い果たしたクーン王国を長年にわたって支え続けたドルレル王の崩御が、王都を悲しみの色に染めていた。
(不思議なもんだ……)
ザイは、少しずつ温かみを帯びてきた風を浴びながら、高台にある剣士団本部から王都を見下ろしていた。
図らずも最上級神官と再会したタータハクヤは、進んで彼の世話係になった。ザイのつたないクーン語にいちいち丁寧に答え、今の彼を取り巻く状況を説明した。
ドルレル王の崩御は、ザイにとって確かに衝撃だったが、数日前に妻を亡くしたという経験に勝るものは無かった。ただ、ザイが純粋に不思議を感じたのは、中世的なクーン王国の王は明らかに民を搾取していたはずなのに、彼らが悲哀にくれる姿だった。
「王あっての民ですから……」
とタータハクヤに答えられても、ザイには納得が行かない。それに、ザイはキツからロマヌゥのことを聞いている。彼のほうがよほど有能な指導者になり得ると、自分では安易だと感じながらも、そう思っていた。
更に不思議だったのは、王都の民が先日現れた巨大な神龍に恐れをなして逃げないことだ。あれほどの怪異に出会えば、自分なら真っ先に王都を捨てる。そうしないのは、ザイが心のどこかでアシュナの生存を望んでいるからだ。ザイは気づかないが、これには彼の存在が大きい。神龍の御子が王都にいる限りは、自分達は安全であると、民衆は思い込んだ。真っ先に災難に遭ったのは当のザイ本人だったが、彼らはそこまでの情報は持っていないようだった。
白蛙宮の時と違って、王都に住むほとんどの人間が郊外に現れた神龍を目撃した。その中の幾人かは、
――神龍に睨まれた者は死ぬ。
といって、発狂寸前になったが、特に剣士団の剣士達はリョーンが上手くなだめた。カエーナとの戦いを目の当たりにした者達は、リョーンに神性を見出しており、剣士団の内部だけで言えば彼女は既に神話の域にさえあった。
ロセの投獄という大事件があったにもかかわらず、剣士達が大きな混乱を起こさなかったのは、彼らの内のリョーン信仰が本格的になり始めた証拠だろう。それをカルカラが上手く統御し、一応の安定をみている。だが、カエーナ派との衝突によって剣士団内部の権力構造ががらりと変わってから、まだ十日も経っていない。タータハクヤのように部外者でありながら、内部の事情を良く知る者が見れば、今の剣士団は累卵の危うさにあった。リョーンという飽くまで思想上の中核と、実権を握るカルカラという二重構造に加え、剣士団の上層部を占める「剣翁の孫達」は未だに健在である。それに南人商家の人間でリョーンに強い影響力を持つシェラと、剣士団の本当の後継者であるチャムという存在が、第二のカエーナを生まずには置かないことを、タータハクヤは肌で感じている。
それなのに、このソプルという痘痕の多い男は、ここに留まるという。
「何故、王宮に戻られないのですか?」
と、思い切って問うと、
「ここは、竜の臭いがする。竜に近い……」
といった意味不明な答えが返ってくる。
「竜がお好きなのですか?」
ザイが王宮で缶詰のようになって暮らしていたことは、彼の挙動を観察していればタータハクヤにもわかる。だが、彼女の問いに、最上級神官は顔色を変えた。
「好きなものか!」
温厚そうに見えて、気難しい。それに、ロマヌゥに捕縛されていた時を思い出すと、外見から推し量れる年齢より遥かに、この男が怒りっぽいことをタータハクヤは感じた。
(この御方は何故、剣士団にいるのだろう……)
少し考えれば、最上級神官という名前だけは豪華な官職に就く人が、王宮の権力の外にあるクーン剣士団に身を寄せること自体がおかしいことに気づく。だが、タータハクヤが考えるに、これはゲール新王か、宰相ドルテンが知恵を絞った結果に違いない。民衆は王宮よりは遥かにクーン剣士団に近い。彼らの目が届くところに、神の使いであるという噂――王宮での公式なザイの身分は飽くまで最上級神官である――の付きまとう男を置くことで、民衆が大恐慌に陥らないようにしているというのは、考えすぎだろうか。ドルレル王の崩御に際し、先王の娘婿が王宮にいないという理由を、他に見つけることが出来ない。
元は神官職にゆかりのあるタータハクヤ家であるから、タータハクヤ自身もザイを近くに置くことに抵抗は無い。それにこの貴人は、ロマヌゥによって監禁された時も、妻のアシュナと赤の他人であるタータハクヤの安全を守るために必死に尽くした。それが彼女の中で好感となって残った。ザイとアシュナが移送された後、タータハクヤは身も凍るような体験をしたが、二人に責任を転嫁したり、逆恨みするようなことは無かった。彼女にとっては現在進行しているロセの投獄とエトが錯乱状態で見つかった事実が、比べようも無いほどに重かったこともある。
義父を牢に放り込んだリョーンは、一度もタータハクヤに顔を見せない。彼女の代わりに来たのは、茫然自失となったエトだった。
「発見した時は、既にこの状態でした……」
と、連れ添いの剣士が言った。
「エト、エト! 一体どんな目に遭えばこんなになるの……」
ターハクヤはわずかに明るく茶けた髪を振り乱して叫んだが、エトは言葉を発することも無く、植木のように棒立ちになっている。
エトはまるで自我を失ったようで、誰かが何も言わなければ糞尿も垂れ流し、その場に立ち続ける。体が震えだしたら、特別に雇った小間使いの少女がエトを厠に連れてゆく。食事も同じで、咀嚼する力が無く、すり潰した豆をスープに混ぜて食べさせた。日に日に力が衰えており、そのうち立ち上がることすら出来なくなるだろう――というのが、剣士団つきの医人の見解だった。それでいて、これといった治療方法もない。
エトは時々、うわごとのように
「リョーン……リョーン」
と呟くが、それが彼女の姉貴分の女のことを指しているのか、タータハクヤにはわからなくなった。数日前に王都郊外で目撃された神龍が、彼女に生々しい想像をさせた。
最上級神官は部屋の隅で、タータハクヤが悲哀に暮れる様をじっと見ている。
ある時、小間使いの少女が夕食の支度をしている時に、エトが用をもよおした。間に合わずに服を着替えることになったのだが、ザイは不思議そうにタータハクヤを見つめたまま、その場を動かない。
「あの、着替えをするのですが……」
といって、小間使いの少女が恐る恐る言うと、ザイは言葉が通じなかったのか、首を傾げた。
「よいのです。隣の部屋に連れてゆきなさい」
タータハクヤはエトの着替えを隣室で済ますように言いつけた。もとより身分がかけ離れているから、ザイが遠慮する必要はないのだが、タータハクヤは彼の態度が横柄に見えて小さな衝撃を受けた。ロマヌゥに監禁されていた時、自分にかけてくれた優しさは何だったのだろうか。
リョーンは何を考えたのか、タータハクヤに監禁にも似た生活を強いている。使用人のヒドゥはそれに我慢がならない様子で、何度かリョーンの側近であるカルカラに直訴したが、容れられなかった。
「外はまだ危険なので……」
というのが彼の口癖のようになった。少し前までタータハクヤがいた南人居住区は剣士団の内紛とは無縁に過ごしていたから、この理由は通じない。だが、タータハクヤを一室に閉じ込める理由を考えるに、全くといってよいほど心当たりがない。そもそも公的にはタータハクヤ家は滅んだままなのだから、彼女に政治的な価値は皆無である。
タータハクヤは自分と同じ環境にエトが放りこまれたことで、これがリョーンの優しさであることを知った。二人の安全は自分が確保するといった気分が、今の彼女にはあるのではないか。
(ありがた迷惑よ!)
と、タータハクヤはリョーンを一喝してやりたくなる。リョーンは自分達を保護しているつもりらしいが、三人はもとより対等な関係にあった。それなのにリョーンは団長(正確には代理)位に就いたくらいで、二人は自分が守ってやると言わんばかりである。リョーンがこのまま王宮にかけあって、タータハクヤ家の復興を口に出すのではといった、自分を嫌悪したくなるような想像が、タータハクヤを悩ませ始めた。確かに先代のエリリスはタータハクヤの後見を受け持ったが、それがリョーンになると、意味が違ってくる。
短期間の内に、あまりに多くのことが起こりすぎて、タータハクヤは自分が発狂するのではないかと、疑った。
夕食時にもこのようなことを考えていたタータハクヤは、思わずさじを落としてしまった。それを、対面して座っていたザイが拾った。この時、タータハクヤの中の熱っぽい気が、一気に外界に漏れた。
「今日の羹は、やけに薄いね」
と、ザイがクーンではないどこかの国の言葉で言いながらさじを渡すと、タータハクヤはザイの手をつかんだまま、ついには泣き出した。
「ソプル様、ソプル様! 御助け下さいまし……」
この男が特に有能だとはタータハクヤは思わない。だが、アシュナ王女の婿である立場を利用して、カルカラやリョーンに圧力をかけることが出来るのではないか。エトを王宮つきの最高の医人に診せることも出来るし、それ以上にロセを開放するにはもはや彼に頼るしかなかった。
「ほう、あの爺さんか……」
タータハクヤが懸命に説明すると、どうやらロセのことだけは通じたらしい。だが、彼のクーン語の理解度から言って、ロセが何故牢にとらわれているのかまでは伝えることは出来なかった。
もう一つ、手段があった。リョーンに絶大な影響力を持つシェラに頼むことだが、これはとうに失敗している。彼は重症の身であるのと、ロセの捕縛はいわば剣士団の総意であるという建前から、面会を拒絶された。
(あの娘は何処に行ってしまうの?)
カルカラがリョーンを傀儡にしたてようとしているのはタータハクヤでもわかる。だが、当のリョーンは全くといってよいほど理解していない。今の剣士団の状態は、チャムを後継者に仕立てて剣士団の実権を握っていたエリリスの時代より危ういのではないか。
次の日、ロセに続いてテーベが投獄されたことを、タータハクヤは小間使いの少女から聞いた。
この人は何かを待っているのか――と、ヒドゥは最上級神官ソプル(ザイ)のことを不思議そうに見ている。
彼はエリリスがタータハクヤの後見をしていた頃から、王都の各地に散らばったタータハクヤ家にまつわる文書を集めて回っていた。文官と神官の家系であるタータハクヤ家にとっては、百乗の竜車よりも文書こそが財産だった。王宮による粛清の際に散逸したが、一部は物好きな南人商家が買い取っていたりして、ヒドゥはその噂を聞く度に商家の門を叩いた。南人商家がクーンに進出する契機を最初につくったのはタータハクヤ家であるのに、今の南人達はそのことを忘れてしまったのか、全くといってよいほどに淡白な反応をされた。
「これは、三代前の当主のことが書かれています。こちらは薬方大全です。落丁がありますが、お読みになって下さい」
などと言って、手に入れた本を暇を持て余しているタータハクヤに渡すことが、彼の主な仕事だった。
そんな中、一冊の本がヒドゥの手に渡った。
南人文明では皮羊紙が主流だったが、クーンでは古来から紙が用いられていた。ヒドゥが手に取った本は、クーン産の紙よりも遥かに表面が滑らかで、中を見てみると、異国の文字が墨では到底ありえない銀色の光を放っていた。
ただ、所々にクーン語で注釈がついていた。
それらを拾い読みすると、
――カラタチ
――足を切断
――自我が無い
といった言葉が並んでいた。第三者が見れば意味不明だが、ヒドゥにだけはこれらの言葉に覚えがあった。
ヒドゥは本の最後まで目を通すと、静かに剣士団から借りた書斎の本棚にしまった。普通はどんなに些細なものでも、タータハクヤ家ゆかりのものなら主人に見せていたのに、この奇妙な本だけは、その例外となるところだった。
というのも、ちょうどシェラに直談判をしようとしたタータハクヤに見つかってしまったのだ。
「ヒドゥ、新しい本が見つかったのね?」
タータハクヤの楽しみといえば、もはや読書くらいしかないのだから、目ざとくなるのも当然だった。彼女はヒドゥの答えも待たずに小間使いの少女に車椅子を押させ、ヒドゥが手にしていた本を取った。
「何かしら、これは……」
南方で主流なのは、ダイス、ナバラ、ペイルローンの三語である。これらの民族が南海の三大商業民族であるからだが、タータハクヤはこの内、ダイス語とペイルローン語に通じている。ダイス語はクーン語に近く、クーン王国内でも国境近い地域ではダイス語が用いられる場合が多い。
タータハクヤが見ても、本に書かれている文字は見知らぬものだった。本の端が糊か何かで綺麗に固められており、中は水平の線がびっしりと引かれている。
彼女もまた、ヒドゥと同じようにクーン語の注釈を読んだ。
「異国の文字なのですが、何の資料なのか検討もつきません。南海を越えた遠い国の言語なのでしょうか」
と、ヒドゥは私見を述べたが、タータハクヤはすぐさま否定した。
「いいえ、違うわ。これは日記よ。しかも、カラタチ兄さまの名前がある」
先代のタータハクヤ家当主は三男一女を得た。一女が勿論、今の八代タータハクヤ・ナラッカで、彼女のすぐ上の兄、つまり三男の名をカラタチと言った。
「ねぇ、ここ。『カラタチと共に狩りに行った』と書いてあるわ。これだけ日記を書くくらいだから、長い間家にいたのね。異国人が我が家に留まったという記憶は無い?」
「いえ……」
「どうしたの?」
ヒドゥの答え方が妙に歯切れ悪いので、タータハクヤは首を傾げた。
「異国人の来客ともなれば、それは毎日の様に……」
「あっ、いいのよ。憶えていないからって、怒ったりしないわ」
タータハクヤは本を閉じると、そのままシェラの部屋に向かった。陰鬱な日々の中で、この謎解き遊びが彼女の唯一の娯楽になるかも知れなかった。
去り行く彼女を見て、ヒドゥが小さく溜め息をついたのを、タータハクヤは気づかなかった。
竜小屋でもまだましなつくりだと思えるほどに、古びれた藁葺きの家である。雨が降れば寝ることも出来ないくらいに雨漏りする。屋内は暗く、家具など無いに等しい。
戸というよりは、ただの板をかけただけのそれが、小さく開いた。すると、外界のまだ冷たい空気が屋内の埃を巻き上げた。
小さな顔が、暗闇の中に白く浮かび上がった。少女は無言で中に入り、短い蝋燭に灯をつけた。
後ろにまとめた艶やかな黒髪が、蝋燭の灯りに照らされてわずかに淡くなった。すると、部屋の奥の闇がもぞもぞと動いた。
「帰ったのか。ウイ」
「まだ、起きていらしたのですか」
ウイと呼ばれた少女は、蝋燭を持って部屋の奥に進んだ。すると、不自然な白さが視界に入った。
三つ編みの銀髪に少女のような顔立ちが、同じく少女のような細い声で言った。
「剣士団は何か変わりあるか?」
「いえ、相変わらずです。剣翁の娘を団長に仕立てて、カルカラがテーベを粛清しました。上層部の認可は下りているようですが、テーベを慕っていた一部の剣士は不満をあらわにしています」
「あの阿呆どもは、僕達が何故反乱を起こしたのか、何も理解していないらしい」
少女のような声がにわかに険しさを帯びた。
「ロマヌゥ様……」
「いいよ、ウイ。君が父の敵を討ちたいのならば、今すぐにでも立とう。剣士団の追跡は甘くない。いずれここも見つかる」
「いえ、よいのです。万が一のことがあれば貴方様を御守りするように、父に言いつけられました。それが遺言だと思っております」
ロマヌゥは静かに目を閉じた。
「僕は赤髪のカルを、今すぐにでも殺したい。でも、君はそれをするなと言う。父を殺された仇を討つよりも、役立たずに飯を食わせることの方が大事だと言う。それだけの価値が、僕にあるのか?」
怒りが、ロマヌゥの小さな体躯からにじみ出るようでもあった。闇が揺らいだような錯覚がしたのは、ウイの吐いた息が蝋燭の灯を揺らしたからだろうか。
「ロマヌゥ様。今夜もお話が聞きとうございます」
ウイはロマヌゥの傍に腰掛けた。
ロマヌゥは再び目を開けた。カエーナを置いて自分だけが生き残ったのは、この娘に我が思想を伝えるためなのだろうかと思うと、自らの使命の小ささに泣きたくなった。