第十一章『運命めぬ神に供せよ』(7)
「エト! エトは何処?」
夜明けとともに剣士団本部に響いたのは、鶏声ではなく、リョーンの悲鳴にも似た叫びだった。
エトの失踪に気づいたリョーンは、テーベが彼女に密命を下したことまでは知らない。だがエトが夜間に外出したことを怪しみ、彼女が親しんでいたテーベを詰問した。
「カエーナ派の残党によるものだろう。彼女の捜索は私に一任してもらいたい」
上手くかわしたつもりだったテーベは、しかし自分が大失態をおかしたことを十分に承知していた。
時期が時期だけに、興奮冷めやらぬリョーンをどうにか説得したテーベは、すぐさまロセに会った。といっても、彼自身負傷のせいで自由に歩き回れないから、前回と同じようにロセが彼の部屋を訪れたわけだが。
「私の認識が甘かった!」
自らに対する憤りを押し殺すのがやっとのテーベを見て、ロセ自身もまた、チャムとの連絡にエトを使った自分を責めた。
「恐らくだが、あれはもう生きてはいまい。問題なのは死体が見つからないことだ。小僧の仕業ならば、エトを攫う意味が無く、殺した後に死体を隠す必要も無い。だとすれば……」
「剣士団内部の者……」
ロセは無言で頷いた。
「あるいは、王宮が何かを画策しているのというのも考えられるが……どちらにせよ、これは我々への警告だ」
「ならば手をこまねいて見ていよと仰るのですか?」
テーベの語気は鋭い。自分の読みが浅かったせいでエトを死なせたかもしれないという思いが、今の彼を焦らせている。
「いや、白竜一家を使う」
ロセは別に意外なことを言ったわけではない。エリリスがシェラを剣士団に迎え入れた頃から、白竜一家と剣士団は互いに協力関係にあった。だが、チャムが白竜一家を疑っているという事実を無視したような発言に、テーベはついてゆけない。
「それはおかしくはありませんか。キュローの元にはエリリス殿もいる。彼を見切って赤髪のカルを団長代理に任じたのは我々では……」
言葉の途中で、テーベはあっ――と声を上げた。彼の視線の先には、無表情の老人がただ佇んでいるだけだったが、老人と目が合った時、真冬の雨を浴びたような気分になった。
「今夜、わしが直接、ヤーニとやらに会いに行く。そこでチャムの真意を聞こう。お前はキュローに使いを出せ」
テーベには好都合なことに、彼はロセとの密談が終わった早々、再度リョーンに呼び出された。
円卓の奥の席に座るリョーンの傍にはカルカラが立っている。
(このじじいめ、早くも側近気取りか……)
団長代理の世話はカルカラに任せておけばよいようなことを、ロセは言っていたが、テーベには彼がリョーンを傀儡にしてよからぬ事を企むのではないかとの懸念がある。チャムもエリリスも欠けた今、剣士団で最大の勢力を持つのはカルカラだからだ。赤髪のカルは人気では他を圧倒しているが、それを上手くカルカラに利用されているふしがある。
「タータハクヤを迎えにいって欲しい。白竜一家は今日中に王都を発つらしいから、急いで」
リョーンの口調がとげとげしかったのは、エトの失踪の責任がテーベにあるのではないかという勘が働いたからだ。それにしても、そこまで自分のことが嫌いなら、ピオにでも頼めばよいのに――とテーベは苦笑した。
「ピオにはロマヌゥ捜索を命じてある。カルカラに聞いたら、今一番暇なのは貴方だと言うから……」
悪意を感じ取ったテーベはカルカラを睨みつけた。
カルカラはわざと咳払いをし、リョーンに「次の予定がありますので」と言って、テーベを下がらせた。
(いいだろう。そちらがその気なら、私も勝手にさせてもらう)
テーベは何事も無かったかのようにリョーンに敬礼した。
部下に肩を預けながら、議場から去るテーベを片目に見ながら、カルカラはリョーンの傍により、そっと耳打ちした。
(エトが夜間に外出したのは、間違いなくテーベの密命を受けてのことです。剣士団の者を使えばよいのにあえてエトを送り出したところを見ると、よほど我々に知られたくないことのようです……)
老い始めたカルカラの口から林檎が腐ったような臭いが漂ってきた。リョーンはそれに眉をひそめながら、小さく頷いた。
(自分がエトを危地に送り出しておいて、何食わぬ顔でロマヌゥに責任を押し付けた。お前だけは決して許さない!)
リョーンの瞳が、人知れず紅く燃えた。
竜車に乗って王都南門を前にしたキュローに、剣士団からの正式な使者が来た。勿論、テーベの子飼いの者である。
「あの小娘も、人ひとりの首を落としたくらいで、偉くなったものだ……」
車内でのキュローは不機嫌そのものだったが、竜車を降りた途端に平素の商人面に戻った。剣士団の正式な使者ともなれば、会わぬわけにはいかない。
(ここで、エリリスの引渡しか、処分を頼んでくるようであれば、まあ少しは見直してやろうか)
それ以外に今の剣士団が白竜一家を訪ねる理由が見当たらないキュローは、意外な訪問客に対して丁寧に声をかけた。南人商家の中でも最大の白竜一家の当主に頭を下げられた使者は、面食らったが、彼が用件を言い出すとキュローは大いに笑った。
「タータハクヤ殿、団長代理がお呼びですぞ」
キュローの乗る黒塗りの重厚な竜車のひとつ後ろに、同じくらい豪勢に飾られた竜車があった。そこから顔を出したタータハクヤは、当惑したように二人の方を見た。
「言葉の通りです。団長代理が、貴女に王都を留まることを望んでいます。強制ではありません。タータハクヤ殿の意志を尊重せよ――との命も受けております」
使者ははきはきとした口調で言った。
タータハクヤが頷いたので、諾とみなしたキュローは、王都有数の富豪だけあって、太っ腹にも竜車ごとタータハクヤを剣士団に送り届けると約束した。使者は驚きのあまり声を失った。竜車だけでも一財産とも呼べるほどに、きらびやかに装飾されている。
同じように驚いたタータハクヤは、キュローには恩があるといって、
「このように高価なもの、お受けできません……」
と、辞退しようとしたが、キュローはとりあわなかった。
「竜車一乗程度、大した出費ではありません。往時のタータハクヤ家はこれより豪奢なものを百乗は所有していたと聞きます。不幸あって、貴女はそれを継承することができませんでしたが、タータハクヤ家が貴族の品位までも失ってしまったとは思いません。それよりも、王都に留るのでしたら、あまり外出なさらぬように」
キュローはちらりと使者の方を見た。それだけで使者は、白竜一家当主が、エトの失踪という、とるに足らない情報まで早くもつかんでいることを理解した。
(南人商家、恐るべし……)
と、使者に思わせたのだから、これもキュローの持つ凄みといえばそうだろう。
「さて、用件はこれだけですかな?」
キュローが使者を見やると、使者はそれすらも見透かされていたか――と、自嘲の笑みを浮かべた。
「では、車内にてお伺いしましょう」
幌の張られた竜車の中に誘われた使者は、先ほどとは違って落ち着きを取り戻していた。公務で団長代理の私的な用件を済ませたことに対する、後ろめたさがあったからかもしれない。
「剣翁の命で参りました。単刀直入に申し上げますと、エリリス殿の身柄をこちらに引き渡していただきたい」
キュローは無表情だったが、
(剣翁が直々に動くとは、今の剣士団はよほど人がいないと見える。とはいえ、話せる相手が一人くらいはいないと後々尾を引きそうだ)
と、自分の予想通りにことが運んだことに対して小さな満足感を覚えた。
「エリリスが団長に復帰すると解してもよろしいのですか? まさか、彼を処分するつもりでは?」
「それは私の理解するところではありません。と言いたいところですが、その問いに関しては、剣翁の伝言をあずかっております」
ほう――と、キュローはもったいぶったような使者の口調に興味を示した。計算高いキュローであるから、飽くまで素振りなのだが。
使者は懐から書簡を取り出した。それを受け取ったキュローは封を切り、書簡を開いた。
しばらくの間、それに目を通していたキュローは、
「お受けしましょう」
と、短く答え、部下を呼びつけてあれこれと指示を行った。使者はそこまで見届けると、竜に乗り、タータハクヤの乗る竜車と併走して剣士団へと戻った。
「あの老いぼれも、喰えんな……」
吹き始めた春先の風に向かってキュローが投げかけた言葉は、しかし不気味なほどの余裕に満ち溢れていた。
エリリスが剣士団に復帰した。
とはいえ、議場にある円卓に彼が座る席はもう無い。
エリリスは憮然としたまま、リョーンの前に立ち、無言で敬礼した。それだけだった。
カエーナに敗北した直接の原因を作ったのは彼であると信じて疑わない、少なからぬ剣士達が色めき騒いだが、ロセがエリリスを非難しなかったことによって掻き消えた。テーベは、自分がでしゃばると事態が悪化することを重々承知していたから、亀が甲羅に引っ込むようにして、顔を出さなかった。
リョーンはといえば、タータハクヤにエトの失踪を告げた後は、年長の親友だけは自分の手で護りたいと感じたのか、一室に閉じ込めたまま、監禁にも似た状況に彼女を置いた。驚いた使用人のヒドゥがロセに抗議したのだから、リョーンのこの処置は異常だった。
リョーンの頭にもたげているのは、先日のハルコナが口にした予言じみた言葉だった。
――もうすぐ、あなたの大切な人が死ぬ。
思えばあの言葉は、エトのことだったのだろうか。だとすれば、エトはもうこの世にいない。最近の彼女はリョーンに反発するようになり、それが不愉快でないこともなかったのだが、それでも大事な妹分であることには変わりない。
タータハクヤを呼び戻した理由の第二は、リョーンがキュローを全く信用していないことからだった。
悩めるリョーンをよそに、彼女を除く剣士団の上層部は水面下で目まぐるしく活動を始めた。
その中の一人に、引退を理由に上層部での決定権を放棄していたはずのロセがいた。元来陰謀じみたことには一切無縁だった彼が動かねばならぬほどに、剣士団の危機は目前まで迫っていたともいえる。
日が暮れかける頃、ロセの元に一人の男が訪れた。
「先日は、どうもご贔屓に……」
といって、赤茶けた髪をぼりぼりとかいたのは、アドァだった。
今度は剣士団員の変装をする必要も無く、いつものように粗衣を羽織った、貧乏臭い職人姿だった。彼はタータハクヤのいるところならば、車椅子を修理するという名目で、何処にでも出没する不思議な男である。
「キュローに情報を与えていたのはお前か?」
卓子の椅子に腰掛けたまま、ロセは目の前の杯に酒を汲みながら言った。
「いえいえ、あの家は私の持っている情報くらい、自前で調達できますよ。私がやったのは、ほんの小間使いです」
「その小間使いを頼みたいのだが……」
アドァの目が微かに光った。
「どの様な?」
「お前が王宮にも伝手を持っているのは知っている。だから、王宮近衛兵に働きかけて、剣士団を攻めるように仕向けて欲しい」
ロセは手に持った杯をニ、三度揺らし、言い終わると一気に飲み干した。
「それは……どういう意味でしょうか?」
唾を飲む音が、赤らんだ夕日が差し込む狭い部屋に響いた。
「言葉通りの意味だ。勿論、本気でそれを行ってもらっては困る。適当なところで我々から和睦の使者を送る」
「あっ、なるほど! それでエリリス様を引き取られたのですか」
アドァは理解できたようだが、もしこの場に第三者がいても、二人の会話の内容を理解できなかっただろう。あるいは、ロセが剣士団を裏切ったのでは――と邪推するに違いない。
ロセの筋書きではこうである。
引退した剣翁ロセをわざわざ召還したように、ドルレル王が剣士団を深く信用していたのは事実だ。だが、ラーム亡き後の剣士団は、ドルレル王の予想を超えて膨張した。クーン王宮が南人交易を国家事業として始めたのに対し、当初の剣士団はそれに反発し、王宮近衛兵とも対立した。
これはこれで問題があったが、王都の内部だけで済ませる分には、目をつぶることができた。
だが、商人上がりのエリリスが団長となった時点で、剣士団の経営方針が変わった。表向きは南人を憎悪しながら、商店の経営などではペイルローン一族の白竜一家と結託するなど、完全に親南人となった。エリリスの商業手腕が優れていたためか、剣士団は南人との貿易でも王宮と対立するようになった。
それが、ドルレル王の癇に障ったのだろうが、彼の在位中はそれほど表立って両者が相争うようなことはなかった。だが、最晩年にカエーナ派とエリリス派で剣士団が内紛常態に陥った時点で、王宮は表立たずに剣士団との対立路線に走り始めた感がある。
チャムだけではなくロセもまた、王宮が水面下で剣士団を探っていることは知っていた。ドルレル王は恐らく、剣士団の解体までは考えていなかったのだろう。
だが、にわかに時代が変わった。
ドルレル王が西侯に暗殺されることで、クーンの仮想敵国は今までナバラ王国であったのが、西侯の統治するアクシアに変わった。
一応はクーン王国に属しているものの、アクシアは西侯の統治する半独立国である。しかも近年台頭がめざましく、本国であるクーンに匹敵する国力を備え始めている。
新たに立ったゲール王が、時をおかずにアクシアを叩き潰すのは目に見えている。父王の復讐という以上に、反クーンをあらわにしたアクシアを放置すればクーンは西と南を強国に挟まれるという危機に陥る。
アクシア討伐軍を編成する上で、特例とも言えるクーン剣士団の存在は目障りになった。ただでさえ、二派に別れて内訌を起こし、都内で殺戮を始めた集団を、王が放置するわけが無い。
チャムが自治権を返上せよと言ったのは、ゲールが剣士団の粛清を本気で考え始めた証拠だろう。
このまま座して待っていれば、ゲールの命を受けた王宮近衛兵がクーン剣士団を壊滅させる。あるいはそれはアクシア討伐と前後するかも知れないが、どちらにせよそうなってしまえば、クーン剣士団は地上から消えうせるしかない。
だから今、剣士団を攻めてもらう。
ロセ達は団長代理のリョーンとともに王都を放棄し、南方のダイスにでも落ち着く。そこから和睦の使者を送り、剣士団の再構築を王宮に要請する。これはロセの確信するところだが、新団長に選ばれるのは、ゲールの信頼を得ているチャムだろう。リョーンはその時点で用済みになる。実のところ、エリリスはリョーンを生かすための捨て駒なのだが、上手くことが運ぶとは限らない。最悪の場合はリョーンも首を刎ねられるが、そこは剣翁が王に直訴するという構図を作れば、汚名を被りたくないゲール王は許すだろう。
ゲールは、独自で南人交易を行い国益を損なったとして、エリリスは処分するだろう。そればかりは避ける術がない。長く南方に人質になっていたゲールであるから、南人文明のシンパになっていてもおかしくないが、あるいは逆にアンチになって帰ってきたのかも知れない。後者であれば彼の器量はたかが知れているが。
エトが何者かの襲撃を受けた時点で、ロセはもはや傍観が許されない時期まで来たことを悟った。襲撃犯が誰なのかまではわからないが、王宮の反剣士団派か、あるいは剣士団内部のカルカラあたりがチャムの復帰を阻止するために行ったものと考えた方が無理がない。
ヤーニという女に会って、チャムの真意を聞けば、全てが明らかになる。ただ、自分の想像に自信を持っているロセは、ただの答えあわせくらいにしか思っていない。
(エトの失踪が、この老いぼれに事態の急を知らせてくれた……)
まるで彼女がそのためだけに生まれてきたように、ロセは心中で既に死んだと判断を下した、娘の友人に感謝した。