第十一章『運命めぬ神に供せよ』(6)
クーン人が大まかに南人と呼んでいる人種は、異文化との通商で繁栄してきた海洋民族であるペイルローン一族と、彼らとは対照的に飛竜文明によって南海を制覇したナバラ文明人に大別される。前者は眩しいほどに輝く金髪と碧の瞳が印象的で、後者は肌が浅黒く小柄であるから、ひと目で異種族だとわかる。商人根性よろしく、自前のターバン以外は落ち着いた先の文化に軽々と乗り換えるようなペイルローン一族は別として、民族の歴史は古くとも領土型の広域国家を形成して二百年足らずのクーン人は、古くから異文明との混合が当たり前だったナバラ文明と比較して、通商に適した都市の形成には不慣れだった。土着のクーン商人が、望南戦争以後は、大陸規模で見てもその道の天才の名をほしいままにするペイルローン商人に駆逐されるのを止められなかった理由は、主にここにあった。
現在の王国の基盤はゲールから数えて六代前のハクヤ王による大規模の南方遠征によって確固たるものになったが、経済面での発展に寄与したのは、クーンのダイス王国制覇という形でクーン文明に参加したペイルローン一族だった。ロマヌゥの先祖のように、医学などの技術によって一家を成す者もいたが、彼らは飽くまで少数派だったのだ。
商いは下手でも、兵法や政治哲学などの分野ではクーンは逆に南人を圧倒した。カエーナに殺された元クーン剣士団副団長も、主に学問のある奴隷を高額で南方に売りさばいていた。ペイルローン一族は金になる奴隷商売やクーンの学問書を売りさばくことには目をつけても、彼らの思想自体には興味を持たなかった。クーンの思想が、成熟しきった文明国にありがちな退嬰を含んでいたからだ。商人と退嬰ほど似合わぬ組み合わせもない。
ナバラやダイスなどのクーンより南にある海に面した国家より百年単位での遅れをとって、クーンは王都そのものを不夜城にまでして流入の絶えない南人文化を吸収した。その多くがナバラ文明の北端であるダイス文化の模範だったり、ペイルローン一族が持ち込んだりしたものだったが、クーンは元来狩猟民族だったこともあってか、自らの文明に参加しさえすれば、政治以外の面での彼らの活躍にはアレルギーをほとんど起こさなかった。
だが、二十数年前に南蛮と信じていたナバラ文明と衝突し、首都陥落寸前にまで追い込まれたという大失態に、クーン民族は必要以上にナイーブになっているというのが、リョーンやエトが訪れた王都の姿だった。ドルレル王の懸命な建て直しにより、かつての繁栄を取り戻してはいても、そこには何処か影があり、その影とは、居住区を作って戦争以前とは段違いに有利な立場で通商を行う南人たちの他に、未だに復興を果たせないでスラム化してしまった西区などの時代に取り残された生活であった。
その中で暮らすクーンの人々の誇りは、やはり救国の英雄ラームが創設したクーン剣士団だった。もう一人の英雄である西侯アクスは、名声でも戦功でもラームと同等かそれ以上の英傑だったが、その功績から二人で併称されることはあっても、王都の人気で言えば常にラームの方に軍配が上がった。西侯は異文化とよべるほどに離れた西域の人であり、それにドルレル王とは不仲な一面もあった上、民衆が同じ平民であるラームの方を好んだということもある。
ラームは絵に描いたような成り上がりだったが、自らの手を汚すことに何ら躊躇いをおぼえないという悪魔のような彼の一面が、偽善者よりは遥かに偽悪者を好む民衆の心をつかんだ。英雄の死後は二代目エリリスが堅実に地盤を固め、その次にはラームに劣らぬ覇気を感じさせるチャムが控えている。
リョーンが、チャムまでの一時的な繋ぎにしろ団長位を継いだのは、民衆の精神的支柱といってよいこの集団だった。クーン王ですら立ち入れぬ強大な自治権を持つ彼らは、王都の中に自分達の国を持っているも同然だった。
だが、既にクーン剣士団には副団長の汚職やそれに対するカエーナの反目などの亀裂が走っていた。リョーンがカエーナと接触を持った時点で、表面上はわずかなひび割れでしかなかったものが、決定的な裂解へとつながった。剣士団の事実上の分裂に、剣士ばかりではなく民衆までもが次期団長であるチャムの不在を恨んだが、剣士団の深刻な欠陥は、もはや個人の力ではどうにもならないところまで来ていたのだ。
「良いのですか? 御息女は今、とても危険な状態にあります」
リョーンが泥のように眠っている頃、消えかけた燭台の蝋燭に火をつけながら、テーベが自室を訪れたロセに言ったのも無理からぬことだった。
今の剣士団に必要なのは、チャムのように人望のあつさで多少の困難を帳消しにする類のリーダーではなく、前任者が放置していたり溜め込んだ問題を、団長に許される限りの強権と、あらゆる非難を押し切る強い意志でもって解決する、本当の意味での繋ぎ――言わば「汚れ役」なのだ。クーン最高の戦士としての名門意識と、クーンを影から侵食する南人との交易、更には王宮と反目しながらも保持する治外法権という、剣士団の持つトリレンマの解決に乗り出すということは、内部に敵をつくらずにはいられない。これらの問題を放置すれば、第二のカエーナが現れてエリリスの二の舞を演じることになり、解決の手段を誤れば、王宮や南人商家を敵に回すことになる。
どう考えても、十代の娘が背負いきれる問題ではないが、彼女以外に適任がいないのだ。
赤髪のカル以外に現在の剣士団をまとめきれる人材がいないということは、エリリスと共に武人の育成に携わったロセとしては責任を感じずにはいられない。ロセには屈強な剣士を育てても、良き指導者の育成はできないという証明でもあった。
だからこそ、エリリスの後継者を決めるにあたって、テーベは最初にロセを推し、それが駄目だとわかると、ためらわずに自薦したのだ。リョーンに心酔するピオや、権威に執着するカルカラが、次は「汚れ役」ということを完全に理解しているとは思えない。
「今からあれこれ言っても始まらぬだろう。形式的なことはカルカラに任せておいて、我々にしか出来ぬことをやろう」
「我々にしか出来ぬこと……ですか?」
テーベはベッドの上で半身を起こした状態のまま、視線を落とした。カエーナの配下から受けた傷が痛むようだが、表情には見せない。
テーベとて、この度の戦いで自分の政治能力の欠如を痛感したばかりだった。その尻拭いを娘ほどの年頃の若者に託すというのが、耐え切れなかった。
「テーベよ。先刻、王宮から使者が来た」
「それは……」
テーベは瞠目した。ドルレル王崩御の鐘が鳴らされたとはいえ、王宮は完全に門を閉じており、剣士団の使者を送っても何の返答も得られなかった。それが、今になって応答があり、しかも一大事であるその情報が、剣士団の頭脳を形成する自分の耳に入らないことに驚いたのだ。
思い出したように左右に人がいないか確かめたテーベは、目でロセに問うた。
「使者をよこしたのは、チャムだ。どうやら西侯が王宮に賊を送り込んだらしい。王はその凶刃に斃れた。チャム自身は新王を御守りして大功を立てたようだ」
「やはり、西侯……」
「新王ゲールは気が短い。喪に服さずに、すぐにでも復讐の兵を挙げるだろう。だが、問題はそこではない。チャムは剣士団副団長および筆頭剣士の権限で、二つの要求を我々につきつけてきた。ひとつは、次期団長にカルカラを指名すること。もうひとつが、剣士団の自治権を王宮に返上することだ……」
「自治権を放棄する……正気ですか?」
テーベの驚きには、幾分かの疑いも混じっていた。情報があまりにも王宮寄りだからだ。
ロセもテーベの心中を察したのか、これ以上は言うな――と、手で制した。
「仮にだ。チャムの言うとおりになったとしよう。これからの剣士団はどうなる?」
「必ず瓦解します。急進派と保守派の争いが、形を変えて受け継がれるだけです。今の剣士団の急務は、一重に意志の統一に尽きます。カルカラを次期団長に指名すれば、リョーンを推した剣士達の反発は免れないでしょう」
「その通りだ。だが、もしこのまま(自治権を残したまま)の形で剣士団が意思統一を果たした場合はどうなる?」
「簡単です。王都で剣士団を凌ぐ勢力は存在せず、剣士団あっての王都となるでしょう」
テーベは幾分か誇らしげに言った。彼自身、剣士団創設時は二十歳そこらの若者であり、自分の青春を全て剣士団に捧げたのだから、無理もない。
「それよ、テーベ。剣士団なかりせば、クーンは王都の防衛すらできなくなる」
テーベははっと顔色を変えた。
「……幸運にも、今のチャムは新王の近くにいる。新王を見極めた結果、あやつが下した決断がこれだったというのは、考えすぎか?」
ロセの想像はやや飛翔しているが、それでもありえぬ話ではない。テーベは王子の頃のゲールについては良く知らない。器量に欠陥があればすぐにでも廃嫡されるか、兄弟に足を取られるというのが王宮の恐ろしさでもあるから、ゲールは意図的に自分の像を造っていたはずだ。チャムはそれを越えて真のゲールを観た。ゲールのダイス行きに従って、西侯の陰謀を察知したらしい情報まではテーベの耳に入っている。ゲールが剣士団を危険視しているというのならば、チャムの下した決断はなかば悲鳴に近い。服従して残るか、反発して消されるかの二択しか、現在の剣士団には残されていない事実が、自治権の放棄とカルカラの団長就任という二つの決定となったのだろう。
これでは、チャム自身も現在の剣士団を見限ったことになる。チャムはカルカラを団長代理ではなく、次期団長に指名したからだ。約束された団長の座を自ら放棄したに等しい。
「我々だけでは決断できません……」
自ら情けなく思ってしまうが、テーベは真情を吐露した。剣士団の命運を絶つに等しい決断を、いくら権威あるとはいえ、剣翁ロセとのたった二人の密議で決めてしまうのは躊躇われた。
「このことは閣議には出せない。チャムはどうやらシェラを疑っているらしい」
「それで、カル殿を外しましたか……」
「恐らく……」
カルカラでは剣士団をまとめきれない。彼はどうにも末端にまで細々と命令を出す癖があり、剣士達の非難を受けることが多い。リョーンやエリリスは、タイプは違うにしても、大まかな命令を下すだけで、後は部下に任せる。勿論、カエーナやテーベも後者に属す。末端にいる剣士達は命令が現実と直面する現場に居合わせるわけで、ある程度に柔軟な思考と決断が許されていないと、自己撞着を起こして、最悪の場合死ぬ。
その面で見れば、リョーンの方がまだましだとテーベは思っていたから、チャムがカルカラを指名したことについて、彼が剣士団の現状をわかっていないのではないかと想像した。だが、実際には別の理由があった。
「西侯の一件に南人商家が関わっていると?」
「チャムはそこまでは言っていないが、シェラの動向に注意するようにとのことだ」
ロセも決断できずにいるようだ。自治権の放棄は誰の責任でやろうが一波乱起こさずには済まない。
「……カル殿を団長代理とするのは現状ではやむを得ない決断です。その意味ではカルカラの団長就任については反対です。自治権の放棄については、最低でもカエーナ派の事後処理が済んでからのほうがよろしいでしょう」
何ということはない。ひとことで言えば回答保留である。だが、ロセの中でもそれ以上の答えは出ていなかったらしく、この話題は閣議にも持ち込まないことで一致した。チャムとの情報交換はテーベが単独で行うことになった。
ロセが退室した直後、テーベはエトの寝室に部下をやった。
中々寝付けなかったらしく、エトはテーベの呼びかけにすぐに応じた。彼女の保護者であるロセの許可はすでにとってある。チャムと接触するにあたってエトを使う理由は、現状は協調していても潜在的に対立しているカルカラの目を欺く必要があったからだ。剣士団内部の人間ではないエトは私的な理由で動かしやすいという利点もあった。それにテーベは、エトの決断力を大いに買っている。
――剣翁先生の客人を陰謀に加担させるようで忍びない。嫌なら断ってもいい。
などという、偽善をかたるような男ではないテーベは、まるで娘を使いにでもやるかのようにエトに指示を与えた。彼女自身は夜中に人に会いに行き、しかも剣士団の他の者には悟られるなといった時点で、これが重要かつ特殊な任務であることを理解し、すぐさま竜を駆って飛び出した。護衛として、数少ないロセ直属の部下がついた。
エトは南区に向けて竜を走らせた。南人が経営する娼家にいるヤーニという女を訪ねるように、テーベに言伝られたからだ。
(何で私が娼婦になんか……)
若者というものは、己の若さを発散させる使命感さえ得られれば、それがもたらす効果も、行動の内容も、思慮の外に置けるようにできている。今のエトがその典型だった。若い未婚の娘が娼婦を尋ねる恥辱が、逆に使命の大きさを感じさせて、本人も気づかないうちに妙な満足感をエトに与えた。
エトにとってもまた、ここ数日間に世界が激動した。
神のように崇めていたリョーンが実はただの女でしかなかったことに嘆き、剣士団の危機に自ら立ち上がり奮闘したものの、ロマヌゥに破れた。気づけばロセに助けられ、心の中で唾棄したリョーンが宿敵カエーナを討った。一度はリョーンより上位についたと思った矢先、彼女にまた先を越されたのだ。それが我慢ならないわけではなかった。エトは、今でもリョーンを姉のように思っているし、彼女の団長代理就任を心から祝いたい。だが、それとは別に、やりきれない何かが自分の中でくすぶっているのもまた、事実なのだ。
口から溢れ出そうなそれを必死にせき止め、ひたすら耐え苦しんでいるというのが、今のエトだった。こういう時、人間は自分自身を嫌悪する。
「もうそろそろかな……」
寝静まった街並みの向こうにある、不自然なほどにくっきりと明るい空間が南区繁華街だ。
闇の中を抜けようかというところ、エトは突然竜の手綱を引き絞った。
「くぅぉおおお!」
竜が月に向かって反り返るように嘶いた。
併走していた護衛の乗る竜がエトの視界を通り過ぎていったが、しばらく走らぬうちに護衛が力なく竜から落ちた。護衛の首元には黒塗りにされた手投げ短剣が刺さっていた。うめき声すら聞こえなかった事実は、短剣の持ち主が相当な手練れであることをエトに予感させた。
驚いてその場で回りだした竜をなだめながら、エトは片手で背に負った弓を手にした。
「ロマヌゥの残党か!」
エトは右手にある民家の屋上に向かって問いかけた。先ほど、右手から何かが飛んでくるのを微かながらも感じたからだ。
闇の中で、何かがすっくと立った。
影そのものが蠢いているようだった。嫌悪と恐怖と同時に感じた時、それは既に眼前にあった。
(速っ!)
エトは辛うじて手に持った弓を振り払った。それは影に触れたようだが、手ごたえは得られなかった。
その影に肩をつかまれ、物凄い勢いで引っ張られた時、エトは絶叫したくなった。このまま刺し殺される自分を想像すると、そのあまりにつまらない死に方に悪寒すら感じる。
(殺される……)
何故、自分が刺客に狙われるのかという疑問が浮かんできたせいで、気が動転しかけたが、ここ数日で何回か死に掛けた経験が、エトから最も重要な冷静さを失わせなかった。
「走れ!走れ!」
必死に竜の腹を蹴った。竜は驚いて駆け出したが、その衝撃でエト自身が振り落とされてしまった。
地面に叩きつけられた瞬間、エトは必死の抵抗を心に誓った。
彼女はすぐさま起き上がると、眼前の闇に向かって矢を連射した。当たっているかどうか、考える暇はない。
息も切れ切れになった頃に矢が尽き、恐ろしいほどの静寂だけが、あたりに残った。
自分の呼吸が、木枯らしが耳元でなるように煩かった。だが、それ以上に煩い何かが、付近の空気を支配している。それは、確実に近くに存在していた。
矢の尽きたエトが右腰の短剣に手を伸ばした頃、喉元に氷のように冷たい何かが当たった。
影は自分の真横にいた。それはまるでエトに差し出すように短剣を喉元に当てていた。だが、差し出すのは自分の方であることを、エトは理解していた。
額や脇の下から滝のように汗が流れ出た。目だけを動かして左を見ると、黒い装束に身を纏った何者かがそこにいた。
「あなたは……」
エトが言い終わらぬうちに、何かを断つ鈍い音と、ひゅう――と空気の抜けるような音が周囲に響き、今度こそ静寂だけが残った。