第十一章『運命めぬ神に供せよ』(3)
「わたしはカル。あなたは王宮近衛兵の生き残りか?」
男が眩しそうに自分を見つめているのを、警戒されていると受け取ったリョーンは、まず自分の素性を明かした。名乗っただけで所属を明かさないのは、赤髪のカルの名への自負なのだろう。カルと聞けば、王都の人間ならば誰しもが燃えるような色の髪をした女剣士を思い浮かべるからだ。
「見たところ、外傷は無いようだけど、他に生き残りは?」
外傷はないと言い切ったが、ザイは神龍に襲われた際に吹き飛ばされて所々に擦り傷や打撲の跡が見える。昨夜まで生きるか死ぬかの戦いをしていたリョーンにとっては、それでも無傷に見えたのだろう。
男はリョーンの言うことを理解できないようだった。それを見たエトが、横であっと声を上げた。
「リョーン。この人、お姫様のお婿さんだよ」
「アシュナ王女の?」
王女アシュナと最上級神官ソプル(ザイ)の婚礼の儀で起こった巨象の暴走事件に関わっていないリョーンは、ザイの顔を知らない。だが、その場にいてロセの活躍を見ていたエトは、仮面を脱いだ新郎の顔が想像を遥かに超えて醜悪であったがために、記憶に残っていたのだ。
「どういうこと? 最上級神官がこんなところにいるなんて……」
ロマヌゥによるソプル夫妻拉致事件にタータハクヤが巻き込まれたことは知っている。だが、その彼が何故東門を抜けた先で王宮近衛兵と行動をともにしていたのかはリョーンには理解できない。
「最上級神官ソプル様で間違いないでしょうか?」
エトが恐る恐る聞くと、ザイは心ここにあらずといった表情のまま頷いた。彼の目は、まだリョーンから離れないでいる。
「アシュナ王女はどちらに?」
この時初めて、ザイはエトを見た。彼の目に涙が溜まっているのを見たとき、エトは思わず言葉に詰まった。
やがて、空がにわかに陰った。
「雨になりそう。とにかく、都内に戻ろう」
リョーンはザイに騎乗を促した。彼はそれを理解できないように、突っ立っていたが、エトが背中を押してようやくリョーンの後ろに相乗りになった。
竜に乗っている間は、終始無言だった。リョーンやエトだけがそうなのではない。もとよりクーン人は騎竜民族の上がりであるから、文明花開いたあとにも残った習慣の一つかもしれない。もっとも、平地の少ないクーンで竜の背に乗ったまま流暢に会話をしていれば、すぐに舌を噛んで悶絶するはめになりそうだが。
元来のクーン人ではないザイにはその習慣は無かったが、妻のアシュナを失った喪失感と、慣れない竜の上ということもあって、彼は怖気づいたようにリョーンの背にしがみついていた。
「よほど、酷い目に遭ったのよ……」
エトはそれより先を口にしなかった。アシュナ王女の捜索には大掛かりな人数が要る。だが、先の最上級神官の反応は、その想像すらも無駄であるかのように絶望感に満ちていた。
やがて、巨大な王都東門を視界に捉えたところで、リョーンの背からぽつりと言葉が漏れた。
「赤い剣士……」
リョーンは小さく首を回して答えた。
「何でしょうか?」
切れてしまいそうな細い声に、リョーンはわずかに不快感を覚えた。もとよりなよなよした男が大嫌いなのもある。
「汝は……リョーンか?」
「……はい。亡き父がわたしにくれた名です」
そう答えたリョーンの脳裏に、山賊と争って壮絶に戦死した父の顔が浮かび、女としてのありったけの不名誉をその身に詰め込まれて悲惨な死を遂げた母の顔が浮かんだ。リョーンは自分でも気づかぬ間に、小さく身震いした。手綱にそれが伝わったのか、愛竜であるスサが短く鳴いた。
都内に入ったところで、リョーンを追って駆けつけたピオが迎えに出た。
「団長代理……わたしが?」
戸惑うように見せてはいても、リョーンの口元が嗤っていた。多くの剣士団員が彼女を祝う中で、エトだけがつまらなそうに輪の外でそれを見ていた。
エトに肩を叩かれて、リョーンはようやく自分の後ろに貴人を乗せていることを思い出した。
「それではピオ、ここはあなたに任せた。わたしは本部に行く」
リョーンはそう言うと、エトを連れて竜を走らせた。
「ピオだと? もう呼び捨てか……」
ピオは呆れたようにこぼしたが、もとより快活な性格があってか、声色に陰険さはなかった。カルカラやテーベとは違って、彼自身、他の剣士団員同様にリョーンに心酔していたのだ。
ところどころ壁が崩れたままの剣士団本部前で、リョーンはスサを降りた。
その時、これまで押し黙っていたザイが、竜から降りるや突然リョーンに突っかかり、胸倉をつかんだ。
「汝は……リョーンか?」
ザイは先ほどと同じことをリョーンに向けて言った。
突然豹変した男に、さすがのリョーンも驚いたのか、目を大きく見開いた。
「神龍は……アシュナを喰った」
その瞬間、ザイの目元から大粒の涙が零れ落ちた。それは、ザイ自身は泣くまいと精一杯声を殺しているのに、とめどなく溢れた。
「南人……キュローの元へ連れてゆけ……」
真っ赤に腫れた目で、ザイはリョーンに向かって言った。
(キュロー?)
やんごとなき王宮の住人から、思いもよらぬ名が出たので、リョーンとエトは顔を合わせた。
今のリョーンは剣士団の団長に次ぐ権限を持っているが、たとえエリリスでもザイを自由に連れ歩くことは出来ない。
リョーンは迷った。彼女自身、こういう時にどう行動すべきかを知らなかったし、テーベやカルカラに訊いてみる気も起きなかった。ただ、エトはザイと行動を共にするということが、リョーンにとって一切の利益を生まないことを感じ取ったのか、一度は彼を剣士団本部に保護するべきだと考えた。
「ダメよ、リョーン。ロセに相談しましょう。それにテーベだってきっとキュローを疑っているはずよ」
エリリスを保護した後のキュローの煮えきらぬ態度を知っているエトは、白竜一家に対する不信感を募らせていた。出来れば今すぐにでもタータハクヤを迎えに行きたいというのが、彼女の望みだった。ロセはどうやらキュローを完全に信じているわけではなさそうだが、現在の王都で最も安全な場所は南人居住区であるという考えは捨てていない。そして、剣士団の内紛の影響外にあったのは、王都では南人居住区だけだった。
リョーンは横を向いて言った。
「エト、『剣翁の孫達』への報告は任せる。わたしはソプル殿をキュローの元へお連れする」
リョーンはエトの答えを待たずにスサの鞍に手をかけた。
ザイは二人の会話についていけなかったが、
「どうなされました? 早くお乗り下さい」
と竜の上から険しい声が落ちてきたので、慌てて乗った。
無言で二人が去った後、エトはぽつりとそこに残されたが、やがて剣士団の門を潜ろうとしたとき、目の前にあった小石を思い切り蹴り飛ばした。
キュローの住まう屋敷についた頃、雨が降り始めた。
針が降ってきたのかと疑うほどに冷たい雨粒から逃れるようにして、二人は白竜一家の門を叩いた。
この家の家人たちは、リョーンがキュローに無礼を働いたことを知っているのか、どこか反応が冷たかったが、やがてタータハクヤが迎えに現れたので、リョーンは思わず表情を崩した。
「聞いたわ。団長代理になったらしいわね。こんな時でなければ、お祝いするのに……」
「はは、ナラッカはいつからそんなに耳が良くなったんだ?」
「この家にいると、王都中の情報が次々に入ってくるのよ。下女の立ち話を聞いてるだけで、一日飽きずに暮らせるくらいにね」
「えっ? ここの人たちがそんなに怠け者とは知らなかった」
雑談を短く切ったタータハクヤは、リョーンの後ろから自分のことを見ている男をみると、地に額をつけて詫びた。
「ああ、御無事で何よりでした。本当に、御無事で……」
しばらく頭を上げなかったのも、シェラによって自分だけが救出されたという事実が、タータハクヤにとって何よりも辛かったからだ。
リョーンはまた後ろの醜い男が泣きだすのかと思うと、ため息が出そうだった。
ザイは、タータハクヤの前に座ると、彼女の手をとって言った。
「儂は嬉しい……汝の無事が……汝の幸運が……」
これが先ほどまで泣きべそをかいていた男かと思うほどに、流暢ではないものの、淀みのない、優しさに満ち溢れた口調だった。タータハクヤは思わず頭上を見上げ、救われたように小さく笑みを見せた。
ザイは確かに憶えていた。彼女が囚われのアシュナに苦痛を与えないために、どれほど苦心したかを、十分に知っていたのだ。
後ろからそれを見ていたリョーンは、かえってアシュナ王女が行方不明であることを言いづらくなった。
下女が迎えに現れた。キュローが二人との面会を許可したからだ。リョーンは、さすがの白竜一家も、現時点で剣士団を掌握している人間には一目置かざるを得まい――と、鼻で笑った。
戸を開けると、ゴモラ産の腰掛に座ったキュローの姿が目に入った。
リョーンが一瞬だけ嫌な顔をしたのは、彼の隣にエリリスがいたからだ。この期に及んで亡霊の顔を見たような気分になったということは、現在の剣士団にとって、エリリスは完全に存在意義をなくしたということだった。
会話を始めたのはキュローだった。彼はカエーナの叛乱の鎮圧と、リョーンの剣士団団長代理への就任をほとんど棒読みで祝うと、すぐに本題に入った。
「実質は貴方が団長ですが、名目ではエリリスは辞任しておりません。そこで、エリリスに貴方の団長代理就任を追認していただきます。ただし、貴方は飽くまで代理に過ぎません。正式に次代団長を決めるのは、エリリスが剣士団に戻ってからにしていただきたい」
「それは、かまわないのですが……」
リョーンはキュローの真意を測りかねた。彼女が少し世知に長けていれば、これがカルカラの団長就任への布石であることを看破し、次代はチャムであるという暗黙の了解を引き合いに出すはずだが、いかんせん、リョーンはまだ田舎から上京してきて数ヶ月の若者だった。
ただし、全国規模で展開する剣士団経営の商店の管理者はエリリスであるという重大事を、リョーンは十分に理解していた。彼女の気分としてはエリリスを団長からこき下ろしたくとも、ロセを初めとした上位陣が追放まで行うとは思っていなかった。
リョーンは探るようにエリリスの顔を覗き込んだ。エリリスは冷めた声でリョーンの団長代理を承認すると、黙ったまま席を立った。
「書類は後から剣士団に届けます。これでつまらぬ内輪もめはなくなるでしょう」
剣士団の上層部が団長後継の件でもめていることは知らなかったが、キュローの言いたいことはわかったつもりのリョーンは大きく頷いた。
「さて、もう一つの件ですが……」
キュローは碧い瞳をリョーンの隣で座る男に向けた。
「お会いできて光栄です、最上級神官殿。わたしが、白竜一家の家長キュローです。とはいっても、言葉が通じないのでは挨拶のしがいがありませんが……」
人を喰ったようなキュローの口ぶりにリョーンは違和感を覚えたが、キュローの名を聞いたザイが興奮して異国の言葉で喋りだしたのでそれどころではなかった。
そこに、一人の男が入室してきた。
喪服にも似た白い麻の襤褸を纏っている。鼻筋を断つ様な傷痕を見たとき、リョーンは思わず声を上げた。
「キツさん!」
「おや、おや。どうやら上手くカエーナを殺ったようだな。はは……良い目をしている。まずはおめでとうを言わせてもらうよ。さて、若い女と長話をするのは嫌いではないが、少しの間、彼と話をさせてくれないかな?」
キツはザイを指差した。リョーンは訝ったが、キュローが手を叩くと下女が現れて、
「あちらにお食事を用意しております」
と、退室を促したので渋々従った。
キツはザイの顔をじっと見ていたが、小さく首をかしげるばかりだった。
「違うのか?」
横で見ていたキュローがキツに問うた。ザイはリョーンが退室して以後は押し黙っている。
「いや、多分そうだ。それにしても、この者のおかげで俺の計画が大分狂わされたわ……」
苦虫を噛み潰したような顔をしたキツだが、まるでそれが嬉しい誤算でもあったかのように、憎悪や嫌悪はこもっていなかった。
ザイはキツを見ている。
そういえば――と、彼は思い出した。アシュナを連れ立って繁華街のゴロツキから逃げている時、ゴロツキの足を引っ掛けて助けてくれた絵師に似ている。
「煙草は……無かった」
と、ザイは試すように言った。すると、キツは口の端を曲げたが、それも一瞬のことで、すぐにまたもとの厳しい顔つきに戻った。
この次に彼が口にした言葉が、ザイを驚愕させた。
「ありがとう――が先だろう?」
一瞬、ザイは自分の耳に入ってきた音を疑った。「アリガトウ」という音に対応するクーン語が無いか、必死に思い返していたのだ。だが、語彙の少ないこともあって、検索は簡単に終わった。彼は、自分の中で起こった最大級に希望的な観測を、そのまま自分の母語で表した。
「わかるのか? 俺の言葉が……」
キツもまた、驚いたようだったが、ザイのそれとは異なっていた。彼は自分の予想が大当たりしたことがよほど嬉しかったのか、大きく何度も頷いた。子どものような仕草だった。
「おおぉ……」
ザイは、呻きとも感嘆ともとれるような、不気味な声を上げた。
彼は思わず立ち上がり、キツの手をとった。
そして何度も、
「ありがとう……逢いたかった……ありがとう……」
と、同じ言葉を繰り返した。