第一章『赤髪のリョーン』(6)
王都にいるロセがタータハクヤからの手紙によってリョーンの危機を知ったのは、彼女が肉刑に処される三日前のことだった。彼はすぐさま団長に休暇を願い出ると、急いで村に帰った。王都から村までは徒歩で二十日ほどの距離だが、良質な竜を駆るロセは十日で帰郷した。
途中、空に赤い光の柱が立つのを見た。
(王都の方角だ……)
王都で何らかの異変が起こるのを危惧したロセだったが、自分が王の直臣でないことを思い出し、道を急いだ。五日目にリョーンの訃報を聞かされ、体から何かが抜け出ていったような気分になった。
村に着いたとき、既に山野は紅く染まり始めていた。
ロセは焼け落ちたという自分の家には行かず、村の入り口から最も近いエトの家に向かった。すでに昼だというのに村は閑然としている。確かに男どもは狩に出かけていてもおかしくないが、それにしても妙な静けさである。ロセが戸を叩くと、エトの母が顔を出した。
「ロセじゃないか……」
「リョーンが人を斬ったと聞いて、急いで戻ってきた。こんなことになるなら無理やりにでも剣を取り上げるべきだった」
「あの娘はタータハクヤの家にいるよ。早く行っておやり」
そう言ったエトの母は急に辺りを見回した。
「どうかしたのか?」
「いや、この前変な雷が落ちただろ。以来、山の様子が落ち着かなくてね。それからはずっとこうさ。歩いてるのはムシンの手下くらいだよ」
そう言われたロセは改めて周囲を見渡した。遠くに領主邸が見えた。一瞬、腹の底が熱くなったが、自らをなだめたロセはタータハクヤの屋敷へと向かった。
幼いリョーンを連れてこの村へ移った頃、落魄した貴族の娘がいることを知ったロセだったが、当初はあまり関心を示さなかった。元貴族とはいえよほど困窮していたらしく、使用人のヒドゥが塩を分けてくれと頼みに来たこともあった。その内にヒドゥと親しくなり、たまたま屋敷に招待されたところ、彼が屋敷の内外で酷使されていることを知っているロセは苦言を呈するつもりでタータハクヤと会った。しかし、彼女はヒドゥが毎日の糧をどうやって調達しているのかすら知らなかった。両足を失い、外に出る機会が極端に少なかった彼女は、同時に外界への興味も失いかけていた。
(門の開かぬ家は滅びる)
そう思ったロセは、ヒドゥに頼まれたこともあって、暇を見つけてはリョーンを連れてタータハクヤ邸を訪れた。友を得ることで、タータハクヤの蒙さを払おうとした。やがて二年も経てば彼女は人並みに他人へ好奇心を向けるようになり、ロセを敬愛するようになった。
(俺の様に生きるのは、俺だけでいい)
タータハクヤがヒドゥ以外には自分にしか向けない表情で笑う度に、ロセはこの娘がどこか自分に似た暗さを持っていることを懼れた。だが、ロセはタータハクヤに特別な愛情を持っているわけではない。本質的には情の薄い男である。 つまり、気まぐれである。
タータハクヤ邸の門前には一頭の竜がとめてあった。エトの父の愛竜である。ロセが門前に立つと、奥から誰何する声が聞こえた。声の主はヒドゥだった。
「剣翁殿、帰ってこられたか」
「娘に先に逝かれ、生き恥をさらしている。リョーンを引き取ってくれたタータハクヤ殿に感謝したい」
「そのことですが……まずは会っていただいた方がよろしいでしょう。こちらです」
そう言い終えると、ヒドゥはロセを寝室へと案内した。いつもは居間に通されるのに寝室と聞かされたロセは訝った。
(病んだのか?)
ヒドゥに導かれるまま寝室へと入ったロセは眩暈を覚えた。そこには寝台で粥をすする娘の姿があった。
「リョーン……」
ロセはこういう時、泣いて喜ぶような性質ではない。ただ静かに、彼女の名を呼んだ。リョーンはやつれた顔を向け、申し訳なさそうに言った。
「ごめん、心配かけたわね。でも皆のおかげで何とか助かったわ」
「処刑されたと聞いたが、どうやって逃れたのだ?」
村内でもリョーンは完全に死んだことになっている。
「それについては後ほどお嬢様がお話になられます」
ヒドゥがそう言うと、リョーンに粥をやっていたエトが笑顔でロセに話しかけた。
「タータハクヤは父さんと一緒に領主邸に行ってるんだ。もうすぐ帰ってくると思うよ」
ロセは黙って座り込んだ。そして鷹のような鋭い目でリョーンを見ている。彼女の自慢の黒髪は何故か紅く染まっていた。
タータハクヤの髪も少し紅いが、今のリョーンのそれはより鮮やかである。ロセは不吉を感じた。
「若い頃、幾度か南人に会ったことがある。彼らの中には時々、紅い髪と瞳を持つ者がいた。お前の髪はそれに似ている」
それを聞いたリョーンは苦笑いをしたが、エトは不機嫌そうな顔をした。南人とは平野で住む人の総称で、時に山を切り崩してまで国を拓こうとする彼らをクーン人は軽蔑している。
タータハクヤが帰宅した。竜車の手綱をとっていたエトの父は喜色満面でロセの肩を叩いた。
「リョーンは赦された。罰に耐えたのだから当然だが、領主は焼け落ちた家を補償するとまで言ったぞ。奴め。リョーンが生き返ったのがそんなに恐ろしかったのか、怯えておったわ!」
彼とは裏腹にタータハクヤの表情は冴えない。ロセはその重さを感じ取ったのか、何も話さず、晩餐の後に屋敷の一室へよばれた。室内にはタータハクヤ一人がいた。
「あなたには全て話しておきます」
タータハクヤは淡々とした口調で語った。事件のあらましから、リョーンが肉刑に処されたこと、タータハクヤが解毒の秘法を行ったこと、そしてリョーンが蘇生したことを順に告げた。ロセはその一々に驚くこともせず、じっと聴いた。タータハクヤが話し終えると、大きくため息をつき、頭を下げた。
「決して褒められた方法ではないが、あなたには感謝する」
「そうではないのです」
そう答えたタータハクヤの目には涙が溜まっている。
「どういうことか?」
「秘法は失敗したのです。ですがリョーンは生き返った。私は神がリョーンを生かしたのだと思うのです」
蘇生は完全に失敗していた。仮死状態になったリョーンを掘り返し、屋敷へと連れ帰ったタータハクヤは、一度はリョーンを蘇生することに成功したものの、体内に残った毒によってリョーンは意識を取り戻すことなく再び死んだ。
「では何故生きているのだ」
「四日前の赤い雷を覚えておられますか?私はあれに神の眼を見たのです。その直後にリョーンは生き返りました。神がリョーンを生かした。それ以外に考えられません」
「神が……」
ロセは王都の方向に見えた怪奇を思い出した。だが元来信仰心の薄いロセにはにわかに信じ難い。
「これからのことはあなただけにお教えすることですが、解毒の秘法は解毒と蘇生の二部からなる高等秘術です。解毒の第一段階は竜に大量の竜草を与え、その毒を薄めることから始まります。常時竜草を好んだスサを選んだのもこのためです。しかし、その時点で秘法は失敗しておりました」
「秘法は誤っていたのか?」
「いいえ、違います。我々はリョーンが食したのはスサの肉だと信じて疑わなかったわけですが、実際にはスサは生かされ、他の竜の肉が刑に用いられました。私が今日領主邸に行き、この目でスサを見るまで考えもつかなかったことです。領主は良竜を多く飼っており、スサには目もくれないと思っておりましたが、欲の深い彼は老いた竜を殺すことでスサを手に残そうとしたのです。念のために老竜に竜草をやったか訊いたところ、否と返されました」
タータハクヤの唇が震えている。
「では本当に神龍の仕業なのか」
「リョーンの体には触れられましたか?」
「あれは男に触れられるのを最も嫌がる。わしでも触れれば拒絶するだろう」
タータハクヤは一瞬、目を伏せた。幼い頃、賊どもに嬲られかけたリョーンのことを思ったのだろう。
「リョーンの体がどうかしたのか?」
「冷たいのです。まるで自分が死体であることに魂が気付いていないかのように」
次の日にリョーンの復活が村中に知れ渡った。村人は歓喜し、競うようにして彼女を見舞った。
二月経った。タータハクヤの心配をよそに、リョーンの体温は正常に戻り、赤く染まった髪以外は全て恢復した。同時に村を訪ねる人が増えた。彼らはリョーンを訪ねるのである。
「赤髪の『カル』ってのはあんただな?」
そう呼ばれたリョーンは本名で名乗り返すが、相手はその名を憶えてくれなかった。
「都の女は強く美しい女に憧れる。カルっていうあだ名は危なっかしい女の意味よ」
タータハクヤにそういわれたリョーンは憤慨することもなく、むしろ物騒なあだ名を喜んで受け入れた。だがタータハクヤはあだ名の本当の意味まで教えなかった。カルは死を暗示する言葉である。つまりは死体のことに他ならない。リョーンの死活に関わった身としては、毒のような言葉である。
「お姉が刃なら。エトは弓だね」
負けず嫌いなエトがそう言うと、リョーンは大いに笑った。
リョーンの復活劇が都で噂になっているのと同様、村でも都の噂が流れていた。
「何でも、王宮に神龍が降りたそうな」
王宮に神龍が降臨するなど前代未聞だが、論ずるべくもなく凶事である。クーンでは人界に起こった大災害の全てが神龍の仕業であると考えられ、それによって国が滅んだ記録さえある。それでも王都の住民が慌てもせずに暮らしているのは、神の御業から逃れる術はないと諦めているからなのか、商業の栄える都会特有の信仰の薄さからなのか。噂によれば王都でも赤い雷は目撃されたが、神龍の姿を視認した者が誰であるのかはっきりしない。村ではタータハクヤが神龍の眼を見た唯一人だが、まさか彼女は自分が神龍を見たという情報が都にまで運ばれ、そこで面白おかしく広まった後、噂として村に帰ってきたなど思いもしない。
リョーンはタータハクヤとの付き合いを変えなかった。一度礼を言ったきりで済ませたのは、リョーンのロセに似たところかもしれない。だがその態度は逆にタータハクヤを喜ばせた。
ある日、タータハクヤ邸を訪れたリョーンは、自身がロセに連れ立って王都へ行くことを告げた。すると、横にいたエトが猛然と反発し、終いには自分も行くといって聞かなくなった。
エトをなだめつつ、タータハクヤが言う。
「ムシンは既に山へ登ったわ。この村にあなたにとって不愉快なものは無いでしょう?」
「都で名を上げたいって言ったら笑う?」
リョーンが真剣な顔で突拍子もないことを言うので、タータハクヤは思わずふき出してしまった。
「何だ。本当に笑われるとは思ってなかった。ナラッカはひどい」
そういってリョーンが頬を膨らますと、長い間笑ったタータハクヤはようやく落ち着いて言った。繰り返すが、ナラッカとはタータハクヤの幼名である。
「あなたの体調はまだ万全じゃない。それに私やエトを置いて一人で名を上げるなんで言う方がひどい。だから一緒に行くわ」
タータハクヤは、自分にはリョーンを見守る義務があると思っている。それがリョーンの命を一度泥中に落としてしまった者の勤めだからだ。
王都へは三人で行くことが決まった。ロセやヒドゥを含めると五人である。エトの旅行には両親の反対を懸念したリョーンだったが、彼女やタータハクヤはもとよりロセを強く信頼しているエトの両親は快諾した。鄙びた田舎で一生を終えるくらいなら、王都で金持ちの男でも見つけてくればとも思ったのかもしれない。
出発当日、エトの父がスサを引いてきたのを見たリョーンは目を丸くした。
「ロセが領主の奴をちょいと脅してやったのさ」
エトの父はこう言ったが実際に圧力をかけたのは彼自身である。リョーンの復活以来、自分の威厳が半減したことに意気消沈した領主は、エトの父にロセの怒りがまだおさまっていない事を説かれると、弱い声でスサの返還を許可した。
「スサ、また大きくなってる。領主はあなたに優しかったのね」
「知り合いが領主の家にいてね。そいつが面倒を見てたんだ」
「その人に礼を言いたい」
「腐っても領主の家来だ。お前には会わんよ。だが今度会ったら伝えておこう」
リョーンは瞳を輝かせた。ロセが帰郷した日、同時にスサの生存も知り喜んだリョーンだったが、相棒に二度と跨ることができないと考えると、心が湿った。それだけにエトの父には大いに感謝した。
「さあ、行こうか」
愛竜に跨ったリョーンは意気揚々と竜首を南西に向けた。
ふと、誰かに呼ばれた気がして振り返った。目線の先にはそびえ立つ晩秋の山々があった。その内のどこかにムシンが篭っていることを思い出したが、すぐに捨てた。スサが鳴いたのである。
一章『赤髪のリョーン』了
二章『白蛙宮』へ続く