第十一章『運命めぬ神に供せよ』(1)
それに最初に気づいたのは、誰であったか。
早朝にもかかわらず、王宮の鐘台で鐘が鳴らされた。
炉の近くで座ったまま、淡く寝息を立てていた女の耳が、ぴくりと動いた。彼女は眠り眼をしばらくの間、宙に漂わせていたが、突然、首を回した。タータハクヤは信じられぬといった風に窓を開け、外に首を出して耳をすませた。
同じ頃、夜通しカエーナ剣士団の残党狩りを行っていたリョーンも、やや離れたところでロセとともにいたエトも、遠くで鳴る厳かな音を耳にすると、時が止まったようにその場に立ち尽くした。
時鐘以外に鐘が鳴ることが何を意味するのか、知らぬ者はいない。
――王が崩御なされた。
今年でドルレル王の治世は二十七年になる。壮年にさしかかろうとする者でさえ、はっきりと王の死を告げる鐘の音に戸惑うのも無理はない。
――ああ、まるで先代が御崩れになった頃のようだ。
と、老人たちが愁眉を寄せ合うのをみて、少壮の者や、ドルレル王の治世中に生まれた若者は、ようやく事態の深刻さを飲み込んだという風だった。
王の死に戸惑うものがいれば、老人の一人が優しげな口調で、
――国民に王の崩御を広く知らせるというのは、跡継ぎの役目じゃ。ゲール王子は南方に発たれたと聞いたが、既にお帰りになられたのだろう。お前たちが心配することは何もない。
と、知恵を披露した。
剣士団の内紛はもう終息したようだが、路上にはおびただしい数の死体が野ざらしになっていて、それに被さるような悲報である。にも関わらず、早朝からひとりで笑声を立てる人物がいた。
その人物が時には謡うように、踊るようにして道を歩く姿を見て、狂人であろう――と、誰もが思った。
襤褸を纏ったその男――キツが、後生大事に抱える包みの中に、まさかドルレル王の生首があるとは誰も想像だにしなかった。
キツはふらふらとした足取りで、大道を歩いたが、やがて小道に入るなりすぐさま駆け出し、西区の一角にある丘まで突っ走った。追っ手を撒くという仕草ではなく、人目がつかなくなったところで、喜びを抑えきれなくなった男の姿がそこにあった。
「やった……やったぞ!」
踏みしめた雪に凍りついた枯れ草が混ざっている。荒地にも見えるが、よくみると人家の跡である。
付近に住む者にここがどこかを尋ねれば、彼らは一様に表情を暗くして、
――ここは昔、タータハクヤ家の屋敷があった場所だよ。
と、感情を殺した声色で返事をくれることだろう。
キツはその中でも大きく土の盛り上がった場所に立つと、膝をつき、手に持った包みをあけた。中から赤黒い血に染まった老人の頭が転がり落ちた。
「はは……やった。父上、母上!」
キツ――いや、本来はアヴァーと呼ぶべき男だが――は、満足げに子一時間ほど、真っ白に染まった土の壇に語りかけた。だが、彼がいくら言葉を投げかけようが、それは無限ともいえる白さの中に散ってゆく。
ふと、虚しくなった。ドルレル王は一族と妻の仇である。とはいえ、一族の罪を許したのもまた、この王であることには違いない。それ故にあの八代タータハクヤとか名乗る女は身を隠すこともなく、都内を闊歩できるのだろう。
(俺は、何をしたかったのか……)
と、考え始めた自分に、キツは嫌悪を覚えた。まだ、すべきことが残っている。
ドルレル王の首を壇に埋め終わったとき、キツはふと空を見上げた。
「エミよ。まだ、そこにいるのか……」
見上げた先の空は、曇ってもいないのに驚くべき白さで広がった。
この頃、全く別の場所で、キツと同じ空を見ていた者がいた。赤い髪をしたその少女は、白く染まった息が凍りつくような冷たい視線を漂わせながら、
(もうすぐ、神が降りるわ)
と心中で呟いた。
「神龍」
どんなに信心深くない者でも、その名を聞けば、必ずといってよいほどに眉をひそめる。
クーン人にとって、神の名は大災と同義である。だから、リョーンという名の女がいたとすれば、
――ああ。飢饉か、洪水か。何か災いの多い年に生まれた娘だな。
と想定する。リョーンという音には聖なる意味もこめられているのだから、名前自体が一種の魔除けともいえる。
だが、王都クーンに一人だけ、この恐るべき名に無頓着な者がいた。
ザイである。
西侯の手勢によって拉致されていたザイとアシュナは、王子ゲールの気まぐれで王都東門付近に潜伏していたアーシェによって救出された。
二人はここでようやく人心地がついたのだろうが、ザイはやはりロマヌゥの裏にいる人物への執着を捨てきれない。
当然だろう。自分の出自を知りうる者がいるとすれば何が何でも会いたい。言葉もろくに通じぬ異文化の中で、ザイは随分と恵まれた待遇を受けていたが、それでも彼は孤独に苛まれていたのである。
ザイはアシュナを見ている。
気丈に振舞ってはいるものの、まだ少女を脱するかどうかという年頃の娘である。そんなアシュナが懸命に自分に尽くしてくれるのは、ザイにとってどれほどの救いになったか計り知れない。
(俺は何で、この娘を抱かないんだろう?)
既に夫婦であるにもかかわらず、ザイとアシュナは一度も同衾したことがない。宮中でそれがどのような噂として飛び交っているか、ザイは想像したくもないが、自分の押しの弱さの他に理由がある気がした。
「帰りたいんだ。俺は……」
クーンでの暮らしに慣れるにつれて、ザイは元の世界に帰ることを諦め始めていた。だが、それに反発するように、望郷の念が強まるのも感じている。
透き通るような青色をした空を見上げると、再び眼下を見やったときに懐かしい風景が一瞬だけ広がる。もやのような煩わしい光で彩られた街並みに愛着を感じていたわけではないが、それでもあそこは自分の故郷であったと痛感する。
自分の心が揺れていると感じたとき、ザイは近臣の者たちをうるさげに遠ざけた。ザイは一人で東方の空に日が昇るのを眺めていた。
そんなザイの前に、突然ひとりの男が現れた。
赤茶のぼさぼさの髪に、これといって特徴のない顔つき、だが挙措に言い知れぬ冷たさがある。
アーシェの兵の中にも間の抜けたものがいて、神聖ともいえる最上級神官ソプルの領域に踏み込んでしまったのだと思った。
(うかつに話しかけると、こいつも鞭打ちになるな……)
と、兵の行く末を気遣ったザイは、そろそろとその場を去ろうとした。だが、兵はザイを視界におさめるとまっすぐに歩いてきた。
ザイは驚いた。まさか、自分の命を狙っているのだろうか。だとすれば今すぐに大声を出しても間に合わない。
兵は自分が警戒されていることに気づいたらしく、ザイから数歩離れた場所で跪くと、胸元から取り出したペンダントのようにも見える何かを恭しく掲げた。
(何だろう?)
と、訝ったザイだったが、それを見つめるうちに体中に電撃が走った。
「これは!」
思わず声を上げたザイは、兵に走りより、その手の中にある物をむしりとった。
ザイが手にしたのは、皮製の腕時計である。大きさからいって女性がつけるものにも見える。ザイが目を驚かしたのはクーンにも機械時計があるということではなく、時計板に刻まれたアラビア数字が、紛れもなくこれがザイの故郷で生産されたものであることを意味していたことだ。
兵はザイの反応をみても驚かずに、すっくと立ち上がると、
「南人居住区のキュローという男をお訪ねください」
とだけ言い残し、朝日に掻き消えるようにして去った。
ザイはクーン語が堪能というわけではないが、「南人」、「キュロー」、「訪ねる」の三語は理解できた。それだけ理解すれば十分だと思った。
毅然と立ったザイは、アーシェの名を呼んだ。だが、その声に答える者はいなかった。
神はいるのだろうか。
タータハクヤという女は、不遇にありながらも特異とも言うべき才能に恵まれたのか、あるいは彼女の信仰心が並外れていたのか、神をその目にとらえた。
リョーンが死んだとき、その死に慟哭したタータハクヤは王都に神龍が降り立つ光景を見た。白蛙宮の異変はその場にいた者の全てが神威に触れたが、タータハクヤはその後も神を観続けた。
クーン王国の守護神――といっても同時に破壊神でもあるのだが――である赤い神龍と、西方で信仰されている金色の神龍が同時に王都に存在しているというのは、彼女に少なからぬ動揺を与えた。
クーンの信仰では、神はひとつしかいない。赤い神龍も金の神龍も、もとはひとつの神の権化であり神の意を受けた天使が現れることによって神の意思が地上に反映される。
同時に二つの神が王都にあらわれるということは、タータハクヤにとって信仰の瓦解に繋がりかねない重大事であった。彼女にはこの現象を説明できない。王宮の上級神官をつかまえて同じ問いを発したとしても、答えを得ることは出来ないだろう。
終焉というものはいくつかの兆候のあとに訪れるものだが、大方は後世の者が過去を振り返った結果わかるものであって、同時系列で生きているものにとっては、よほどに世情に詳しいものでなければ、大災の予兆など知るべくもなく、終焉は突然訪れるものである。組織の死は人の死とは違う。いや、あるいは人がその死の間際に自らの終焉を知るのであれば、同じかもしれない。
この日、王都の全ての人間が、神と出会った。
金色に輝く黄金の神龍が、上空からまぶしい光を放っていた。
それに最初に気づいたのは誰であったか。
神を見ることの出来るタータハクヤよりも、神を降ろすことの出来るハルコナよりも先に、神の意を受けた者がいる。
ザイは、王宮の直情に現れた怪異に、しばらくの間見入っていた。
――く……おぉぉん!
狼の遠吠えのような、物寂しげな音が王都全体に響いた。
突然、ザイの脳内に恐ろしいほど鮮明な声が聞こえた。
――何処? 何処にいるの?
誰かを捜すような声は、澄んだ女の声であった。クーン語で、
「アヴァー」
という音を捉えたとき、ザイの脳裏に思わずアヤの顔が浮かび、次いでアシュナの顔が浮かんだ。
超常ともいうべき現象の中で、ザイは王都から外れた場所に自分がいたことに多少の運の良さを感じたが、不安は拭いがたく、思わずアシュナの名を呼んだ。
「アシュナ、アシュナは何処だ!」
ザイは走った。どういうわけかわからないが、心中の不安がとりとめもなく大きくなった。
(あれは邪悪なものだ……)
という直感が脳裏で警鐘を鳴らし続けている。
アーシェの幕営を通り過ぎ、神威に釘付けになった兵たちをかきわけてザイはアシュナ――つまりは自分の――天幕に向かって走った。
暁闇が破られてまだいくばくも経たない。アシュナは今起きたばかりらしく、眠そうに目をこすりながら、あたふたと彼女の名を呼ぶザイを訝しげに見ていた。彼女の顔を見たとき、ザイは心底から安堵する自分に気づいた。
アシュナもそういったザイの心中を容易く見透かしたようだった。彼女はそれが無性にうれしくてたまらないらしく、寝起きの悪さに反して、暖かな笑みでもってザイを迎えた。
刹那――
――そこにいるのね……
と天から澄んだ女の声が聞こえた。先ほどのものと違って、腹の底に響くような強さと暗さを持った声である。
ザイは、見えない何かにつかまれたかのように棒立ちになり、空を仰いだ。
眼前に神の姿があった。
兵たちの悲鳴が聞こえたような気がした。次いでザイが見たのは黄金の神龍が巨大な顎で大地を噛み砕く様であり、一撃でアーシェのつめる天幕が破壊される光景である。
ザイはさらに声を聞いた。
――よこせ!
何を――と心中で呟く暇もなく、ザイはアシュナの元へと走りよった。彼女は突然の惨事に我を失っていたが、ザイの声を聞いて己に立ち返ったのか、
「ソプル様――!」
と悲鳴にも似た声を上げて走り出した。
巨大な影が二人を覆った。
神龍の顎が天幕ごとアシュナを飲み込もうとしているのが見えた。
ザイは手を伸ばした。以前は一度、つかんだ手である。
アシュナの白く細い指に触れた。その瞬間、暖かく、そしてかすかに甘酸っぱい何かが体中に走った。
次の瞬間、眼前が黄金の光で満たされ、五感が麻痺した。
じゃり――と、口の奥で音が鳴った。
地に伏せている自分に気づいたザイは、思わず起き上がり、周囲を見渡した。
あたりには何もなかった。
あるのは、無造作にえぐれた地面だけであり、アシュナも、他の兵の姿もない。
ザイは思わず、その場に座り込んだ。
どれだけそうしていたのだろうか、やがて朝日が燦々と輝きだした。
おもむろに自分の手を見た。この手は、確かにアシュナの指に触れた。
息が荒くなった。胸に何かが詰まったように呼吸がままならない。
やがて、呻くような虚しい声が、えぐられた大地に響いた。