第十章『逆鱗』(9)
アヴァーの身の上はこれくらいにして、目下、渦中にいるといえるチャムに焦点を戻そう。
ダイスと汲んで後宮に兵を入れるという西侯セラの陰謀に気づいたチャムは、王子ゲールを伴って後宮に侵入した。そこで彼は人の姿を隠す不思議な鎧に身を包んだ賊に襲われる。チャムは知らないが、西域アクシアでは逆鱗兵と呼称される秘密部隊である。
逆鱗の秘密を看破したチャムは、王宮に潜入した賊を壊滅させるために、ゲールとともに衛兵を掌握した。宮門まで賊を追い詰めたところで、突然、門が開かれた。
時が止まった。
当然だろう。チャムやゲールが目にしたのは、他ならぬ王宮近衛兵の姿である。百人ほどはいようか。更に驚くべきことに、彼らを率いていたのは、近衛兵長ではなく、ドルレル王本人である。傍らには、宰相のドルテンがいる。
「王よ――!」
思わず声を上げたのはゲールである。その声が波紋を広げるように、周囲の者はどよめき始めた。
ゲールの呼びかけには、父の身が無事であることを確認した安堵の色があったが、ドルレル王がゲールに投げかけた目線の険しさに、チャムは気づいた。
(まずい……)
チャムは冷や汗を流した。ドルレル王が自ら兵を率いてきたと言うことは、王宮の異変を知った彼が少ない手勢で乱を鎮圧できると踏んだからである。そうでなければ、ドルテンがとめるはずである。つまり、彼らは後宮で騒ぎがあったことは知っていても、逆鱗兵の存在に気づいていないのではないか。
裏を返せば、今のドルレル王が見ている光景は、チャムにとって戦慄すべきことである。
門の向こうの炬火がわずかに揺れた。
同時に、ドルレル王が口を開いた。老齢とは思えぬ険しい口調で、大気が震えるような威がある。
「南国の風は、お前に何を囁いたのか?」
ゲールはドルレル王の言うことを理解できなかった。彼が首をかしげていると、事態の重さを悟った近臣が走り出て、王前に跪いた。だが、彼は口から言葉を発する前に斃れた。ドルレル王を守る衛士の一人が、矢を放ったのである。
(父王は勘違いをしておられる!)
ゲールの顔色が蒼白になった。強引に後宮に忍び込んだ以上、ある程度の誤解は覚悟していたが、まさか王がいきなり自分を殺そうと兵を挙げるとは思わなかった。
助けを請うように――ゲールはチャムの方を見た。が、いない。彼を捜そうと視線を泳がせると、空気を裂く様が見えた。誰もいない地面に矢が立った。
チャムの姿を視界に捉えたとき、ゲールは叫びそうになった。チャムは既に矢のように飛び出し、次々と放たれる飛矢を避けながら、衛兵をなぎ倒していた。
「御免――!」
チャムは組み合っていた衛兵の腰から小刀を抜き取ると、ドルレル王目掛けて投げつけた。チャムは両腰と背に長剣を二本ずつ帯びているが、刀身が長く、とっさに投げるには適さない。このあたりの判断力は、ロセの訓練によって培ったものである。敵も武器と思え――という剣翁ロセの言葉が、チャムの意識しないところで反芻されたのだ。
誰が、どう考えても謀反である。
だが、チャムの放った小刀は、ドルレル王を貫くことなく、空中に止まった。目に見えぬ鎧と冑のわずかな隙間に、刃が突き刺さった。周囲の者が驚きの声を上げると同時に、門扉を揺るがすほどのチャムの怒号が響いた。
「賊だ。人を隠す鎧を纏っている。近侍のものは、己が身を盾として王をお守りせよ!」
これを聞いて我に返ったゲールはチャムに続くようにして衛兵に詰め寄った。
「火だ。火を消せ! 奴らは灯りに隠れる。暗ければ賊も我らを見つけることが出来ない。王をお守りせよ。隙間を一寸と離さず、密集せよ。王をお守りせぬ者は私が切り捨てる」
チャムに次いで怒号を上げたゲールによって、ドルレル王と宰相ドルテンはようやく事態を飲み込んだらしく、
「王をお守りせよ。宮中まで退く!」
と、ドルテンが声を上げたところで、彼の頭が何かに貫かれた。ドルテンが自分の頭を確かめたということは、彼は絶命しておらず、飛矢は冠を貫くに留まった。
冷静沈着のドルテンでさえ、異様な興奮の中にいる。だが、目に見えぬ何者かが自分の命を狙っていることを知り、心のどこかが冷めたのだろう。彼は思い出したように冠を脱ぎ、矢に貫かれたそれを信じられぬといった様子で見た。
「馬鹿野郎!」
見かねたチャムは衛兵の隙間を縫って走り、突進するようにしてドルテンを蹴り倒した。一国の宰相が無様に転がる一方で、今さっきまで彼のいた場所に矢が落ち、衛兵の胸を貫いた。
「ちぃっ! 鏃まで逆鱗で出来てやがる……」
チャムは目を凝らして周囲を見渡した。門の上に立つおぼろげな影が見えた。
彼は立ち騒ぐ衛兵が手にしていた弓を奪うと、ドルテンが転倒した間際に落とした冠を拾い、逆鱗の矢を抜いた。
上空に向けて大きく矢を番えたチャムは、小さく上体を横に傾けた。ほとんど遅れることなく、飛矢がチャムのこめかみをかすった。
「愚か者が。一人を射るのに三矢も使うな!」
チャムは小さく口の端を曲げた。
きゅん――と、思わず身を竦めたくなるような音が鳴った。少し遅れて、宮門の上から呻きとともに目に見えぬ何かが落ちてきた。チャムからみて宮門の向こう側に落ちたのだから、彼の放った矢の威力は推して知るべきだろう。
だが、見方を変えると、王宮近衛兵はそれほどの剛弓を引くような者たちで構成されているにもかかわらず、見えぬ敵に翻弄されるだけでまるで戦いにならない。それでも散り散りになって逃げないのが、彼らの忠誠心である。カエーナが叛乱を起こしたおりに、少なくない数の貧困層が彼に味方したように、ドルレル王は英明であっても決して人気のある王ではない。王権を侵食するようにして王都にのさばるクーン剣士団に対する対抗意識が、王を守るのは自分たちだという強烈な誇りを作り上げた。勿論、これはドルレル王が手塩にかけて育て上げた王宮近衛兵に限った話だが。
チャムは幾人かの衛兵に指図を与え、人垣で道を塞がせた。今や敵の姿を視認できるのは彼だけであり、命令系統が混乱する中で唯一まともに機能している者に、周囲の者は従う他なかった。
「炬火を――」
チャムはそういって、衛兵の一人から炬火を受け取ると、無造作に眼前に投げた。他の灯りは全て消えているから、闇の中でチャムの姿だけが朦朧と浮かび上がり、長い影が剣のように伸びた。にわかに出来た光によって生じた影である。その危うい暗さの中に、ドルレル王がいた。
「わたしの影を踏み越えてみよ」
チャムは虚空に言い放った。彼が持つのは逆鱗の大刀である。炎の揺らめきに同調するような光を放っている。
灯りが動いた。そう思ったとき、飛矢がチャムの影を貫いた。飛びのいてそれをかわしたチャムは、着地様に大刀を一閃した。虚空でうめき声が聞こえた。
炎がチャム一人を襲っているようだった。にわかに灯りを乱しては、チャムによって斬り伏せられ、それらは影の中に埋もれていった。
チャムの敢闘を感動したように見ているゲールをよそ目に、ドルレル王は徐々に後退した。
「舞っている様だ」
炬火の放つ光を捻じ曲げるような、妖しげな舞である。ゲールが感嘆の声を上げた頃、突然、王を守っていた人垣が決壊した。賊は闇に紛れてやすやすとチャムの影を越えた。チャム自体、敵影がおぼろげなため、その数を把握していなかったが、実は百人の逆鱗兵がこの場に集結していたのである。
「遊ばれたか」
チャムは舌打ちした。相手も遊んでいたわけではなく、ドルレル王を守る衛兵が離れるのを待っていたのである。見えぬところから一斉に放たれた矢が、竜皮で出来た衛兵の革鎧を貫き、絶命させた。ドルレル王は自分が見えぬ大波をかぶったことにすら気づかなかった。
ゲールは狂ったように王の名を呼び、飛矢の中を走った。彼が貫かれなかったのは、己の運の強さもあるが、近侍の者が身を挺して守ったからである。
「塀の上を射よ。射返せ。射返せ!」
狂乱する衛兵たちの中で、ドルテンが悲鳴に似た声を上げた。
チャムもまた、飛矢の中を走った。ドルレル王に追いついた頃には、すでに宮殿に足を踏み入れていた。
(屋内の方が性質が悪いというのに!)
門扉が蹴破られた。
機転をきかせたドルテンは、少数の精鋭をドルレル王につけ、宮殿内の一室に身を潜めさせた。
「王よ。冠と王衣をお貸しいただきたい」
ドルテンが自分の身代わりとなって死ぬつもりであることを知ったドルレル王は、
――ならぬ!
とは言わなかった。ただ、ふるふると唇を震わせていた。身分が違うとはいえ、ドルテンとは数十年の付き合いである。今更敵前に置いてゆけるものではない。
ドルテンはドルレル王の反応を待つことなく、部屋の外へ出ると、
「衛兵――! たれかおらぬか。余はここぞ! 余を守れ」
と、走りながら喚いた。だが、このわざとらしいまでの演技が、他ならぬ彼の命を救った。
宮内は既に血の海と化していた。
見えぬ敵に怯えた兵たちは、やがて何もない空中に向かって剣をふるい始め、最後には射線も確認せずに矢を放ったため、同士討ちで大量の死傷者が出た。軍の壊乱に備えてある程度、個々の判断が許されるクーン剣士団と違って、彼らは上官の命令を絶対として動いている。その上官が次々と斃れ、増してや守るべき王を見失ったこともあって、混乱に収拾がつかなくなった。
「王が討ち取られたぞ。逃げよ――!」
実はこの声は、逆鱗兵の一人が言い放ったものだが、効果は絶大であった。敵兵の姿を捉えているチャムだけが、その様子から、これが嘘であることを見抜いた。だが、近衛兵の混乱を収拾するのは彼一人の力では無理である。
チャムは見えぬ敵を次々と斬り伏せながら、ドルレル王を捜した。三人目を斬ったときに刀身の綻びを感じたが、逆鱗の鎧を貫けるのは逆鱗で出来た大刀しかなく、折れるまで手放すわけにはいかない。
四つの廊下で正方形に区切られた中庭が見えた。
その一角に、衛兵を呼びつつ走り回る人の姿があった。王冠が月光に煌くのを見たとき、チャムは向かい側の通路を走るゲールに気づいた。ゲールもまた、王冠をつけて走る人物に気が付いたようだった。
チャムの目が、二人の賊を捉えた。ひとりは、ゲールの歩幅にあわせて後方を走っており、もう一人は中庭に潜み王衣の人を狙っている。
チャムは迷いを覚えた自分に反吐が出そうであった。
(王か……王子か……)
この一瞬の判断が命取りになる。後一秒も迷えば、どちらも救えなくなる。
思えば、チャムはドルレル王と面識がないわけではない。彼が闇の中を凝視すれば、それがドルテンであったことに気が付いただろう。だが、チャムはドルレル王によって牢獄につながれたこともあり、それは王が剣士団の弱体化を狙ってやったことに、気づいている。反面、ゲールは多少、融通の利かないところもあるが、彼はチャムに好感を持っており、その力量を認めているふしがある。王を助けて手に入るのが恩賞だけである一方、ゲールが王になれば、無限大ともいえる栄達の可能性がある。ゲールをあずかったとき、うまく恩を着せれば、ゆくゆくは宰相にもなれようと、チャムは夢想したことがある。
(救うなら、ゲールだ)
即断した。この判断の速さは、それだけ彼の野望が大きいことを意味している。英明でありながら、忠義や倫理とは程遠い思考回路を持っている点では、チャムは父に良く肖たともいえる。
彼の判断は、正しかったとも言えるし、誤っていたとも言える。
廊下を凄まじい勢いで飛び出したチャムは、垣の上に飛び乗り、跳躍した。ゲールが振り向いた頃には、目に見えぬ死体がひとつ増えた。
「チャム……」
ゲールは感慨にふける暇もなく、チャムに声をかけることも忘れて、王に扮したドルテンを見た。
だが、ドルテンも死ななかった。彼は王を助けるためにわざとらしいくらいに、衛兵を呼びつけたが、実際に忠義を持って馳せ参じた者がいた。
北門守尉のゴワである。ゲールが後宮に忍び込むにあたって、ドルテンに使者を使わしたところ、それを賊と勘違いして捕らえ、自殺させてしまった人物といえば、思い出してもらえるだろう。
ゴワは相変わらず北門を守っていた。北門は乱の起こった場所からは遠く、彼が異変に気づくのは遅かったが、行動は迅かった。
北門を抜けた先にある、王宮近衛兵の詰め所に急使を走らせたゴワは、北門をドルレル王の逃走路として確保した上で、自ら寡兵を率いて王宮に直行した。ドルテンの命令が届いていないことを訝った彼は、道中で強権を行使し、都下で剣士団の内紛を抑えている王宮近衛兵に撤退命令を下した。
大混乱する王宮の中で、彼だけが冷静に王の所在を突き止めようとした。ゴワの耳が捉えたのが、ドルテンの声である。無論、ゴワはドルテンの声を知っており、彼はドルテンが王を連れて宮中から逃れようとしているのだと思ったのだが、見つけたのは王ではなく、王に扮したドルテンである。ゴワはこれで全てを察した。
十に満たない衛兵がドルテンの周りに密集した。それを見たチャムは、敵兵が緩やかな動きで庭を移動しているのを見て、叫んだ。
「庭だ! 池を射よ!」
ゴワは太鼓のような腹をした、よく肥えた男だが、彼の判断は雷光のごとくはやい。彼は自ら弓を取ると、チャムの言うように中庭にポツリと穿たれた池に向かって射た。衛兵はそれに従った。
逆鱗兵は飛矢を避けようと飛びのいたが、そのうちの一本が足を掠めた。逆鱗兵が池に転倒すると、水が人の形をかたどったようになった。彼は起き上がる前に絶命した。軽傷で逃げられるのを危ぶんだチャムが、走り寄り、首を刎ねた。
チャム、ゲールともに、ドルテンに走り寄った。
「やはり、ドルテンか……王は何処に?」
ゲールが息せき切って言った。
「竜爪の間に……敵はわたしがひきつけますゆえ、王子は北へ抜けられよ。チャムよ。何故、お前がここにいるかは問わぬ。だが、王子を危地に誘い込んだのは汝の罪だ。命を賭して守りぬけ!」
ドルテンの声とともに、何かが抜けていくようであった。これが死にゆく者の気であろうか――と、チャムは思った。
ゴワはチャムに目をやると、
(剣士団のチャムが何故このような場所にいる?)
と、目で問うた。それに答える暇のないチャムは、ゴワに向かって、
「ここで死にますか? それとも、王子を守って死にますか?」
と、ドルテンとこの場に残るかどうかの選択を彼に迫った。
ゴワはゲールを見た。彼は既にゲールの部下を死なせている。ゲールが暗愚であれば、王になった時に復讐されないとも限らない。つまらぬ死に方をするくらいなら、ここで死んだほうが良い――と、またはやい決断を下した彼は、
「時間を稼ぐに越したことはありません」
と、ドルテンに付くことを選んで、老いた宰相を感動させた。
だが、ゴワは先ほどのチャムを見ていたのであり、彼に強い視線を向けると、
「何故、王を先に助けぬ!」
と、険しい言葉を向けた。
チャムはゴワの鋭気を避けるように中庭に視線を移した。
「ああ……もう手遅れです」
チャムの視界に恐ろしい光景があった。数十の逆鱗兵が廊下に殺到してきた。
ゴワは見えずともそれに気づいたのだろう、彼はドルテンの手を引っ張ると、狭い廊下を走り出した。
(何故、わたしを助けない!)
ゴワが王子の命よりドルテンを優先した事実に、ゲールはにわかに怒った。そんな彼の手を引いてチャムは走り出した。もはや三方がふさがれており、ゴワの後を追うしかなかった。
出遅れた数人が射殺させるのを目の端でとらえたゲールは、血が出るほどに唇を噛んだ。
ゲール、チャム、ドルテン、ゴワの四人は、チャムを除けば宮中を熟知しているにも関わらず、袋小路に陥った。既に衛兵のほとんどが斃れ、生き残っているのは十人にも満たない。
チャムは眼前の敵を斬り伏せた。敵の姿が見えるのは彼だけであるといってよく、他は肉の盾としてくらいにしか用を成さない。
逆鱗の大刀も、ついに折れた。
それでもチャムは戦った。
不思議なことに、彼は矢を浴びない。敵が射かけてくるそれを、両手に持った剣で全て叩き落した。壮絶を極めるというロセの鍛錬に耐え抜いたチャムだが、その中でも激烈としか言いようのない荒行は、五歩離れた敵の放つ矢を落とすということだった。これに耐え抜いた猛者は、チャムの他にはカエーナしかいない。
とはいえ、この多勢に無勢では、たとえ武神のごとき戦士がいたとしても、勝つ見込みは全くない。
狂騒ともいえる熱気の中にいたチャムはそれに気づかなかったが、この頃、実はゴワが呼び戻した王宮近衛兵の一部隊が、ロセの命を受けたクーン剣士団の別働隊を率いて王宮に突入していたのである。
チャムは宮中に逃げ込んだドルレル王をなじったが、長い通路で身動きのとれなくなった逆鱗兵は、一気に圧殺されようとしていた。大勢でみれば、王宮側が断然の優位に立ったのである。チャムたちだけが、それを知らぬまま、絶望の淵で戦っていた。
背から抜いた二振りの剣が折れ、腰にさした二刀を抜き、敵兵の冑を叩き割るたびに、それすらも砕けた。既に右肩と両腿に矢傷を受けたチャムは、やがて動きに鈍さが出てきた。
狭い通路なので、一度に襲い掛かってくる敵兵は二人が限度である。既に斃れた敵兵で足場がなくなり、チャムは敵の波が引くごとに射掛けられる矢を、敵の死骸を積んでその影に隠れてやりすごした。ゲール、ゴワ、ドルテンの三人は血塗られた避難壕から、鬼気を帯びたチャムの勇士を網膜に焼き付けていた。ゴワが負傷し、衛兵が全て斃れた今となっては、それ以外、何も出来なかったといってよい。
チャムは、ひとりで百人分の呼吸をまかなっているかのように、息をきらし、吸っては、怒号のような声を上げ、それが終わると、死体の髪がなびくほどに大量の空気を補充した。
(鬼か、この男は……)
敬意とも、畏怖ともとれぬゲールの視線に、チャムは気づいている暇はない。
最後の一刀を抜いた。セレナ妃が趣味で集めていたとはいえ、いずれも銘の入った業物である。それを一晩で七振りも血錆に染めたのは、今のチャムを措いて他にいないだろう。
「七剣を抜かずして、何が剣士よ!」
吼えた。
もはや眼前の敵数十人をさばく体力はない。意を決したチャムは、死体の堤を踏み台にして、飛んだ。跳躍の最中、何故か銀色の髪を思い出した。既に右肩があがらないが、チャムは意識の中で、首にかけた蒼穹の櫛をつかんだ。
「うおぉ――!」
突貫した。
風が吹いた。触れるものを裂く、凶風である。
闇に蠢く影を思うがままに斬りつくしたチャムは、やがて敵兵の群れをつきぬけると、勢い余って中庭に転落した。
ゲールが死を覚悟したときに、彼は三度、神に救われた自分を感じた。
凄まじい数の矢が、ゲールの頭上を飛んだ。しばらくの間、それは止まず、やがて、物音ひとつしなくなったとき、眼前に蠢く闇は全て消え去っていた。
王の救出を最優先した王宮近衛兵と違って、クーン剣士団は敵兵の撃破以外を考えなかった。最も戦闘の激しい中庭に全兵力を投入したことが、結果的に最良の選択となった。既に敵兵が見えぬ鎧を纏っていると知った剣士団の隊長は、狭い廊下が戦場になっていることに気づくと、味方の救出よりも敵兵の殲滅だけを考えて行動した。故に先の射撃は、ゲールを援護するためのものではない。彼らが敵兵の死骸を盾としていなければ、逆鱗兵とともに全滅していただろう。
チャムが中庭に転落した直後、その矢は放たれた。隊長はチャムの傍に駆け寄ると、
「無理をなされましたな。初代でもあんなに暴れたりしませんでした」
と、気さくに声をかけた。だが、心中では孤軍奮闘したチャムに感動していた。
「うるさい。まだ一本残っている。素手になるまで戦うのが剣士団流よ……」
チャムは辛うじて意識を保っているようだったが、
「射線を低くせよ。敵は、足の守りが薄い……」
と、言い残し、隊長に逆鱗の冑を預けて気絶した。
逆鱗部隊は、ほぼ全滅した。チャム一人で殺めた数は、二十九にも及んだ。駆けつけたクーン剣士団が、残った数十を射殺した。
「危機は去っていないが、ひとまずは防げたか……」
死体の堤の中から、確かめるように手を上げたのは、ゲールである。王子が中にいることを知った隊長は目を丸くしたが、
「ご無事で何よりです」
と、表情の機微を隠すようにしてひざまずいた。
「まだ中にドルテンとゴワがいる。負傷しているから、手当てをしてやれ。王は御無事か?」
「はい。近衛兵が北門にお連れしているところです」
王の無事を知って、ゲールは安堵の息をついた。彼はチャムの安否は問わなかった。流石に生きているとは思えなかった。
「それにしても、危ういところだった。よくやったな。雨が横にも降るとは初めて知ったぞ」
ゲールはそう言って、中庭まで降りると、意識を取り戻して座っているチャムを見て、驚愕したような声を上げた。
「化け物か、君は?」
チャムはどこか呆けたようにゲールを見ていたが、やがて口を開くと、がらがらに枯れた声で言った。
「いえ、人です」
「そうか、君は今から、七本鞘を名乗ると良い。一日に何本も剣を折ったのは、永いクーンの歴史でも君が最初で最後だろう」
ゲールは笑ったが、チャムは消耗が激しいのか、小さく口の端を曲げた。
「鞘は、飾りです」
「違うな、空になった鞘にこそ、意味がある」
ゲールの興奮に満ちた眼差しが、チャムには眩しく見えた。
チャムは七本鞘の詩を思い出した。七つの剣を帯びて、これだけの数の敵を倒しても、自分はあの詩の男には及ばないのではないか――と、ふと思った。
敵の残党は気になるが、ゲールとドルテンは命令系統の回復を優先した。中庭がにわかに司令部となった。
あたりの騒がしさが消え、チャムはようやく月光に照らされている自分に気づいた。
(うまく、お逃げになっただろうか……)
そんなことを思いながら、上空を見上げていると、あたりが急に騒がしくなった。
耳が遠くなったようである。まだ、熱気が冷めやらぬ自分の鈍さに呆れながら、チャムは月光をさえぎる影を見つけた。
漆黒の衣服に、黒いターバン。その合間からはみ出た黄金色が、鈍くなっていた何かを急激に呼び覚ました。
宮殿の屋根に足をつけたそれが、右手に抱いている塊を見たとき、チャムは思わず剣をとって立ち上がった。あれは、人の首ではないのか――と。
「シェラ……」
チャムの呟きが届いたのか、黒い影は夜陰に溶けた。
醒めたチャムの耳は、ようやく周囲の声を聞き取った。
ゲールの吼えるような、啼くような声が聞こえた時、チャムは自分がまだ、激流の最中にいることを思い出した。
ドルレル王の二十七年は既に暮れ、夜明けとともにゲール王の元年が始まった。
十章『逆鱗』了
十一章『運命めぬ神に供せよ』へ続く