第十章『逆鱗』(6)
広大な大地を単騎で駆ける姿がある。鞍上の人は粗衣を纏っているが、眼光のぎらつきが尋常ではなく、鬼気迫っているといってよい。彼の乗る走竜は既に息が荒く、今にも足を潰してしまいそうだ。
彼の向かう先は王都クーンである。主であるテーベに危急を知らせるための昼夜兼行は、果たして報われることは無い。
アクシアと呼ばれる西域の首都アクシアーブから、王都クーンまでは竜騎でも二十日はかかるほど遠い。故に剣士団や王宮がどんなに早く西域の情報を得たとしても、例えば西域から軍が発したとすれば王都はその二十日後に驚愕の事実を知らされることとなる。
この密偵がテーベに知らせる重大事とは何だろう。
テーベや王宮の持つ西域に関する最新の情報は、
「西侯アクス薨去」
である。
王都に陰謀を張り巡らしているのは西侯と信じて疑わないのは剣士団上層部も王宮首脳部も同じだった。
そして密偵がテーベにもたらす情報というのは、西侯の死は疑いようがない事実である――というものの他に、もう一つあった。
西都に妙な噂が流れている。
そのうちの一つが、ドルレル王が西侯に暗殺者を送り込み、毒殺したのではないかという根も葉もないことであり、もう一つが
――王都に西域の守り神である金竜が降りた。
という噂である。
前者のような噂が広まるということは、西域の人間が王都に対してあまり良い感情を持っていないことを意味する。西域は先の望南戦争で唯一、南人の飛竜兵団を撃退した誇りがあり、対して王都は惨敗を繰り返した後、義勇軍によってようやく王都を守りきるという不始末である。また、戦後の西侯は西域の強大な統治権を与えられてからは、周辺の部族の統合に余念が無く、西へと伸張し、ついにその領土はクーン王領と比べても遜色の無いものになった。西侯がどのような人物であっても独立志向が高まるのは必然である。
(いずれ西侯は王を名乗るのではないか?)
密偵の懸念とはそれである。確かに西侯はドルレル王の甥であるが、血胤の近さからかえって王号をとなえてもおかしくない。事実、西侯は西域の王も同然であり、もしそうなればクーン王国は真っ二つに分裂する。
その西侯が死に、後を継いだ長子セラは喪に服している。密偵が王号をとなえるのではないかと案じたのは、セラに対しても同じである。
齢二十七の若輩だが、父に連れられて戦場に出たのは十三の頃である。西侯アクスの持つ戦場の呼吸というものに対して恐ろしく理解の早い男で、二十歳の時に一軍を任されるようになった。嫡子を将軍にすえるという発想自体が、既に異様であり、西侯にそう決断させるだけの器量がこの太子にあったということだ。
兵法に関する知識が桁はずれていて、用兵に関して論じれば百戦不敗の父は愚か、西侯の右腕で現在のクーン王国で最高の名将と謳われるバルト将軍をも言い負かした。西侯の晩年の軍事はもっぱらセラに一任されたものであり、実際にアクシアを膨張させたのは彼である。
王都の首脳部はこのセラに対して全くといってよいほど焦点を合わせない。
――軍事に優れるだけでは英邁とは言えぬ。
ドルレル王ならばそう言い捨てるだろうが、セラは周辺部族の切り取りの他に占領行政も巧みであり、密偵の目には彼の方が西侯より遥かに偉器に見える。不遜であると言われるかもしれないが、次代の王であるゲールより、セラの方が王としてふさわしい。
そう感じたのは密偵だけではなく、セラの周囲の人間も同じである。
「セラは危険だ」
西侯の死が事実であったことの他に、テーベにそう伝えるつもりの密偵が王都にたどり着いた頃には、西侯の陰謀は既に完成していた。
男は背が小さく、女のような涼やかな顔をしている。当の本人はそれに無性に腹が立つらしく、戦場を踏んで額に刀傷を負った際、大いに喜んだ。母が泣いて出陣を止めても、
「アクシアのためです」
といって無理やり袖を振りほどいて立った。
彼が西侯の嫡子セラである。
彼の物語は、西侯が薨去する数年前から始まる。
「父上、またあの男です。宮門の前に座っています」
追い返してきましょうか――と、セラは付け加えた。あの男は既に五日も同じところに座っている。男の望みは西侯に会うことであるが、西侯の子としては素性の知れぬ怪しい者を父に会わせるわけにはいかない。
西侯は大きくえらの張った顔をしている。背は高く、肩幅が広い。目は大きく、相手を飲み込むような威圧感があるが、底知れぬ大らかさをも同時に秘めている。
「もう良いだろう。通せ」
思いのほか機嫌のよさそうな声で父が言うので、セラは思わず自分の耳を疑ったが、しかし逆らうことはせずに、部下に目で合図した。
蒸し暑い夏空の下に、一人の男がいる。容姿にこれといった特徴は無いが、唯一つ、鼻筋を断つ様な切り傷が印象的な男である。男を庭先に座らせ、西侯は堂上から彼を見下ろした。
「わしが西侯アクスだ」
平伏した男はわずかに顔を上げると、
「私の名は、アヴァーです」
と言った。
「王だと?」
セラが声を荒げたので、西侯は手でそれを制した。セラは不服そうな顔をしたが、黙って父の後ろに座りなおした。
「して、アヴァーとやら。わしに話したいことがあるといっていたな。それもアクシアの未来に関わる重要な話だと。もし、わしがそれをつまらないと感じれば、宮門を汚した罪で汝を殺す。それでも話す気があるなら口を開け。無いのならば直ちに去るがよい」
アヴァーと名乗った男は別に動じるわけでもなく、顔を上げてまっすぐに西侯を見て言った。
「西侯よ。お人払いをしていただきたい」
そのあまりに不遜な態度にセラはもとい、衛兵たちも剣の柄に手をかけた。
「父上、なりません」
セラが言わずとも、この男は他族がよこした暗殺者の可能性がある。
「ここにいるのはわしの腹心の部下たちだ。決して他言はせぬ」
西侯が自身ありげに言うと、
「いいえ、何人かは、王宮と繋がりを持っているはずです」
と、アヴァーは返した。
(つまらぬ)
部下をこけにされて興ざめした西侯は、もうよい、この者を門外に叩きだせ――という言葉を残してその場を去ろうと腰を上げた。
「逆鱗ごときでは、クーンは倒れぬ。クーンの底力を舐めるな、西侯!」
アヴァーの叫びが、西侯の歩みを止めた。一瞬だけ西侯の顔が蒼ざめたことに周囲の者は気づかない。
「衣服を整え、客人として迎えよ」
この時から西侯の王朝転覆計画が始動したといえる。
西侯は逆鱗を集めている。かつて、その事実に着目した人間はいなかった。逆鱗で出来た鎧に身を纏った軍団など、常人の想像を遥かに超えていた。百人からなる特殊部隊がダイヤモンドで身を固めているところを想像するに等しい。侯室の財として貯蓄されるだけの逆鱗が、兵器としてよみがえっている事実は、西侯に大望があることを意味している。クーン王宮の密偵ですらが、この事実を見抜けず、はるか後にクーン剣士団のチャムただ一人が西侯の壮大な計画の一端に気づくが、あまりに遅いと言うべきだろう。それほどに慎重に進められていた逆鱗部隊の編成に感づいた男がいたことに、西侯は驚くよりも先に興味を持った。
「西侯に叛意あり!」
宮殿の一室にて西侯と対面したアヴァーの第一声がそれであった。無論、西侯は沈黙を保っている。
「だが、天下の西侯ともあろう者が、児戯にも似た戦略で天下を得ようとする。これは西侯の周りに凡愚なものがそろっている証拠だ」
アヴァーの態度のあまりの変化に、西侯は驚いたが、それでも彼の話には耳を傾けた。
「今のクーンは弱い。だが、それでも天下の輿望を失っていない。望南戦争を見よ。結局、王室を守ったのは民草であった。故に西侯が大兵を率いてクーンを攻めても、南人のように得るもの無く引き上げるのが落ちだ。それではクーンを倒したとはいえない」
「汝はクーンを滅ぼそうと言うのか?」
西侯はアヴァーの目を見て言った。
「いかにも……」
「それを証明するものは?」
難しい問いである。王朝を転覆させると言う男に証を見せろと言う。この時点で、西侯に叛意ありといったアヴァーの言葉を認めたことになるだろう。西侯が本当に勤王の臣であれば、にべもなくアヴァーを斬るべきである。
アヴァーは懐から、銀に光る石のついた首飾りを出し、西侯に渡した。
受け取った西侯はしばらくそれを眺めていたが、やがて石に淡く刻まれた紋様に気が付いた。
(白い犬、四つの火。これは、王孫ハクヤか……)
一瞬の間に、様々な想念が浮かんだ。このアヴァーと名乗る男は全滅したというタータハクヤ家の遺臣か、もしかすると遺族か。確かに戦時の権力闘争に敗れたタータハクヤ家はドルレル王によって誅されたが、西侯はそれを傍観していたのであり、下手をすれば漁夫の利を得た自分を恨むはずである。だが、この男は何のために自分の前に現れたのだろう。
「私の妻は、罪も無いのに王に殺された」
アヴァーがそう言った時、西侯は彼の名乗るアヴァーという名が、王という意味ではなく、本来持つ意味であることに気づいた。
(夫か……)
アヴァーの心中では今でも妻が「貴方、貴方……」と、呼びかける声が聞こえるのだろう。
――汝の名は?
とまでは、西侯は訊かなかった。調べればいずれわかることである。それよりも、並々ならぬ決心でもって彼が自分の前に姿を現したことを考えるべきである。
この日はこれ以上の会話をすることなくアヴァーを退かせた西侯だったが、彼を客人とするとした待遇は以後も続いた。
やがて、半年ほど後に病をえて、床についた時、自分の身が後十年ももたぬと思った西侯はアヴァーを枕頭に呼びつけた。
(まだ、クーンを討つ気でいる)
西侯はアヴァーの復讐心が本物であるか試すために、毎夜のように美妾を侍らせ、美衣美食を与えて贅沢な暮らしで囲んだが、アヴァーは女には一度も手をつけず、麻布の喪服を脱がず、食事も肉類や酒には一切手をつけなかった。
アヴァーを信用に足ると思った西侯は、ようやく今まで秘めていた自分の野望を吐露した。
「わしの代で、クーンを討てるか?」
本心である。逆鱗部隊は既に完成しつつあるが、そのような小細工でドルレル王を討ち取ったところで諸侯や民衆の支持は得られない。西侯の輿望が王を圧倒し、自然に反クーンの勢力が生まれるほどに世が乱れなければ、西侯は王になれない。だが、よほどの悪王が立たない限り、そうはなるまい。瀕死のクーン王朝を回復させるために苦心するドルレル王は西侯の目から見ても名君であり、彼を殺せるのは暴虐な臣だけだろう。
西侯は別にクーンを憎んでいるわけではない。だが、末期に入った王朝特有の外交感覚の麻痺が、西侯を絶望させた。その一つがタータハクヤ家の滅亡である。南の守りと言うべきタータハクヤ家が滅んだことにより、ダイス王国とクーン王国の連携が荒くなり、結果ナバラ王国の侵攻を容易にした。今でこそ、西侯は特権を駆使して西域を切り取っているが、そのあまりの過剰な武威は王宮の一部で嫌忌されており、
――王の許可無く、領土を広げるな!
と、無用の疑いをかけられ、実際に数城を王に献上したことすらある。それに、西域はクーン人にとって異文化と言ってよく、さらに西に伸張する事を考えれば、西侯はクーン王の臣下に甘んじている必要は無い。
――お前は西王となって西域を治めよ!
ドルレル王からそのような声がかかれば、即座に王都に行って、西域を全て王に献上しても良いと考える反面、巨大なりすぎたアクシアという国自体が、自分を王にしようとする力を持ち始めたことに、喜びを覚えている。タータハクヤ家の滅亡を目の当たりにした今、西侯にとっては後者の方が心中において占める割合が大きい。
(逆臣の汚名はわしがかぶるべきだ)
息子のセラには王となった自分の跡を継いで欲しい――と、思うのは、彼のセラに対する期待と愛情から来るものだろう。
西侯の心中の動きまでは洞察しないアヴァーは、クーンを討てるかという問いに対して、一言、
「否」
とだけ返した。
「しかし、クーンが滅んだ後なら、可能だ」
妙な事を言う――と、西侯は嗤った。
「わしが立つ前にクーンが滅ぶのか?」
アヴァーは静かに頷いた。西侯は彼の次の言葉を待った。
「神を降ろす……」
アヴァーの言葉に戦慄を覚えた西侯は、思わず体を起こして、
「汝は……汝は……」
と、呻くように言った。