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第十章『逆鱗』(3)

 一体どれだけの女たちをかき集めれば、この空間が出来上がるのかと思うほどに、後宮は広い。そして男という種が全くいないというのもこの空間の特長である。

 ハレムにつきものの宦官(かんがん)もいない。妃妾(ひしょう)の生活を支えているのは夥しい数の女奴隷である。例外と言えば、宦官はいないものの、去勢された兵士が警備を行っていることと、ドルレル王の娘アシュナの夫である最上級神官ソプル(ザイ)が後宮の一角に住み着いていることだけである。

 王の娘であるアシュナが後宮にいる理由は、放っておけば何をしでかすかわからない彼女のために、ドルレル王が特別な空間を与えたことによる。

 アシュナの異母姉妹たちが次々と嫁して行く中で、彼女だけが特殊であった。彼女のじゃじゃ馬ぶりは既に書いたが、


――お前は嫁には出さぬ。


 といった、ある種の諦観にも似たものがドルレル王の脳内にはあった。更にザイという、容易く王宮の外には出せぬ神聖な存在に嫁してしまった以上、ドルレル王はアシュナに都内の一宮を与えるようなことをしなかった。

 無論、チャムが忍び込んだ後宮のどこにも、アシュナとザイの姿は無い。

 セレナ妃の様子をうかがうために宮殿の屋根に上ったチャムだったが、周囲が異様なふんいきに包まれていることに気づいた。

(風が止んだのか……)

 頬を刺すような寒風を感じない。(なぎ)の中にでも入ったようで、耳鳴りがした。

 嫌な空気である。周囲の静寂は気味が悪く、まるで風が闇を(はら)んで泥に堕ちた様な不愉快さがある。

 王都クーンの地形を一語で表すと北高南低で、高台に位置する王宮から都下を見下ろせる。

 チャムの目にはリョーンに煽動されてカエーナと激突する喪服軍まではうつらないが、時々遠雷のような喊声(かんせい)が聞こえる。

 わずかにクーン剣士団のことに想念をめぐらしかけたチャムだったが、すぐに捨てた。この時、チャムが剣士団の同輩を気にかけ、都下の動きを凝視していれば、夜目のきく彼であるから、もしかすると撤退を始めた王宮近衛兵の影を捉えることが出来たかもしれない。

 ふと、夏の(よい)に漂うような生ぬるさが、鼻についた。何かがおかしいと思っていたが、どうも後宮内の空気が冬にしては暖かすぎることに気づいた。

 後宮ともなれば床の底で家畜の糞を燃やして暖をとることは珍しくない。だが、チャムが感じた妙な熱気はどこか異質で、人肌にも似て生々しい。都下の喧騒が王宮にも伝わってきたのか。

 チャムは眼下に誰もいないことを確認すると、音も無く下り立った。

 壁にかけた(しょく)だけが不気味に光を放っている。

 また、妙な臭いがチャムの鼻を突いた。今度は屋根の上で感じたようなあやふやなものではなく、心臓を圧迫するような重さがある。

 小さく息を吸うと、心臓が一瞬だけ膨らんだような気がした。

 チャムは無言で廊下を進むと、宮内の一室へと向かった。宮内の地図は頭に入っているから迷うことはない。

 誰にも()わずにセレナ妃の寝室へとたどり着いた。(あか)りが消えている。戸に手をかけた時、チャムの脳内で嫌な音が響いた。


――開けるな。


 警告である。他の誰でもない、チャムが自身に向けて放つものだ。

(この向こうで、恐らくセレナ妃が死んでいる)

 生ぬるい臭いが人の死臭であることを、チャムは直感した。そして、後宮で人が死んでいると言うことは、彼の予想が的中し、賊が存在したことを意味する。

(やはり、加担してはいなかったか。となると本命は……)

 セレナ妃の死を確認することには意味がある。

 だが、チャムはそれをしたくない。

 彼の想像が正しければ、後宮の異変はまだドルレル王に知らされていない。それほど綿密な計画を立て、実行に移せる人間はいかに後宮広しといえども一人しか思い浮かばない。その人物が、セレナ妃の住まう宮殿の一角を無人地帯にした。この部屋にもし、もう一人(・・・・)がいたとすれば、場合によっては剣を抜かなければならない。チャムのためらいとはそれであった。

 彼の脳裏に響いた――


――開けるな


 という声は――


――開けたくない


 に他ならない。

 だが、普通に考えれば、この向こうでセレナ妃が死んでいるとして、彼女を殺した者が傍にいるだろうか。

(誰もいないはずだ……)

 小さな希望を込めて、チャムは戸を開けた。

 勢いよく開いたというのに乾いた音はならなかった。

 暗いが広い部屋である。中央に三人ほどが寝れそうな大きな寝台があるが、この部屋にはそれが五つは入りそうだ。壁にかけてあるいくつかの剣が目に付いた。銘の入った名のある剣であるらしく、抜き身ではなく、鞘ごとかけられている。セレナ妃の趣味は意外にも刀剣にあったか――と感想を口にする状況ではない。

 チャムの予想に反して、死体はなかった。彼が戸を開けたままで固まっているのは、小さく開いた窓から差し込む月光を避けるようにして寝台に腰を落ち着かせている人影を見たからだ。最初、チャムの視界にはその人物が映らず、足を踏み入れようとしたところでようやく気づいた。

(たれ)か?」

 月光が囁くような、清らかな声である。口調からして、セレナ妃であると察したチャムは、すぐさま跪いた。

「はっ、第三宮衛士隊所属のヤムと申します。アヤ王妃の宮室の周辺に不審者が現れたとの事にて、宮内を見回っております。近侍の者がおりませんでしたので異常を感じ、この場に馳せ参じました」

 チャムは衛士隊を装ったが、彼の纏う衣服はそれとはかけ離れている。この場の闇が、チャムの正体を辛うじて隠している。

 言いながら、チャムは違和感を覚えた。戸に手をかけたとき、この部屋に生気を感じなかった。それに部屋内に入るとともに死臭が鼻をつかなくなった。別世界に迷い込んだような気さえする。

「左様か……」

 女は呆然としている。いぶかったチャムは問いを発した。

「妃殿下はご存知ありませんか……」

「ヤムとやら、外で誰か死んでいなかったか?」

 妃が凄まじいことを口にしたので、チャムは心中で曖昧になっていたものが一気に張り詰めるのを感じた。

「ほほ……そなたは月光が生んだ妖げつにしては、人を偽るのが下手よのぅ。誰がそなたを使わしたのか。申せ――」

 正体を見破られたチャムは黙った。背に汗が流れ落ちた。セレナ妃が陰謀に加担していたとすれば、自分は後宮で最も危険な場所に足を踏み入れたと言うべきである。腕に自信のあるチャムは、独力でそれをしのげると豪語出来るが、どういうわけかこの辺りには他に人の気配がしない。

 問いに対する沈黙はそれだけで返答とみなされる。影に隠れた妃の表情をうかがうことが出来ないのも今のチャムにとっては辛い。勿論、ここでゲールの名を出すわけにはいかない。

(仕方がない……)

 何かを決心したチャムが腰を上げようとしたところ、再び重くのしかかるような熱気を背に感じた。

(さっきから何なんだ。これは?)

 と、そう思った刹那、背後に人の気配を感じたチャムはすぐさま右手に飛びのくと共に抜剣した。先ほどまで自分が膝をついていた床が砕けた。

(死臭だ。死臭が動いている)

 闇の中で屹立する異形を目の当たりにしたチャムは、心中でそんな感想を口にした。



 先導役とも言うべきチャムを偵察に出したゲールは、地下に身を潜めていたが、そこに思わぬ来客があった。

 風が吹かぬだけ地上よりは暖かいが、それでも水路に降り立った人影は身震いの後に両の腕をさすった。直後に兵に取り囲まれ、口を塞がれて身動きが取れなくなった。

「殺してはならぬ」

 臭気も乾きそうな冷えた暗がりの中で響いたのはゲールの声である。

 よく見ると、配下が捕らえたのは官女のようである。ひとくくりに官女といっても身分は様々で、妃妾のとりまきである貴門の娘や彼女らに奉仕する女奴隷をも含める。

 身なりから、ゲールは捕らえた女が後者であるように思えた。だが、女は怯えたそぶりも見せずに何の抵抗も行わない。

(チャムの言っていた知り合いか……)

 と、ゲールは想定した。いかに奴隷であったとしても、夜中に下水道に下りるような真似はしないだろう。

 配下に女の拘束を解かせると、案の定、チャムが後宮に潜入させた密偵であった。

 女――ヤーニは目でチャムの姿を探した。が、いない。

「チャムはセレナ妃の様子を探っている」

 と、ゲールが言ったとき、ヤーニの表情が一変した。

 ヤーニが潜入したのは他の誰でもない、セレナ妃の元である。潜入したというのは正しくなく、ヤーニが持ついくつかの顔の一つであるというべきだ。彼女の正体についてはチャムですら把握しておらず、彼にとってのヤーニは古い顔見知りであると同時に王都の情報屋という程度のものである。

 ヤーニの表情で、ゲールはセレナ妃が黒幕であったのかと想像したが、事実は違った。

 チャムはもとからしてセレナ妃に目をつけていたわけではない。彼女から情報を仕入れることの出来るヤーニを利用しただけである。チャムが後宮の動きに敏感になり始めたのはここ数日のことで、ヤーニが得た情報は南方からの幣物の件で疑えば、アヤ王妃の動きが少し怪しいが、確信はないという中途半端なものであった。勿論、セレナ妃の潔白はヤーニが誰よりもよく知っている。この点、ヤーニは優秀な諜報員であっても、チャムの飛躍した想像について行ける羽は持っていなかった。チャムの考えに辛うじてついてゆけるのは今のところゲール王子ただ一人である。

「何があった?」

 というゲールの問いに対して、ヤーニは何かを振り切ったように話し始めた。

「結論から申し上げますと、賊の首領はアヤ王妃で、賊は既に王宮へと進んでおります。ただし、賊が発したのはセレナ妃の宮室からです。セレナ妃は自室にてアヤ王妃を歓待しておりましたが、突如室内に兵が湧き、アヤ王妃以外の全員が殺されました。その時私は厨室におり、異変に気づいて身を隠しましたので、この事だけではアヤ王妃を疑うことは出来ませんが、室内の死体にアヤ王妃の近侍の者はおりませんでした」

 ゲールは、背に雷を打たれたように棒立ちになった。

(出遅れた!)

 相手の奇襲を潰すためにわざわざ下水道を潜んできたと言うのに、既に賊らは王宮近衛兵と衝突しているという。結論として、この時点でゲールの潜入は全く意味を成さなくなった。

「セレナ妃は?」

 と、ゲールが問うと、ヤーニはかぶりを振った。ゲールは主を守ることもせずに逃げた彼女を不忠であると罵りたくなったが、ドルレル王の身の安全を考えれば、彼女の行ったことは正しかったと思い直した。

「待て。それほどの変事だというのに何故に静かなのか? 剣戟の音や喊声が聞こえぬと言うのはどういうわけだ……」

 口調が速い。ドルレル王に危難が及んでいるという危機感がゲールを焦らせている。

「衛士は機能しておりません」

 と、ヤーニは言った。

「どういうことか?」

「敵が見えません。眼前に現れるまで視界に映らないのです。数も明らかではありません」

 セレナ妃に凶事が及んだことを知ったヤーニは、このことを外部へと知らせようとしたが、その途中で廊下に妙な空気が溜まっていることに気づき、一室に身を隠した。数人が固まって話していたが、姿は見えず、声だけがしたようであった。だが、戸の影から目を凝らして見てみると、彼らは鼈甲(べっこう)にも似た表面を持つ鎧を身に纏っており、闇に解けるような色をしている。何かの(まじな)いをかけているのかわからないが、信じられぬものを見たという意識だけがヤーニに残った。

「見えぬ鎧か……幻術だな」

 そんなものがこの世にあるものか――とゲールは思ったが、ヤーニの見間違いであるとは思えない。

 セレナ妃を偵察に行ったチャムを待てば何かがわかるかもしれないが、その余裕はなく、彼が生きて帰るという保障もない。

「よし、王宮へ行く」

 この時点でゲールはチャムの意思から外れた。ゲールは腰に差した逆鱗の剣をつかんだ。



(これは、どういうからくりか……)

 敵の攻撃を避けながら、チャムは何故相手に接近されるまで気づかなかったのかを考えている。

(中々の手だれだ)

 と、剣を交えながら相手に賞賛を贈った。床を叩き割ったように、賊の持つ剣は大きい。それを屋内で器用に振り回す賊に好意さえ覚えたくなる。

 それにしても、相手の姿である。死臭が形を成して動いたとも思えるほどに、敵の像が見えない。

 視界には確かに人の形がある。だが、相手が動いた途端に輪郭が消える。寝ぼけ眼を擦るときのように相手を探すと、一瞬で目の前にいる。それでも斬り殺されないチャムの剣技は褒められて良いが、彼は後宮に忍び込んでから感じていた不快の源が、実はこの奇妙な現象であることに気づいた。

 同時に、自分も奇妙なことをしていると、チャムは思った。

 室内に入ってきた賊はチャムが飛びのいた後、彼にかまわずに妃へと襲い掛かろうとした。それを見たチャムは思わず行動を起こした。そこから戦いが始まった。

 剣をあわせると、粘土を叩いたような妙な感触が手元に残った。何度か斬りあううちに、チャムの持っていた剣が折れた。好機とみた賊は丸腰のチャムに襲い掛かった。

「せっ!」

 チャムは手元に残った折れた剣を相手に投げつけた。それは賊の(かぶと)に当たり、緒を切ったのか、冑が脱げ落ちた。

 チャムは賊が怯んだと見るや否や、腰に差してある短刀を抜き、相手の胸を貫いた。否、短刀もまた、鎧を貫くには至らなかった。

(何で出来ているのだ……)

 怒った賊の一閃を避けざまに、チャムは後ろに身を反らせ、体を半回転させながら手で着地し、更に後ろへと足をつけると、壁にかけてあった剣に手をかけた。

(やれやれ……)

 ふっ――と脱力した。相手が緩んだと見たのか、賊は一歩を踏み込んだが、その瞬間に空気が二つに割れた。

 金器を鳴らしたような音がした。

 恐ろしい速さで前方に飛び出したチャムは抜剣し、横に()いだ。首の皮一枚を残した賊の首は落ちず、跪く様にその場に斃れ、断たれた首元から滝のように血が流れた。

 チャムは妃の方を振り向くと、

「毒か……」

 と、短く言った。

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