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第一章『赤髪のリョーン』(5)

 エトは三人の中で最も狩が上手い。射技に優れているだけではなく、獲物を追い込むのが上手い。故にリョーンと狩を競えば獲物の多さで必ず勝つが、リョーンは村の女の中で唯一、銀狼を狩る。

 銀狼の毛皮は都で高く売ることができ、銀狼一匹を獲るのは百獣を仕留めるに等しい。彼らは人より賢く、滅多に捕らえることができない。

 リョーンはこれまで二度、銀狼を仕留めていて、二匹とも単独で獲たものである。追い込む役と仕留める役とがなければ銀狼のような賢い獣を獲ることができないと思っているエトは、そのことが不思議で仕方がない。タータハクヤに訊くと、リョーンは老いた銀狼のみを狙うということを教えてくれた。老いて力のなくなった狼は必ず群れから外れる。だがそれをどうやって知るのか。リョーンは何も言わないが、エトは彼女が山の主たる神龍の声を聴いているからだと思った。神と対話できる者を、神が死なせるはずがない。



 日が落ちてもリョーンの蘇生は続いていた。

 エトは雨にうたれながらも屋敷の門前に立ち続けた。まだ晩夏とはいえ、下着までびっしょりと濡れ、袖の長い衣は皮膚に張り付き、凍えるように寒かった。しかしリョーンは生き返ると信じて疑わない瞳は雨に濡れても輝きを失っていない。

 雨音が乱れた。誰かが道を登ってくる。炬火はひとつだがやって来るのは複数である。

 門前からでは視界が悪く、エトは屋敷の屋根によじ登った。すでに夜だったが稲光の瞬間に遠くから近づいてくる三人の人影を見つけた。二人は竜に乗っているから正確には二騎と一人である。徒歩の者は恐らく隷僕(れいぼく)だろう。道はタータハクヤ邸で途切れており、彼らがここを目指していることは間違いない。

 既に彼らを敵とみなしているエトは、素早く飛び降りると閉じた門前で待った。道は広くないが、そこで戦闘になった場合、三人が同時に走れば突破される可能性が大きい。タータハクヤの家は荒れているが塀が高く、裏門は厳重に閉じられている。門前なら戦闘になっても容易く突破されることは無い。

 先頭を駆る男の顔が見えた。頭巾を深くかぶっており、表情は見えない。先頭の竜は冠をかぶっており、それには領主の証である赤い飾りがつけられている。故に彼らは暗殺のような血なまぐさい任を背負っているわけではない。

 エトはかまわずに矢をつがえた。

「ここはタータハクヤの私邸だ。夜中に何の用か!」

 雨脚が強く、エトは大声で叫ぶように言った。先頭の男は高く驕慢(きょうまん)な声で答えた。

「リョーンの死体を掘りおこしたと聞いた。死者を冒涜する者には罰を下さねばならない」

「他の場所へ移すために一度掘りおこした。明日、ふさわしい場所に埋葬する」

「死体はどこだ?」

「今、タータハクヤが別れを告げている」

「それでは私もそうして行こう」

 先頭の男が思いがけないことを言ったので、エトは一気に矢をひき絞った。

「断る。リョーンの魂は領主を恨んでいる。それ以上近づくなら射るぞ!」

 エトから男まで二十歩ほどである。彼らが一斉に飛びかかってきたとしても、エトは二人までなら瞬時に射落とす自信がある。だが三人を続けて射るとなると、その内の誰かを殺めてしまうかもしれない。

「小娘が。父親に矢を向けるか!」

「えっ……」

 先頭の男の影で控えていた一人が竜から降り、前に進み出た。雄々しい体躯(たいく)に豊かな髭を蓄えていて、間違いなくエトの父だ。



 領主はタータハクヤが解毒の秘法を行おうとは露ほどにも考えていない。彼の目的はリョーンが死んだ時点で達成したのであり、余裕のあまりリョーンの埋葬を許可した。だが今日になってタータハクヤがリョーンの墓をあばいたことを知り、彼女をも罪に照らして罰する好機を得た。

 領主はこの機にタータハクヤを消してしまおうと考え部下に(はか)ったが、その部下はタータハクヤに同情的で、彼はタータハクヤを殺せば彼女と懇意であるロセの恨みが増すことを説いた。領主は彼の言を()れたが、生来の勘の良さからか、念のためにその部下にタータハクヤを調べるように命じた。

 部下はエトの父と交友があり、エトがタータハクヤの元にいることを知っていた。万が一、タータハクヤが罰せられることになっても罪に連座させられないようにエトの父に声をかけた。エトの父は娘が領主に対して復讐心を抱いていることを心配し、彼女の説得をうけて出た。だが、屋敷を訪ねた時のエトの対応は彼らの想像を超えていた。

「エトよ。弓を下ろせ。わしはタータハクヤ殿を捕らえるために来たわけではない。彼女は意味もなく行動する人ではない。何か理由があるのだろう?」

 こもるような低い声で言った。だが声に険しさは無い。

「父さん。それは明日になれば話すわ。だから今日は見逃して……」

 エトの語気が弱まったのを見た使者は、一歩踏み込んだ。その瞬間、雨粒が弾けた。エトの放った矢は竜の足をかすめた。

「近づくなと言ったはずだ」

「貴様も竜肉を喰らいたいのか!」

 使者は激昂したが、エトの父が制した。

「ここはわしに……」といって、エトに近づこうとしたところ、矢尻が向けられた。父の視線の先には、歯を食いしばって感情を押し殺す娘の姿があった。娘が震える声で言うと、大気も震えた。

「父さんでも、近づけば射る」

 エトの父は振り返って使者の方を見ると、小声で何かを喋った。彼が再びエトの方を向いた瞬間、他の一騎と一人が駆けた。虚を突かれたエトがどちらに的を絞ろうか迷ったほんの数瞬の間に、エトの父は二十歩の距離を詰め、彼女から弓を奪い取った。地に押し付けられたエトは激しく抵抗したが、父親の膂力(りょりょく)には到底敵わなかった。彼は残った二人に目語して邸内に入ることを促した。

(弦が濡れていなかったら、一人は死んでいた)

 きわどいところで娘の暴走を阻止できたエトの父は胸を撫で下ろした。

 使者は門前で竜を降りると、門を叩いて自身が領主の使いであると名乗った。三度それを繰り返しても答えは無く、仕方なく塀をよじ登ろうとしたところ、ようやく門が開いた。

 出てきたのはヒドゥである。彼は項垂れたまま、一度使者に目をやったが、その後ろで拘束されているエトを見ると、驚く様子を見せずに力なく言った。

「逝かれました。これから私とお嬢様が連れ立って神龍の下へとお送りします。不躾(ぶしつけ)ですが、この場に居られる方々に見届けていただきたい」

 一瞬、雨が止んだ――と感じたのは、エトの時が止まったからだろう。

(嘘だ……)

 使者は訝しげにヒドゥの顔を見ている。

「誰が逝かれたのか?」

 ヒドゥはそれには答えずに身を翻し邸内へと戻って行った。門は開いたままである。いったい何が起きたのか理解できない使者たちは、老人を追って歩き出した。邸内に入れるということで、ようやく開放されたエトは素早く起きると一目散に走った。彼女は瞬く間にヒドゥを追い越し、蘇生の行われていた寝室へと向かった。



 火花の散るような音を立てて、寝室の戸が開いた。途端に世界が崩れたような衝撃を受けた。タータハクヤの足は膝から下が無いので、彼女は(もも)の上にリョーンの頭を抱えたまま泣き崩れていた。エトはずぶ濡れのまま、靴も脱がずに部屋へ踏み込んだ。一歩進む度に、心臓が臓腑から引きちぎれんばかりに重さを増していった。何歩目かを踏み終えた後にようやくリョーンの下へたどり着くと、タータハクヤは初めてエトに気付き、上を向いた。鼻水と涙が混ざって落ちた。

 リョーンの体は綺麗に洗われているが、口元からどす黒い土がこぼれ、それに混じった血が頬を染めていた。エトはタータハクヤの言葉を待った。だが彼女はエトに何も語らず、言葉にならない声でリョーンに謝り続けた。それが事態の全てを告げていた。

 エトはリョーンの体にしがみつき、()いた。心臓を切り取られたように胸が苦しい。泣いてもリョーンは帰ってこない。それを思うと、さらに止め処なく涙が溢れてくる。

「土から掘り出すのが早過ぎたのです。一度、息を吹き返されたのですが、体内に残った土が毒を溜め込んでおりました。お嬢様と必死で土を吐かせましたが、体に残った毒は多く、意識を取り戻す前に逝かれました」

 遅れてやってきたヒドゥがタータハクヤのために弁明をした。後ろでそれを聞いていた使者は大いに驚き、そして戦慄した。

(蘇生を試みたのか……)

 使者は領主に仕えているだけあって、解毒の秘法の存在を知っている。秘法の真実を知らない彼でも、タータハクヤがそれを実行したことに強い衝撃を受けた。

 使者と違って予備知識のないエトの父は、それでもこの光景の異様さに目が眩んだ。部屋では怪しげな香が焚かれており、薬物が散乱しているところから、神学に詳しいタータハクヤが何らかの儀式を行ったのだと思い込んだ。だが死者が一糸も(まと)わぬ姿でいるのを嫌った彼は近くにあった布を手に取ると、リョーンの体にかけた。狂死したはずのリョーンの肌は輝くように白く、死を疑うほどに美しい。

 死してなお艶やかさを失わない女は、現世に怨みを遺している。リョーンの死体に不吉を感じたエトの父は、自分の娘が彼女の怨念に当てられることを恐れた。

「ロセはお前の目に見えぬところで娘を心配していた。狩に出ても黙って空を見ているときは、いつもお前のことを考えている。村を離れて都の剣士団に勤めるようにロセに薦めたのはわしだ。ロセが居らぬ間はわしがお前を護るはずだった。なのにわしは何もできなかった。リョーンよ、怨むならわしを怨んでくれ。決して、死した身で天地を呪ってはいけない」

 エトの父が不吉を感じたように、この光景はどう見ても葬儀ではない。タータハクヤ達がリョーンの死体で何らかの儀式を行ったのは明白であり、埋葬された死者への冒涜はクーンの法に触れる。しかしタータハクヤに同情している領主の使いは見て見ぬふりをしたまま去ることを決めた。

「どうやら葬儀の邪魔をしてしまったようだ。失礼をした」

 そういって足早に部屋を出て行こうとしたところ、腰に重みを感じた。振り向くと、いつの間に這ってきたのか、タータハクヤが剣の鞘に手をかけていた。

(死ぬつもりだ……)

 彼女の目に凄まじいものを見た使者は、あわててタータハクヤの腕を払いのけた。タータハクヤは(うめ)くような声を上げて力なく倒れたが、すぐに起き上がると足を引きずりつつ、窓を押し開いてそこから身を乗り出した。この屋敷に二階はないから落ちて死ぬことはないが、ヒドゥが慌てて止めに入った。彼はタータハクヤと命運を共にするつもりだが、死ぬときは勢いに任せるのではなく綺麗に死にたい。彼女にもそうあって欲しい。

 ヒドゥが差し伸べた手は届かず、タータハクヤは窓の外の転落した。あっという間に全身が泥まみれになった彼女は、膝のない足で這うように進むと、水滴を撃ちつける天に向かって慟哭した。すると、天もまた()えた。



 タータハクヤは不思議なものを見た。

 空に神龍(しんりょう)が立った。

 神龍は雄大な自然そのものだ。曲がりくねる河や連なる山々は神龍が地に臥せた姿であり、雷は天へ昇る姿である。故に曇天に神龍が昇るのは何ら珍しい光景ではないが、しかしながらタータハクヤが見た光景は常軌を逸していた。

 空が()いた。そう思えるほどに太く、こもるような音が響いた。木材で組んだ家がきしむようなその音は、竜の鳴き声にも似ている。門前に目をやると、二頭の竜を任された隷僕が、興奮して暴れる竜を抑えるのに手を焼いていた。

 西南の空が赤く染まっている。赤い光の柱が暗闇を分かつように煌々(こうこう)と天を貫いていた。雷ではない。神龍の御姿は巨大な松明(たいまつ)であるかのごとく夜空を照らし続けている。その現象は妖げつと呼ぶにはあまりにも大きく、神業というには怪しすぎた。

「あっ……」

 背に粟が立つのを感じた。

 巨大な赤い柱の中央に、深みを帯びた色がある。ほんの小さな点に過ぎないが、まるで鶏の卵のようなそれを見たとき、急に獣臭を嗅いだような錯覚に陥り、強い吐き気を覚えた。

神龍(リョーン)の眼だ。神龍が視ている)

 何故こちらを視ているのか。タータハクヤはそこまで考えられなかった。神龍と眼が合っただけで体中から汗が噴出し、心底震え上がった。さらに彼女の戦慄を深めたのは、まるで猛獣が傍にいるかのごとく、獣臭が鼻についたまま消えないことだった。それでもタータハクヤは辛うじて怪奇を見続けた。柱の中央にあった神龍の眼は徐々に空を下り、やがて地面に落ちると、一瞬、天と地との境界が燃えるような色になった。

 少し遅れて大木を根こそぎ連れ去るほどの大風が吹いた。飛ばされそうになったタータハクヤが小さな悲鳴を上げると、ふと、冷めきった肩に温もりを覚えた。大きな腕で護られている自分に気付いたタータハクヤが振り返ると、驚愕の色を顔から消せないままのエトの父がいた。



 一陣の大風が去ると、いつの間にか雲は晴れ、先ほどまでの怪異が嘘のような静けさだけが残った。

「タータハクヤ殿。今のを見たか」

 その声を聞き、自分の錯覚ではないと思った彼女は震える声で答えた。

「眼を見ました。天上に昇るはずの神龍が地に降りたのです。恐ろしい光景でした」

「神龍が地に……」

 エトの父は瞠目した。神龍が地に降りるというのは神が人界に災害をもたらすことと同義であるが、それ以上に彼女が神龍の眼を捉えたことに驚いた。神龍を感知できるものはクーンにあっては至宝のごとき扱いを受ける。

 泥だらけになったタータハクヤの顔を袖で拭ったエトの父は、思い出したように、自害しようとした彼女を(いさ)め、慰めた。遅れてヒドゥが駆けつけ、彼にもなだめられたタータハクヤがようやく落ち着きを取り戻した頃、屋敷の方から悲鳴にも似た声が聞こえた。

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