第九章『ああ、カエーナ』(1)
ふぅ――と息を吐くと、小気味よいほどに空気が白く染まった。
赤い髪をした少女は木陰に車椅子を寄せると眼下に広がる景色を一望した。
憧れの丘である。
赤髪のカルは毎朝のようにこの丘に現れては、剣を振っていた。
カエーナに左肺をつぶされてからは剣もろくに握れない状態であったと聞く。それでもカルは剣士であることを諦めなかった。
「ああ、こんなところにいた!」
そういって丘の上に現れたのはテッラである。
「急にいなくなったと思ったら……今、王都がどんな状況か知っているでしょう?」
ありったけの怒気を込めて、テッラが言う。剣幕からして、答えようによっては頬を叩かれるかもしれない。使用人の身分であるにもかかわらず、心の底から自分を叱ってくれる。少女――ハルコナは、彼女のこういう一面が好きだ。
――ごめんなさい。どうしてもここに来たかったの。
手振りでそう伝えると、平手は飛んでこなかったものの、頭を小突かれた。よく見るとテッラの目に涙が溜まっている。
無理もない。
ハルコナの住むアドァの別荘は東区の中央通り近くにあるが、クーン剣士団本部からあまり離れていない。昨夜まで眼下では激闘が繰り広げられていたのだから、付近の住民は皆避難するか家の戸を閉ざして沈黙していた。別荘は丘の上に位置しているため、戦火にさらされる可能性は低いが、今のハルコナのようにふらふらと外出されては命がいくつあっても足りない。
テッラはそんな中をハルコナを捜しまわったわけで、その時の恐怖と不安は相当なものだろう。にもかかわらず、彼女はハルコナの身を案じ続けた。
「さあ、帰りましょう」
ハルコナは、後ろに回って車椅子を押そうとするテッラの手をつかんだ。いぶかったテッラが顔をのぞくと、少女はすう――と、眼下に広がる街の一角を指差した。
――赤髪のカル。
カルの勝報は夜が明けるとともに王都全域に知らされた。ゆえに眼下で多数の配下とともに竜を走らせるカルはカエーナ剣士団の残党狩りを行っているのだろう。
「一時はどうなるかと思ったけど、あの人が生き残って良かったわ」
テッラがそうこぼすと、自分の手を握っていたハルコナの体が強張るのを感じた。
「どうしたの?」
憧れの人の勝報に浮かれているものだとばかり思っていたハルコナの表情は、雪をかぶったかのように凍り付いていた。
――狙われているわ。
手振りでそう話すハルコナの言葉が理解できず、テッラは自分が彼女の手話を見間違えたのかと思った。
――このままだと、食べられてしまう。
「食べられる……何に?」
――神龍は自分に跨った者を許さない。このままだと赤髪のカルは神に食べられてしまう。
テッラが彼女の言葉の真意を測りかねているうちに、ハルコナは泣き出した。
(また、竜肉を食べなければいけない。死ぬほどもがいて、神様に許しを請わなければいけない……)
ハルコナは潰れた喉を空しく鳴らした。
クーン剣士団の内紛はどうなったのか。
カエーナの首が落ちるとともに、ピオによって分断されていた百人隊の命運も尽きた。
指揮官の死が彼らに与えた動揺は大きく、しかし覚悟を決めたこの集団は命を賭してリョーンに特攻を仕掛けた。だが、リョーンと合流したピオ率いる騎兵隊は竜を下りて彼女を死守する構えを見せた。
「好機――」
この時点で王都全体の動きを把握していたのはカルカラだけであったが、彼はロマヌゥの手勢を相手にしながら陣を東に伸ばし、北と東の二方から百人隊を攻撃した。
さすがに兵力が隔絶しており、百人隊はじりじりと西へ退いた。その先には撤退中であった王宮近衛兵がいる。
「賊どもを近衛兵に叩きつけろ!」
最も驚いたのは王宮近衛兵である。彼らは城壁を左方に眺めながら王宮への撤退を行っていたのだが、リョーンとカエーナの衝突が王都の西部に波及したため、王宮への退路が遮断された。戦場は王都西門より南にあり、彼らは城壁の外を通ることができなかった。
近衛兵長は、包囲に窮した百人隊が目前に迫ったこの時になって、ようやく自分たちがクーン剣士団に利用されたことを知った。
――王宮近衛兵を突破しなければ死ぬ。
そう思った百人隊は、退路を確保するために針のように鋭い陣を敷いて王宮近衛兵に突撃した。ロマヌゥの陣営の近いカルカラに向かって突貫を行わなかったのは、カルカラの陣が最も重厚であったことと、カルカラならば抜けた先に伏兵を置くことを怠らないことを彼らが知っていたからである。
とはいえ、カルカラやピオが百人隊さえ破れば勝ったも同然と考えたのと同じく、ロマヌゥも彼らを救うために必死であった。
「カエーナが死んだ……嘘だ!」
神のように崇めて来たカエーナの訃報に接したロマヌゥは、しかし動転して我を忘れることをしなかった。カエーナの死は自兵によってもたらされたものではなく、カルカラの降伏勧告によるものであったからだ。
「カルカラも僕を侮るのか……」
この時のロマヌゥは珍しく冴えを見せた。
「百人隊を助ける。他には目もくれるな!」
ロマヌゥの陣が西に旋回した。彼らはカルカラの陣の西端を削り取るようにして百人隊の救出に向かった。ロマヌゥは兵の磨耗を防ぐために声を枯らして魚鱗の陣を布いた。対するカルカラは鶴翼の陣の一方を崩された。だが、敗れた一翼の先には百人隊があり、その先にはリョーンとピオがいる。よってロマヌゥはカルカラの包囲を破ったわけではない。百人隊と合流した彼を待っていたのは、退路があるはずの西方に王宮近衛兵が陣取っており、さらに百人隊が彼らと交戦中であるという報告であった。
「わざわざ包囲に飛び込んでくれたのだ。鱗を剥ぎ取ってくれるわ!」
北と東をカルカラ、南をリョーンとピオ、そして西を王宮近衛兵に包囲されたロマヌゥ軍の抵抗は壮絶を極めた。もとより包囲戦というのは敵に倍する兵をもって初めて現出するものである。互いに兵数が等しい時に相手を包囲するのならば、必ず一方を空けて背走する敵を打つというのが常道だが、カルカラはそれをしなかった。勇猛果敢に戦うクーン剣士団が戦闘経験に乏しいロマヌゥの手勢に遅れをとることはないと判断した彼は、南北と東の三方から圧力を加えることにより、敵の進む力を西に及ばせようと考えたのである。西に陣取っているのは王宮近衛兵であり、ロマヌゥはそこを突破しようと必死になっている。ということはクーン剣士団が包囲する三方は激戦を避けることができる。
(このまま戦いが終わっても、共倒れになるだけだ……)
リョーンが南に離脱した時点で、カルカラは彼女の発想に自兵の損耗を控えるという思想が欠けていることに気づき、危ぶんだ。剣翁の娘は勝った後のことを考えていない。それを復讐というのだが、このままではあまりにも人が死にすぎる。
カルカラはリョーンの意思が及ばないところで彼女を助けることにした。北東から南西へロマヌゥ、カルカラ、百人隊、ピオ、カエーナ、リョーン、王宮近衛兵と並んでいた乱雑な陣形を修正し、ロマヌゥとカエーナを失った百人隊を一箇所に集め、他の三隊で囲んだのは彼の手腕による。
この時、ロマヌゥはカエーナの遺骸と対面していた。
「嗚呼、カエーナ。嗚呼――」
戦闘の最中にもかかわらず、ロマヌゥはカエーナの首をかき抱き、哭泣した。
(死のう。戦って、死のう――)
風が吹いた。いや、空気は揺れていない。自分の耳元で何かが鳴ったような気がしたロマヌゥの脳裏にひとつの光景がよみがえった。
「俺が死んだときは、どうする?」
蝋燭がわずかに灯る暗い部屋で、カエーナはロマヌゥに言ったことがある。
「何を言っているんだ。カエーナが死んだときは、僕も死ぬさ」
ロマヌゥは大きな腕の中で猫のようにうずくまっている。
「ロマヌゥ、人は生まれ方を決めることはできない。同じようにどう死ぬかを決めることはできない」
「死に方くらいは決められるだろう」
剣士ならば戦場で死ぬ。たとえ病床にあって絶望にさいなまれる人でも自らの人生を終わらせる権利くらいはある――と、ロマヌゥは言った。
「違うな。自らを殺すというのは放棄以外の何物でもない。そういった傲慢が、ものの役にも立たぬ口だけの剣士たちを生んできた。死は生き抜いた者にだけ訪れるべきだろう」
「わからないな。死んでしまえば同じじゃないか……」
大きな手が、小さく平たい胸元をさぐった。それが小さな突起に触れたとき、ロマヌゥはわずかに声を出した。
「死にたくても、死ねない。そういうこともある。だが、やはりお前のいう通りかもしれないな。人は死にたい時に死ねる。だが、生きるということは、死ぬまで生きるということだ。剣翁は俺の剣術を見て笑ったが、俺の生き様までは笑わなかった」
穏やかな口調とは逆に、手つきが激しくなった。その度に、ロマヌゥは小さく激しい呼吸を繰り返した。
「カエーナ、いつまでも一緒にいてくれ」
雄大な体躯が、ロマヌゥの全身を染めた。
カエーナは死んだ。それは紛れもない事実である。
そしてカエーナが死ねば自分は死ぬ。ロマヌゥの死に対する意識はカエーナという一個に収斂されており、そこに疑問をさしはさむ余地はない。
だが、ここで死んでもよいのかという問いがロマヌゥの胸で鳴り続けている。
カエーナを推戴し、新たな王都を目指して立ち上げたカエーナ剣士団は、事実上まだ何もやっていないに等しい。カエーナは王政の打倒を笑ったが、西区と南区を代表とする貧富の差には無関心ではなかった。カエーナの目的が南人商家の放逐にあったことをロマヌゥは知らないが、貧しき人々を救うという一点では二人間違いなく革命家である。
革命家の役割はひとつである。
戦って、勝つ。
世界が彼らに新たな世界の創造まで役割を与えることは稀である。それが地上に現出したとしたら奇跡であり、彼らは神に選ばれた人としか言いようがない。
革命家の仕事は旧態の打倒であり、革命が新たな常態になった時点で彼らは革命家ではなくなる。成功したはずの革命家の多くが非命に斃れるのは、人の世というものが折衷を好むからであり、革命が終わったあとも彼らが戦い続けるからである。とはいえ、折衷を受け入れる者はすでに革命家とは呼ばない。彼らの仕事は人の世を治めることではなく、やはり戦いの一事に尽きるだろう。
そしてロマヌゥは、まだ勝っていない。
(僕はまだ、誰も救っていない……)
自分や母のような境遇の者を誰一人救ってはいない。カエーナ剣士団は元クーン剣士団とゴロツキ出身の者たちの他に、貧窮から脱するためにロマヌゥに付き従った者たちもいる。ロマヌゥの思想に染まったのは主に彼らで、カエーナは軍事に主眼を置いていたから彼らを重用しなかったが、ロマヌゥにとっての腹心は他にいない。
(それにしても――)
と、ロマヌゥが思うのは単身でタータハクヤを救出したシェラのことである。彼を使わしたのはクーン剣士団ではなく、実際には白竜(もしくはドラクワ)一家の当主キュローである。
一国を動かすほどの巨富を持ちながら、彼らの主眼が商売から外れることは決してない。他のクーン商人や南人商家のすべてがそうであり、彼らは貧民救済のために金をはたくことを決してしない。もとよりそれは王の仕事であるのにドルレル王すらこれを放棄している。
唯一の例外は宰相のドルテンで、西区復興のためにある程度の骨を折ったが、しかし彼も精力的であるとは言えず、西区の再開発はすぐに頓挫した。
ロマヌゥシア・ペイルローン・ダイスがロマヌゥの本名であり、白竜一家の当主はキュロー・ペイルローン・ドラクワというように、二人の祖先は数百年前のどこかでつながっている。なのに神は薄徳なキュローに巨万の富を授け、革命家であるロマヌゥには何も与えなかった。持たざるものであるからこそ、自分は革命家になったという発想はロマヌゥにはない。
自分たちの敗北の遠因は富力層を抱きこめなかったことにある――と、ロマヌゥは思った。とはいえ、キュローに泣きつくのは死んでも御免だ。彼は王都で虚しく日々を過ごす南人を慈しんだことは一度もないだろう。
「密集しろ!王都を脱出する」
王都を捨てて、何が残るというのか――といった問いは虚しく響くだけだ。もとより自分には何もないと思っている連中である。
それに、ロマヌゥにはひとつだけ希望があった。
アヴァーである。
――その西方訛りはやめてくれないか。
と、以前ロマヌゥが苦言を呈したように、アヴァーはおそらく西方の出身である。西へ逃げ延びれば何かをつかむことができるかもしれないと、淡い望みをかけたのだ。
「さて、問題はどこから脱出するかだ」
できれば南方にでてカエーナを殺したリョーンの首を取りたいところだが、クーン剣士団の連中もそれだけは死守するだろう。となると南は脱出に向かない。
(西しかないのか……)
すでに王都西門を攻略したときに王宮を敵に回したロマヌゥであるからいまさら謀反を恐れるわけではないが、仮に西へ突破したとしても騎兵隊を指揮するピオに必ず追撃される。また、最も近い南門には王宮近衛兵もつめており、挟撃されれば最悪、全滅する。
全隊を西に特攻させようとしたところ、北方の守りが薄いとの報告があった。
もうロマヌゥは迷わなかった。現在地から北西にある王都西門は今のところ空白に近い。逃げるならばそこしかない。すでに日は落ちているから闇にまぎれるのもたやすい。
「行け。北だ。遅れたものは死ぬと思え!」
王宮近衛兵を攻撃していたロマヌゥ軍は一斉に向きを変え、北方へと脱出した。
中央通りへ到達し、王都西門を眼前に見た時、ロマヌゥは信じられぬものを見た。
突然、兵が湧いた。