第八章『せめて鞍上にて果てよ!』(8)
娘は表面の荒い、薄暗い白色をした麻の衣を身に纏っていた。その赤髪は神気に触れたような光を放っており、常人と隔絶したその色は、しかしながら彼女を見やる人々の心を打った。
もはや春が近いとはいえ、寒気はまだ地に張り付いたままである。冷気を裂くような娘の足取りは、冬という季節そのものを砕くような決心を秘めながらも、水を打ったような静けさを帯びていた。
――赤髪のカルが喪に服している。
剣翁ロセの訃報はすでに全王都の知るところであったが、その娘が幽寂と道を行く姿は、一歩踏み出すごとに悲しみが律を奏でるようでもあり、彼女を慕う街娘からも言葉を奪った。
彼女はどこへ行くのだろう。
その沈黙は外界からの全ての声を拒絶するようであり、すなわち彼女の決心の表れでもある。
「剣翁の遺体を取り返しに行くのだ……」
群集が彼女を見守る中で、一人の老人が口を開いた。
剣翁の娘は南人居住区を覆い、さらに王都南部の道を遮断する王宮近衛兵を横目に粛々と歩を進めた。剣翁ロセを敬い、その娘カルを慕う人々が彼女の影を踏むようにして続いた。
どこからともなく、歌が聞こえた。
琴の音はか細く、しかし歌声は張り裂けんばかりの悲哀に満ちている。
――月光を孕めや剣翁の娘
――今宵の月は欠けゆくばかり
――聖火を灯せや赤髪の娘
――麻を纏うも亡骸はいずくぞ
歌は列を成す人々に口に乗り、やがて大きな声となった。その声が乱れなく黄昏を染め始めた頃、娘は南門近くの丘に立った。カルカラ率いるクーン剣士団一旅の陣営前に、彼女はいた。
誰もが言葉を失った。
娘は彼らの前に立ち尽くしたままであった。
「剣翁の孫達」の一人に名を連ねるカルカラが彼女の前に立った。白髪の混じり始めた壮年の男だが、体躯は雄大で、なるほどロセの苛烈な鍛錬に耐え抜いたのも頷ける偉丈夫である。
「ああ、カル殿。剣翁先生の訃報に、剣士団門下が悲哀に暮れております」
カルカラがそういった時、彼の背後に立つ兵の目が光った。王宮近衛兵団との衝突を回避するためにカルカラがどれだけ苦心したかが窺える。
娘はこれに沈黙でもって返した。訝ったカルカラが同じことを繰り返して言うが、それでも彼を無視した。
「我ら王都の守護者にありますれば、決して王に歯向かう事は許されませぬ!」
本部を救援できなかった経緯を、苦りきった顔でカルカラが口にすると、娘はようやく彼の目を見、小さく頷いた。彼女が俯くと、小さな光が地に落ちた。
微かにかすれた声。しかし場の静寂は彼女の力ない言葉を真っ直ぐに通した。
「我が義父、剣翁が逝った……」
風が吹いたようだった。髪を靡かせるほどの強さを持たぬそれは、しかし剣翁の娘を前にした戦士たちの胸中を轟然と駆け抜けた。
「義父の遺骸は敵中にあり、わたしは喪に服すことも叶わない。義父を想い、師の身を案じ、友を救おうと立ったときには、既に皆この世の人ではなくなっていた。わが身は病中にあるといえど、たった一人も弔えぬ惨めさの中で、わたしは移ろっている。一歩進めば心は百度引き裂け、立ち尽くせば魂が粉々になったようだ。剣翁の子らよ。わたしの兄上達よ。わたしはどうすればいい。しじまの王に祈りかけても、わたしは答えを見つけることが出来ない」
白い息が勢い良く空に散った。娘は決して嗚咽を漏らすことはなかったが、魂の声は黄金の光の中を幾度も白く染め上げた。
――赤髪のカルが泣いている。
空気がちりちりと燃えるような、静かな熱があたりから沸き始めた。
「剣翁の仇を取れ。聖火を灯せ!」
剣士の一人が声を上げると、心を同じくする者が続いた。
「今のわたしに、それが出来ようか……」
一人の放った声があたりに伝播するのを封じるようにして、娘は口を開いた。
さらに違う一人が言った。
「我らは皆、剣翁先生の子らも同然。先生のひとり娘である貴方を助けぬことがあろうか」
男は持っていた槍の頭を強く地に打ち付けた。槍や棒を手にしていた者達が彼に続くと、地が鳴動しかけたが、娘がまたもや口を開いたので、止んだ。
「兄上達の御気持ちはわかる。だが、白竜は垣根を越えること叶わぬ」
クーン剣士団は王宮近衛兵に動きを封じられている。自分達の吐いた言葉が、偽りであると言われたような気がしたのは、何も口を開いた剣士だけではない。
「剣士団である前に、我らはクーンの戦士だ」
中々自分達の戦意を認めようとしない剣翁の娘に対して、かえって自尊心に火をつけられた数人がいきり立った。
「何をもってクーンの戦士か?」
娘の声はそれでも彼らの力に縋ろうとする弱さを見せない。
「我らはクーン剣士団だ!」
どこからか声が上がったが、娘が即座に否定することによって伝播する力を失った。
「それだけではクーンの戦士とは言えない。義父の亡骸を取り戻す前に斃れるだろう」
娘の言葉は戦士達の胸を穿った。彼らはつい先ほど、剣士団の敗報に接したばかりである。
剣士達の勢いが増してきた。彼らは決して怒っているのではない。剣翁の娘が仇討ちを声高々に叫べば、皆が命を捨てる覚悟が出来ている。復讐という神聖な行為は、たとえ王宮近衛兵であっても邪魔立てすることは出来ない。親の仇討ちともなればクーン人の持つ倫理の中でも何よりも上位に置かれるからだ。仇討ちを果たせぬ人は、この国では人ですらない。
「竜とともに生き、竜より先に死ぬのがクーンの戦士だ!」
「我が愛竜は敵に奪われた。もはやわたしはクーンの戦士ではない」
スサは自宅に置き去りになった。今頃は餌を求めて主を呼んでいることだろう。そして娘は自分の認めた竜しか乗らないと言い切ったのであり、暗にこういったことになる。
――剣士団の助けはいらない。
矛盾だろう。自らの行くべき道を指し示して欲しいと言ったのは彼女の方だ。だが、剣士達は娘を非難するようなことはしなかった。
「赤髪のカルよ。そなたの竜ならここにいる」
唐突に口を挟んだのはカルカラである。彼が剣士達の後方に繋がれた竜の方を指差すと、雄大な体躯をもった一頭が大きく嘶いた。
歓声が上がった。もう、剣士達の熱気は娘の言葉で打ち消せるものではなかった。
スサが娘の前に引かれて来た。娘は麻衣の裾を大きくまくって腰元で結んだ。雪のような白さを讃えた腿が、引き締まった竜の背に添えられた。
「兄上達よ――」
娘は――いや、リョーンは戦士達を見渡せる高さに、初めて自らを置いた。剣士団一旅、その全てが自分を見ている。赤髪のカルを慕ってついてきた民衆は一言も発せず、彼女と剣士団のやり取りを見守っている。リョーンは自分の発した言葉が大地の奥底まで沁みてゆくような感覚がした。
「――貴方達は自らが剣士団である前に、クーンの戦士であると仰った。その証を立てて欲しい」
多くの剣士達が沈黙した。竜に跨ったということは、彼女が義父の仇討ちに立ったということであり、証を立てろといったのは、誓えぬ者は共に連れてゆけぬということである。リョーンが剣翁の娘というだけの女であったのなら、彼女の願いに卑屈なものが見えたかもしれない。だが、ここにきて彼女がカエーナと戦ったという一事が意味を持った。
――この娘は、あのカエーナと戦って生き残った。
カエーナが女に手加減をするような三流でないことを誰よりも知っている連中であるから、彼女の言葉が何を意味するのかをたちまちに諒解した。
ひとり、ひとりと竜皮でできた冑と皮鎧を脱ぎ始め、剣士団の紋章の入った鞘の紐を解いた。抜き身の剣と弓矢だけを手に取った彼らは、ほとんど内衣姿も同然であり、剣翁の娘と同じく喪に服しているように見えた。中には名門の肩書きを捨てることに躊躇いを見せるものもいたが、もはや周囲がそれを許さず、無言の恫喝の中で彼らも従った。
リョーンはもはや何も言わず、竜首をめぐらせると、北へ道をとった。
驚くべきことが起こった。
なんと、王宮近衛兵が道をあけたのである。クーン剣士団を一兵も通さぬように構えていたはずの彼らが、喪服を着た娘が先頭を駆る集団が現れるや潮が引くようにして兵をおさめた。
彼女が仇討ちを名目に立ったことで、この不可思議な事態が追い風となった。無論、この時点では剣士団の男たちは愚か、カエーナやロマヌゥまでもが、王宮で起こっている異変には気付きようがない。王宮近衛兵が引いたということは、彼らには別な任務が与えられたということであり、命令を受けた隊長の焦りきった表情は、この時点では一部の人間を除いて、誰かの目に留まるようなものではなかった。
とはいえ、もはやリョーンを邪魔する者などいない。
愛竜であるスサが鳴くと、リョーンは胸のうちにある曇りが晴れそうな気がした。
何故、スサがここにいるのか。
リョーンはふと、剣士団本部に顔を出したアドァを思い出した。剣士団を率いる資格があるものとしてリョーンの名を上げたのは彼であり、カエーナ派に包囲された剣士団本部を出入りしていたことから彼がただの椅子つくりではないことは明らかだ。何の証拠も無いが、スサを南へ逃がしたのはアドァであるような気がした。何か意図があってのことではなく、自分への餞別であるようにも思えた。
(王宮で何かがあった……)
王宮近衛兵の動揺に気付いたのは、この集団の中ではリョーンとカルカラの二人だけであった。他にも「剣翁の孫達」の一人であるピオという若年の男がいるが、彼は先ほどリョーンと問答を行っていた一人であり、やや感情に流されやすい。
さて、この集団のことを何と呼べばいいだろう。
クーン剣士団の印の入った武具は全て外しているから、誰がクーン剣士団の人間で、誰がリョーンを慕ってきた若者であるのか分からない。竜に乗って参戦したものは皆、剣士団の人間であることは確かなのだが、彼らは既にそういったくくりを超えていた。
彼らは歌う集団でもあった。喪中の歌舞は忌まれるから、これは歌は歌でも、鎮魂歌であり、同時に復讐の詩でもあった。彼らのことは喪服軍とでも呼ぶべきだろう。
――歩進めば心百裂し
――止めば魂魄が百度砕けぬ
――竜失くして仇討ちならず
――仇討たざれば、せめて鞍上にて果てよ
全ての人が、リョーン一人のために結集したといえる。
騎兵と歩兵の混在した喪服軍を上手く配置したのは激情に身を任せたピオではなく、経験豊富なカルカラである。歩兵に混ざった騎兵は戦場では何の役にも立たないため、彼は三百の騎兵をこの集団の右翼に配置した。
速やかに先行した騎兵部隊は南下して敗兵狩りを行っていたカエーナの部隊を痛撃した。騎兵が離脱した頃には歩兵部隊が到着し、足並みの乱れた敵兵に襲い掛かった。
だが、カエーナとて阿呆ではない。既に南方の別働隊が動き出した事実に気付いた彼は、陣を東回りに旋回させ、この喪服軍の横腹を突いた。
この戦闘で数十人が死んだ。
カエーナ自慢の百人隊は精鋭であるだけに進退の呼吸を極めていて、敵が怯んだと見るや一目散に北へと走った。
この頃にはすでに剣士団本部のロマヌゥがカエーナの命を受けて援兵を率いて発っていた。
兵数ではほぼ同等であり、士気の面でもそうであった。
カルカラはカエーナとロマヌゥの合流を阻止するために一息もつかずに騎兵隊を送り出した。歩兵の中でも足の遅い連中――主に元クーン剣士団の兵ではない者達は、ほとんど置き去りにされた。
これらの応酬が行われる間、リョーンは一度も陣頭に立つことなく、後方にいた。事実上、これはカエーナと、カルカラという二将の対決であり、しかし、勝負を決したのはやはりリョーンだった。
兵をまとめ上げ、彼らの心を掴んだのはリョーンが初めてではない。今やロマヌゥによって捉えられたエトが既にやったことである。実質的な指揮を部下に任せた点でも、二人は共通している。
だとすると、二人は同じ運命を辿っても良さそうなものだが、やはりリョーンはエトの失敗に学んでいた。
エトの失敗のひとつは剣士団本部の奪回にこだわったことである。散り散りになった兵を拾いつつ戦闘を行えば、倍くらいの兵力は用意できたはずだが、彼女はエリリスから指揮権を奪い取ったのであり、その地盤の不安定さから、剣士たちの怒りを一直線に向かせる以外に戦いようがなかった。
二つ目は、これは失敗とはいえないだろうが、エトの戦力は全て敗兵であり、リョーンが得た別働隊は戦闘を一度も行っていない新鮮な戦力であったことだ。そろえた兵の多さの点でもリョーンはエトの五倍であり、より有利にあった。
最後に、これはエトが考えもつかなかったことだが、リョーンは兵たちからクーン剣士団というまとまりを捨てさせたという一事である。ただの娘がそれを行うべくもないが、剣翁ロセの死は、カエーナの存在を剣士団への反逆者から王都全体の仇へと昇華させた。これにより、リョーンは剣士団の外部にいる人間からも支持を得ることができた。勿論、エトとは違って赤髪のカルという肩書きがあったことも幸いしている。
そのリョーンは、実に冷静である。問答によって剣士団の戦士たちに自ら剣士団であることを辞めさせることによって、彼らの戦う理由をロセの仇討ちという一点に集中させた。それは王都の全ての民と共有できることも、リョーンは意識していた。
緒戦のテーベは策謀に嵌まり、二戦目はエリリスの失態により本部を追われ、三戦目のエトは兵の統率に粗漏があった。これら全てからリョーンが導き出した答えは――
――将は動いてはいけない。
という、常識の域を出ない陳腐なものだった。だが、時にはこれを壊さなければならないということも、リョーンには分かるのだ。カエーナという最大の敵からこれを学んだということは、別に皮肉でも運命的でもない。人が何かを学ぶにあたって最大に好適な相手が敵なのである。
カエーナの兵は強い。
ピオ率いる騎兵隊の攻撃を受けても、びくともしない。
「化け物か、あいつらは!」
人間であるとは思えないほどに静かで、強烈な戦いをする者たちである。その力の根源は、一心にカエーナへの敬慕と忠誠にある。
騎兵部隊の動きが止まった。このままではロマヌゥに挟撃されて大損害を被ると考えたカルカラは、自ら兵を率いてロマヌゥ軍の足止めに向かった。
「好機……」
どう見ても今のリョーンは丸裸である。カエーナは前線とも後方とも取れない箇所で指揮を行っていた。前に出すぎても退きすぎても兵に侮られるということを知っているからである。
そのカエーナが、自ら先頭を突っ切ってリョーンのいる本陣に襲い掛かった。
「しまった――!」
騎兵部隊を率いるピオとロマヌゥを攻撃していたカルカラが同時に声を上げた頃、カエーナは百人隊を総動員してリョーンのいる本陣を叩いた。
カエーナが深々と突き進めば、彼に蹂躙された死体が道をなした。実際、この戦闘での戦死者の数は今までと比較にならず、カエーナがリョーンを討ち取ることで剣士団の息の根を止めると考えていることを如実に表していた。
――剣を抜け。今こそ義父の仇を取れ。
兵たちが仰ぎ見た先には既にリョーンはいなかった。何を考えたのか、彼女は急に遁走を始めたのだ。
本陣が大きく乱れた。カエーナがそれに乗じたのは言うまでもない。
(佯走か?)
テーベを罠に嵌めたカエーナであるから、リョーンの行動の奇妙さを訝った。だが、周囲をみても喪服軍の乱れは甚だしい。彼は疑念を捨て、リョーンを討ち取るために追撃を続けた。これによりピオの騎兵隊の包囲がわずかに緩んだ。カエーナもそれを承知していたが、騎兵部隊の到着よりも早くリョーンを消し去る自身があった。
リョーンに付き従ったのはわずか二十人の歩兵である。置き去りにされた部隊がようやく彼女達と合流し、カエーナを迎え撃った。
「西へ回り込め。側面から突けば必ず勝てる!」
この時になって、カエーナには見えていなかったものが現れた。
「駄目です。西へは行けません!」
部下からの報告にカエーナは目を丸くした。
撤退中の王宮近衛兵が西道を塞いでいるという報を受けた。戦闘配備はされていないから、彼らは剣士団の内紛の外から純粋に撤退を行っていたのだ。それが、リョーンが深々と退却を重ねたせいで戦線が広がり、ついにカエーナの活動範囲に彼らが姿を現すこととなった。
「初めからこれを狙っていたのか……」
カエーナは唾を吐き捨てた。年端も行かぬ娘に一本とられたということが屈辱であることも確かだが、負ければ即死という状況に身を置いている以上、今、即断しなければ全滅する。
「突っ切れ。赤髪のカルを討ち取れ!」
百人の精鋭が咆哮を上げた。