第八章『せめて鞍上にて果てよ!』(6)
王都東門の近くの広場に陣を置いたクーン剣士団を目にしたエトは、現実が自分の想像を超える暗さをもっていなかったことに安堵したが、しかしわずか百人程度に磨り減った兵力をみて幻滅した。
――負けた。
戦士たちの面持ちは暗い。地に座り込んだ者もおり、彼らの多くはエトが横切っても顔を上げることすらしなかった。これではもはや戦士ではなく、ただの負け犬だ。中にはまだ闘志をみなぎらせる者もいたが、決して多くは無い。兵の少なさよりも、テーベやロセといった中核を失ったことが何よりもの打撃であった。
「指揮官を見捨てて、おめおめと逃げてきたのか……」
そう言ったエトの台詞に自分を刺す棘はない。彼女はタータハクヤの救出を他ならぬテーベに命じられたのであり、危急を予感し、自らの責務を果たしたという気持ちがある。テーベからタータハクヤの救出を命じられたときに一瞬でもごねていれば、彼女達もカエーナの突入に巻き込まれ、今頃は虜になるか、死んでいただろう。
生と死の狭間で誤った決断をしなかったことは、エトのような戦場を踏んだ経験が浅い者にとって誇らしいことだ。たとえそれが敵を前にしての逃走であったとしても、次に繋がるという自信があった。
(テーベは逃げても恥じなかった)
人は万能ではない。どんなに優れた武人でも、戦いのときに天候や人の思考がほんの僅かに狂っただけで敗北を免れないことがある。こういう敗北が決定したという場面に遭遇した時、本当に優れた人は、どう負けるかを考え、負けた後に再起する機会を待つものだ。敗北を嫌い、勇み走って無駄に命を散らすのは、戦いを断片的にしか見ていない証拠であり、そういう人は自分の人生すら同じようにしか見れず、敗者となった今の剣士団兵のようにたった一度負けただけで再起不能になる。そして、世間はこういう人間に対して容赦なく屑の烙印を押す。
エトが見つけたリョーンも、人間の屑に成り果てていた。
彼女は最後まで戦おうとしたが、無理やり脱出させられたことをエトはここに来るまでの間に既に聞いた。だが、それが何だというのだ。エトにとって今、目の前で涙を枯らす女は敗北や不運を理由に戦いを放棄しようとする卑怯者である。
人が戦いを怖れるのは敗北が怖いからではなく、再び戦うという行為に自分を奮い立たせる労力を惜しんでいるのだと、若いエトは考える。敗北は確かに辛いが、それよりも戦いを続けるほうが遥かに辛い。人生を戦いに例えた時、普通の人は未来に不毛なものしか見なくなるからだ。
地に座り込んで力なく空を見上げるリョーンを見るや、エトはその頬をひっ叩いた。
「折れた刃は、もう刃じゃない。親を援けに行かないお姉は、もう剣翁の娘じゃない。師の仇を討とうとしないお姉は、もうシェラの弟子じゃない。タータハクヤの受けた恥を雪ごうとしないお姉は、もう友じゃない。私と共に戦わないお姉は、もうお姉じゃない。今のお前は誰だ。さあ、言ってみろ!」
エトはリョーンの襟元をつかんで叫んだ。
「痛いよ、エト。放して……」
左胸をさすりながら、リョーンが言う。その声には芯が無く、まるで老婆が話すようでもある。
(なんという腑抜け!)
エトは生まれて初めてリョーンという女に幻滅した。この瞬間、エトは心の中で神のように祭ってきたリョーンを棄てた。とはいえエトにとって新たな神がテーベになったわけでもなく、彼女はここに来て、何かを妄信するという自分を棄てたのだ。何をするにしてもリョーンを倣ってきたエトにしてみれば、ようやく一人で歩き出す時がきたというべきだろう。彼女ももう十六であり、世間では立派な大人なのだ。
そしてリョーンもまた、エトとは違う形で幼い自分を脱ぎさる時が来たはずだった。
だが彼女に訪れた試練は、成長の代償として耐えるには重すぎた。
義父ロセと、師シェラの生存が絶望的になればなるほど、現実はリョーンから再起する力を奪った。悲しみを乗り越えた時、人は強くなるが、悲しみが強さとなることは決してない。
エトはもう、悲しみに押しつぶされてゆくリョーンにやさしく手を差し伸べることをしない。彼女は前だけを見た。そうしなければ死ぬという現実が、エトを戦の狂騒に駆り立てなかった。天下最強のクーン剣士団があっけなく崩壊する様を見て、戦いという現象のとらえどころの無さを肌で知ったからだろう。うろたえたり、怒りや恐怖に身を任せれば、必ず決断が鈍り、死が近くなる。
「お前達はお姉をつれてキュローの元へ行け」
護衛たちにそういい残すと、エトは陣の中央に向かった。
怒声が聞こえた。
髪を振り乱して狂ったように声を張り上げる男がいる。
エトは、最初それがエリリスであることに気付かなかった。冷静沈着な剣士団長は狂ったようにひとつの台詞を繰り返していた。
「援軍はまだか。キュローに出した使いは帰らんのか!」
側近達は口をつぐんでいる。彼らはあたふたするばかりでエリリスの質問に答えようとしない。その側近達の更に外を数名の剣士が囲っている。彼らの顔に恐怖ではなく、怒気が浮かんでいるのを見て、エトはエリリスの身を危ぶんだ。
(このまま敗戦や逃走を続ければ、エリリスは部下に殺される……)
エリリスの戦場での才は平時から疑問視されていた。それを補うべくチャムやテーベといった面々が彼の両脇を固めていたのだが、今になってこれが仇となった。
(この人が死ぬと、タータハクヤが困る)
今のエリリスはタータハクヤの後見人である。彼が死ねば、タータハクヤ家復興の望みが絶たれてしまう。これでタータハクヤが赤貧の中に埋もれてしまうことは無いだろうが、貴族に返り咲けないとすれば、彼女は自らの人生を放棄するかもしれない。
エトはエリリスの前に立った。
「キュローは兵を出しません。永遠に来ない援兵を待つより、速やかに反転し本部を攻撃すべきです」
側近の言葉に耳を傾けることをしなかったエリリスだが、どうやらエトの声は聞こえたらしい。彼は目の前の少女の目を覗き込んだ。普段の細い目が、今は竜の様にぎょろりと自分を見据えている。
(正気ではない……)
エリリスの狂気に照らされるのを嫌ったエトは、しかし目を逸らさずに言った。
「キュローが援軍を出さないわけは、単純に王宮近衛兵に原因があります」
「どういうことか?」
エトに正気を疑われたエリリスだったが、しかし問いを発した声は静かである。
「王宮近衛兵はクーン剣士団を三分しました。これは王の内命を受けて我らを覆滅するつもりであるとも取れますが、この絶好の機会に襲ってくる気配がありません。彼らの態度が不透明なのは、王宮が別の問題を抱え込んでいるからであり、我々が一日にしてことを決することを避けたともとれます。キュローは、あるいはこれについて何らかの情報を得ているとも考えられます」
言いながら、エトは自分の頭に浮かんだ想念が複雑すぎて整理しきれなくなりそうであった。
彼女が南人居住区を飛び出したのは王宮近衛兵の動きに不審なものを感じたからであるが、しかしいざ東門についてみるにこの予想が外れたことを知った。つまるところ、王宮近衛兵による干渉の目的はクーン剣士団の覆滅ではなく、違うところにあるということだ。
「しかしながら、このまま王都内を逃げ回るのも限界がありましょう。ここは決死隊を編成し、本部の奪回に専念すべきかと思います」
エリリスの目に落胆の色が浮かんだ。
――知恵を出すと思わせておいて、突撃しろだと。それなら都外に逃れたほうがましだ。
といった言葉が聞こえてきそうだ。カエーナの手勢一千に対して決死隊を編成するのなら、ここにいる百人ではいかにも足りない。増してや相手は剣士団本部という居城を手に入れた。カエーナは本部を放棄して路上に兵を晒す愚を避けるだろう。守る相手を攻める以上、寡兵での決死隊は意味を成さない。それをこの少女はやれという。
失望がまた、エリリスを狂気に戻した。彼はもはやエトが何を言おうとも聞かなかった。
「嵌められた……キュローめ、わたしを謀ったな――!」
再び怒声を散らし始めたエリリスを見たエトは、もはや強硬手段に訴えるしかないことを知った。この場に「剣翁の孫達」の一人でもいれば事態を収拾できたかもしれないが、一平卒程度のものが集まっているだけである以上、無理やりにでも誰かが皆を纏めねばならない。これを怠れば次にカエーナが兵を起こした場合、最悪全滅する。エリリスの傍を固める者たちは皆、剣士団の経営に関わってきた者たちでいわば文官であり、このような時に人を糾合できる器はないように思える。
エトはエリリスの傍の白竜に近づくと、いきなり飛び乗った。
「何をしている!」
声を張り上げた側近がエトを引きずり下ろそうと手を伸ばした。すると、エトはにわかに抜剣し、叫んだ。
「聞け、負け犬たちよ。聞け――!」
頭上からの突然の声に、地に座っていた剣士たちの目が上がった。彼らの見た先には、クーン剣士団長の象徴である白竜に跨った少女の姿があった。
(ああ、あの弓を良く射る娘か……)
本部防衛線で活躍したエトは多くの兵にとって知るところとなっていた。彼女がテーベに目をかけられていたことも、この時は幸いした。
少女は言う。
「……初代ラーム以来、クーン剣士団は二十年もの間王都の守護者であり続けた。それが今、にわかに湧き出た賊に本拠を奪われ、王都を追われようとしている。私が聞いた話では、初代は敗退を恐れず、三度負けても四度目には必ず勝ったという。また、西侯アクスは敗退した武将を罰せず、必ず次の戦に出撃させて恥を雪がせたとも聞く。しかるに今の君たちはどうか。一度負ければ城に籠り、二度負ければ城を捨て、三度負ければ失うものは命だけであるというのに、もはや戦うことをしない。君たちが剣をとらぬがために、女である私が白竜に跨り、ただ一人雪辱のために起った。私が死した後、王都の人々はこう語るだろう。初代ラームの頃は女子供と共に戦い、二代エリリスの頃は女子供が先陣を切ったと。もし、君たちの中に初代や西侯のように、必ず汚名を晴らそうという者がいるのなら、剣を取り、竜に跨り、私とともに鞍上にて死を迎えよ!」
エトの言葉は戦士たちの胸中にこだました。
ひとり、ひとりと抜剣し、エトの元に集まった。彼らはエリリスの側近を蹴散らし、共に逃げ延びた竜を牽いて馳せ参じた。
「号令を……」
下方からの声に驚いたエトは、思わず足元を見た。先ほど白竜に乗った自分を制止しようとしたエリリスの側近である。
「こういう、上下の心が一になっている時は、勢いを無駄にしてはいけません。すぐさま号令をかけ、カエーナを討ち取るべきです」
戦には全く使えない男であると思ったが、どうもそれはエトの思い違いであったようだ。文官じみた職についているからといって、気骨がないとは限らない。エトはこの男に好感を持った。初老の男で、エリリスよりは年上に見える。
彼は万が一のために副官を決めておくようにエトに言った。もはやこの者たちを束ねるのはエトしかおらず、しかし突出して権威を持つ者がエリリス以外にいない以上、時を置けば必ず誰が指揮官になるかでもめるようになる。それを避けるためにも今は電撃戦しかない。
「緒戦でテーベ殿を救出する時に殿を務めた部隊があったろう。その中に隻眼の男がいたはずだが、彼はここに来ているだろうか?」
エトの初陣を見届けた人である。たった一度肩を並べて戦っただけであるが、エトは彼の行う部下の統率に優れたものを感じた。
「彼なら死にました。団長の命で我らの後拒にあたりましたが、追撃部隊との戦闘中に斃れたとの報告を受けました」
側近は淡々と語った。この人は自分よりもずっと死に慣れていると、エトは思った。
「では、貴方に頼みたい」
「承知しました。それでは号令をかけて下さい。カエーナを討てと」
「わかった」
エトは空を仰ぐと、深く呼吸した。遠くに竜の尾のような形をした雲が見えた。
(昨日知り合った人が今日死ぬ。それに私は今日死ぬかも知れない)
何故、自分は戦うのだろう。元来エトはロセの連れであり、クーン剣士団に籍をおいているわけでもない。リョーンの様に剣士団の人間に教えを受けているわけでもない。確かにテーベは自分に戦いというものの凄まじさを教えてくれたが、彼は師ではない。
カエーナはエトにとってタータハクヤを辱めた仇敵だが、テーベはもとよりカエーナも怒りに身を任せる戦い方をしなかった。戦いは感情ではない。感情で戦えば、それは必ず不毛な争いとなり、感情が冷めた頃には収拾するのが困難になる。極論すれば、人は怒ったまま戦ってはならず、戦いながら怒ってはいけない。
――今日こそは満足のゆく死を見つけたまえ!
ふと、自分とは別のところに感情を置いていた隻眼の戦士の言葉を思い出した。彼は自らの死に様に満足できたのだろうか。
(共に戦った者がカエーナに殺された。それで十分だろう……)
自分はクーン剣士団が好きなのだ――と、エトは今更ながらに思った。
エトが剣をかざすと、彼女を取り囲む剣士たちも倣った。
「行くぞ。カエーナを討ち取る!」
百人の剣士たちが怒涛の反撃を開始した。
リョーンは彼らの流れに逆らうようにして、護衛達に連れられて南人居住区に入った。リョーンの後に続くようにしてエリリスも逃れた。
「リョーン、生きていたのね。よかった!」
タータハクヤはリョーンの顔を見るや、車椅子を走らせ、抱きついてきた。彼女の顔を見たとき、止まっていたはずの涙がまた溢れ出した。
「ナラッカ、シェラが……義父さんが……」
ついに、リョーンは声を上げて泣いた。これが本来の彼女の姿であることを知っていたのか、護衛の中で彼女のことを情けないとなじるものはいなかった。
普段は厳しいところに己をおいているつもりのリョーンだが、実は常に心のどこかで甘える人を探していることをタータハクヤは知っている。ロセの背はそれを拒絶するが、リョーンはそれにさえも甘えることがある。
(この娘の孤独は、私以上かもしれない……)
タータハクヤはリョーンの頭を撫でながら、思った。
――大丈夫よ。シェラも、ロセも絶対に生きてるわ。
などという気休めを吐く事は出来ない。自らが死に瀕した経験が、現状に楽観を許さないのだ。だがそれゆえに、彼女にはリョーンの涙を拭う術が無かった。
「エトには会わなかった?あなたを追って出たのだけれど……」
リョーンが泣き止むのを待って、タータハクヤはエトの安否を問うた。だが、リョーンの口から出た答えは、彼女の想像を凌駕していた。
「兵を率いて……あの娘が……」
口をパクパクさせながら、彼女の顔が青ざめるのを見たリョーンは、エトを止めるということすら頭に無かった自分の不甲斐なさに、更に打ちのめされた。それでもエトを助けに行くという言葉が出ない。今の自分が行っても彼女を苛立たせるだけであり、ただの足手まといは戦場で他人の命を危険に晒す。だが、戦場を知らないタータハクヤは、このことを頭ではわかっても心の底から理解しないだろう。
「駄目よ。すぐに連れ戻さないと……」
タータハクヤの焦りかたが尋常ではない。確かにエトは生命の危機に瀕しているが、彼女はエトの死とはもっと別の何かを恐れているようだった。
「空に、あれがいるのよ。恐ろしくて見上げることは出来ないけれど、今もまだ確かにいるのよ……」
リョーンは庭先から見える空を見上げた。特に何が見えるわけでもない。タータハクヤは何に怯えているのだろうか。
彼女達はキュローの屋敷に身を寄せていたのだが、その内に奥のほうから怒声が聞こえてきた。エリリスの声だった。
「少し、外を歩いてくる……」
リョーンはエリリスの動揺が自分のそれに重なるのを怖れたのか、逃げるように屋敷から飛び出した。
南人居住区を歩いて回るリョーンの足取りは、当然ながら黄泉に沈んでゆくように重かった。
一歩進むたびに、胸が百度張り裂けるようである。
突然、ハルコナの言葉を思い出した。
――もうすぐ、あなたの大切な人が死ぬ。
予言であったと思えば、なおさら二人の安否を気遣う気持ちが絶望の底に沈んでゆく。
考えてみれば不可思議なことが多い。キュローは義弟とはいえ、一家の者が死に瀕しているというのに援兵をよこさないばかりか、シェラの名を口に出すことすらしない。
また、王宮近衛兵によって大多数の「剣翁の孫達」が南北に孤立したが、近衛兵はその後に目立った動きをするわけでもない。エトの言うように王宮がカエーナ派を支持したとは考えにくい。
エトが演説で見習うべき武人の姿として西侯の名を出したように、リョーンやクーン剣士団の一平卒たちは西侯の陰謀について知らされていない。だから、リョーンには王宮やチャムの不可解な動きの謎を解くことが出来ない。
「そんなことは、どうでもいい」
自分が今直面しているのは、義父と師の危機であり、いつまでも彼らの身を案じるままでいいのかという虚しい問いがある。エトに面罵されずとも、それくらいは分かる。だが、何をしろというのだ。リョーンは確かに、護衛兵によって無理やりに戦場を退去させられたが、死ぬ気であがけば拘束を解くことが出来たかもしれない。それをやらなかった自分が誰よりも許せない。
――わたしは自分の命を惜しんだ!
リョーンは何よりも自分の弱さに打ちのめされていた。シェラならばそれが人のある姿だと一笑のもとに捨て置くだろう。心の内のシェラにさえ、甘えようとする自分の中で、リョーンは溺れているのだ。
戒厳令が敷かれたも同然であるから、街の中は閑散としている。その中でいつの間にか立ち止まっていた自分に気付いたリョーンは、同時に路傍で筆をとる男の姿が目に入った。
「まだ、動かんでくれよ。輪郭だけでも描かせてくれ」
鼻筋を斜めに断つような傷を持つ男だ。彼が自分を描いていたことに気付いたリョーンは、男の言葉に耳を貸さずに彼に近づいた。
「動くなといっただろうに……」
男は苦笑した。
「こんなところで何を?」
「見ての通りさ。絵を描いている。絶望に打ちひしがれた赤髪のカルともなれば、高く売れるだろう……」
リョーンはむっとした。だが、今は誰かを罵倒するような元気がない。
「不謹慎な……」
彼女の言葉に、男は目を光らせた。
「父親や師が死に瀕しているというのに呑気に街を歩くのと、どちらが不謹慎かな?」
突然の暴言に、腹に焼けた鉄棒を捻じ込まれたような感覚がしたリョーンは、しかし怒りがたったのは一瞬で、すぐに自らを嘲笑った。
「その通りだ。師父を助けることを忘れ、わたしはこうやって恥を晒している……」
――何故起たぬ?
といえば、リョーンはこの男のことを疑うだろう。どこぞの絵師が口にすべき問題ではない。
「恥をさらす自分に満足している。人は恥を耐えることが出来るのに、戦いをやめることは出来ない」
自分が弁護されたような気がしたリョーンだったが、心中で反発の言葉が上がった。
(違う。わたしは二人の死を知りたくないだけだ。二人が死ねば、我を忘れて復讐に身をやつすだろう)
リョーンは自分の弱さをそう断定した。だが、男はリョーンよりもよく彼女の心象を理解していた。
「今の君は、自分の弱さを呪っているようだが、弱さとは何だ? 動かないことが弱さか? 恥辱や怒りに身を乗っ取られず、じっと耐え忍ぶことは強さではないのか? 今の君の弱さは状況の変化に心胆が疲れ、もうこれ以上自分の住む世界を変えないで欲しいという願望に逃げ込んでいることだ。そうやって自分の見たいものばかりを見て、自分の中に沈んでゆく。君が本当に許せないのは、自分の外の世界であって、君自身ではない」
ふと、全身の力が抜けるのを感じた。その場に膝をついたリョーンは、眩しそうに男の顔を見つめた。
「貴方の言う通りだ。わたしは身内の命を案じる自分に託けて、自らを労わっていた」
何かから醒めた様な、そんな清々しさを覚えた。鼻筋を断つ傷跡がわずかに歪んだ。男が笑ったのだ。
どういうわけか、ハルコナの顔を思い出した。思えば彼女の予言はリョーンを自分の世界から引きずり出すためにあったともいえる。男の顔の傷が、ハルコナの胸に穿たれたそれを想起させたこともある。
鼻筋を断つ様な傷。リョーンはタータハクヤから聞いた奇妙な琴師の話を思い出した。
「もし、貴方の名はキツというのでは?」
リョーンの言葉に答えるようにして、顔の傷がまた歪んだ。