第八章『せめて鞍上にて果てよ!』(2)
テーベ率いる一旅の剣士団兵はその殆どが騎兵である。市街戦での騎兵の不利に気付かないほど愚かではないが、それでも彼はクーンの伝統に則った戦法を選んだ。
南区中央通りを突っ切ったところで北上し、王宮の二重城壁を横に見ながら北から攻め込めむつもりだった。北側の守りが極端に薄いとの信頼できる情報があったからだ。テーベが北方から攻め込めば、王都の東部と南部に配置されたクーン剣士団兵による西区包囲網が容易に完成する。
だが、中央通りに至る前に北からの西区攻略は不可能となった。にわかに沸いて出た王宮近衛兵が、中央通り以北への通行を遮断したのだ。テーベはやむを得ず、西区を正面突破することにした。
アシュナ王女と最上級神官を乗せた巨象が暴れ狂った記憶が新しい中央通りの噴水前で、テーベは竜を止め、王宮近衛兵を率いる男に向かって言った。
「我らクーン剣士団はドルレル王より都の治安を任されている。今、カエーナなる賊が西区に兵を挙げた。早期鎮圧のため、そこを通していただきたい」
テーベはそう言ったが、既に先行の部隊が西区へ直行している以上、近衛兵からどのような答えが返ってくるかは分かりきっていたのだ。ただ、彼はクーン剣士団の幹部として、この度のクーン剣士団の内紛に対する王宮の反応を窺う必要があった。
当然ながら、近衛兵の返答は否であった。
「我ら王命により、戦火の拡大を防止せねばならん。中央通り以北及び南人居住区における武力行為は我らが鎮圧する」
テーベは舌打つこともせず、反転した。彼はチャムの言ったことを思い出していたのだ。
(王宮は西侯を見ている。チャムが言うような剣士団の危機ではない……)
昨夜に届いた西侯薨去の報は、訝しい点が多い。恐らく王宮もそう見ているだろう。だが、やはりクーン剣士団に対する王宮の反応が冷ややかなのは、内紛により王都が乱れていることだけが原因ではないように思う。
中央以北での戦闘行為の禁止は、言うまでも無く王宮の安全のためである。南人居住区の保護は、ナバラ王国の反応を視野にいれてのことだろう。別段、怪しむべき点は無いが、これによりテーベはカエーナとの正面衝突を強いられた。雑兵相手とはいえ、ある程度の犠牲は出るだろう。チャムの説く剣士団危機を過剰と断じたテーベであったが、クーン剣士団の兵数が千を切ることがあるとすれば、それは王都での剣士団と近衛兵団の力関係が逆転することを意味する。ドルレル王の気分次第で、チャムの言う剣士団撲滅が実現するかも知れない。
――一撃で勝つ。
チャムはテーベならばそれが出来ると信じ、剣士団の指揮を彼に委ねたのだ。この期待に応えられないようでは、武人の恥だ。
(カエーナに潜伏されるとまずい。まずは奴を炙り出さなければ……)
事前に策を講じていたテーベだったが、西区に踏み込むなりカエーナの顔が見えたときは、内心ほっとした。カエーナが現れなければ西区を蹂躙することにより、この戦を終わらせるつもりだったからだ。
テーベの駆る竜が踏みしめた路地は、少し細いが西門まで真っ直ぐに伸びている。三百ほどの歩兵の中にいても、背の高いカエーナは目だつ。先行部隊は彼らと少し距離を空けてにらみ合いをしていた。シェラによるタータハクヤ救出作戦によって、奇襲をかけるには互いに機を逸したのだ。シェラの作戦を奇襲とすれば、緒戦はクーン剣士団側に先に土がついたことになる。
テーベは単騎で乗り出し、カエーナの元へ竜を進めた。カエーナもまた、それに呼応して静かに歩み出た。にらみ合いの行われていた数十歩の空間に、二人は対峙した。
先に口を開いたのはテーベである。クーン武人のたしなみというべきか、テーベは時代がかった口調で言った。
「我、将に狩りを楽しまんとす。然るに皆竜を見ず。我、汝がために兎を得ん」
狩りを楽しみにここまで来たのに、貴方達は竜に乗っていない。貴方のために兎でも狩ってきましょうか――と、まずテーベがカエーナをからかう。戦場での戯言は返しの方が重要で、この一言に武人の教養が問われる。
まさか怯んだわけでは無いだろうが、カエーナは一歩退いた。当然ながら挙措も含めたこの場でのやり取りは重要だ。カエーナが一歩退けば彼の兵も揃って後退し、テーベが前に出ればそれに呼応してクーン剣士団兵が一歩進むという具合である。
数歩退いたところでカエーナが口を開いた。
「老竜八駆、前途茫々たり。余人、縄をもって献ずるは白犬の尾。竜走らずも、逸すべきなり。あに兎などを得ん」
老いた竜を走らせれば八歩ほど進んだところで力尽き、どうしようもない。とはいえ、ある人が白犬の尾を献じてくれたので、竜が走らなくても楽しむことは出来るのだ。どうして兎なんて要りましょうか――と、カエーナは返したのだ。
からかいの言葉をあえて労うかのような返答が模範的とされるが、カエーナは挑発を真面目に挑発で返した。これは、自軍が圧倒的劣勢にある場合に用いる手法である。
テーベは鼻で笑った。だが、竜首を返しながらその目は鋭く周囲の建物を観察していた。
肉眼で確認することは出来なかったが、自分に対してきりきりと弓を引く音が聞こえたような気がした。
(もう一歩前に出れば、危なかったかもな……)
カエーナが背を向けたことで、テーベもまた前方を向いたまま竜を後退させた。明らかにカエーナの奇襲を警戒しているが、テーベ陣営の兵達もカエーナに矢尻を向けている点では敵と同じだった。戦場の儀礼を損する者がいたとすれば、その場で蜂の巣にされるのがクーンの掟なのだ。
テーベもまた弓に矢を番えると、敵の向こうの空に向けて放った。それと同時に両陣営で鬨の声が上った。
テーベの先陣が突っ込むと同時に側面の建物に潜んだ兵が矢を射掛けた。数人が竜から転落したが、それでも盾を持たないクーン剣士団兵の先陣は、軽騎突撃を行った。
先陣が深々と敵の陣中に食い込んだ時点で、側面の家屋に潜んでいたカエーナ剣士団兵は孤立した。テーベは数少ない歩兵を左右に配し、彼らを殲滅した。
歩兵のみで構成されたカエーナ剣士団の先陣は一撃で粉砕された。カエーナは慌てて騎乗すると、ロマヌゥに任せていた後方の百人隊と合流し、後退を繰り返した。
(陽動だな。はは……下手な芝居だ)
カエーナの力量をよく知るテーベには、この先に潜む伏兵が見えすぎるほどに見えていた。
彼が一瞬迷ったのは自軍の勢いが思ったよりも強く、逃走するカエーナに追いつけるかもしれないと思ったからだ。
戦場で、敵の策略を予想することは難しいことではない。本当に難しいのはそれに対して決断を下すという一事である。罠と知っていながらそれに嵌るという例が、呆れるほどに多い。
テーベは右手を上げ、前方に向かって振り下ろした。敵が用意した罠に至る前に全てを終わらせる方を選んだのだ。数騎が彼の横から離れ、逃走するカエーナを猛追した。自軍の陣形が伸びきってしまうが、それでも耐えられるとテーベは判断したのだ。
「追ってきた。テーベは伏兵に気付いていないのか?」
カエーナと併走するロマヌゥが言った。まさか市街で騎兵戦を行うことになろうとは思わなかったようだ。カエーナはロマヌゥを諭すような口調で返した。
「気付かぬはずがあるか。気付いたからこそ、追ってきたのだ」
「側面を突けば分断できそうだが……」
「剣士団はそんなに甘くない。我方の兵力では足止めが限界だろう」
「では、やはり……」
ロマヌゥの顔が曇った。
「汚いと罵るか? だが、勝つ為に知略を尽くすのが戦いの本懐だ。罠に嵌って負ける方が悪い」
敗走を続けるカエーナ剣士団であったが、西区とて無限に広いわけではないから、ロマヌゥの顔に焦りの色が見えたとしてもおかしくない。ただ、彼が顔色を変えたのはテーベに猛追されていることとは別の理由があった。
「カエーナ、空だ。あれが見えるか?」
ロマヌゥが右方を指差した。どうやら王宮の向こうの空に何かがあるらしい。だが、カエーナには彼の声は聞こえていなかった。後方のクーン剣士団兵の追撃が止まったからだ。
「全隊、反転しろ。一人も生かして帰すな!」
カエーナは自ら反転し、隊の先頭に立った。視線の先には、落馬したテーベが脇腹から血を流し、地に膝をつけていた。
テーベにとっては予想だにしない事件が起こった。
剣士団でも彼の直属の部下、腹心中の腹心ともいえる男が、にわかに剣を抜き、後方から斬りかかってきたのだ。
「貴様……」
内通者に対する注意を怠ったわけではなかったが、それでもこの事態はテーベの予想を超えていた。
「テーベ様。私の出身をお忘れですか?」
そう言って、西区出身の男はテーベの左脇を刺した剣を引き抜いた。血を振り払い、鞘に納める前に、怒った側近によって彼の首は落とされた。
「くく……死んでこその刺客よな」
落馬する瞬間、テーベは自分を騙し通した男に賛辞を送った。西区出身というだけで寝返ったわけではあるまい。真相は分からないが、カエーナ側に付かざるを得ない理由があったのだろう。妻子は西区にいるというから、人質に取られたのかもしれない。家族の命惜しさに裏切るなどとクーンの戦士として恥ずべき行為だが、剣士団の内紛という状況下ではどちらに正義があるわけでもない。戦いが長引けば、彼のような者が今後増えるだろう。
台詞こそは余裕を見せたが、テーベの表情は苦りきっていた。
彼の落馬と共に、クーン剣士団は動きを止めた。大将を真っ先に討ち取ることで早期決着を目指したテーベだったが、カエーナもまた同じであったのだ。
カエーナ率いる百人隊が、落馬したテーベ目掛けて突撃した。
「こいつは何かあったようだな。先陣が乱れはじめたぞ……」
片目の潰れた男は、前方の兵が停止したのを見ると手綱を引き絞った。エトもまたそれに倣った。
「竜が驚かないな。ロセの連れだけあって、騎竜は心得ているようだ」
そう褒められた時はエトもまんざらではなかったが、やはり前方の様子が気になった。陣形が崩れているようには見えないが、兵達がざわついている。
――テーベ様が負傷なされた。
その報に接するや、片目の男の顔つきが変わった。だが、のんびりとした口調は変わっていない。
「大将の癖に血走って獲物を追うからだ。『剣翁の孫達』は実力はあるんだが、皆が初代の様に天運に恵まれるわけではないとは、どうやら教わらなかったらしい」
彼がひとりごちている間に、先陣が崩れた。前方から雪崩をうって敗走する兵達を見て、エトは首筋に寒気を感じた。
「さて、仕事だ。諸君。今日こそは満足のゆく死を見つけたまえ!」
男がそう言うと、十騎ほどが駆け出した。エトは彼らの尾を掴むように竜を走らせた。
「嬢ちゃん……」
と、片目の男が速度を緩めて併走してきた。
「何ですか。退けというのはもう無理ですよ。それに私にも名前があります。エトです」
エトはつんとした口調で返した。
「テーベはああ言ったがね。俺が見るに嬢ちゃんには見込みがある。先陣が崩れたからといって取り乱したりはしないし、何よりも竜が落ち着いている。俺が童貞を捨てた頃は酷かったからね」
「それはどうも……」
「今日はよい機会だから、嬢ちゃんも『初めて』を捨てなさい。何、俺達がテーベを救出する間に、二、三人射落としてやればいい。ロセの娘の出来が悪かったんでがっかりしていたんだが、嬢ちゃんならチャムの片腕になれそうだ。だから、今日は二、三人殺しておきなさい」
エトは黙って頷いた。
男は無秩序に退却を始める兵達に大声で指示を出した。よく通る声だったので、散り散りになりかけた各隊が隊長の元に集結するようになった。これで大敗は免れたと思ったのか、男は十人ほどの部下と共に最前線を目指した。
エトは男のすぐ後ろに付き、敗走するクーン剣士団兵の中からテーベを見つけ出した。負傷し落馬したと聞いたが、それでもクーン最高の戦士を名乗るだけあって、背筋を伸ばした姿勢でしっかりと手綱を持っている。相乗りになった兵が必死で脇腹の治療を行っているが、当然ながら揺れる騎乗姿では止血もままならない。
テーベはエト達を見とめるとわずかに口元を緩めた。
(補欠部隊なんかじゃない。殿なんだ。味方が敗走した時にだけ戦う……)
矢と剣戟の音が飛び乱れる中、テーベと目が合った。互いに何も言わず、ただテーベは静かに頷いただけだった。敗走の将とは思えない落ち着きが彼にはある。エトはテーベが負傷したと聞いた時、口先だけの男であったかと思ったが、今の彼には周囲の兵を安心させる何かがあり、それに触れたと感じた時、小さな感動を覚えた。
敵が目前に迫っている。エトと十人ほどの殿部隊は、踏みとどまり彼らを迎え撃つ。気付けば自分達の周りに更に兵が集っている。ただの一撃で粉砕されるようでは王都の守護者を名乗ることは出来ないのだ。
「来たぞ。射よ!」
片目の男が叫んだ。
エトは身体の中から何かがふわりと浮かんだような感覚がした。熱気にも似たそれは、いとも容易くエトに弓を引かせた。
エトが放った矢は、正面から迫り来る百人隊の騎兵の目に当たった。続いて流れるように弓を番え、二人目の眉間を射抜いた。
「見事だ、嬢ちゃん。初陣にしては上出来だ!」
片目の男が槍で敵歩兵の胸を貫きながら叫んだ。
エトは今自分を支配している熱が、激怒した時に感じる一種の静けさに似ていることに気付いた。それは狂気以外の何物でもなかったが、身を任せたときの心地よさは何かに例えることなど出来ない代物だった。
(嗚呼……人を殺すって、頭が狂っておかしくなる事なんだ……)
どうしようもないほどに無防備に、エトは二人の命を奪った右手を見つめた。
クーン剣士団は中央通り近くまで後退した。テーベはそこでようやく治療を受けたのだ。
「騎兵の数が少ない。カエーナの姿も途中で消えたぞ……」
殿で戦っていた部隊は、敵の追撃が突然緩んだことを訝しんでいた。
エトはその中でひとり、噴水の端に座っていた。
弓は飛び道具だが、相手を殺めた時の感触はこの手に残るものだ。人が手応えと呼ぶそれは、エトの心に鈍く重い感触と音を残した。
「うまくやったな。テーベも褒めていたぞ。あの生意気な餓鬼はロセの娘よりは見込みがあるって……」
竜皮の胸当てを血塗れに汚した片目の男が、エトの横に腰をかけながら言う。
「お姉には叶わないよ。だって、ほら……」
そう言って、エトは右腕を男の方に出して見せた。
「震えが止まらない……」
泣き入りそうなエトの声を聴いた男は、しかし豪快に笑った。
「何、最初だけだ。そんなものはすぐに止むさ」
「そんなものかな。人を殺めた代償は……」
「嬢ちゃん。人を殺すのに一々対価を支払うなんてのは、金の亡者たる南人の考えだ。それに対価なら既に支払っているよ。嬢ちゃんはさっきまでずっと死に掛けてたんだからね」
エトはもう、何も言わなかった。話をする相手を間違えたと心底思ったからだ。
(お姉……)
エトが人を殺めたと知ったら、文官の家系のタータハクヤは怒るだろうが、リョーンはどうだろうか。彼女を助けるためにロマヌゥの一味を殺すつもりで射掛けた事がある。更に遡ればエトはリョーンが竜肉を喰らう元凶となったムシンを殺そうとした。だが、今となってはそれらの全てが偽りであった。
(口だけだ。戦士になるなんてのは……)
リョーンもきっとそうだろう――と、エトは思った。彼女が口癖の様に言う「剣士として名を馳せる」というのは、彼女が人を殺めない内にだけ言える夢想なのだと。
(お姉は甘えている。ロセにも、シェラにも。エトにも……)
そう思うと、虚しい何かが胸の真ん中を突き抜けていったような気がした。